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泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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「最新のロシア詩」っていうヤコブソンの詩論を

読んでいるんだが、最初は調子良かったのにフレブニコフとかマヤコフスキーとか全く読んだことのない詩とキリル文字の嵐に雲行きが怪しくなってきてしまった。読んだことないのは同じだが、マラルメやランボーあたりならもうちょっとなんとかなりそうなんだが。いくらなんでもロシア語は反則でしょ。
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コンスタンタン

コンスタンタン
、、、という可愛らしい名前の学生のノート

もう30年以上前になってしまうが、現代思想の理解にソシュール言語学は必須、、、だということで丸山圭三郎による紹介なんかを読んだものだが、いわゆる講義の原資料なんて全然翻訳されてなかった。いまでは結構いろんなものが読めるようになってるんだね。Amazonでローマン・ヤコブソンの安い古本を漁っていると、二束三文でタンタンちゃんのノートが売りに出されていたので、さあ、おじさんのところへいらっしゃい。。。というわけで、ようこそタンタン。

ヤコブソン

ローマン・ヤコブソンとか誰も買う人いないんだろうな。びっくりするような値段で売ってるんだ。

それにしてもキーボード汚ねえなあ。


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ひとくちにフォルマリズム(形式主義)といっても

グリーンバーグ流の(英米流の?)フォーマリズムとロシア・フォルマリズムでは全然印象が違っている。どちらも基本、アヴァンギャルド擁護の言説なのだが、前者が「生きられる文化」であるところのアヴァンギャルドをひたすら「芸術」という「卓越の文化」に回収する言説になっているのに対して、後者はアヴァンギャルドの実践を、紋切り型となった日常性、自明性の撹乱という「生きられる文化」の一面に即して擁護しているようだ。

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バフチンなぞを読みかじるようになってから

ロシア・アヴァンギャルドとかロシア・フォルマリズムだとかいった20世紀初期のソ連ものを漁り始めている。フランス中心のアヴァンギャルドの情報しかなかった僕には非常に新鮮。国境を接するほどある意味近い国だからなのかわからないが、フランスとかアメリカものより親しみを感じる。相変わらず読書の時間がとれないのが痛いが。。。



仕事しながらこんなの聴いてみたり。。。

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モンタージュとモダニズム

 アドルノやペーター・ビュルガーが言っている反芸術(アヴァンギャルド芸術)作品の根本原理であるところの「モンタージュ」という技法は、「芸術」(公式文化)の原理ではなくて、カーニヴァルのような民衆文化(非公式文化)において多用されたパロディの技法である。例えばキュビズムの「パピエ・コレ」が、「モンタージュ」の近代美術における先駆的な例だとされるが、この技法はキュビストが発明したわけではないし、ダダイストやシュルレアリストの専売特許でもない。遠い過去から人類の文化に綿々と受け継がれてきたやり方なのである。20世紀芸術に「モンタージュ」技法を用いた作品が数多く現れるようになったということは、支配階級の高級文化である「芸術」の領域に、「芸術」とは異質な民衆文化の原理が入り込んでいるということを意味する。

