泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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危機管理室長 登場!

僕の言いたかったことをいろんな人が言っているので紹介しておく。

パウエル国務長官のインタビュー

http://www.scoop.co.nz/mason/stories/WO0404/S00167.htm (原文)

パウエル国務長官:『 彼らが危険エリアに入って行くリスクを引き受けたということを、すべての者が理解すべきだ。もし誰も進んで危険を引き受けないなら、私たちは前進することはできない。私たちの世界を前に進めることはできないでしょう。

それで私は、この日本の市民たちがすばらしい慈善と良き目的のために、進んで危険に身を置こうとしていたことに満足している。そして日本人はそうしたことを進んで行なう市民がいることを大いに誇りに思うべきだし、同じくそうした危険性を進んで引き受けてくれた、日本がイラクに送っている兵士達のことも大いに誇りに思うべきだ。

しかしながらその危険性ゆえに捕まったのだけれど、だからといってそれは「まあ、危険を引き受けたのだから君たちの責任だよ」ということは意味しない。そうではなく、われわれは彼らが無事に復帰できるように出来るかぎりのことをする義務を依然持っているし、また深く彼らに配慮する義務があるのだ。彼らは私たちの友人であり、隣人であり、仲間の市民である。』



 僕はアメリカという国があまり好きではない。もちろん彼らの行った戦争に賛成する立場にはない。しかし、そのアメリカの政治家が、まさに日本政府がいわなければならなかったことを言っているのだ。

http://www.videonews.jp/?itemid=30

http://www.videonews.jp/index.php?itemid=24

 やはり今回の政府の発言にカチンときた人はいっぱいいたみたいだ。人質になった人たちに甘さがなかったとは言えないかもしれないが、それ以上に日本政府には、自衛隊を派遣することで背負い込むリスクに対する認識と責任における甘さがあったということだ。そんな事なかれ主義の政府には、日本の国際貢献なんかについて語る権利はない、ということは確かだ。
 以上のことを踏まえつつ、政府はこれからの事態に対処していただきたい。
                  
                     危機管理室長 テレンス=アライ

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国際社会と日本人

 僕は 政治のことについて知識もないし、偉そうなことは言えないけど、ちょっと書いてみる………。

 イラクで人質になっていた人たちは解放されたようでひと安心だよね。しかし危険地帯でのボランティアやジャーナリズムのあり方が問題にもなっている。危険地帯に行くのなら自己責任ということを忘れないでほしい、と。もっともなことだとは思う。あの殺されたイタリア人は殺害される直前に、イタリア人の死に際をよく見ておけ!と叫んだそうだ。このイタリア人がどんな政治的信条の持ち主かは知らないが、生命の危機に対してこれくらい決然とした態度で臨めるほどの覚悟がなければ、危険地帯に出かける資格はないのかもしれない。
 だけど、あの3人が無謀だったとか、みんなに迷惑をかけたとか吊るし上げるのはどうなんだろう。今回の3人の経験というのは、日本人全体の経験でもあるんじゃないかな。経済においてだけではなく人道的、また政治的にも、国際社会において存在感を示したいというのが日本人の願いであるわけだろう。ボランティアに行くことも、自衛隊を派遣することも、そのような内的な要請に基づいたものなんだと思う。しかし何か新しい課題にアプローチしようとするなら当然リスクも背負わなければならない。政府のやろうとしていることが正しいのか間違いなのか僕はわからないが、そもそも自衛隊を派遣するということは、今回のような事件が降り掛かってくるという可能性も背負い込むってことだったはずだ。今回、事件に巻き込まれたのは民間人だったが、他ならぬ自衛隊の隊員が人質になる可能性だってあるわけだ。
 安全が最優先なら、自衛隊にしろ、ボランティアにしろ、ノコノコ危ないところへ行くべきではないんだ。島国の中でじっとしていろ、と言いたい。でも日本人は国際貢献の道をとろうというわけなんだから、今回の事件は、3人の迷惑者のせいだなんて考えないで、われわれが当然しなければならない経験だと受け止めなければならないと思うんだ。
 3人を弁護するわけじゃないけど、迷惑をかけた、迷惑をかけたって、それだけを考えだすと僕らは何もできなくなってしまう。子供だってまわりに迷惑をかけまくって大人になってゆくわけだろう。少なくとも彼らは、日本人のまだ経験していないことに挑戦している若者なのだ。状況判断が甘いったって、しょうがないよ。こんな状況に出会った日本人なんてそうそういるわけじゃないし。
 3人の救出に多くの政府関係者が寝食を忘れかけずり回ったんだ、と小泉さんは言っていたけど、何かあったときに寝食を忘れて働くのも、政府の仕事じゃないかとイジワルなことも言いたくなってしまうよ。そのために高額な報酬も得ているんだから。自衛隊の派遣を決断した政府であればなおさら、寝食を忘れて対応するのが当然なんだよ。救出には莫大な費用がかかっている、当然それは国民の税金でまかなわれるんだ、って話だけど、この事件で人質になった女性が、ボランティアをしていた時の映像がむこうのテレビで放映されてずいぶん同情を集めていたようだが、けっこうアラブの人たちに日本人のいい印象を与えることができたかもしれないし、何でもこの事件への政府の対応が好感されているっていうから、日本人にとって決して高くついたってことでもないし、政府にとってもまんざらな結果でもなかったんじゃないかな。国民の税金でバカ高い戦闘機を買うよりもずっといいのかもしれないよ。
 とにかく今回の経験は日本人が国際社会で何らかの役割を果たそうとするなら、それなりの覚悟が必要だってことを教訓として残したような気がする。3人や政府だけの問題じゃないんだ、と僕は感じたんだ。

