泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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ユルユルのタイ人

 子供の頃、僕らは毎日同じ時間に起き、学校という名の収容所に集められ、あれこれと強迫的に規律を叩き込まれてきた。遅刻はいけない。廊下は走ってはいけない。右側を歩かなければならない。給食は残してはいけない………。朝礼やら運動会なんかで、きちっと整列して、行進をする。「気をつけ! 前へならえ! 休め!」………
 こういうことはそもそも監獄とか軍隊でやることなんだろう。規律、訓練、秩序、………こういうことが必要なのは、社会が産業化し、工業生産のリズムに僕らの身体を適合、馴化させるためだ。効率的で無駄のない秩序だった活動が、生産性向上のために求められるからだ。
 産業化以前の社会では、農耕牧畜などのリズムが生活を支配していた。活動は太陽が昇ってから始まり、太陽が沈めば終わる。分刻みのスケジュールなんてものはない、のどかなリズムだった。
 よくよく考えてみれば、学校で仕込まれる規律には、それ自体たいして意味がなかったりする。何だってみんなまったく同じ時間に同じところへ毎日のように集合させられなければならないのか。5分遅れれば怒られ、罰を受け、その行動は記録される。いったい廊下の右側を歩くことに何の意味があるのか。さまざまな嗜好があってあたりまえであるはずなのに、同じ給食を残さず食べることに何の意味があるのか………。誰でも経験したんじゃないだろうか。残してしまった給食を捨てることも許されず、こっそり机やカバンにしまい込み、カビが生え、異臭を発するまで放置したりすることなどを………。

 この強迫的な規律を10年以上も仕込まれ続け、さらには競争意識を植え付けられて、僕らは産業社会に押し込まれる。社会人になってやってることは同じだ。毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗って会社へ行き、タイムカードを押し、5分遅れれば………。まあ、とにかく産業社会のリズムが僕らの生活の隅々まで支配してるってわけだ。

 僕の女房はタイ人だから、タイの日常生活を僕も見る機会があるわけだけど、まあ、なんてのどかなんだろう、と思う。タイの学校でやっぱり児童に行進なんかさせてるんだけど、バラバラにテレテレと歩いてるのに先生は何も言わない。ずいぶんと気合いの入っていない行進なのだ。これは秩序なのだろうか? と思ってしまう。
 女房の実家に行ったところで、僕には大してやることもないので、ソファーに寝っころがっていつも本を読んでいる。そのうち眠くなって昼寝してしまう。義理の母やら兄弟がそっと扇風機や枕を用意してくれる。こんな感じで1週間から10日ほどが過ぎてゆく。たとえば僕が日本人と結婚したとして女房の実家へ行ったとする。そのとき、1週間毎日のようにゴロゴロしている娘婿を見て、いくらなんでも何も言わず黙ってる義理の親はいないと思う………。少なくともタイにいて僕が彼らに何か言われたことってない。
 ついでに言えば、タイ人は「やる気」がない。僕らがキャリアや職業に向かい合うときのような積極性に欠ける。競争意識が乏しく、自分で自分のキャリアを努力して切り開こうという気概があまりない。夢は自分の努力でつかむのではなく、幸運はどこかから転がり込んでくるものと考えてるように見える。「運がない」と彼らはよく口にする。だから、僕が日本に帰ってくるとき、成田空港の税関でキビキビと仕事する係官に対面すると、職業に対する緊迫した責任感というか、「やる気」みたいなものを感じて、それが妙に芝居がかって見える。僕ら日本人はずいぶんと無理して働いているのだ。朝タイムカードを押してから仕事が終わって帰るまで、誰でも気合いを入れて緊張感を高めているだろう。僕の見る限り、タイ人にはそれがない。仕事中とそれ以外の日常のリズムは基本的に同じなのだ。おそらく、タイ人が仕事にストレスを感じたら、その仕事を辞めてしまうことを選択するだろう。「飽きた……」という言葉を口にするのはタイ人のお得意とするところだ。
 ようするにタイ人はユルユルなのだ。僕らが日本で子供の頃から慣れ親しんでいる強迫的な規律や「やる気」のようなものが希薄だ。それは南国の楽天性のせいでもあり、資本主義経済がまだタイトに侵入していないからでもあるだろう。(もちろんタイ人にはタイ人なりの規範や秩序があるわけだが)そのユルユルさは、僕らにとって何とも言えず快感なのだ。強迫的な規律秩序にげんなりしているむきにはある種のユートピアですらあるだろう。

