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泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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ロシア・フォルマリズムについていろいろと

調べてるんだけど、山口昌男の紹介を読んだときには、もう読まなくてもわかったような気になっていたのに、結構手強いので、まずは概論から。が、ぶっちゃけ読んでますますわからなくなった。

 こういった文学史観は、旧来の文学史にはおよそ書かれていそうにない文学的類縁、相互関係を見いだしただけでなく、とりわけパロディ論などにそのダイナミズムが存分に効果を発揮した。パロディとは、シクロフスキイによれば、〈自動化〉した手法を裸出させたり、習慣化した文学的規範を転位・破壊することによって、自動化した文学形式を〈異化〉することであり、その目的は文学形式に対する新しい知覚を甦えらせることにあった。このように「破壊に強調をおいた」シクロフスキイに対して、トゥイニャーノフの場合は「新しい構成・構築を中心においていた。......トゥイニャーノフにとっては、パロディ的テクストの文学史的な分析と、そこから引き出してくる〈パロディ論〉は、文学の進化の理論の出発点となっていた」(47)。こういった相違はあれ、フォルマリストの文学史は、一方ではパロディ等による高位のジャンルの格下げ、他方では二流の文学、大衆文学、フォークロアその他への注目によって(「下級ジャンルの正典化」シクロフスキイ)、「将軍たちの歴史」(ブリーク)をうち破り、伝統的な文学史観、ジャンル観にゆさぶりをかけた。



ここんとこ読んでやっとホッとした。ただ、文学史観とか文学の進化とかいう公式文化中心主義はいらない。モダニズムとかアヴァンギャルドそのものが公式文化(芸術)を格下げするものだったし、その格下げを愉しむべきで「下級ジャンルの正典化」なんてする必要もない。ま、とっつきやすそうな」シクロフスキイあたりから読み始めるべきか、、、
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非公式な知

思想や知も一つの文化だとすれば、公式文化と非公式文化に対応するように、公式知と非公式知という見方も成り立つだろう。まずバタイユなんかが非公式知の代表として思い浮かぶ。対して、権力の息のかかった大学の哲学は基本公式知と言っていいだろう。非公式知はシステムの転覆に関わる知、、、マルクス思想なんかもそもそもは非公式知だった。が、それは共産党や社会主義体制のもとで文字通り公式化した。いわゆるマルクス経済学なんていうのも公式化した知の典型だろう。フッサールとか読んでると、西洋諸学の危機をなんとかしなくては、という使命感(公式感)がプンプンでてるんだけど、非公式なものが入り込んでるようにも思う。現象学は大学の哲学だが、現象学者たちは公式的な知の制度を巧妙に利用して非公式知を紡ぎ出していたのかもしれない。

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ご存知のように『悲劇の誕生』は

、、、ニーチェによって20代に書かれた青春の書で、古典ギリシアの文化史的考察を装ってはいるが、史実を元にした考察というよりは、ギリシア文化史にかこつけてニーチェ流の芸術生成の物語を繰り広げた生気あふれるラプソディである。興味深い考察が散りばめられてはいるが、その内容について学問的な厳密さはあまり期待しないほうがいいだろう。
 何度か述べてきたが、ニーチェの『悲劇の誕生』におけるアポロン的なものとディオニュソス的なものという対立図式にしてからが、一方で「表象(夢=造形芸術)/意志(陶酔=音楽)」というショーペンハウアーの芸術形而上学由来の対立概念と、もう一方でそれと似て非なる「コスモス(秩序)/カオス(混沌)」という社会学的な対立概念が、ズレたまま重ね合わされた混乱した図式である。
 ギリシア都市国家のホメロス叙事詩やギリシア彫刻のような表象=造形(アポロン的)文化と、周辺異民族の農神祭の陶酔=音楽(ディオニュソス的)文化の結婚によって生まれたのがギリシア悲劇であった、というのがニーチェの描く悲劇の誕生のストーリーである。この物語を皮相に受け取るなら、スタティックな視覚的芸術と、ダイナミックな音楽芸術が結合された総合芸術としての(明らかにワーグナーの楽劇とリンクした)悲劇の誕生が描かれているようにも見える。が、ニーチェはそれ以上のことを、もう一つ別のストーリーを語ろうともしている。ただ、その物語を展開するには、ショーペンハウアー流の芸術形而上学では少々役不足なのだ。
 私は、アポロン的なものとディオニュソス的なものを、ショーペンハウアー由来の、現象界とそれに先行するはずの意志(物自体)という形而上学的対立としてではなく、秩序化への衝動としてのアポロンと、秩序や構造の解体、破壊の衝動としてのディオニュソス――という社会学的対立として読むべきだと考えている。ニーチェ研究者の中にはこうした議論をしている人がいそうなものだが、不思議といままでお目にかかったことがないので、自分でそのアナザーストーリーを抽出してみようと思う。

