泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 記憶の底から   Tags:  

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

歌の翼に

 トマス・ディッシュって亡くなってたんだ。。。しかも自殺。おまけに同性愛者だったとは、、、ぜんぜん知らなかった。。。

 学生の頃SF小説にはまってたので、ディッシュも何冊か読んでいるのだけど、「歌の翼に」は印象に残っている。リンク先を読むとディッシュの作家としてのピークは、どうやら「キャンプ収容」「334」「歌の翼に」あたりだったようだね。もう小説を読むこともなくなっちゃったんだけど、いまでもディッシュだけはもう一度読んでみたい気がする。

 当時はサンリオSF文庫で読んだけど、とっくになくなってるのでディッシュは気軽に手に入る作家じゃなくなってしまっている。でも「歌の翼に」は新訳で読めるということだ。

Category: 記憶の底から   Tags: 旅行  韓国  思い出  

Response: Comment: 2  Trackback: 0  

ソウルの安宿

 初めて私がバックパッカーという旅行の形態を知ったのはソウルのデーウォンという旅館でのことだった。プサンから韓国に上陸し、バスを乗り継ぎソウルにやってきて、この、世界中からバックパッカーが集まるとガイドブックに紹介されていた安宿に泊まった。中庭のある韓式の旅館で白人の旅行者が多かった。ギターを弾く者、洗濯をする者、みな思い思いに過ごしていた。まあはっきり言って、初めての海外旅行で韓国人のワイルドさに圧倒され続けていた私には宿の外での生々しい韓国体験のほうが印象深かった。しかしおかしなもので、この宿で見聞きした事柄は、数年後になって私の人生に影響を及ぼし始めるのだ。

 もちろん日本人も何人かこの宿に泊まっていて、2〜3人の旅の先輩から自慢とホラの混じった旅行体験を聞かされた。今までいくつくらいの国を旅行したんですか? という私の問いへの答えは驚きだった。韓国や台湾から始まって、東南アジアを経てアフガニスタンにまで及んでいて、両手で数えられる国の数をとっくに超えていた。しかも日本を出てから2年だか3年だか帰国もせずにアジアを放浪し続けたというのだ。私よりちょっと年上の見た目ごく普通の二十代後半の男だったが。。。そんなすごい旅にどんな大金がかかるのだろうと思ったが、アジアの物価は安いから大して金はかからないというのだ。
 円高という言葉は中学生のころから耳にしていた。それは海外旅行に大きな恩恵を与えるものらしいということも知ってはいた。しかし私の家は貧乏だったし、私自身の稼ぎも微々たるものだったので、長期間の海外旅行を私がしうるなどということは想像もできないことだった。しかし韓国に来てみて、日本から持ってきた10万円の価値に驚いていたところだ。食費、宿泊費、交通費、、、いくら使っても金が減ってゆかない。国と国の間の経済格差とはこういうものなのか、と私も実感しはじめていた。そのうえタイやインドへゆけば韓国以上に物価が安いというのだ。
 私にもアジア放浪が可能なのだ。。。いろいろな社会や文化をこの目で見たり、いろいろな国の人々と触れ合うこともできるのだ。一人で外国へ渡って自分の精神を鍛えることができる。また自分を普段軽く扱っている友人たちに対して、ひとり冒険に出かける自分を見せつけ、アッと言わせることだってできる。。。などなどさまざまな思惑が自分の中に渦巻き始めるのを感じた。ソウルの安宿で私の中に新しい欲望が生みつけられ、人生の新しいページが開かれてゆく予感にときめいた。

 夜、旅の先輩たちに飲み屋に行こうと誘われた。ソウルの裏路地にある飲み屋で、よりディープな旅行話を聞いた。印象に残っているのはタイで売春婦を自分のホテルに連れ込み、一緒に夜を過ごしたという話だった。その手の話は現在の私とってはどうってことないのだが(笑)、初心な当時の私には、海外で現地の女と戯れる様が妙にイカシたものに感じられた。連れ込んだ女が自分の腕枕でそのまま眠ってしまって、朝になったら腕がしびれていた、なんて話がなぜかうらやましかった。エイズという病気が広がり始めたころだったが、病気なんか気にしないよと、ナマでやってることを自慢げに語っていた。そのリスキーさがまたイカシてるように思えた。
 よし、このままイテウォンに女を買いに繰り出すか! という話になった。一瞬、身体の中に緊張が走った。結局その話は実現することなく終わり、私はホッとした。キーセン観光という言葉に日本人の不潔さのみを感じていた。まだまだ私は初心だったのだ。

