泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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仄暗い記憶の底から 8  釜山港へ帰れ

 初めての日本脱出の出発地は、成田ではなく下関だった。フェリーで韓国のプサンへ向かったのだ。
 初めての海外を前にして、私はやや緊張しながら大広間のようなフェリーの客室の片隅に腰を下ろした。しばらくすると一人のおばさんが僕のところにやってきて関西弁で話しかけてきた。プサンの税関は酒3本まで無税で持ち込めるのだが、私はいっぱい持ってるのであんちゃん3本だけ持って出てもらえるか? ということだった。いいですよ、と答えると、おばさんは僕に千円札3枚(いや三千ウォンだったかもしれない)を握らせて、これとっといて、といった。「いや、いいですよ、これくらいのことで。」と断ったのだが、おばさんは「いや、とっときなさい。金はいくらあっても邪魔になるもんじゃない。」と私に金を押し付けてきた。まあそこまでいうのなら断ることもないか……、と思い僕は金を受け取った。
 やがて船は出航し、しばらくするとさっきのおばさんが手招きして、一緒にこっちでメシを食いな、と誘ってきた。そのおばさんの横には紫色の光沢のあるジャケットを来たパンチパーマの迫力のある男が座っていて、そのまた隣には酔いつぶれた細身のチンピラ風情の奴が寝転んでいた。おばさんにいわれるままに食い物をつまんでいると、パンチパーマの男が「にいちゃん韓国は初めてか。」と話しかけてきた。ハイ、と答えると「じゃあいろいろと韓国のこと教えてやるよ。」と二人と一緒に過ごすことになってしまった。
 しかし話してみると悪い人ではなさそうだった。「韓国人にもいい奴と悪い奴がいる。いい奴は本当にいい。だけど悪い奴はとことん悪いから気をつけなきゃいけない。」なんていってた。大分のヤクザということらしく何度も韓国へ渡った証拠だと韓国のビザだらけのパスポートを見せてくれた。「ヘエ、そんなに韓国が好きなんですか?」とたずねると、「いやあ、好きっていうか……、女が安いからな。」
 そうなのだ。僕はずいぶん自分がナイーブに思えた。九州のヤクザは韓国に女遊びに行くのだな………。ストレートな発言に「地球の歩き方」かなんか読んで品行方正な韓国旅行を頭に描いていた僕は、現実というものの奥深さを見たような気がした。
 しかしパンチパーマのおじさんの方では、若い奴らがよく一人で韓国になんか遊びに行けるな、俺は一人でなんて絶対に恐くて行けねえや、などと感心していた。それを聞いていたおばさんが「時代や、そういう時代なんや。」と繰り返していた。

 数日後、ソウルに到着した僕はデーウォンという名の外国人の集まる安宿にいた。そこで日本人の旅行者に出会っていろいろと話を聞いた。僕がフェリーで韓国入りした、というと、「じゃあ、荷物もってくれっていうおばさんにあったか?」と聞かれた。その人の話によると、あのおばさんたちは、ポッタリ ジャンサと呼ばれる在日韓国人らしく、ああしてプサンと下関との間を行ったりきたりして、いろいろ商売をしてる一種の貿易商なのだ。「ええ、お酒もって税関を通ってあげましたよ。」というと、「じゃあ、五千円(ウォン)もらった?」と聞き返された。「いや三千円(ウォン)でした。」「それならメシ食わせてもらったんじゃない?」「そうです。そうです。」「じゃあ相場通りだね。」
 そうなのか。あのおばさんは親切でお金をくれたのではなかったのだな。そういうシステムだったわけだ。僕はその日本人の旅行者に聞いた。「でもあんなことで儲かるんですかねえ?」すると「何言ってんだよ。あのおばさんたちはスゲー金持ちだよ。あの商売で家が建つんだよ。」などと言っていた。
 ソウルの路地裏にある小さな居酒屋でのことだった。あのとき僕は24歳だった。僕も若かったのさ。

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仄暗い記憶の底から7 アンリ・ベルグソン「創造的進化」を読んだ頃