 まあこんなことが言えるのも、ラッキーだったからだ。人質も、小泉さんも今回は本当にラッキーだったんだ。多分なんだかんだいっても、これからもボランティアで危険なところへ行く人は絶えないと思うし、自衛隊も撤退などしないだろう。国際社会の中に首をつっこんでゆくという方向性は必然だと思う。僕らは小さな島国の中だけで生きてくわけにはいかないんだから。でも忘れてはならないのは、日本人が、そして日本という国が、こうして国際社会にアプローチし続けようとするなら、これからもこのような危機は必ずまた訪れるんだ、という覚悟だけはしておかなければいけないということだ。


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タコ部屋の青春1

第1節   資本の紡ぐ夢


 何で読んだのだろうか。あるメキシコ人がこんなことを言っているというのだ。「メキシコ人は生きるために働くが、日本人は働くために生きる。」と。生を楽しみ尽くすラテンの血を持つメキシコ人が、過労で死ぬやつすらいると言うハポネスの働きアリぶりをみて言った言葉だろう。
 だが、資本主義経済のシステムが世界中をあまねく覆い尽くした今となっては、働きアリとして生きる運命にあるのは日本人だけではない。無為徒食の南国であろうと、チベットの山奥であろうと、ヨーロッパのプロテスタンティズムに起原をもつ資本主義の精神(マックス・ウェーバー)から逃れることはできない。私たちの地球は、生産と蓄積を無制限に続ける勤勉な働きアリの星となった。そうだ、私たちはみな働くために生きているのだ。

 大規模な建設現場の近くに飯場ができているのを見たことがあるだろうか? 日本ではもはや目にすることもなくなったが、経済構造の変化が著しい第三世界の都市部では今でもありふれた光景である。飯場は建設現場での労働に依存した居住空間だ。生きるためではなく、まさに働くためにそこに住むのだ。労働力の再生産……、賃金を得るため、明日も最大限のパフォーマンスを発揮して働くための身体を準備するための居住空間、それが飯場なのだ。そこで働く労働者のの生活のリズムのイニシアティブを持っているのは建設会社、すなわち資本である。現場で働く労働者は資本によって定められた場所に住み、労働時間にあわせて寝起きし、休日をとる。労働者にとっては一時的な事態であるにせよ、まさしくここには生産労働へ向けて組織された生が実現している。
 飯場の中でも、劣悪な環境のものはタコ部屋と呼ばれたりした。豊かになったといわれる現在の日本で、そのような劣悪な生活環境は探すのが困難である。労働時間は短縮したし、賃金も上昇した。そのおかげでできた余暇をレジャーや消費活動に当てることができるようになった。街には消費財があふれ、通りはテーマパークのようにこぎれいになってリアルな社会関係を浮き彫りにする飯場の生活ような光景は、私たちの身の回りから姿を消してしまった。
 しかしながら、資本によって提供されたそのような豊かさを一皮剥がしてみれば、そこにあらわれるのはタコ部屋に暮らす労働者の群れに過ぎないのではないだろうか。資本は世界を覆い尽くした。地球は資本の意志を体現した際限なく生産を続ける工場と化したのだ。私たちはみな巨大な生産システムの中に生まれて、そこに死んでゆく。つまるところ、私たちの一生の生活のイニシアティヴを握っているのは資本なのである。