Category: 記憶の底から   Tags: ---

Response: Comment: 11  Trackback: 0  

一発目

 21歳の冬のことだ。もう時効だろうと思うので書いてみようと思う。、、、私の一発目の相手は台湾の女性だった。

 二十代前半、私は浦安のネズミーランド(仮名)というテーマパークで清掃のアルバイトをして生活していた。冬のネズミーランドには休園日があって、従業員の慰安旅行なども催され、アルバイトも私を含め5人ほど旅行に誘われた。行き先はCMでおなじみの伊東のハトヤホテル。夢と魔法の王国のアメリカナイズされた職場のレクリエーションも、結局は日本の会社らしく宴会旅行だった。
 バスの中では同い年くらいの若手社員たちが酒に酔って手のつけられない悪ガキぶりを発揮している中、バイトの私は小さく隅のほうに座っていた。夜、ホテルに着いて、宴会場で社員たちの余興を眺めながら飯を口に運んだ。やれやれ、こんな旅行について来るんじゃなかった。まるで社員たちの盛り立て役に、おまけとして連れてこられたかのようなもんじゃないか。ちょっとした屈辱感と惨めさが混じった私の顔を見て、社員の一人は「来るんじゃなかったと思ってんでしょ、荒井さん。」とせせら笑った。チッ、無神経でいやなやつだ。

 バイトたちに割り当てられた部屋に帰ってぼんやりしていると、上司の社員が入ってきて「おい、荒井、ストリップ見に行くぞ。すぐ用意しろ!」と声をかけられた。予想もしなかった言葉に驚くとともに、うれしさがこみあげてきた。いやいや、ストリップに行けることがうれしかったのではなく、このつまらない旅行に感じていた惨めな疎外感が、温泉場のストリップ小屋に出かけるという、せこくてうしろめたい行為に参加できるってことで、パッと消滅したのだ。いつもみんなにバカにされている、軽くてお調子者のこの上司が、この日はとても有難い人に思えた。手早く浴衣を脱いで、出かける支度を済ませたので、バイトの仲間たちに「どうしたのけんちゃんーはやいじゃーん。」とひやかされた。フン、笑いたきゃ笑え、と思った。
 
 結局アルバイト5人と社員3人という面子でタクシーに分乗した。タクシーの運転手に「いいところに案内して下さいよ。」と上司が念を押すと、運転手も事情を心得てるとばかりうなずいて、「確かに東京のストリップはすばらしい。だけど一度はこういう地方のストリップを見ておかなくっちゃ。」などとのたまいながら夜の伊東の街に車を走らせた。
 ほどなくタクシーはストリップ小屋に到着、私たちは中に入ったが、それはもうひどいものだった。年くったおばさんの体の線の崩れきった裸や芸を見ることになるとは思ってもみなかった。「ほら、見たいんでしょ。」と、おばさんが股間を私の目の前に突き出してくる。終始仏頂面したおばさんストリッパーが筆をあそこに挟んで色紙に字を書く。その色紙に金を払ってありがたそうに受け取っている常連客らしい禿のオヤジがいる。。。なにか悪い夢を見ているかのような時間が過ぎていった。タクシーの運ちゃんはこんなものを見ておくべきだと言ったのだろうか。

 悪夢のようなストリップの上演が終わると、上司が今度はストリップ小屋の経営者らしきオヤジと何か交渉している。「8人いるんですよ。」「いや、これ以上はまけられない。」「病気のほうは大丈夫でしょうね。」「いや、そのへんはしっかりやってるから大丈夫。」、、、呆然と眺めてはいたが、事態はあきらかだ。女を買わないかとストリップ小屋の経営者に持ちかけられ、代金の交渉をしているのだ。どうやら本命はストリップにあったわけじゃなかったようだ。なんと、上司は2万円の言い値を1万2千円まで値切ってしまった。
 手回しのいいことに店の外にはすでにワゴン車が待っていた。いざ車に乗り込もうとすると、仲のいいバイトの友人が「オレやだあ。」と、女など買いたくない旨を私に訴えた。無理もないことだ。私自身も含めて、みなろくに女性経験のない連中だった。なんの経験も心の準備もないまま、これから見も知らぬ商売女と一戦を交えなければならないというのだから。同時に執拗にまとわりついてくる買春の不道徳さという観念や性病への不安などが心の中に渦巻き、私の心臓も高鳴っていた。
 だがむしろこれはチャンスだ、という気持ちが私の中で勝っていた。童貞を捨てるチャンスなのだ。何でもいい、とにかく女を抱いてみたい、、、バクバク鳴っている心臓の鼓動には、これから起こるであろうことへの期待も含まれていたかもしれない。