 10代の後半は僕にとって暗黒の日々だった。特に浪人生として美術研究所に通っていた2年間は友達もいなかったし、将来一体どうやって食っていったらいいのかもわからず焦るばかりであった。同じ美術を志す仲間たちと毎日顔を合わせているのに、一言も口を利かなかった。僕は哲学的な直感とでもいうのか、世界が存在することの驚きを知るところから芸術を捉えるという、実存思想的な考えを抱いていた。このまぎれもない真理の深い意味を気にして絵を描いてる奴など一人もいない。芸術を志す者たちの、この底の浅さは何だろうか? 僕の自負心は肥大化していた。しかし一方で、研究所の学生たちにコンプレックスを抱いてもいた。親離れができず、こうして友達一人できない自分に比べて、そつなく周りの人たちとつきあってゆける他の人たちにがみんな大人に見えた。結局は、周囲と大人の関係を築いてゆける人の方が成功するんじゃないか、いくら内面が豊かでも僕はそれを表現する手立てもないまま失敗し、つぶれてしまうのではないか? 分裂した心を抱え、焦りはつのるばかりであった。
 しかも、芸術の技術という問題も抱え込んでいた。研究所で学んでいるデッサンの技術が、いったい僕の持っている芸術のビジョンとどうつながるのか?このままデッサンを続けて美大に入り絵を描き続ければ、人間存在と絵画の融合する境地にたどり着くのだろうか。
 さらに自分自身の芸術的な感受性にも自信が持てなかった。ピカソ、ブラック、マティスなどの誰もが賞賛する絵を眺めてもまるっきり感じるところがなかった。万事にとろい僕の芸術的感性に欠陥があるとしたら、これはもう芸術家になりたい僕にとっては死活問題なのだ。

 苦しい日々が続いていた。自分で自分が苦しんでいることに気付かないままに。デッサンに行き詰まるとよく学校をさぼって街を歩いたりしていた。そのうち学校の近くにある図書館で夕方のバイトの時間まで過ごすことが多くなった。どういう理由だったか、そこで僕はアンリ・ベルグソンというフランスの哲学者の『創造的進化』という本を読みはじめた。当時僕がよく読んでいた哲学書は、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」という本だったが、ベルグソンは哲学史上、ショーペンハウアー同様「生の哲学」に分類されるため、なんとなく親しみを覚えてはいた。でも読んでみようと思ったのは、ここには何かがあるに違いない、という漠然とした直感によるものだった。(稲垣足穂という人の小説だったかエッセイだかに『物質と記憶』という不思議なタイトルのベルグソンの哲学書の話題があって、それが心のどこかに引っかかっていたのだと思う。)
 珍しく僕は本気だった。図書館においてあったのは白水社のベルグソン全集であったが、自分で岩波文庫の『創造的進化』を別に用意して、訳文がわかりづらいときは、そちらを参照した。大事なところには傍線を引き、理解できないときは前に戻って読み直した。あれほど一冊の本を熱心に読んだことはなかった。

 面白い本だった。ベルグソン独特の時間論をもとに、進化論を捉え直そうというのがこの本のテーマだ。特に、空間化した物理学的な時間の解釈を、本源的な時間、彼のいうところの純粋持続に置き換える手腕が鮮やかで、目から鱗が落ちるような気がした。僕らは過去の繰り返しではなく、一瞬一瞬が新しい創始的な時間を生きているのだ、ということをはっきり理解した。読後の僕自身のことをいえば、ひとつは芸術の技術の、もうひとつは僕自身の生き方の問題について、ある解答に到達した。
 どのように納得したのかほとんど忘れてしまったが、「技術」を学ぶということはすでに「内容」も学んでいるのだ、という結論をベルグソンから引き出した。美術学校では、表現のための手段、表現のために必要な客観的な技術を学んでいるつもりだった。しかし本当は表現と内容は不可分であって、もし僕が何らかの新しいものを表現しようとするなら、新しい表現の技術を必要とするはずである。したがって学校で学んでいる「技術」にはある内容がすでに含まれているということ………ある価値を、すでに過去のものでしかないアカデミックな価値観を学んでいるのだ。それは常に新しくあろうという芸術家の精神にとって異質な「技術」ではないのか?
 結局この発想は、徐々に僕を「芸術」の「学校」というものはあり得ない、という考えに導いてゆき、美術大学への進学に対する興味を失うことになっていった。
 また、ベルグソンは種の進化について「新しい環境に果敢に挑戦した結果おこった、その環境に適応するための何らかの生物の機能、形態上の変化。」であるという意味のことを言っていた。かれはダーウィンやメンデルの突然変異と自然淘汰の進化論を機械論だといって否定する。エラン・ヴィタル(生の躍動)が環境に力を及ぼそうとした、その働きかけの結果が生物の進化だというのがベルグソンの考えだった。環境の適応に満足した種は、進化の袋小路に陥ったが、新しい環境に果敢に挑んだ種は、その新しい環境に適応するために進化していったと言う彼の言葉を、僕はむしろ人間の生き方について語っているように理解した。つまり一瞬一瞬が新しい環境、状況への挑戦であるような生こそが生命そのもののあり方なのだ、とベルグソンは言っているのだ。
 僕はそれまでの自分の殻の中に閉じこもった生き方を恥じた。もっと積極的に自分のまわりの環境に働きかけて生きなければならない。それは生命に他ならない自分自身が心の奥底で望んでいたことではないのか? だからこそ僕は、周囲の人たちと楽しげにコミュニケーションしながら生きている他の学生たちを一方では軽蔑し、一方では憧れるという分裂した態度をとることになってしまっていたのだ。

