泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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世界にひとつだけの、、、

この「かけがえのなさ」(交換不可能性)は、「個性」や「自分らしさ」とは違うものである。社会学者の土井隆義[2004] は、SMAPのヒット曲『世界に1つだけの花』の「1人1人違う種をもつ……1つとして同じものはないから……もともと特別な Only one 」という歌詞を引きながら、それが「どこにも『特別な Only one 』を見出せない自分には価値がないかのように思わせる」、個性志向を煽る歌ともいえると述べている[土井 2004 : 37]。しかし、この場合の「もともと特別な Only one 」というのは、語義からいっても、「唯一無二の私」の「交換不可能で比較不可能なかけがえのなさ」を意味しているだろう。それは「交換可能で比較可能な個性」とはまったく別のものである。「かけがえのなさ」としての「交換不可能性」や「比較不可能性」は、たとえどんなに平凡であっても、また双子でも、「個性」や才能や役割などの比較可能な属性とは無関係にあるものであるのに、土井は、それを「個性」や才能やであるかのように解釈してしまっている。 つまり、「交換不可能で比較不可能な個」と「交換可能で比較可能な個」を混同している。いいかえれば、「普遍性-単独性」の軸と「一般性-特殊性」の軸を区別しそこなっているのである。むしろ、土井のこの混同こそが現代社会の「個性志向」と「かけがえのなさの喪失」を表しているといえよう。

真正性の水準と「顔」の倫理──二重社会論に向けて── 小田亮 注1




所詮アイドル歌謡の話ではあるんだけど、SMAPの『世界に1つだけの花』を初めてラジオで聞いたとき、直感的にこれは売れるぞ、と思った。明るくて印象的な曲に、うまいこと言うね~って感じの歌詞がついていて、案の定大ヒットだった。だからでしょでしょと、好意的にこの歌のヒットを見ていたのだけど、ネットとかでけっこうこの歌に対して否定的な印象を持ってる人が多いのを知って、なんだろ、僕は少々脳天気だったんだろうか、なんて思ったりもした。格差社会批判をこうした個人の特異性、代替不可能性を全面肯定する方向で行うについては、結局システムが変わっていないならこの手の主張は慰めでしかないとか、さらにはこれはある種の強弁や開き直りなんじゃないかみたいな、そんな切り返しを僕自身も受けたことを思い出す。まあ開き直って競争から逃げるな、みたいなな自己責任論者はともかく、上の社会学者の方のように「個性」なんて言葉のいかがわしさをよく知っているにもかかわらず、槇原敬之の作ったこの曲を個性志向を煽るものとして斬ってしまうというのは、どこか学者の上から目線が出てしまったということなんだろうか?

ただ、この曲はやっぱよくできていたと思う、、、商品として。つまり問題は「 Only one 」を礼賛する歌を、「 No.1 」になることを目論む商品として世に出し、実際に「 No.1 」を勝ち取り、歌詞の意味するところに反して現行システムを翼賛する皮肉な働きをしてしまったことに尽きる。ま、いわゆる前衛芸術のやってきたこと、やっていることも99%は、この歌と同じなんだけどさ。

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小田亮氏のホームページが

削除されていた。ま、こんなこともあろうかと全部evernoteしといたので、順次 garage sale に載っけてくつもり。

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ホーム&アウェイ

 この檜垣の論に従えば,現前の形而上学/同一性の政治学の乗り越えのために,デリダとドゥルーズは2つの異なるベクトルを生ききった2人だということになる。この2つのベクトルは,共に簡単にまとめあげられるようなものではないだろうが,そこに真摯に学ぶべきものがあることだけは間違いない。これは,私たちが生きている現実に立ち向かうときに抱えこまらざるをえない,挑戦的思考の2様相なのではないかと,私にも思われる。
 そうであるが,ここで檜垣の論を引いた理由は,すなわち私自身のケガレ論の再解釈の提示を通じてここで示したかったことは,デリダ的なものからドゥルーズ的なものへと思考様式の重心を移していくことが,ストリートの内在的理解には不可避であろうということである。というのは,デリダ的な見方がホーム権力の思考方法を根底から覆すというよりは原エクリチュールという空虚の存在(到達不可能性)を支えにした脱構築によって差異の場所をずらし続ける逃走的抵抗の形になっているのに対して,ドゥルーズ的な見方はもっとストレートに思考方法の転換によって形而上学の窮状を乗り越えようとしている革新性があり,例外化された「ストリート」の生を描き出す視点転換がそこに見て取れるからである。もっとはっきり言うならば,デリダ的見方では,すなわち主張される「〈外〉の侵入」という見方には,「〈内〉中心主義」の視点が実はへばりついていて,その意図に反して支配イデオロギーと共犯的になってしまって,それを遅延させることはできても根本的には相対化できないことになる(ネグリらのデリダ批判はこの点に触れている(ネグリ/ハート2003; 2005))。逆に,一見脳天気にも見えるドゥルーズの主張「溢れ出す〈内〉」は,その外見に反してきわめてラディカルな支配イデオロギーの逸脱ないし思想的凌駕になっている点が,注目されるのである。
『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論 関根康正