 私は「いまさら何言ってんですか。」と友人をワゴン車に押し込み(笑)、この状況に身を任せた。運命の場所は普通の民家のようなところだったと記憶している。掘りごたつのある部屋に案内され、じゃんけんで順番を決めた。私は2番手で、自分の順番がくると女の部屋に連れて行かれた。若くてちょっと小柄な女が待っていた。少なくともストリップ小屋で見たようなおばさんを抱く必要はないようだ。
 行為はそのものはたかだか5分ぐらいで終わったのではないかと思う。私は途中、とても緊張していたので「怖いなー。」ともらすと、彼女は「何が怖いの?」と微笑みながら聞いてきた。優しそうな女だ。だが、言葉の発音が少しおかしかったので、外国人かと思って聞き返すと、台湾人だということだった。
 私は無我夢中でがんばっていたが完全に空回りという感じで、これでは終わらないのではないかと焦った。彼女と目が合ったとき、ふと「キスしてもいいの?」と聞いた。すると返事を聞く前に、彼女の唇が私の唇に触れてきた。、、、その感触はとても甘く、柔らかだった。その柔らかさが何かに火をつけたのか、ほどなく事を終えた。よかったというより、ホッとした。
 
 服を着て部屋を出るとき一言何か言わなくっちゃと振り向いたが、彼女はすでに鏡に向かって化粧を直し、すぐ次に来る客を迎える準備をしていた。短時間に数人の男の相手をしなければならないのだ。ふすまの外にはスーツを着た怖い男が、こちらですと私の前に慇懃に手を差し伸べている。ヤクザだ。。。緊張でふわふわしながら靴を履いて外に出てると、黒塗りのベンツが停車していて、先に済ませた社員やアルバイト仲間が大人しく座席に座って待っていた。このままコンクリート詰めにされて東京湾に捨てられてしまう、というバカなストーリーを頭の中に描いているうちにハトヤホテルに戻ってきた。ここまで来て、やっとすべての緊張から開放された。

部屋に戻るとすぐ友達と浴場へ行って、性病の感染を防ごうとモノをごしごしと洗った。まあ、そんなことしたって感染防止にはならないのだが、そんな知識は持ってなかったのだ。風呂を出てくつろいでいても、しばらくは頭はぼーっとしたままだったが、徐々に自分が今しがた体験したことを噛み締めるだけの余裕が出てきた。とにかく私は女を知ったのだ。10分間1万2千円という価格をどう考えるかは微妙だが、童貞を捨ててしまえたのだ。少しずつ、じわじわと自分の中に誇らしい気持ちが広がっていった。
 あとで聞いたとこによると、一緒に出かけたアルバイト5人のうち、私ともう一人以外の3人は、緊張や時間制限のせいでフィニッシュまでいけなかったらしい。延長しますかと言われてあきらめてきたらしいのである。気の毒だと気遣いはしたものの、私は心の中でべーっと舌を出していた。

 私の二十歳頃までの女性経験は貧しいものだった。もちろん性欲はあったし、女とつきあってみたいとも思っていた。しかし私はオヤジ顔でほとんど女にもてなかったし、いろいろ心の問題を抱えていたせいで、女と関係を持つなんてことは想像も出来ないことだった。成人を迎えるころに心の問題に整理がついて、改めて女への興味が目覚めたところだった。だがこうして意外にも早くチャンスは訪れ、ひとつの課題はいとも簡単にクリアされることになったわけだ。しかし、そのあと数年は女性経験の貧困が舞い戻って、女の肌に触れる機会を持つことが出来ず、この台湾女性との無我夢中の一発目だけが、大きく私の心の中を占め続けることになってしまった。
 実はいまだにそうなのだが、あの柔らかい唇が、、、私の唇に触れてきてくれたあの女の記憶が、心から離れない。柔らかい唇に触れたとき、あんなあわただしい瞬間であるにもかかわらず、彼女は私を受け入れてくれた、、、今までどんな女も相手にしてくれなかったこの私を、あさましい欲望ともども優しく受け入れてくれたに違いない、という(ほとんど妄想に違いない)喜びが私を支配してしまったのだ。あれはきっと男に対する女の優しさだったのだと。。。
 こうした思い込みを抱いてしまうのも女性経験の貧困さゆえだろうが、柔らかな唇の感触は私の精液を発射させただけでなく、いろいろなものを私の心に植えつけた。
 まず、売春婦という存在への愛着が私の中に生まれた。それまでダーティなイメージででしか見てなかった売春婦が急に等身大の存在に思えてきた。とくに当時ジャパゆきさんとよばれていたアジアからの売春婦は、さまざまな危険を覚悟で身体ひとつで働きに来ているヒロインにすら見えてきた。まあ、それはそれでひとつのセンチメンタルな妄想だったりするのだが。。。
 また、私のアジアへの関心も甘く柔らかな唇の感触とつながっている。日本では女にまったく相手にされないが、アジアのどこかに私のやるせない想いや欲望を受け入れてくれる優しい女が待っているんじゃないのか、という妄想チックな予感に、このとき以降徐々にとり憑かれて行くのだ。