 子供の頃から私たちは学校教育などを通じて、資本の意志に適合した身体に仕立て上げられてきた。規律正しく、勤勉で役に立つ、生産のための道具としての労働に適した身体に……。あなたは、働いていないと居場所がなくなってしまったような不安を感じたことがないだろうか? 遊んでいると働いている人に申し訳ないと感じたことはないだろうか? 使えない、役に立たないと言われて、自分のプライドが根底から崩れ去ってしまうような気がしたことはないだろうか? それほどまでに私たちの中には子供の頃から教え込まれてきた規範が…、勤勉でなければならない、有用な存在でなければならないという規範が染み込んでいるのである。私たちはカルト宗教教団のマインドコントロールよろしく、資本主義社会を維持するための存在であるべく洗脳を施されてきたのだ、と言ったら大げさだろうか。
 学校を卒業して労働市場に出てからも、職場ではもちろん労働の規範が繰り返しアナウンスされるであろうし、自由な時間、私たちの生活そのものであるはずの余暇ですら、街にあふれるモノ、消費財や、マスメディアを通じて催眠術の呪文のように資本のメッセージを浴びせられ続けるのである。とりわけ映像メディア、テレビや映画は、資本のイニシアティヴの維持のために重大な働きをしている。

 余暇、すなわち労働力の再生産過程を取り巻く、資本によって作り出され提供されるモノや、マスメディアから流されるメッセージは、労働者自らの社会的な立場から目をそらさせ、資本主義社会そのものを肯定するためのイデオロギー装置なのである。繰り返すが、私たちの生活のリズムのイニシアティヴを握っているのは資本である。生きるために働くのではなく、働くために生きているという事実、疎外されたプロレタリアートとしてのわれわれの社会関係を隠蔽するために、資本は私たちの日常生活を、資本自身が作り出した偽りの欲望で埋め尽くそうとしているのだ。
 先進資本主義諸国において、かつてのような過酷な搾取、劣悪な労働者の生活環境は、容易に労働者を反体制的なスタンスに導いた。その結果、ストライキなどの労働運動が頻発し、資本主義システムは大きく揺らぐことになった。その歴史に学んだ資本は新しい戦略を打ち出し、体制の延命をはかった。利潤の増殖は資本の生産する商品が売れなければ達成できないのはもちろんだが、その商品の売り込み先を労働者の生活環境の改善の方向に向けてシフトさせることで、商品の需要、労働力の供給の両面から安定をはかったのだった。それは労働者の余暇を資本の作り出す欲望でもって囲い込むことを意味する。
 資本は欲望をデザインすることで労働者の余暇を囲い込む。マスメディアの送り出す広告やコマーシャルフィルムによって資本は労働者にむかって自らデザインした夢を提示する。資本の生産した商品を買い、消費することによってその夢が労働者の手に入るのだというメッセージをメディアは流し続けるのだ。
 勘違いしないでほしいのだが、ここで言うデザインとは商品の外観を彩る狭義のデザインのことではない。商品そのものの機能、パフォーマンス、またその商品を使用することによって消費者に与えられるカタルシスまでを含めた資本の構想を、欲望のデザインと呼んでいるのである。
 おそらくは大部分、本当の意味では必要なものではない商品たち。例えば自動車を本当に必要な人がいるのだろうか? 私たちが自動車を購入する動機は、必要だから、便利だから、なのではないはずだ。メディアによって流される広告やCFによって私たちに植え付けられた、自動車を買うことで得ることのできる夢を(資本が構想した夢を)実現するためにそうするのである。例えば、助手席にガールフレンドをのせて、カーステレオでお気に入りの曲を聴きながら、ハイウェイをドライブするという夢、欲望を、私たちはどこかのメディアから得てきたに違いない。そして労働して得た金をその夢を買うために支払ったのだ。自動車があると便利だなんて理由はあとづけに過ぎないはずだ……、間違いない。
 あるいは食料品のような買わなくては生きていけない必需品にしても、今日では資本によって意味付けられ、組織編成し直されてマーケットに並んでいるのだ。歴史上、純粋に栄養として食品を食べた人などいなかっただろうし、食生活は文化的な意味合いを抜きにして語ることはできないのは確かであるにしても、資本主義社会の中では、私たちは広告によって作り出され、コントロールされた食欲において食品を摂っているのだ。すなわち私たちは資本の作り出した夢を食べているのである。
 要するにメディアは、マーケットにあふれる商品、ファッショナブルな衣服、家具、家電製品、自動車、住宅、様々な娯楽、パック旅行などの商品を購入することが夢の実現となるという欲望を労働者に植えつけ、労働者は資本によって次から次へと投入される欲望を満たすために働き、商品を購入するのだ。
 この資本による偽りの欲望の中に捕らえられたままでいる限り私たちはどこまでも満たされることはない。テクノロジーの進歩は潜在的な需要を掘り起こす。つまりたえざる技術革新が新しい欲望を労働者に授け続けることを可能にするからである。こうして労働者は麻薬中毒者のように資本主義の一貫したシステムの中に囲い込まれるのである。