レヴィナスはデリダに似たタイプの思想家と言われていて、僕もあの他者論にシビレた口だが、ここで言われている「〈内〉中心主義」をそこに感じ続けている。レヴィナスという人はマジョリティとして社会の権力の中心の近くから発信を行なっていたんじゃないか。アウェイで生きざるを得ない人、またアウェイで生きることを望みすらする人がいて、自らが社会や共同体の〈外〉であるという感覚を抱いている人にとって、レヴィナスの言葉は少々上から目線なものに聞こえなくもない。実際には人間誰もホームとアウェイの両面に生きているわけだから、どのようなアウェイに生きるマイノリティにとっても、レヴィナス的な〈自〉の問い質しは有効だとは言えるが、ユダヤ人というレヴィナスの出自のわりにはアウェイ感覚に鈍感ではないかと訝しく思っている。この「〈内〉中心主義」はつまり「学=アカデミズム」につきまとう視線の問題で、民衆や運動の立場からはドゥルーズ流の言葉がピンとくるということだろうか。

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イヤだねえ。ってのがイヤだねえ。

 毛沢東を引き合いに出すのにべつに他意はない。同時代の雰囲気をちょっと再現してみたいだけだ。あるいはアルチュセールでもかまわないが、いずれにせよマルクス主義における理論と実践という問題は、もうすこしダイナミックでかつ相互変換的かつ相互浸透的なものだ。批判の一貫性は「理論と実践のあいだに分離が入り込んだ瞬間に、破壊され、イデオロギーとして固定してしまう」(370ページ)というSIの主張は、なんとなく「理論と実践の統一」という、「前衛党」の党員に課せられた規範のような臭いがする。そして事実、SIは前衛なのである。前衛である以上、自分の原則を守るために、それから外れたとみなされるメンバーはつぎつぎに除名されなければならない。イヤだねえ。『同時的体験の時代──堀田善衛の想い出に──』 栗原幸夫


この人は古き左翼のトップダウン式の「前衛」党と、前衛芸術の流れを引き継いだシチュアシオニストの「前衛」を言葉の相似だけを理由に同一視している。確かにシチュアシオニストは自らを「前衛」だと主張しているが、まず、「前衛」という言葉とセットになっている「芸術」を切り離し、自分たちの活動によって「前衛」の概念を定義し直すためにそうしていると考えるべきである。

(……)状況とは、したがって、それを構築する者たちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの『公衆』の役割は、常に減少することになる一方で、もはや役者ではなく、言葉の新しい意味において『生きる者』と呼ばれる者の関与するところが増大する。『状況の構築に関する報告』


という有名なフレーズで語られる『生きる者』であること(ホロウェイ流に言えば「為すこと」)がシチュアシオニストの「前衛」の意味するところである。われわれは「前衛」である。そして全ての人が「前衛」であるべきだ。シチュアシオニストはそう考えていだはずだ。

さらに、シチュアシオニストは『生きる』ことを「遊び」であるとも言い直している。この感覚を理解出来ない人が、メンバーをつぎつぎに除名してゆくシチュアシオニストの組織を非常にタイトな前衛党と同一視するのだ。おそらくシチュアシオニストの評議会とやらは半ばコスプレである。左翼の前衛党とちがってシチュアシオニストという組織はその(遊びという)性質上「権力」を目指していないし、ほとんど「無力」をすら意志する集団であった。前衛党から除名され追放された政治家や職業的活動家は生活の基盤を奪われる。粛清の憂き目にあった者は生命や自由を奪われる。たとえば連合赤軍もトップダウン式の権力構造を持った組織であり、それ故リンチ殺人のような暴力もふるわれた。しかしシチュアシオニストを除名されたところで、その人から何が奪われるというのか? むしろ「遊び」の感覚を失った「マジな」メンバーが除名されていったし、シチュアシオニストという組織そのものが「マジな」ものになりかけたとき(「力」の方向へ横滑りしかけたときに)、解散されたのだ、とこう考えるべきではないか?

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メモ Crack Capitalism ジョン・ホロウェイ2

ホロウェイはマルクスの労働の二面性の分析をキーにして論を展開している。いわゆる(具体的)有用労働/抽象的労働の対立のことだが、前者をホロウェイは「為すこと(= doing )」と言い換えて、為すこと/抽象的労働という対立として解釈している。これがいい!

有用労働というマルクスの言い方がなにかすっきりしなくて、というのも「有用」というとあくまで功利的な活動で、無用(無償)の活動は初めから排除されているような印象を持ってしまうし、さらにそれは「労働」だといわれると、(「労働」という言葉にこびりついた苦役の重たいイメージのせいで)抽象的労働とその実どこが違うのかいまいちはっきりせず、救われないような気がしていた。解放の思想家マルクスに僕が抱いていた印象は、相変わらず重かった。

しかし今やっとスカっと軽いマルクスが垣間見れたような気がする。この視座からマルクスを読みたい、、、つーかいままでいくつかマルクス論みたいなの読んできたはずなんだけど、こんな明快かつ痛快な読みには出会わなかったような気がする。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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