 ベルグソンを読んで得ることになったいろいろな観念は、そのすぐ後に、岡本太郎の本を読んだことで決定的に自分の生きる信条にかわった。この頃、(たしか僕は19歳だった)ゆっくりながら何かが動き始めるのを感じていた。自分自身を発見し、おぼつかないながらも自分の足で歩きはじめたのだった。

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祭りのあと あとがき

 この「祭りのあと」という文章はいつか書かねばならないと思っていたものだ。私がかつて油絵を描き、作品展を開いた頃から、かれこれ二十年が過ぎようとしている。あのとき私は、もう作品を創らないと宣言した。それは全く内面的な経緯による、気まぐれな決断だと思われたかもしれない。おそらくは誰も問題にしてくれなかった孤独な決断……。(いや、今だって誰も問題にしていないわけだが。)しかしこのちっぽけな決断を二十年が過ぎようとしている今も守り続けているのは、私が怠惰だからなのではなく、私の中にそうせざるを得ない何かが……、責任と使命が、否、欲望と野心があるからなのだ。
 あらゆる行動がそうだといえるかもしれないが、この「祭りのあと」という誰も読みたくなくなってしまうような長いエッセイは、1987年に銀座のギャラリーで開いたささやかな作品展において私が受けた、無理解、冷笑、とぼけた反応(もちろんこれらは予想していた反応だったのだが)に対する弁明なのだ。この弁明するという課題は作品展以降、ずっと私の中に生き続けてきた。それは初め拙い表現しかとれなかった。(例えば資料として載せた「ギャラリーオーナーへの手紙」はまさに無理解に対する拙い弁明だったのだ。)しかし粘り強く続けていた探求、読書、またその後の人生経験などがその課題を表現するボキャブラリーを増やしてくれた。二十年かけて私なりの理論武装をほどこした弁明が、このエッセイなのである。つまり、バタイユやマルクスから拝借してきた概念を使って練り上げられたこの芸術論は、私の決断……「作品制作の拒否」という選択を正当化するというモチーフに徹底的に貫かれているのだ。

 私の言いたいことは実に単純だ。芸術は「祭り」である。しかし、アバンギャルド芸術はダダイズムによる徹底的な破壊によって終焉を迎えたはずだ、なぜならアバンギャルド芸術は、芸術の制度を破壊することで近代芸術に祝祭性を導き入れようとした解体の運動だったからであり、制度が破壊尽くされてしまえば必然的に運動は終結せざるを得ないからだ。したがってダダイズム以降のアバンギャルド芸術作品というものは、論理的にいってあり得ない。とすればダダ以降の前衛芸術は基本的に「ニセモノ」ということになる、そしてそのペテンに対するプロテストとして「作品制作の拒否」という戦略をとるべきではないか? というものだ。
 もっとも、私の理論武装をほどこしたこの弁明がすんなり受け入れられるとは思っていない。例えば、今現在、あたりを見回しても美術館にギャラリーにと前衛芸術はあふれかえってるじゃないか。美術評論家だってそれらの芸術を問題にしているわけだし、あなたの極端な考え方には無理があるのではないか? そんなふうに言う人がいるかもしれない。
 確かに、芸術や文化は巷にあふれている。だがそれは商品と化した芸術であり文化なのだ。私が求めるもの、そしてアバンギャルドが求めたものは「祭り」なのであって、商品を生産することではないのだ。いつのまにかアーティストの追求すべきものは「祭り」の創出から、商品の生産という労働へと移り変わってしまったというのだろうか。