 このように資本によって作り出された豊かさのおかげで、ほとんどの人が、かつてないほど改善された生活環境を享受しているかに見える。だがそれは資本が私たち労働者に目隠しをするために作り出した偽りの豊かさ、偽りの夢、偽りの欲望によるものなのである。それらマーヤーのヴェールの後ろにすけて見えるのは、資本に囲い込まれ、働くために生きているという、飯場で暮らす労働者と全く同じ立場にある私たち自身の社会的な状況なのだ。偽りの欲望の満足の中でこの事態に気付くのは難しくなっているが、資本のイニシアティブのもとにある限り、私たちの生活は本質的にはタコ部屋の労働者の生活となにひとつかわらないのだ。
 タコ部屋に生まれて、タコ部屋に死んでゆく……。資本の価値増殖のために働き、資本の作り出した夢を見ながら毎日を過ごしてゆく、それが私たちの姿なのだ。



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キーニオ

 キーニオというタイ語がある。「ケチ」という意味だ。「イプン キーニオ(日本人はケチだ。)」とか「ファラン キーニオ(白人はケチだ。)」なんてタイ人が言ってるのをよく聞く。僕はこの言葉を耳にすると複雑な気持ちになる。こんな言葉にも異文化とのコミュニケーションの難しさが現れているのだ。
 タイにはカネに余裕のあるものは、生活が苦しいものを助けるべきだ、という暗黙の了解がある。そこで気前よくカネを出してやらないものは、キーニオだとか、ヘンケートゥア(わがまま)だとか言われる。何かの本で読んだところによると、ケチ呼ばわりされることは、タイ人にとっては人格を否定されるようなものなんだそうだ。
 観光や仕事などでタイを訪れる外国人は、当然タイ人よりも金持ちだと認識されて、タイ人に対して何らかの施しをなすものと期待される。ところが僕ら外国人にしてみれば、タイの魅力とは何よりも物価の安いことなわけだから、すこしでも滞在費を節約して、自分の国にいたのでは味わえないような時間の使い方をするために、ケチケチとやりくりして少しでも長いバカンスを過ごそうとするだろう。これがどうにもタイ人には理解できないようなのだ。その結果外国人とつきあうタイ人の口から「キーニオ」というグチが吐き出されるのである。
 タイに限らず発展途上国を訪れる旅行者が、ものを買うときにボッタクリに遭うのは珍しいことではない。まあインド人みたいに堂々と正価の10倍以上の値段をいってくるような人たちの国はともかく、定価なんてあってないも同然、というのは常識だ。したがって、タイ人にとっては「外国人はカネを持ってるんだから少し多めに出してもらって当然だ。」ぐらいの気持ちで高い料金を請求するわけだ。
 しかし外国人としては、なんで正価より高い料金を払わせられねばならないのか、と感じてしまうことだろう。旅行者、特にバックパッカーなんかはボラれてはならないと身構えながら旅行することになるわけだ。実際、悪質なタイ人もいるし、払う必要のないカネはやはり払うべきではないとは思う。であるにしても、そのようなタイ人のやり口に、過剰に身構えるだけでは大切なものを見落としてしまうのではないかと、僕は思っている。
 旅行にしろ何にしろ、安くあげることが目的なのか? 少ない出費でなるべくオイシイ思いをしたいという気持ちはもっともだ。しかしながら、タイに限らずある国を理解しようというのなら、不可解な思いを抱きつつも、一度は彼らのやり方、彼らの論理に従ってみることも必要なんじゃないかと思う。そうすることで少しは彼らの世界を内部から理解する手がかりを得られるんじゃないか、と思うのだ。またその結果、自分自身の国の(例えば日本の)システムを批判的に、相対化して眺めることもできるのじゃないだろうか。
 バックパッカーは、とにかく自分がオイシイ旅行をしているということを、他の人に言いたくて仕方がないらしい。だからボラれている人が愚の骨頂に見えるのだろう。イヤ、そういう時期があっていいのかもしれない。しかしそれを続けるだけではおそらくバックッパッカー=貧乏旅行という先進国の作り出したひとつのシステムの虜になってるままだろう。それは果たして旅なんだろうか。
 もっともタイ人の方だって外国人旅行者の生活がどのようなものであるかなんてさっぱり理解する気もないし、できないのだ。おそらく外国人はタイのそれよりもよっぽど過酷な、先進国での労働をきっちりと責任を持って成し遂げ、稼ぎだしたカネでもって遊びにきているのだ。そのカネをどのように使おうと、それは個人の勝手なのであって、タイ人の共同体の論理(これについてはまた後で書くつもりだ。)でもって、ケチ呼ばわりしかできないのはいかにも薄っぺらい。