 ところであの台湾の女性は今も元気だろうか。たくさん金を稼いで無事国へ帰って行ったのだろうか。きっともう母親だったりするんだろうなあ。
 
 とにかく、こうして20年以上前のネズミーランドの宴会旅行は、来るんじゃなかったという後悔から、記念すべき思い出へと変貌した。今でもあの旅行に参加してよかったと思っている。また、思わぬ出費のせいで消えてしまった、旅行に来なかったバイト仲間へのお土産代を貸してくれた、そして童貞喪失の貴重な機会を与えてくれたお調子者の上司にはいまでも心から感謝している。

Category: 記憶の底から   Tags: 思想  思い出  仕事  

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

仄暗い記憶の底から 13 会社を辞めるとき

 僕は仕事(職業)を中心に自分の人生を考えたことはない。僕の人生は若い頃に芸術の神に捧げてしまったからである。それ以降、僕にとって仕事は金のための、または職場の人間関係を楽しむためのものとなってしまった。だから仕事をホンチャンのものと考えたり、仕事を通じて自己を実現する、なんていう不気味な考え方からはオサラバしている。
 肉体労働や単純な労働ならともかく、僕らのような職人的な専門職の場合、このように仕事に対して特別な思い入れをしている人が多い。自らの成し遂げた仕事が評価され何らかの達成感があるとしたら、それはつらい労働であるよりも快楽ですらある。歌手、芸人、スポーツ選手なんかみんなそうじゃないだろうか。気持ちはよくわかる。しかし、だからこそそれは危険な罠なのだ。

 今の仕事(アニメーションの背景描き)をはじめたのは15年前だったが、当時就職していた会社の社長がまさにそのような考えの持ち主だった。なかなか上達しない僕の絵の腕前に社長は、やる気が感じられないと苛立ちを隠さなかった。もちろん給料をもらってる以上、努力して働いてはいた。しかしこの仕事にそれ以上の思い入れを込めろ、といわれてもそれはできない相談だった。やる気を出せといわれたところで、ない袖は振れないのだ。
 社長室に呼ばれよく説教を受けた。若い新人の社員がどんどん力をつけてきているのに、君はずいぶんのんびりしているな。………ハッパをかけようというわけだが、僕には今でもそうだが自分の絵の腕前に対するプライドがない。自分の仕事で自分を支えようなんて発想がないからだ。正直なところ、絵がうまくっても何が偉いのか、と思っている。だからそんな説教は聞き流していた。
 仕事は自己救済なんだ、とよく諭された。やはりこの社長は自分の職業によって、自らのアイディンティティを支えているのだ。だが一人の人間存在の価値が、職業に還元されてしまっていいものだろうか? 一つの仕事をやり抜くなんてのが美談だったりするし、職業を転々とするフリーターのような人は信用されない。結局のところ、ある人間の価値や信用を、職業という社会システム内の位置によってしか判断しようとしない。つまり安定的に作動する社会の部品であることが人間の価値であるという発想がそこにはあるのだ。
 僕だったら、職業で人間の価値を推し量るようなことはしない。その人がどんな生き方をしているか、自由な魂を持っているか、まずそういうことが気になるだろう。
 専門職………プロフェッショナルであること、そして誰もが賞賛する完璧なプロであることは、完璧なる社会の部品であることを意味するのではないだろうか。だからこそシステムは完璧なプロ(例えば、いい仕事をするスポーツ選手やデザイナーといった人たち)に対して高い報酬を授けるのではないだろうか。
 