 アバンギャルドが求めた「祭り」は、資本主義的な商品の生産とはまるで正反対の行いである。それは美術館やギャラリーにちんまりおさまってしまうようなオシャレな、癒しをもたらす装飾品の制作などではありない。資本主義社会が「祭り」の精神を排除することで成立してきたことを考えれば、「祭り」とはむしろ反体制的なものにならざるを得ないだろう。おそらく「祭り」の精神を胸に抱くものなら、本能的に商品と化した前衛芸術のペテンを見抜くことができるはずだ。さらに彼らは、美術館やギャラリーといったモダンアートを取り巻く芸術のシステム(制度)が、すでに「祭り」を演出する場ではないことを……また、それがアバンギャルド芸術の牙を抜き、芸術を資本主義経済の中に取り込み、商品として流通させるための装置でしかなくなっているということを、身体感覚として生理的に感じ取っているに違いない。
 ダダイズムの教えは「芸術はアクションである」ということに尽きる。ということはつまり、アバンギャルド芸術の精神、すなわち「祭り」を、芸術のシステムの枠内だけに限定せず、日常の生活の中に展開ことが可能であるし、また、そうするべきだということである。私たちの生活そのものが「祭り」であるべきなのだと……。ダダイズム以降の「祭り」を求めるムーブメントは、すでにシュルレアリスムがそうであったように、日常生活を祝祭化しようとする方向性を持つのである。
 このように、二十代の初めに開いたささやかな作品展において私が主張した「芸術を日常生活の中に解消するべきだ。」というテーゼは芸術の本質を「祭り」に見ようとする精神にとっては必然的な言説なのであり、また「作品制作の拒否という戦略」は、芸術のシステムという資本主義体制を肯定するための装置を拒否し、告発するための当然の戦略だ、ということになる。
 どうだろう? はたしてこのような新たになされた理論武装による私の弁明は、説得力を持つだろうか?

 意外なところから援護射撃が行われた……。シチュアシオニストの存在を知ったとき私はそう思った。まさに上に書いたように「作品制作の拒否」という戦略を持ち、「芸術を日常生活の中に解消する」ことを目指す文化運動が存在していたのだ。そしてこの運動はマルクスの思想を理論的背景に持っていた。私の中では、芸術とマルクスは全く相容れないものであったが、シチュアシオニストやイタリアのアウトノミア運動などを知るにつれ、マルクスの社会変革の思想もまた「祭り」の創出を目指すものなのだ、と理解するにいたった。もっとも、それは私の無知と先入観に原因があったのだが……。なにしろアバンギャルド芸術運動と社会変革の運動が、「祭り」の精神という共通の根から生まれたムーブメントであることは、すでに七十年以上も前にシュルレアリストによって見抜かれていたことなのだ。
 とにかく私が援軍を得たのは間違いなさそうだ。「作品の制作を拒否」し、「芸術を日常生活の中に解消する」という私の選択は孤独な決断ではなかったということだ。驚きと喜び、そしてわずかな口惜しさ、大げさにいえば、これがシチュアシオニストの存在を知ったときに感じたことだった。自分の感性が正当なものであることが証明されたと同時に、私の考えが全くの独創ではなかったということもわかったからである。
 したがって、現在の私の課題も明らかになった。マルクス主義者(私の言っているのはシチュアシオニストやアウトノミアといった一部の先進的、前衛的な左翼のことであるが。)から私は学ばなければならない。私と同じ「祭り」の創出という課題を持って現実にアプローチしていた彼らの経験から私たちは学ぶことができるのだ。現在の高度資本主義社会の中で、一体どのような形で「祭り」の実現が可能なのか? それを、例えば68年5月パリの経験から何かをつかめるのではないだろうか。学べるということは、喜ばしいことである。彼らから学ぶことの中から逆に私の独創性を打ち出せるのではないかと思う。そしてその新しい課題は、第2部「タコ部屋の青春」において展開してゆきたいと思っている。

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仄暗い記憶の底から 6 バラナシの夜

 あなたは気を失ったことがあるだろうか? 僕はインドの聖地、バラナシで気を失った。ガンジスの滔々たる流れを前にして、インド世界の神秘に打たれたためだ………。なんてウソポ〜ン!

 蔵前仁一という人の書いた「ゴーゴーインド」という本を読んで、インド旅行の夢が僕の中に芽生えた。ヒッピーの憧れた国、カレーの国、その神秘の世界に触れてみたい。インドの旅は僕の生き方にとてつもない変革をもたらすに違いない……そう思ったのは嘘じゃない。
 でも実はもうひとつの目的があった。……ドラッグだ。インドではわりとカジュアルに大麻の吸引が行われているという。どのようなものなのかトリップしてみたかった。日本ではうかつなことはできない……しかしインドでなら……。