 タイ人はいい加減だ。嘘をつく。働かないで人にたかる。ポリシーがない。粘り強くガンバレない。はっきり言って彼らとの付き合いは疲れる。特に田舎に行ったときなんか、僕は彼らが働いている姿をほとんど見てない。いや、どっかで働いてるはずなのだが、1日中ウダウダとダベったり、賭け事をしたりしてるのしか見たことがないのだ。それで金がない金がないと言ってる。そりゃそうだろう、と思う。あれだけ働いてないんだから。
 ………と、タイ人を見ていて僕が感じてしまうのは、僕がしっかり先進資本主義国日本で教育を受け、産業社会に適合するための規律や競争意識を内面化しているからに違いない。僕にはあのウダウダした無為に近い時間はけっこう耐えがたかったりするのだ。僕はタイ人にはなれない、そう思う。

 もちろんタイだって急速に産業化が進んでいる。もうバンコクはタイじゃない、なんて話をよく聞くが、確実に産業社会のリズムはタイを浸食しているのだ。それでもまだ、田舎へ行くと坦々とした伝統的な時間が残っているのを感じる。
 僕はタイ人相手にはっきり言って苦戦している。特に自分のバカ女房にはほとほと手を焼いている。だけど、タイ人に救われている面も確かにあるのだ。タイ人の、ユルユルの生き方を見て、テレテレした子供の行進を見て、人間なんてこれでいいんだよな、っていう感覚が僕の中に生まれて、それが何か心の余裕につながっていて、心の奥のほうで僕を支えているのだと思う。
 ニートなんかを擁護したくなる気持の一部には、僕の心の中にそんなタイ人の姿があるからであり、タイ人のインチキな生き方の相手を苦労しながらも続けていられるのは、マルクスやニーチェが、またアウトノミアのような運動が、タイ人みたいな生き方もありなんじゃないの、と僕に言い聞かせているからなんだと思うのだ。

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魂の労働

 『魂の労働』(渋谷望 著)という本を読んだ。bookloverさんのブログで紹介されていた本だ。近くの本屋で売っていたので、これも何かの縁だと思って買ってみたのだ。感想を言えば、想像以上に面白い本だった。

 「現在作動しつつある新しい権力ゲームの本質を見極めること」がこの本のテーマで、いわゆる「フォーディズム=福祉国家」から、「ポストフォーディズム=ネオリベラリズム」への権力形態の移行が、さまざまな場面において分析されている。一言で言えば、フォーディズムにおける大量生産に適合した、画一的、監禁的な資本主義権力の支配の戦略が、消費社会に適合したネオリベラリズムのソフトで、間接的なコントロールの戦略に移行した、ということである。この、労働者の内面に働きかけるソフトな支配の技術を、フーコーの権力論を援用し分析している。
 さらに、ネオリベラリズムのソフトな支配の戦略から逸脱する存在は、アンダークラスとでもいうシステムの周辺に排除、放置され、見せしめとして権力によって利用される。たとえば、日本で言えば、ホームレス、登校拒否やニートのようなマイノリティなんかがそれにあたる。
 なんというか、今まで漠然と感じていた実感を、うまく説明してくれたような気がした。なるほどフーコーの権力論はこのように利用するのだな、と思った。

 ところが、最終章の『<生>が労働になるとき』においては、逆にその排除されたアンダークラスの存在こそが、「ニヒリズム」の徹底という意味で、システムに対する自律的な抵抗の新しい形態を生み出す「可能性」を持つものとして描き出される。そのとき援用されるのはニーチェ、あるいはドゥルーズによるニーチェの解釈だ。
 この最後の章を興奮せずに読めるだろうか。もう、まさに僕が言いたかったことがそのまま書かれているようだった。特にニーチェの『道徳の系譜』第1論文(これについては去年ちらりと書いたことがある。)の善悪の価値判断の2つの起源論を援用し、排除されたアンダーグラウンドな存在の方を「肯定的な自己価値化」をおこなっている「自分の為し得ることの果てまで進んでゆく力」(ドゥルーズ)を持つ存在として描き、逆にネオリベラリズム(まあ、資本主義そのもののことだ)は、ルサンチマンを原動力とした「反動」の制度化だ、と言い切っているのを読むと手を叩きたくなってしまうほどだった。

 まあ、bookloverさんが、何だって僕との議論であれほど過敏な反応を示したのか今もって謎ではあるが、やはりその出会いは無意味じゃなかったってことだろうか。感謝しなくては………。(いずれにせよ、よく似た考えの持ち主のサイトが消滅してしまったのは正直さみしい。)