 ニーチェはアポロン的文化とディオニュソス的文化について「夢と陶酔」というショーペンハウアー流の比喩で語ってしれっと満足しているが、もっとその下部構造を探ると興味深い事実が見えてきたはずだ。アポロン的文化特有の、イメージを形象化する作業は、忘我の状態にあるディオニュソス的陶酔と異なり、明晰な知性と自己を律した粘り強い努力なしには成り立たない。つまりアポロン的な秩序の追求には労働の側面が色濃く現れている。殊にモニュメンタルな彫刻や建築物の制作となれば、多数の職人や労働力の動員が必要だろう。となるとアポロン文化の背後には秩序を求め、秩序の形成や維持のための技術や労働力を組織することのできる権力の存在が予想されるのである。
 つまりアポロン的文化として語られたギリシア都市国家の文化の特質はニーチェが強調する「夢=表象」という点にあるというよりも、むしろ都市国家の支配階級(権力)によって組織された文化だという点に、その卓越と永続性を内外に示すために、規模が大きく洗練され秩序を極めた表現が、高い技術を持つ芸術家や職人たち、数多くの労働力を動員して追求された、という点に見出すべきだろう。ギリシア神話を造形化した驚くべき夢の世界は、卓越への志向と力や技術がなければ実現されなかったであろう。この卓越し、他者の上に立とうとする権力特有のヒエラルキッシュな上昇の志向、垂直的な文化のあり方こそがアポロン的文化の特質なのである。
 秩序化とは真面目さ、厳粛さの追求であり、欲求を満足させる快楽を禁止すること=労働によって達成される状態である。一方、ディオニュソス的文化は、権力の醸し出す厳粛さに象徴される堅苦しい日常的秩序からの解放の局面である。それは労働が作り上げたものを非生産的に消費することである。真面目で厳粛なものを笑い、瞬間を愉しむこと。陶酔において私たちがわれを忘れるほど夢中になれる面白さは、こうした秩序の破壊の局面にしかないであろう。

ディオニュソス的なものは、<陶酔>にたとえてみるのがわかりやすい。どの未開民族の賛歌にも歌われているあの麻薬の作用によって、あるいは自然全体を歓喜でみたす春の力強いおとずれによって、ディオニュソス的な衝動がめざめ、その高まりとともに、個人的、主観的なものは完全な自己忘却へと消滅してゆく。、、祭りにみられるディオニュソス的なものの魔力によって、人間と人間との絆が復活するだけではない。人間に疎外され、人間と敵対していた自然、息子に踏みつけられていた母なる自然が、人間という放蕩息子と和解の宴をひらくのだ。そこには、もう奴隷はいない。その時々の気まぐれな事情や「おしつけがましい慣行」で人間同士を引きはなしてきた、あの厳しく憎悪にみちた境界線はいまや完全に消滅する。ついに世界調和の福音がおとずれ、だれもが隣人とむすばれ、和解し、溶けあったと感じるだけでなく、文字通り<ひとつ>になったと感じるのだ。<個体化原理>としての<目眩ましのヴェール>は切りきざまれ、神秘にみちた宇宙の本体である<根源的一者>のまわりを漂っているにすぎない。人間は歌い踊ることによって、自分がより高度な共同体の一員であることを表現しているのだ。彼は歩くことや話すことを忘れ、踊ることによってさらなる高みへ舞い上がろうとする。その身振りには魔法の力がみてとれる。いまや動物たちが口をきき、大地が乳と蜜をだすように、人間からも超自然的なものがひびいてくる。彼はみずからを神と感じ、夢でみた神々の歩みさながらに、いまや彼自身が高められ陶然と歩をすすめる。人間はもはや芸術家ではなく、芸術作品そのものとなっている。(『悲劇の誕生』)
「、、、本来はアポロンだけがギリシアの芸術神であって、アジアから押し寄せてきたディオニュソスを和らげて、自分とのきわめて美しい同盟を結ばせえたのはアポロンの威力によることである。ここでわれわれはもっとも容易にギリシア精神の信じがたい理想主義を把握するのである。アジア人のもとでは下級な衝動のきわめて粗野な解放を意味し特定の期間内でのあらゆる社会的束縛を破棄する乱婚的な動物生活を意味していた一つの自然祭祀から、ギリシア人のもとでは一種の世界救済の祭り、浄化の祭が生じたのである。ギリシア人の本質のあらゆる高尚な衝動がこのオルギアスモスの理想化のなかに顕現したのである。(『ディオニュソス的世界観』)」