 インドに着いて数日後、意外に早くチャンスは訪れた。バラナシに「クミコハウス」という有名な日本人宿がある。ドミトリーで一泊100円ぐらいだったろうか。宿泊客はほぼ100%日本人なのだが、案の定そこに長逗留している日本人たちは夜になると車座になって大麻の回し飲みをはじめた。好奇心を抑えきれない僕は「まぜてもらっていいですか?」とかなんとかいいながら、彼らの輪の中に入り込んだ。
 たしかタバコをほぐして中に大麻を混ぜてまた紙で包んだものを吸ったと思う。「濃いコーヒーを飲みながらきめるのがいいんだ。」とかいって、僕の前にもきつそうなコーヒーが配られた。吸い方を教わって回ってきた大麻タバコを吸い込んだ。一回目、二回目……、何も変化がなかった。しかし三回目に回ってきた大麻の煙を吸い込んだ直後、急に目が回りはじめた。
 どうしたことだろう? これは耐えられないかもしれないと思って、僕は席を立って自分のベッドに行こうとした。しかし、吐きそうな気がしてトイレに先に行かなくては、と思い振り返って歩きはじめたが、スーッと意識が失われて床の上に倒れ込んでしまった。

 気が付くと同室の人たちが僕の顔を覗き込み、体をさすったり、舌を噛まないようにと僕の口に指を突っ込んでいた。結構こんな風にして死ぬやつがいるらしいのだ。あとから聞いた話では、僕は白目をむいて卒倒していたらしい。なんともぶざまな話だ。

 バンコクからカルカッタに着いて三日目にカゼをひいた。なれない旅で体力が落ちていたし、意外に十月のインドの夜は寒かったのだ。熱っぽい体で二等寝台車に乗ってバラナシに到着し、宿の主のインド人のおじさんに医者を紹介してもらい、とてつもなく強力だというインドの薬を処方してもらっていた。普段から酒もタバコもやらない僕が、体調不良の上、強力なカゼ薬を飲み、濃いコーヒーをすすった上に大麻をすったのだ。考えてみれば無茶なことをしたものだ。

 薬物の世界に人並みの興味を持っていた。ヒッピームーブメントの時代からそこには反体制的なモメントがあったからである。しかし僕が旅で出会った薬物使用者たちは、みんな深みに欠けるというか、閉鎖的で、自分勝手な人たちのような気がした。なんというか僕の求める世界とは違うのだと、少しがっかりしたんだ。倒れた僕を介抱してくれた人たちには感謝しなければならないけどね。                                            

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仄暗い記憶の底から 5 メダンの夜

 どういうわけか海外へ行くと僕は結構モテるのだ。

 マレーシアのペナン島からフェリーに乗って数時間でインドネシアのスマトラ島にあるベラワンという港に到着する。そこからバスで小一時間も走るとスマトラ一の大都会メダンである。旅行者でいっぱいのバスの回りにはもう輪タクの運転手やホテルの客引きやらがむらがっていて、僕らが降りてくるのを手ぐすね引いて待っていた。大混乱の中で一人の三十代ぐらいのフランス人の男が「二人で部屋をシェアしないか?」と持ちかけてきた。まあそれもいいだろうと思ってそいつの乗ってる輪タクの隣に僕も乗り込んだ。
 バスが到着したのはもう夜で真っ暗だった。二人でこざっぱりしたロスメンにチェックインした。メシを食いに外へ出て、街を軽く散歩してロスメンに戻った。シャワーを浴び、電気を消して眠ろうとしたのだが、初めてのインドネシアだったし、ツインベッドのもう一方には見知らぬフランス人が寝ているってこともあって、なかなか寝付けずにいた。
 どのくらいたっただろうか、隣のベッドから「Ken,Ken」と僕の名前を呼んでいるのが聞こえた。「?」フランス人がうつぶせになってこっちを見ていた。「Ken,Do you like massage ?」 マッサージ? 僕は意味をはかりかねたがとりあえずイエスと答えた。すると「OK!」といってそいつは起き上がりベッドの横に立って、僕の足をさすりはじめた。しかしそのさすり方はマッサージというよりも愛撫であった。
 「Stop!」あわてて僕は叫んで、ちょっとそれは勘弁してくれという意志を必死に伝えた。しかしそいつは「Why?」「No,problem.」を繰り返すばかりだった。なんて強引なんだろう……何を躊躇してるのかと言わんばかりだ。仕方なく僕はタッチだけならいい、だがお尻はやめてくれと訴えた。フランス人はまた「OK!」といってうつぶせに寝ていた僕の背中にのっかって、モノをこすりつけてきた。