 社長はいつまでたっても力をつけない僕を疎ましく思い始めていたようだ。ある日、会社で休憩時間に僕が哲学書を読んでいるのを見て社長は呆れ、怒り出した。休憩時間は何のためにあると思ってるんだ。頭を休めて、仕事に集中するためにあるんだ。そんなものを読んでどうするんだ。本を読むのならマンガでも読んでればいいんだ。どうせ君がそんなものを読んだって君の頭では理解できやしないんだ………。
 僕は血の気が引くのを感じた。失礼な言い方はともかく、休憩時間、余暇までもが、仕事のために、労働のためにあるという考えは、僕には到底受け入れられないものだった。週70時間も働いている、そのわずかな余暇すらも、働くために利用しろというのか。その頃ポツリポツリと読み始めていたマルクスのいうところの、労働力の再生産過程、という言葉を思い出した。つまり余暇のことなのだが、余暇を資本主義経済においては、労働力、つまり働く力をまた充電するための過程であると理解する、というわけだ。全ては労働のために、である。僕たちは働くために生きているのだ。
 俺は反体制だと豪語していたあの社長の思考は、まさに資本主義のシステムを体現していた。結局、僕は社長と口喧嘩して会社を辞めた。そのあと建設現場でアルバイトして椎間板ヘルニアを患いながら金を貯め、インドへ旅立った。

 僕らは働かなければ生きられない。システムとどこかで折り合いをつけずには生きていけないのだ。だから働くことを楽しむ努力をするべきだ。しかし、それは働くために生きてるということを意味しないだろう。プロフェッショナルである人は、その特権的な立場故に、ここのところを混同しがちだと思う。労働が生き甲斐だ、という発想、これはやはり倒錯ではないのか? 奴隷が主人によく働くとほめられて喜んでいるようなものではないか? そのとき僕らは完璧なる資本主義社会の部品になっているのじゃないかと思うのだ。

 はじめに僕は自分の人生を芸術の神に捧げた、と述べた。自分にとって、芸術は資本主義社会における唯一の「祭り」………労働と反対の原理である「祭り」であると思ったからだ。もっとも芸術という「祭り」の形は僕の中でたちまち終わってしまった。今現在の僕の考えを言えば、「祭り」は資本主義社会においては、システムへの反抗という形でしかあり得ない、ということになる。だからといって僕は社会を転覆しようなんて大それたことは考えていない。だが、反システム的な生き方は可能だと思うのだ。そういう生き方へ舵を取ることが僕のこの社会に対する責任であり、労働を越えて為すべき仕事なのだ。そして自分という存在に価値とプライドを感じるとすれば、それは「祭り」へ向かう生き方において………なのである。

Category: 記憶の底から   Tags: 思想  思い出    

Response: Comment: 2  Trackback: 0  

仄暗い記憶の底から 12  赤坂憲雄『排除の現象学』を読んだ頃

 確か22才の頃だったと思う。本屋で立ち読みをしていた僕は、偶然、別冊宝島の「精神病を知る本」という本を手にした。パラパラと中身を読んで、面白そうなので買って帰った。表題から想像されるのとは違って、この本の内容は精神病の解説などではなく、僕たちが今現在生きている近代市民社会は、いわゆる「狂気」を病気と見なして社会から排除することによって成立している、という驚くべき論であった。近代以前の社会では、「狂気」ともっと親密な関わりを持ち、共同体の中に受け入れられていたが、その狂気を「病気」として精神病院の壁の中に閉じ込めることによって、今日の理性的な近代市民社会の空間が成り立っているというのだ。
 前衛芸術に興味を抱き、また登校拒否の経験者を友人に持ったために反制度的な問題意識を植え付けられていた僕は、近代社会への違和感を皮膚感覚として抱き始めていたこともあって、この近代社会の成立における狂気の排除、という現象に大きな関心を持った。

 この本の要になる書き手の名前は、赤坂憲雄という人だった。この名前を頭に入れて東京の大型書店を探していると、赤坂憲雄著『排除の現象学』という本が見つかった。さっそく買って読んでみると、これがまた驚くべき本であった。
 異人論の観点から僕たちの日常を読み解くというのがこの本のテーマだ。ある共同体の秩序の成立には、ある暴力的な排除が存在するという、いわゆる第三項排除論によって様々な社会問題………いじめ、浮浪者、新興宗教などをめぐる事件を分析している。
 文化人類学や民俗学、そして中世史などの研究から析出された分析装置を用いながら、鮮やかにそして繊細にかつするどく事件を斬ってゆく手並みには感心するばかりであった。