 キーニオという言葉を聞くとき僕が感じるのはこの絶望的なほどの異文化間のギャップである。いやもちろん僕だってこのギャップを乗り越えられるわけじゃない。日本という先進資本主義国のシステムが身体の奥までしみ込んでいるはずなのだ。しかし少しでも自分の内部を貫いているシステマティックなものの見方をぶち壊したくて僕は旅に出たのだ。
 僕がタイ通いを続けた目的の一つは、大げさに言えば、彼らの世界にある程度受動的に身を任せてみるという実験、ある意味シチュアシオニストの漂流の技法にも通じる実験のためであったといえるかもしれない。その実験を通して僕は、いつしか貧乏旅行者という先進国のシステムに異和を感じ、またタイ人という共同体のシステムにいろいろ反発を感じながらも、彼らを理解しようとしたことで、自分自身を捉え直す新しい眼を少しは養ってこれたのじゃないかと思うのだ。

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イラク

 日本人の人質3人が解放されたというニュースが報道された。彼らとは別に2人拉致されてしまったようなので、すべて終わったわけではないが……、とにかくよかった。イタリア人が殺害されたという血も凍るような恐ろしいニュースがあっただけにホッとしたよ。
 中東、イスラムの問題、テロリズム、アメリカへの追従、自衛隊の派遣、国の方針と人の命の重み、ボランティアの政治性……、などなどいろいろな問題があって、僕も他人事じゃなく考えなければいけないのだろうけど、なんと言うか、考えようとせずにさらりと流してしまいたい僕がいるんだ。
 いつだったかイギリスのブレア首相が小泉さんのことを皮肉まじりにラッキーなやつだ、と言っていたことがあったよね。とにかく僕は小泉首相にも、政治にもまるで思い入れがないんだけど、今回だけは小泉さんが本当にラッキーであってほしいと願っている。

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シュルレアリスムの夢 序説

 「シュルレアリスム(超現実主義)と聞いてどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ルネ・マグリットやデ・キリコなどの不可思議な絵だろうか? それともどこか精神病理学的で背徳的なダリの作品だろうか……? フロイトの精神分析の影響を深く受けた彼らの作品は、なにやら心理学的な探求の雰囲気を醸し出しているので、多くの人はシュルレアリスムという運動が、アーティストのプライベートな内面のみに関わる探求であるかのような先入観を抱いているのではないだろうか。
 だが、シュルレアリスムという戦前のアバンギャルド芸術運動の最後に位置するこのムーブメントは、もっと幅の広い、野心的な課題を持った運動だったのである。」