 とりあえずレイプされることはなかった。シャワーを浴びてやつの精液を洗い流した。こんなところで何やってるんだろオレ……。僕は白人も精液は同じ匂いがするんだと知った。「You are first time?」とそいつは言っていたが、僕は心の中で、何いってるんだ、これがファーストタイムでありラストタイムだ、とつぶやいた。

 まあ同性愛を否定する気は全然ないのだけど、まさか僕のカラダが性の対象として見られることがあろうとは思っても見なかった。だけどその後、旅を続けているうち、タイで二回、カンボジアで一回、それぞれ男に言い寄られた。どういうわけか僕は結構男にモテるようなんだ。

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メルロー=ポンティが読みたいんだ。

 マルクスを読まなくちゃならないと思ってる。偉大な思想家なのはよくわかってる。なのになぜか僕が読みたいと思ってるのはぜんぜん別の本だったりするんだ。

 メルロー=ポンティの本が読みたい。

 思想はアクティブであるべきだ。マルクスのように世界の変革へとつき進む人、ニーチェのように生き方そのものが強烈なドラマとなってる人......。彼らの本を読むと、力が僕の体に入り込んでくるような気がする。
 それと比べると、いわゆる現象学者は地味な感じがする。何というか、大学の研究室でつくられた思想という印象が拭えない。フッサールしかり、ハイデガーしかりである。結局、彼らの人間としての存在よりも、学者のブランドの方がまさっているような気がするのだ。
 それにも関わらず、現象学の認識の襞の中に分け入ってゆくような繊細な言葉遣いに哲学を感じてきた。僕にとって哲学とは現象学の難しい言葉遣いだったんだ。とりわけメルロー=ポンティの本が好きだ。全く地味な人で、友人のサルトルがあれだけ華々しく活躍したのと対称的なほどだ。なのに僕は彼の書物に引き付けられる。「行動の構造」や「知覚の現象学」は通しで読んでないのにも関わらず、僕は何度も何度もポンティの文章を読みかじっているんだ。知覚や認識に関する難解な記述が続いているだけなのに、彼の一貫した思想が文章の中にいきいきと脈打っていて、まるでテキストが有機体のように思えてくるから不思議だ。
 徹底的にポンティの書物につきあってみるべきなんじゃないだろうか? ゆっくりできる時間があればなあ。彼の本を何冊かもって、タイのサムイ島の人気のないビーチで数週間を過ごせないものだろうか。いや、インドネシアのスマトラ島のトバ湖畔がいいかな。
 かつての流行思想、サルトルも、フーコーも、ドゥルーズ=ガタリもあまり読みたいと思わないのに、あんなに地味な人の本がなんで気になるんだろう。難解な言葉の羅列が、文学以上に文学的なのだ。何か大切なことを伝えたかったに違いないのだ。
 文化人類学者のレヴィ=ストロースは、メルロー=ポンティと一緒の学校で学んだ仲だというが、面白いものを見た。老レヴィ=ストロースのポートレイトの背後に彼の書斎だか、研究室だかが写っているんだけど、その中に小さい額に入ったポンティの写真が置いてあるのが写ってるんだ。何か大切な人の写真であるかのようにね。レヴィーストロースにとってメルローポンティは友人であるだけでなく、ポンティの思想そのものも構造主義者レヴィ=ストロースにとって宝物だったんじゃないだろうか? 地味に思えるメルロー=ポンティだが、じつはホンモノなんじゃないだろうか? そんなことをその写真を見て思ったんだ。

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仄暗い記憶の底から 1

 誰だって外国を一人旅するとなれば、一冊の本が書けるくらいの体験や思い出ができるものだ。今、僕は仕事が忙しくてホームページの更新もままならない。だから旅の思い出でも書いてみようかと思ったんだ。

 いちばん印象深いのは、初めて見知らぬ国へ足を踏み入れるときだろう。過去の体験の蓄積をどう寄せ集めたところで、全く新しい経験を予測することは不可能だ。全く未知の印象の連続に、何をどう判断していいのかもわからないまま、不安と緊張、そしてひそかな高揚をを感じつつその国に身をゆだねていくのだ。