 「芸術」という支配階級の文化は、自らの権力の正統性や永遠性を誇示するという、民衆(被支配階級)に対する「卓越」への志向によって突き動かされている。そのため、ある一貫した秩序ある宇宙観を象徴する、高度に洗練され完成度の高い形式の美が、熟練した芸術家や職人たちを囲い込むことによって追求された。「芸術」はその華麗さ、厳粛さで民衆を観客として跪かせるとともに支配階級を中心としたシステムに統合させる装置(スペクタクル)として働いている。
 一方、祝祭(カーニバル)に代表される民衆文化(非公式文化)は、そうした上下の階層秩序(ヒエラルキー)を前提とした「卓越」への志向とは無縁である。むしろヒエラルキーの解体そのものであり、疎外と禁止の体系である支配的秩序からの開放を生き、愉しむことだと考えるべきだろう。そこでは上下の階層秩序は象徴的に反転され、「あべこべの世界」が束の間現出した。たとえば中世の祭りの期間中、王や領主、宗教的権力者は見世物的にその座を引きずり降ろされ、その位置に身分の低い者、道化、子供、驢馬などが据え付けられた。また普段差別され、アウトカースト的な存在であった旅芸人、乞食のような人々が、聖なるものとして祭りの空間の中心に祭り上げられたという。つまり「あべこべの世界」とは、支配的な階層秩序(制度)のパロディであり、パロディの生み出したちぐはぐ感が、自明化していた秩序に亀裂を作り、民衆はその虚構性の崩壊を奇跡的な驚異の感覚とともに生き、笑い、愉しむものだったのである。
 そのとき民衆文化が駆使しているのが、洗練の極みを志向する卓越の文化である「芸術」の専門化した技術とは全く性格を異にする「モンタージュ」の技法である。「芸術」の技術は階層秩序の上方を象徴するフォーマルなイメージ(公式的な美)をひたすら純化するものである。が、それに対して「モンタージュ」の技法は、「上方」を象徴する厳粛、真面目でフォーマルな事象と「下方」を象徴するインフォーマル(非公式的)な事象を、ちぐはぐなまま無造作に組み合わせ、糊付け(コラージュ)することにある。インフォーマルなものとは、権力によってフォーマルな美が彫琢されると同時に下方の領域に排除され放逐されたグロテスクなもの、取るに足りないもの、醜いもの、破廉恥なもの、おぞましいもの、といった事象である。つまり「モンタージュ」技法とは、価値の高いとされる厳粛なイメージを流用し、価値の低いとされるイメージと、非対称なままに併置したり、一方をもう一方の中に無造作に挿入したりと、価値的に落差のあるとされる事象をあたかも同等のものであるかのように同じ土俵に並べてしまうことだといっていいだろう。「モンタージュ」技法に本質的なのはそれが「流用」という、熟練を必要としないで誰でもが行使できる非専門的な技法、いや、技法というのもおこがましいほど生活の中でわれわれが経験し、生きることそのものであるのだ。

 ところが、この「あべこべの世界」を作り出す「モンタージュ」技法が19世紀後半から20世紀初頭の「芸術(公式文化)」の世界に、「反芸術」運動として入り込んできたのである。アドルノやビュルガーのような芸術批評をする人たちは「芸術」だけが語るに値する文化だと考えているらしく、非公式な文化が視野に入っていない。そのため「モンタージュ」をヨーロッパ芸術(ヨーロッパ支配階級の文化)の自律(自己批判・自己検証)の運動の中から生まれてきたという物語(いわゆるモデルネ=モダニズム論)を作り上げてしまうのだが、「モンタージュ」はそもそも人類の圧倒的マジョリティである被支配階級の文化において広汎に用いられてきた技法なのである。しかも肝心なことは、「芸術」が現行の秩序を厳粛に肯定し、文化を観客として礼拝的に受け取るものであるのに対して、カーニヴァル的な文化(非公式文化)は秩序の転覆、崩壊をすべての人が自ら生きることだという根本的な相違である。
 反芸術を「芸術」に侵入した非公式文化(カーニヴァル)であるという視点から捉え直すなら、今日モダニズム系理論によって常識とされてしまった「反芸術」に関する解釈を見直すことも容易になるだろう。