……と、こんな出だしで新しいエッセイをしたためているんだけど、またずいぶん長くなりそうなんだ。いま『ブルトン、シュルレアリスムを語る』という本を暇を見つけては読んでいる。いくつかの絵なんかを見て、すべてわかったような気がしてたけど、僕はシュルレアリスムについて本当に何も知らなかったんだな、と思うんだ。考えれば考えるほどこの運動は重要だったんだ、と認識を新たにせざるを得ない。
 ブルトンという人はメンバーを除名したり、僕の愛するバタイユと微妙に対立したりで、いいイメージがなかったのだけれど、もっと彼の言葉に耳を傾けるべきだと思う。
 シュルレアリスムは過去の事件なのでは決してない。彼らはアバンギャルド芸術に取って代わるべき、新しい「祭り」の形態を作り出そうとしていたのだ。このサイトのテーマにもなっているんだけども、芸術の地平を越えるという課題の、パイオニアだったのだ。

 この視点からシュルレアリスムを再評価しようというのが、あたらしいエッセイの主題なんだね。

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KOREA & THAILAND

 僕が海外旅行に出て最も影響を受けた国はといえば、韓国とタイだった。僕は9カ国ほどアジアの国を訪れている。インドやカンボジアなど衝撃的な国はあったし、ほかにも行ってみたい国はいっぱいある。しかし僕の体の中にその国の空気のようなものがしみ込んできて、生き方に影響を及ぼしたというのは、韓国とタイしかなかった。韓国とタイの民族性は、それはもう似ても似つかないものだ。両国の共通点は料理が辛いということと、言葉の発音が意外に似ていることぐらいだろうか……。
 韓国人は実にせっかちでおせっかいなほど世話焼きである。街を走る車の運転の荒っぽいこと。誰かが書いていたが、何をそんなに急いでいるんだ、と言いたくなるほどだ。人の表情はなんだかちょっと固いような印象がある。女性もツカツカと脇目もふらずに早足で歩いていたような気がする。しかし親しくなると韓国人はあれこれ面倒見がいい。ほっといてくれない、といった方がいいだろう。何だってこんな僕にいちいちかまってくれるのか、と思ってしまう。韓国人はものをはっきりと口にする。日本人なら遠慮して言わないようなこともスパッと言う。声が大きい。街中で大声を出してケンカしている風景にしょっちゅう出会うだろう。それこそ火を吐くみたいに。でも韓国人の笑顔はいい。スカッと抜けた秋の空のような笑顔だと思う。それに比べると日本人は何か煮え切らない、中途半端な存在に思えてくる。初めて韓国を訪れ、日本に帰ってきたときそう思った。いいなと思ったのは、日本の女の子が、韓国のきついパーマをかけた、なんと言うかエッジのきいた感じの女性に比べてかわいらしかった、ということぐらいだろうか。
 それに対してタイ人はというとうまく説明のつかない人たちだった。のんびりタラタラしている割には車の運転は荒っぽい。微笑みの国だなんていうが、タイ人の笑顔はなんだか信じられない。いい加減、無責任、悪口はいっぱい出てくる。ようするにタイ人はガキっぽいのだ。まともにつきあいだすとイライラすることばかりだ。しかし、タイに行くと僕はほっとするというか、体中のネジを緩めてしまったような開放感がある。人間、ややこしいことなんか考えずに、適当にやってればいいんじゃないだろうか。ある意味、自然体になれるような気がするのだ。タイから日本に帰ってきて思うのは、日本人はまあ、なんて一生懸命がんばってるんだ、ということだ。成田空港の税関の職員の職務に忠実な態度が、何か芝居がかった、作り物の態度に思えてくる。働きバチの国の舞台裏の骨組みをバラバラに解体してしまうような、脱力したパワーといったパラドキシカルなエネルギーがタイにはあるというのだろうか。
 よくこんなことを思ったものだ、韓国から帰ったときは覚醒剤でもうったようにハイな気持ちになる。タイから帰ったときはヘロインでもやったような無気力な快感があると。
 松本零士の「銀河鉄道999」の中に、怒髪星という惑星が出てくるが、韓国人を見て思い出すのはあの惑星の人たちだ。しょっちゅうけんかばかりしているが、それ故に人情深くて気持ちのいい人たち。一方タイ人を見てると、名前は忘れたけど乞食ばかりの星を思い出す。無気力で施し合って生きてる人たち。(失礼だよな。)
 だけど、どちらの国も今の日本、あるいは近代社会というものにそれぞれ全く別の角度から問題を突きつけているような気がした。

 いまも僕の中に韓国とタイが生きている。それについてすこし詳しく語ってみたいと思う。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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