 タイという国に関して僕は何も知らなかった。インドに行くための中継地点としてしか考えてなかったのだ。タイ人に興味もなかったし、何を食い、どんな言葉を話すのか......、まるでわからないままバンコクに降り立ったんだ。
 ドンムアン空港についたのは真夜中だったので、朝を待って空港の近くにある鉄道の駅へと向かった。山田長政の日本人町で有名なアユタヤまで切符を買って列車を待った。午前4時頃だったのでまだ真っ暗だった。早朝なのに空気が生暖かくて塩気を含んだようなネットリ感があった。蚊が飛び回っている。赤ん坊が刺されないようにとおばさんがパタパタと蚊を追い払っていた。近くに金ピカの仏教寺院があって、門のところで子猫がニャーニャーないている。猫は外国人の僕を受け入れてくれたような気がした。駅の近くにある屋台でお粥を作っていて、香ばしい匂いがする。そこに轟音を響かせながらディーゼル車に牽引されたバンコク行きの列車が到着して、ポワンプワンポンペン......というわけのわからない駅の構内アナウンスが流れ人が乗り降りする。
 アユタヤ方面に向かう下り列車は、まるで銀河鉄道999のような旧い列車だった。意外なほどスピードを出す列車の窓から気持ちのいい朝の風が吹き込んでくる。向かいに座っているタイ人のOLは靴を脱いで、木でできた座席に横座りして眠っていた。少し空が明るくなってくると、建物や森がシルエットで浮かび上がりはじめた。ヤシの木なんかも見える。僕は、ここは日本じゃない、全く別の風土へ、南国へやってきたのだ、とそのとき改めて感じたんだ。

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仄暗い記憶の底から 2

 僕が初めて訪れた外国は、韓国だった。ソウルオリンピック直前だったと思う。’85年プラザ合意のあと円高が進行し、バブルなんて言葉はまだなかったが、好景気が続いていた頃だった。たしか地上げなんてのが社会問題になっていた。そんな経済状況の影響なのか、大学生なんかも気軽に海外旅行に出かけるような時代になっていた。
 当時、僕はフリーターだったが、仕事先には大勢大学生がバイトに来ていたので、彼らと付き合いが深かった。何人かで韓国へ旅行に行くらしく、「地球の歩き方」を持って彼らは計画を立てていた。それを見たときから急に韓国旅行の夢が僕の中で現実的になった。
 実は僕は韓国に興味があった。岡本太郎の韓国の紀行文を読んで影響を受けていたこともある。また当時の韓国は民主化運動が盛り上がっていた頃で、連日のようにそのニュースが報道をにぎわせていた。何か激しいエネルギーを秘めた国、という印象だった。今の日本にないもの、今の自分に欠けたもの、韓国を訪れることでそんなものに出会えるような直感があった。
 大学生の友人たちは、旅行に一緒に誘ってくれたが、僕はそれを断った。友達と海外旅行をするということは、日本での日常を外国まで引きずって行くということだ。それじゃあ意味がない。少しでも多く外国人と接するために、訪れた国の中に埋没するために、少しでも日本の日常から離れるために、僕は一人旅でなければならないと思ったんだ。そうしてこそ新しい自分を発見できると思ったからだ。

 旅は日常からの脱出だ。通過儀礼のように、山ごもりの修行のように、旅するものは孤独と危険を背負って歩かなければならないのだ。非日常をめぐる航海から日常生活へ舞い戻ったとき、旅するものは日常を新たな視点からとらえることのできる力を手にするのだ。
 はたして僕の旅がそのようなものであっただろうか?

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仄暗い記憶の底から 3

 僕を知ってる人は意外に思うかもしれないが、十代の終わりにずいぶんとコンピューターに凝ったことがあった。当時コンピューター・グラフィックスが急速に映像の世界に入り込んできていて、自分を表現する手段として、僕はCGに可能性を嗅ぎ付けたのだ。NASAのボイジャー計画の惑星間飛行のCGや、「トロン」なんていう映画を見て、こんなことができるんだ、なんて思っていた。
 そう、僕はあの頃、美術大学の浪人生であったにもかかわらず、コンピューターの力を借りて総合芸術を自分一人の手で作り出したいなどと考えていたのだ。しかし、CGの世界へどのようにアクセスしたらいいのか見当もつかなかった。
 とにかくコンピューターに関する理解を深めなければならない、そう思ってカバンの中にデッサンの道具とともに「マイコン入門』なんて本を忍ばせたり、学校をフケて秋葉原をほっつき歩いたりしていたものだ。ちょうどパーソナルコンピュータという言葉が世間に広がりはじめた頃で、秋葉原にもパソコンの販売に大きなスペースを使う店が増えていった。パソコンを自由に使わせくれる店があって、僕は本を持ち込んでBASICのコマンドを打ち込んでパソコンを動かしていた。
 予備校がひけたあとバイトをしていたが、絵の具代やカンバス代に消えてしまって、とにかく金がなくてパソコンなど買えなかった。当時はNECのPC- 8001、シャープのMZシリーズなどが売れ筋だった。アメリカのパソコンはアップルとコモドールという会社のものが有名だった。今、僕はMacを使ってるけど、あの頃のアップルコンピュータなんて高くて手を出せるようなものじゃなかった。8ビットの今ではオモチャのようなパソコンが30万円以上したんだよね。
 本当にあの頃僕はパソコンが欲しかった。でもいつの間にか急速にコンピュータやCGに対する興味が失せてしまった。僕の芸術に対する考えがひっくり返って、僕は新しい芸術の地平に踊り出そうとしていたのだ。それ以来映像メディアに関心が持てなくなって、自らの身体、メディアとしての身体に注目するようになったんだ。(これに関してはいつかちゃんと書こうと思っている。)
 80年代前半、僕にとっては精神的に辛い時期だった。ひとつ間違えればヤバい世界にのめり込んで行ってしまったかもしれない。二年前にこのiMacを買った時、秋葉原をブラブラしてた頃の憂鬱な気持ちがふとよみがえったんだ。

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仄暗い記憶の底から 4

 ピマーイのクメール遺跡を見物し終えた僕は鉄道に乗ってメコン川ぞいの町へ向かっていた。列車はガラガラで、貸し切り列車みたいで気持ち良かった。駅に停車すると僕の車両に誰か人が乗ってくる気配がした。ああ、これで貸し切り状態も終わりか、と窓の外を眺めながら思った。ところがその人はガラガラの車内であるにもかかわらず僕の斜向いに腰を下ろした。しかも視線を感じる。うっとおしいやつじゃなければいいけど......。知らんぷりしてるわけにもいかないので僕は車内に顔を向けた。
 意外なことにそこには十六、七歳の少女が座っていた。なにかタイ語をしゃべって、こちらを見ながら微笑んでいた。初めてのタイだ、言葉なんかわかるはずはない。彼女も言葉が通じないとわかるとタメ息をついたが、パっと僕の向い側の席に移って、さらに何か言い続けていた。
 小麦色の肌、ショートカットの黒髪、大きな瞳、どこにでもいそうなタイの娘だ。その娘がニコニコしながら何か話しかけてきている、瞳は好奇心でいっぱいだ。少し挑戦的な、それでいて優しい瞳だった。二十七年間の貧弱な女性経験しかない僕の人生で、いままでこんな瞳で女の子に見つめられたことが一度でもあっただろうか。
 同じ駅から乗ってきた少年たちが、全く言葉の通じない彼女のことをせせら笑っていた。少女はちらっとそいつらを見たが、すぐこちらに視線を戻して何事もなかったかのように微笑んで、しゃべり続けた。物怖じしない、それでいて水の流れのように自然で無邪気な情感にふれて、僕の中に驚きと喜びがジワジワと広がってゆくのを感じた。何度も洗って色落ちしたTシャツを着ていた。小さな胸のふくらみの上にはLOVEと言う文字がプリントしてあったのを今でも覚えている。
 一体どうやって会話したのだったろうか。どうやらコラートにある友達の家に遊びに行って、今は自宅に帰るところらしい。奥さんはいるの?とか、カメラで一緒に写真を撮ってとかいっていた。カメラを持っていなかったのが残念だ。唯一彼女が知っている日本語は「サクラ」だった。しきりにサクラ、サクラと口にしていた。
 住所の交換を済ませると、彼女の降りる駅に着いたらしく列車を降りて行った。僕の席の窓の下に悲しそうな顔をして立っていた。僕は何かあげるものはないか思案を巡らせた。そうだ、日本のコインがある。100円玉、10円玉、1円玉......、彼女にとっては外国のコインだろう。100円玉の裏表をしげしげと眺めていたので僕は「サクラ、サクラ」と言っておいた。たしか100円玉に刻んであるのはボタンの花だと思ったが......、まあいいや。少女はパッと笑顔になって、100円玉をかざしながら何かタイ語でいっていた。
 あとは列車が発車して大きく手を振ってお別れ、という月並みなストーリーだった。たったそれだけのことさ。でも、あの時きっと僕の中のタイ人に対する構えというか緊張感のようなものが溶けだしたに違いない。あの小川のせせらぎのようにサラサラとした無邪気で自然な感情に、そしてあの少女の笑顔にどこかでまたあえるのじゃないだろうか? そんな秘かな期待が、僕をその後何度もアジアへの旅に誘ったに違いないのだ。

さて、この少女のガール度は? 93ガール.........高得点!

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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