 「精神病を知る本」においてもそうであったが、明らかにここには近代社会に対する批判的な視線があった。
 ある共同体の秩序は、その共同体内部のある要素を排除するという根源的な暴力によって形成される。それは近代のみならず、古代や中世の、また未開の社会にも共通するメカニズムである。文化人類学に触れたことのある人なら、秩序/混沌、中心/周縁、日常/非日常、光/闇、意識/無意識、といった二項対立のキーワードを聞いたことがあるだろう。異人(ストレンジャー)とは、この二分された秩序と混沌の境界にあって、ある共同体の周縁に排除された要素のことなのである。そして異人は、共同体の秩序の形成のため常に再生産されているのだ。そのため異人は反秩序的な、忌避されるべき、闇のオーラをまとった不安や恐れを抱かせる存在になった。しかしそれら異人たちは時には神聖な存在でもあり、硬直した共同体の日常性を活性化する役割をも担うものでもあったのだ。たとえば中世の社会において、そのような異人的存在として、旅芸人、巡礼者、シャーマンなどがいた。不具者や、おそらく狂気も、かつては忌避され恐れられるとともに神聖な存在として共同体の中で独特な位置を占めていたのだ。
 しかし近代社会は、このような両義的な存在であった異人との関係性を失ってしまった。狂気も単なる病気として、精神病院の壁の中に閉じ込められ、僕らは非日常の闇と出会うチャンネルを失いつつある。無味無臭の均質的空間を志向する僕たちの近代社会の硬直した日常性の病理、赤坂憲雄は、それを『排除の現象学』で描き出そうとしていたのだ。

 だが、この本の出版の後の赤坂は、自身の言う「考古学」、すなわち民俗学や中世史の研究の方向へと向かった。特に民俗学者、柳田國男の『遠野物語』の研究のため遠野に通いつめ、現在では東北にある大学の先生になって「東北学」なるものを構想しているという話だ。
 人の進む道にとやかく言う権利はないかもしれない。が、「排除の現象学」を書いていた頃にあった近代性へのクリティカルな視線が、今現在の彼の仕事の中からすっかり鳴りを潜めてしまっているのは確かだ。間違いなく近代への秘めたる憤りが、赤坂にあれらの書物を書かせたに違いないのだ。もっともフィールドワークによって、近代化以前の民俗の生き生きとした世界観を拾い上げるだけでもそれは反近代的な行為であるかもしれない。しかしそれだけでは失われゆくものへのノスタルジーでしかないと思う。
 確かに赤坂憲雄の近代社会の分析は鋭く、そしてとてつもなく繊細だった。しかし彼の言葉の線の細さが気になってもいた。考えてみれば、分析に終始していた彼のディスクールの中には、赤坂自身の生き方を語った言葉はなかったように思う。結局のところ彼は観察者でしかなかったのだろうか。しかしながら世界を眺める視線はそれだけですでにその人の生き方に直結しているはずだ。したがって、これだけ深く近代社会を分析し、批判する眼を持っていた彼が語るべきだったのは、「私自身が、近代市民社会における異人(ストレンジャー)となり、硬直化した日常を活性化させなければならない。」という言葉ではなかったろうか。その言葉が発せられなかったということは、赤坂憲雄が研究者であり、学者であるということではあっても、一つの精神、一つの存在ではなかったということなのではないだろうか。

 いや、もちろん僕ははっきりわかっているのだ。それは僕自身のマニュフェストなのだということを。ようするに赤坂憲雄という人の書き上げた書物の中に、僕は僕自身の未来を読み込んでいた,ということだ。
 唐突ではあるが結論として言っておこう。硬直した僕らの近代空間(コスモス)に、闇の持つ混沌(カオス)としたエネルギーを導き入れ、日常生活を活性化すること。これが現代の異人たる「祭り」の精神の持ち主の仕事なのだ。つまり、僕が若い頃から掲げていた課題、アバンギャルド芸術の乗り越えとは、僕自身が現代社会の中での異人(ストレンジャー)でなければならない、ということの謂なのだ、ということである。赤坂憲雄の『排除の現象学』を読んで受けた衝撃は、あの本の中に自分自身の未来の姿を発見した驚きだったのだ、と今では思う。

09 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 67
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 116
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS