泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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放射能の危険性を強調する人たちに

対して、デマだとか煽りだとかと非難したり、ヒステリーだとか非科学的だとかと嘲笑ったりしてる「科学的な」人たちがいるわけだけど、どんな科学や真実を持ちだしてきても、、、喫煙のリスクのほうが放射線のリスクよりよっぽど高いんだとかって諭そうとしたって、そんなの全く意味がない。原子力=核の世界には何やらうしろめたい「隠蔽」の匂いがつきまとっている。いや、3・11まではそんな印象は持ってなかったんだけど、東電や日本政府の不可解極まる動きを観てしまったあとでは、まず彼らの言うことが信じられないし、日本だけではなく原子力=核を保有する国々すべてに「隠蔽」の匂いを嗅ぎつけざるを得ない。彼らのもとで科学や医学だって政治的に歪められていないとは言い切れない、、、つか歪められていると考えるほうが自然だろう。信頼できる基準がない以上、全ては「賭け」の領域の話に属する。いろんな予想屋がいて、オレの科学こそが正しいと主張し、他の予想屋の説をせせら笑っている。私にとっては、命をそんな「賭け」にさらすべきではない、という賭場の無効を宣言する主張が一番ピンとくるが、強制避難の実施には別種のリスクが生じてしまうのだという。これが原子力発電の罪深さなのだが、それを私たちは選択させられてしまっていたのだ。つまりその時点で私たちはこの「賭け」に巻き込まれ、いまさら賭場を降りることなどそもそもできやしないのだ。そうである以上、取り返しの付かない事態を避けるために、もはやそれぞれの人が放射能から納得のゆく距離を取る選択をする=「賭け」に参加するしかない。が、問題は放射能から距離をとろうとすればするほど一般に賭け金が高くついてしまうことで、自分の選択肢に金を貼れないという事態が生じてしまうことだ。特に被災地でそのようなことがあってはならない。政府は至急、高濃度汚染地の住民に潤沢な博打の元手を配布せよ!

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ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』に原子力発電に関する記述があった

のでちょっとメモっておく。

スペクタクルは、それが打ち立てた見事な秩序をいくつかの危険が取り巻いていることを隠さない。海洋汚染と熱帯雨林破壊は地球の酸素補給への脅威となっているし、オゾン層は工業の進歩に抵抗できなくなってきている。また、原子力から発する放射能は不可逆的に蓄積されている。スペクタクルは単に、それらは重要ではないと結論付けるだけである。スペクタクルが議論しようとするものは、ただ、時期と量だけだ。そしてただその点においてのみ、安心させることに成功するのである。スペクタクル以前の時代の人間なら、そんなことができるとは思わなかっただろう。



スペクタクル的民主主義の方法は、全体主義的な独裁(ディクタート)の単なる乱暴なやり方とは逆に、きわめて柔軟性に富んでいる。物事(ビール、牛肉、哲学者)がひそかに変化したときにも、名前をそのまま使うことができる。また、物事がひそかに続いているときに名前を変えることができる。例えば、イギリスでは、ウィンズケールの核廃棄物再処理工場は、1957年の悲惨な火災の後、疑惑を逸らす目的で、それが置かれた街の名からセラフィールドと呼ばせるようになったが、こうした地名の処理も、周辺地域の癌と白血病が原因の死亡率の増加を減らすことはできなかった。当時、イギリス政府は──30年後に民主的にそのことを知らされたのだが──、大衆が原子力に寄せている信頼を揺るがせる性質のものであると当然にも判断したこの大惨事に関する報告を秘密にしておく決定を行ったのである。



あらゆる分野ですでに多くの秘密が必要であることは周知の事実だが、軍事であれ民間であれ核開発には、他のどのような分野よりも大きな秘密が必要とされる。この体制の支配者たちによって選ばれた学者たちの生を──すなわち嘘を──楽にしてやるために、、便利なやり方が考え出された。つまり、尺度を次々と変え、ますます数多くなってゆく観点に従ってその尺度に変化を持たせ、それを洗練させて、互いに換算しにくいそれらの数字のいくつかを、ケースに応じて、うまく手玉に取ることができるようにするのである。その結果、放射能を測定するために、次のような測定単位が準備されることになった。キュリー、ベクレル、レントゲン、ラド、別名、100分の1グレイ、レム、それ以外にも、安易に使われるミリラドや、100レムのことにほかならないシヴェールも忘れてはならない。これを見ると、イギリスの通貨の下位区分のことを思い出す。その複雑さは外国人にはすぐにマスターすることはできなかった。それは、セラフィールドがまだウィンズケールと呼ばれていた時のことだ。



1987年6月、EDF〔フランス電力公社〕施設部副部長、ピエール・バシェは、原子力発電所の安全性についての最新の見解を明らかにした。バルブとフィルターを取り付ければ、「区域」の全体に被害をもたらすような大規模な大惨事や、原子炉の亀裂や爆発はより容易に避けることができるようになる。そうした大惨事は、〔汚染物質を〕閉じ込めようとしすぎることから生じるのである。そんなことをするぐらいなら、むしろ、機械が暴走する兆しが現れるたびに、ゆっくりと圧力を下げ、数キロメートルの範囲内の狭い隣接区域──その範囲は、風向きによって、その都度、偶然に左右されて変化するだろうが──に放出するほうがよい。過去2年間に、ドローム県のカダラシュで行われた秘密のテストでは、「廃棄物──そのほとんどはガス──は原子炉内部の放射能の0・何パーセントか、最悪のケースでも、1パーセントを超えなかった」と、彼は明かしている。この最悪のケースというのは、それゆえ、非常にわずかなものである。なにしろ、1パーセントなのだから以前は、事故の場合を除いて、いかなる危険も論理的にあり得ないと確信されていたのである。最初の数年間の経験によって、この推論は次のように変えられた。事故は常にありうるのだから、なすべきことは、その事故が大惨事の域に達するのを避けることであり、それは簡単である。少しずつ節度ある仕方で汚染させるだけでよい。ポーランド人のようにすぐに酔っ払い始めるよりも、1日に1・4リットルのウォッカを数年間飲むだけにしておく方が、限りなく健康であると感じない者がいるだろうか、というわけである。



「この体制の支配者たちによって選ばれた学者」、、、今日言う所の御用学者ですな。くわえて「ベント」の話題、、、設計者の後藤政志さんの怒りの会見が思い出される。

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社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである

社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである。このことがもたらす経済的な損失は、人々の生存の損失を意味するとは限らないのである。経済を資本の利益に焦点をあわせたり、国家利益に従属させるのではない「経済」というものがありうるのだ。また、いかに「日本経済」なるものが破綻しても、コミュニティの力が人々の生存を維持させつづけることはありうるのである。こうした新たな経済の再設計にチャレンジする強い創造力を持つことが、私たちに問われている。事実、「国民経済」が破綻しても民衆レベルの自立的自治的な経済がむしろ生存の経済として機能する例は決してすくなくない。(破綻したアルゼンチン経済、パレスチナの難民キャンプの経済、第三世界のスラムの経済、先進国の都市下層の経済は、国家と資本から自立していればいるほど自己統治の潜勢力を保持できたといえる)


社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない──原発事故から学ぶべきこと── 小倉利丸』より。

再生エネルギー法案が通るの通らないのとヤキモキしなければならない、分散型・共同体自治(飯田・宮田)の話ではなく、「国民経済」破綻後の民衆レベルの自立的自治的な経済(小倉)の話ほうが自分の関心事だ。緑の谷に風車が回っていたり、屋根の上のソーラーパネルが陽に輝いている、みたいな絵はどうも私には描けない。

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社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない

自然エネルギーの飯田哲也とか、共同体自治を訴える宮台真司の話を最近読んだり聴いたりしていて、まあ面白いんだけど、結局、資本主義の「成長」イデオロギーのなかを動いてるよなあ、と虚しくなるのも確か。それは没落する日本経済に対する経済学者の諸説を聞いていても感じるところだ(リフレ派とか)。ぶっちゃけ私にはラディカルな立場だけがピンとくる。「もっと暗闇を!」に続いて小倉利丸の文章から響いてきたところをメモ↓。

 私が言いたいのは、制御が究極的には不可能な原発技術を目先の利益のために選択し、実際にその利益を得てきた受益者や有権者は、その利益だけを取るべきではなく、リスクに対する責任も負わなければならないということだ。利益は取るが、リスクが現実のものとなったときには「リスクの責任は自分にはない」と逃げることがなぜ許されるか? 現在の財界の基本的な姿勢は「原発による低コストの発電の利益をよこせ、しかしリスクへの責任は東電と国にあり、われわれはその責任をとる必要はないし、リスクに伴うコストは支払わない」というものだ。もちろん財界はこうした本音をそのまま表明することはない。かれらは、たいてい次のように言う。原発による電力の安定的で安価な供給が滞れば、エネルギーコストの増加や生産活動に支障をきたし、国際競争力を失い、日本経済の成長に支障をきたす。経済成長を阻害することになれば、雇用状況は悪化し、税収は減る。原発を動かさなければ日本はもっと貧乏になるし、東日本震災や原発事故の復旧に必要な財源も確保できなくなる、それでもいいのか? という恫喝である。私たちの答えは「それでもいい」でなければならない。しかし、こうした財界の愛国心に訴えるかのような恫喝は、現実の資本の行動と一致していない。増税や労働コストの上昇、環境規制の強化などがあれば、かれらはさっさと海外に移転するし、国内の原発建設が困難になれば輸出で稼ぐことをためらわない。このような「経済」の道理に私たちは付き合うべきではないのだ。有権者として都市の「受益者」としてとるべき責任とは、原発を廃炉にするための政治選択と生存を犠牲にする経済への断固とした拒否だ。



 社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである。このことがもたらす経済的な損失は、人々の生存の損失を意味するとは限らないのである。経済を資本の利益に焦点をあわせたり、国家利益に従属させるのではない「経済」というものがありうるのだ。また、いかに「日本経済」なるものが破綻しても、コミュニティの力が人々の生存を維持させつづけることはありうるのである。こうした新たな経済の再設計にチャレンジする強い創造力を持つことが、私たちに問われている。事実、「国民経済」が破綻しても民衆レベルの自立的自治的な経済がむしろ生存の経済として機能する例は決してすくなくない。(破綻したアルゼンチン経済、パレスチナの難民キャンプの経済、第三世界のスラムの経済、先進国の都市下層の経済は、国家と資本から自立していればいるほど自己統治の潜勢力を保持できたといえる)



社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない──原発事故から学ぶべきこと── 小倉利丸

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松下竜一という人の言葉

「……そこで電力会社や良識派と称する人びとは、『だが電力は絶対必要なのだから』という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに……誰かの健康を害してしか成り立たなぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。」(「もっと暗闇を!──グローバル資本主義批判から原発批判への道を探る 小倉利丸」)

火力発電所の建設に反対していた時の言葉だが、まして原子力ならなおさら。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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