 僕がフーコーやドゥルーズの名前を知ったのはもう20年も前のことだ。当時、フランスのいわゆるポスト構造主義思想が紹介されトップモードのように流行していた。読んでみても一体何が書いてあるのかわからない分厚い本になんだか憧れを抱いていたものだ。……ただ、はっきり言って何を言わんとしてるのか意味がわからなかったのでそれほど関心もなかったし、彼らの本も実はほとんど読んだことがない。現代思想ブームに乗って浅田彰とか中沢新一なんかがスターだったけど、どうもうさんくさいなあ、と思っていたし、個人的にはもっと古い、ニーチェとかバタイユとか現象学なんかに親しみを感じていた。
 しかしあれから20年、フーコーもドゥルーズも死に、ガタリ、ついにはデリダもこの世の人ではなくなってしまった。長い時間をへて今になってやっと、僕と彼らの思想の接点が出てきたってことだろうか………この『魂の労働』の中に引用された彼らの言葉を読むと、似たようなこと考えてたんだなあ、と思うのだ。
 規律訓練だとか、微視的権力だとかbookloverさんが使ってた言葉を理解するためにも、チョットがんばってフーコーでも読んでみようかな、なんて思っている。

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しがないおっさんの戯れ言

 bookloverさんのブログもなくなっちゃったし、もう読んでくれないのかもしれないけど、中途半端になっちゃったところを最後に少しだけ述べることを許して欲しい。結局このおっさんは愚直に自分の考えを述べていくしかできないみたいで、同じ書き方になっちゃうけど、よければひとつの考え方としてさらりと聞いてもらえたら、と思います。

 例の「資本主義システムの否定」ってとこだけど、私の説明がなかったこともあって、革命とか、社会の変革みたいなことを私が考えてると理解をされちゃったようで、それに対してbookloverさんは、楽観的だとか、改良主義だみたいなことを言ってました。それはまあbookloverさんの言う通りだと思います。……ただ、私自身は「資本主義システムの否定」が革命や社会の変革を意味するとはひとことも言ってなかったと思うのです。まあ、普通「資本主義システムの否定」というと社会革命ってことになっちゃうからそう理解されちゃうのは無理もないことですが。そのことを説明しようとずっと思ってたのですが、その前にグチャグチャになってしまったので………。私は革命とか社会の変革みたいなことが目的だなんて実はほとんど考えたことがありません。ひとつの夢か、結果的なものとしてならあるのかもしれないけど。
 むしろ私が「資本主義システムの否定」と言うとき考えてたのは、ちょっと言ったことだけど、「非生産的な価値の復権」ということです。というのも bookloverさんも言ってたことだけど、資本主義社会というのは生産の社会でかつての非生産的な価値は徹底的に貶められてしまっているわけで、そのためにとにかく生産のリズムに対してイレギュラーな非生産的な要素を対抗的に社会にぶち込みたい、と思うからです。たとえばアバンギャルド芸術もそういう役割を担っていたと思うし、「労働の拒否」っていうのは痛快と言っていいほどおもしろい非生産的な価値の復権の戦略だと思うのです。それに対して bookloverさんは「このように私と非生産的な、刺激的やり取りをするなど……」と答えてくれたので、まさにこのようにブログ上で発言をする事自体も「資本主義システムの否定」なのであり、それはまた刺激的な快楽でもある、ということはわかってくれていると思うんです。
 ただ、なぜ他の言い方をせずに「資本主義システムの否定」なんて誤解を招く言い方を選んだのかと言うと、bookloverさんが「働かない」ことを目的だと言い、「啓蒙はお勧めしない」と言うとき、前にも言った理由でそれは「資本主義システムの肯定」なんじゃないかと疑惑をもって、それに対して私が考えてる目的が違うどころかまったく正反対のものであることを浮き彫りにさせることができると考えたからなんです。(と、あとから考えています。)

 私はbookloverさんの生活も知らないし、今となってはこんな分析を続けることに意味があるのかもわからないのですが、結局のところ私の心にひっかかっていたのは「バカを啓蒙することはない」というbookloverさんの言葉だったんだと思います。つまり私の中にはあり得ないこの言葉は一体どこから出てきたんだろう、という疑問です。
 それはこないだも分析したのですがbookloverさんの中に資本主義の否定と肯定が混在しているところに原因があるんじゃなかろうか、と私は想像したのです。で、図式的に考えて、私にとっての快楽ってのは「非生産的なもの」=「資本主義の否定」だったので、bookloverさんの「働かないことを目的にした生き方」=「資本主義の肯定」と考えれば、はたしてbookloverさんの「働かない」生き方ってのは本当に快楽なんだろうか? もしかして労働になりかけてない?…… というスジで議論を運べるんじゃないかと目論んでいたわけです。もちろんすべて私の想像に過ぎないわけですけどね。
 はやしさんのところにbookloverさんが書き込んだコメントを読むと、けっこうメンタル面に問題を抱えてるみたいなんで、こんな労働論みたいなことにどれだけ意味があるんだろうとも思うのですが、もうひとつだけここのところを指摘しておきます。