 キュビズムのパピエ・コレのように、洗練された統一的な仮象(アドルノの言う有機的作品)と、現実の断片という異質なものの併置は、「モンタージュ」の好例であるのは確かである。だが、仮象と現実の断片の接合が問題なのではなく、価値の高いとされるもの(統一的な仮象)と低いとされるもの(現実の断片)という、落差(ちぐはぐ感)の激しいものの非対称な結合こそが衝撃の源泉であり、「モンタージュ」技法のミソである、ということをまず押さえておかねばならない。
 そう考えるとキュビズムから遡ること半世紀前のマネの絵画においてすでに「モンタージュ」技法の先駆的な例を見ることができる。通常マネはモデルニテ(現在性)の画家、つまり反アカデミズムの画家、古典的、伝統的な規範を様々な面で打ち破ったイノベーターということになっている。その事自体間違いではないだろうが、マネの最も革命的なところは、彼の最も油の乗っていた時期の作品が古典のパロディであり、「モンタージュ」技法を駆使している点である。
 もともとマネの絵は対象に思い入れの乏しい写真的な眼で作られている上に、人物をコピペして貼り合わせたようなちぐはぐ感を特徴としているが、「草上の昼食」や「オランピア」では古典絵画の構図をそのまま流用しており、本来ヴィーナスが横たわっているべき場所に現代の娼婦を描きこむという大胆なパロディを、絵筆を使いながら行っている。この「あべこべ絵画」は19世紀芸術における最高のモンタージュ的実践であり反芸術の出発点となった。
 しかし私は、マネの「オランピア」やパピエ・コレやシュルレアリスム作品のように、作品上で行使される「モンタージュ」よりも、もっと大きな制度的背景、例えばサロン、美術館、ディーラー=批評界などからなるいわゆる「アート・ワールド」的な制度全体を流用した「モンタージュ」の実践にこそ、反芸術の本質が現れていると思っている。
 デュシャンのレディメイドは普通「モンタージュ」作品とは言わないだろうが、美術館という公式文化の厳粛な(価値の高いとされる)空間に、既成品(小便器)という価値の低いとされる現実の断片を挿入するという、制度全体をパロディ化する「モンタージュ」行為である。実は反芸術においては、この2つの(作品上のモンタージュと、制度空間のパロディを演出するモンタージュの)位相の「モンタージュ」技法が絡まり合いながら行使されているのだが、後者のモンタージュのほうがより根本的な「モンタージュ」の実践であろう。
 前者の「モンタージュ」技法を多用するダダ・シュルレアリスムの作品に対して、構成主義的なセザンヌから抽象絵画、抽象表現主義への流れは通常、古典、遠近法絵画からの離脱­=平面への還元という「モダニズム」流の歴史的解釈の中でその意義を認められてきた。だが、後者の「モンタージュ」技法の文脈に置き直すなら抽象絵画も全く異なる相貌を見せることになる。
  タッチの集積である未完成の絵画(セザンヌ)は、遠近法的仮象よりも画布を前にした画家の緊張感あふれる身振り(生)を突出的に表現しているが、彼は自らの生の断片的な痕跡をアカデミックな価値の支配する厳粛な制度空間(サロン)に挿入したいと希求し続けていた。また子供でも描けるであろう単純な幾何学的形態を並べただけの絵画(カンディンスキー、モンドリアン)や、絵の具のシミでしかない絵画(アンフォルメル、抽象表現主義)を美術館に並べることは、未だアカデミズムの影響を払拭していなかった20世紀初頭の芸術の制度に対する道化的なパロディの実践でなくてなんであろう。