 このような<個体化原理>とか<根源的一者>というショーペンハウアーの芸術形而上学の用語でユートピア的に語られている事態、、、日常的な秩序、身分や役割などは束の間反古にされ、人間同士の水平的な関係が広がってゆく様子、、、は、どう見ても民衆文化=祝祭(自然祭祀)に関する社会学的記述――労働とともに生じた諸々の禁止からの解放の歓喜であり陶酔の記述であろう。
 このようにアポロン的文化とディオニュソス的文化という対立は、支配階層のハイ・カルチャーと民衆のロウ・カルチャーという非対称的な下部構造を持つ2つの文化形態(バフチンなら公式文化と非公式文化と呼ぶであろう)の違いを表現した、ある意味政治性を持った対立図式であると考えたほうがいいだろう。

 アポロン的な芸術としては、音楽もすでに知られていたようだが、それは正確にいうと波の音のようなリズムのことにすぎない。リズムには造形的な力があるので、アポロン的な状態を表現するのに、リズムの造形力が使われたまでのことである。アポロンの音楽は、いわば音によるドーリス式建築であり、その音はキターラに特有の暗示的なものにすぎなかった。(『悲劇の誕生』)



 ニーチェによればアポロン的文化とディオニュソス的文化はそれぞれ造形芸術と音楽に置き換えられるもののはずであるが、一方でアポロンの音楽なんて言葉を使っていたりもする。これはつまり音楽は必ずしもすべてディオニュソス的なものとは言えないということで――ホメロスの叙事詩とアルキロコス抒情詩の対立に関しても同様であるが――芸術のジャンルとアポロン/ディオニュソスの境界線は一致していないのである。むしろニーチェがアポロンの音楽という言葉で言いたかったのは、秩序を追求した音、厳粛で形式化した音についてであり、それとは別にわれわれを秩序の放棄と陶酔へと誘うディオニュソス的な音楽というものがある、ということだったであろう。
 本来であればニーチェもこのように「コスモス(秩序)/カオス(混沌)」のラインでギリシア文化をスッキリ語れたであろうが、おそらくは総合芸術としてのギリシア悲劇=ワーグナーの楽劇を持ち上げるという公然たる意図が「表象(夢=造形芸術)/意志(陶酔=音楽)」というショーペンハウアーの芸術形而上学由来の対立概念が混入して、アポロン的なものとディオニュソス的なものという対立図式を、ややわかりにくいものにしてしまっているのである(つづく)。

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「最新のロシア詩」っていうヤコブソンの詩論を

読んでいるんだが、最初は調子良かったのにフレブニコフとかマヤコフスキーとか全く読んだことのない詩とキリル文字の嵐に雲行きが怪しくなってきてしまった。読んだことないのは同じだが、マラルメやランボーあたりならもうちょっとなんとかなりそうなんだが。いくらなんでもロシア語は反則でしょ。

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コンスタンタン

コンスタンタン
、、、という可愛らしい名前の学生のノート

もう30年以上前になってしまうが、現代思想の理解にソシュール言語学は必須、、、だということで丸山圭三郎による紹介なんかを読んだものだが、いわゆる講義の原資料なんて全然翻訳されてなかった。いまでは結構いろんなものが読めるようになってるんだね。Amazonでローマン・ヤコブソンの安い古本を漁っていると、二束三文でタンタンちゃんのノートが売りに出されていたので、さあ、おじさんのところへいらっしゃい。。。というわけで、ようこそタンタン。

ヤコブソン

ローマン・ヤコブソンとか誰も買う人いないんだろうな。びっくりするような値段で売ってるんだ。

それにしてもキーボード汚ねえなあ。


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荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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