 このように19世紀後半から20世紀前半にかけてのアヴァンギャルド(私は反芸術という言葉を使うべきだと思っているが)の時代は、「モンタージュ」という非公式文化特有の文化技法が、芸術の領域(ブルジョワ権力に組織された公式文化の領域)に侵入しアカデミズムを急速に駆逐していった時期だったわけだが、問題は近代化とともに過去のものとなってしまったカーニヴァル的な文化技法が、何故に20世紀芸術の領域において花開くことになったのか? である。だが、このことを説明すると長くなるので端折らせてもらうと、19世紀末の芸術が硬直化し退屈なものであったこと、それ以上に芸術家たちの生きるブルジョワ社会が退屈で非人間的であったこと、それゆえ彼らはブルジョワ体制の虚構性を暴き、異議を申し立て、システムに亀裂を入れその疎外からの自律を志向したのだろうと、その動機を想像することができるだろう。そのときシステムの厳粛さをパロディ化し秩序を解体させた民衆文化のやり方を駆使するに至ったのは偶然ではなかったということだ。
 当初、彼らの「モンタージュ」によるカーニヴァル的実践は、嘲笑され、ヒステリックに糾弾され、無視されたりと、けんもほろろにあしらわれたが、マンネリ化したアカデミックな絵画に比べてその面白さに惹かれ始めるブルジョワジーも現れ始め、広がり始めた美術市場で成功を収め始めるようになってゆく。もっとも芸術家たちには自分がカーニヴァル的な実践を行っているというはっきりした自覚がなかったため、芸術家としての個人的な「卓越(観客に対する演者となり上位のヒエラルキーを志向すること)」とブルジョワ社会での成功へと逆流してゆく可能性に付き纏われてもいた。
 また一方、「芸術」(公式文化)の権威を形作っていた一部の目敏い批評家や画商たちは時代の変化を感じ取り、それまでの西洋芸術の美的規範となっていた「アカデミズム」に代わって「モダニズム」という規範(物語)を組織し、反芸術のカーニヴァル(非公式文化)的実践を公式化し「芸術」の中への取り込み始める。「モダニズム」は、古典主義的な主題、秩序、写実主義というスタティックな「アカデミズム」の規範を排し、「新しさ」という掴みどころのないダイナミックな規範を掲げた。この「新しさ」という規範によって、反芸術を擁護し、アカデミックな伝統芸術を「古いもの」「固定化したもの」だとして引導を渡し、硬直化したアート・ワールドは刷新されることになる。但し「新しさ」はブルジョワ体制のもと広がり始めた消費社会をドライブさせる「流行(モード)」の大事な要素でもあり、工業の発展が可能にした複製技術による商品の流行(大衆文化)との差別化が「モダニズム」言説の課題であった。だが「モダニズム」には当初から「自己批判、自己検証」性というストイックなもうひとつの重要な一面があり、その一面が芸術作品を低級なまがい物(キッチュ)である流行商品とは異なる高級文化としてのアイデンティティを担うようになる。
 つまりモダニズムは、形骸化した伝統文化と複製技術による産業化した文化という2面の「後衛(リアギャルド)」に対する「前衛(アヴァンギャルド)」を価値あるものとして支持する規範として成立したわけである(したがって「アヴァンギャルド(前衛)」という用語自体がモダニズムとともに成立したものである)。もっとも現在では、「モダニズム」の「自己批判」的なストイックな面は(ポップアートなどによって「自己批判」され)やや弱まり、芸術と大衆文化の境界線は曖昧化され、「ポストモダニズム」が「芸術=大衆文化」というブルジョワ社会のスペクタクルのあり方となっている。
 何れにせよ、この「モダニズム」言説によって、反芸術の民衆文化的なカーニヴァル的本質は隠蔽され、「芸術」という支配階級のスペクタクルのイノベーションの物語、すなわち「アヴァンギャルド(前衛)芸術」の物語へ書き換えられることになった。このときブルジョワジーの嘲笑と憤激を買っていた反芸術の担い手(秩序を覆す道化)たちは一転、高級文化(芸術)のイノベーターとして称賛され、卓越した「演者」としてブルジョワ文化に君臨することになるのである。
 「モダニズム」は、カントの時代に始まる芸術の「自律」の物語であり、芸術の「還元」やら「止揚」やら「終焉」を目指すとか、いやそれは未だに「未完」のプロジェクトであるとかいう歴史的物語をでっち上げる。エミール・ゾラは批判にさらされるマネを擁護したが、ゾラは「オランピア」のモンタージュ技法には全く関心を示さず、むしろマネの絵画の主題は、色面構成の意図に沿って選ばれているというフォーマリスティックな解釈をしている。このゾラによるマネ解釈は、絵画の平面への「還元」というモダニズムの物語への書き換えの典型的なやり方である。マネの実践に含まれたカーニヴァル的な、秩序の解体を生きようとする試みは、芸術の自己検証の実践として、芸術のための芸術(メタ絵画)としてゾンビのように生まれ変わるのである。セザンヌも、キュビズムも、抽象絵画も、「芸術」の自律の歴史に奉仕するイノベーションとなったし、カーニヴァル的な本質をダイレクトに志向していたはずの、ダダやシュルレアリスムも芸術の制度や創作行為そのものを自己検証する「メタ芸術」へと収斂していってしまった。さらに抽象表現主義の画家たちは「モダニズム」のイデオローグであるグリーンバーグと密接な関係の中で作業し、積極的に「芸術」の自律に奉仕する道を取った。
 結局、反芸術家たちは自分たちの仕事は、自らがカーニヴァル的な実践を行っているというはっきりした自覚がなかったため、「モダニズム」言説によって刷新されたブルジョア社会のスペクタクル(近代芸術)の新たな厳粛さに奉仕する運命を引き寄せてしまった。その結果、芸術批評や美学のような領域では「モダニズム」流の理論がまかり通り、それ以外の解釈を探すのは難しいほどだ。なるほど、事態は「芸術」の自律の運動、自己批判、自己検証の努力が、ヨーロッパを中心とした「近代芸術」の領域を新鮮に活気づかせ、新たな人類の文化の地平を開拓でもしているにかのように見える。しかし実際に反芸術家たちが望んでいたのはそのようなものだったのだろうか。「近代芸術」の卓越した演者になるなることだったのか。そうではなくてブルジョア社会の秩序の解体を生きることではなかったのだろうか。自律すべきは「芸術」というブルジョワ権力のスペクタクルなどではなく、私たち一人ひとりの「生」だったはずなのだから。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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