 「バカを啓蒙することはない」と、またそのような啓蒙は(少しでも良くなれば、なんて考えは)改良主義だ、ともbookloverさんは言っていました。でも考えてみれば私やbookloverさんだって、かつては「バカ」で「知的怠惰」だったわけですよね。(いや、今だってそうかもしれないし)やはり何かきっかけがあって、システムを疑い、価値を反転させることを学んだんじゃないかと思うんですよ。本を読むことによってなのか、友達や先生のアドバイスがあったのかは知らないけど、やはり誰かに蒙を開かれたんじゃないかと思うのです。もちろん私自身もそうでした。それは驚異的な発見だったし興奮もしました。喜びだったと言ってもいい。マルクスでもフーコーでもなんでもいいと思いますが、彼らの言葉、書物などはそのような啓蒙に開かれていると思うのです。仮にそのような書物から私たちがシステムを疑うことを学んだとしたら、そしてその発見に驚き、喜ぶことができたとして、………それは改良主義だってことになるんでしょうか。
 それは改良でも改宗でもなく、コミュニケーションなんだと思うのです。フーコーが啓蒙を目的に本を書いたとはいいませんが、コミュニケートしようという意志が、あの分厚い本には当然ながら込められていると思うのですよ。きっと、フーコー自身が見ていた世界を他者と共有したいという願いは当然あったと思うんです。
 であるのに「バカを啓蒙することはない」というようなコミュニケーションの拒絶ともとれる発言をし、システムを疑わない人を「バカ」や「知的怠惰」呼ばわりしてしまうことに、どうも私には納得できないものがあったのです。確かに人を変えたい、社会を変えたいということは目的にならないのかもしれない。しかし人や社会が変わりうる、と考え、夢見ることは、けっして間違いではないと思うし、コミュニケーションへの欲求は間違いなく存在し、それは自分を認めさせたいってことでもあるわけだから、説明し理解させようとする過程において、どこか啓蒙的な部分は出てくると思うんですよ。実際にはbookloverさんはそれをやってたと思うんですよね、ブログにテクストのっけるって形で………そしてそれは刺激的な快楽でもあったんだと。
 bookloverさんが「バカを啓蒙することはない」って言うとき私が感じるのは、他者とのコミュニケーションを拒絶することだったり、まるで自分の獲得した認識を独り占めにすることのような感じがするし、自分の周りにバリケードを築いて「守り」に入っていることのような気がするのです。
 コミュニケーションっていうのは非生産的な燃焼であり、そういう意味ではまさに「資本主義社会システムの否定」だと思うし、それは痛みを伴った快楽(どこかの国の首相の言葉みたいで何ですが。)なんだと思うのです。だから、私はコメントにいただいた言葉とまったく反対の言葉をbookloverさんに贈りたいのです。………資本主義のシステムの裏側を冷徹に見抜き、批判しているbookloverさんであれば、「自分の首を絞める」なんてそれこそ「守り」に入ったおっさんたちが言うようなことなんか言わずに、もっと惜しげもなく自分の持ってる知恵を吐き出していいんじゃないかって……。
 惚れた女にすべての財産をつぎ込んで自滅する男みたいに、惜しげもなく吐き出して、何もなくなったら惨めな気持で働けばいいんじゃないかなあ。そのときの労働はけっして「卑しい」ものじゃないような気がする。それに対してbookloverさんの「働かない」ことを目的にした生き方ってのは、好きでもない女のヒモになって生きる男みたいな感じがするんですよ。(私、ヒモには憧れてるんですけどね。)お気楽に働かず生きてるみたいだけど、女の心のケアなんかするのはけっこうな労働だったりで、その生活は「快楽」なのかなあ、って思うんですよ。ま、これだってあくまで想像で物言ってるだけだし、どこまで bookloverさんの議論とかみ合ってるのかわからないんですけどね。

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おっさん

 なんか、やられちゃったなあ。急にどうしちゃったんだろうって感じで………。なんか複雑な気持だよ。

 おっさんかあ………。僕はフケ顔だったから、10代からおっさん呼ばわりされてたけど。もう来月には41歳だもんな。本当におっさんだよ。バカボンのパパとおなじ、41歳の春を迎えるんだよ。bookloverさんはいろいろ言ってくれたけど、僕がおっさんなのは正しい。間違いない。

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まあ、話を聞いてください。

なんだか随分イジワルなやなやつにされちゃったみたいだけど、一言だけ言わせてください。

 私はbookloverさんを傷つけたり、不愉快な気持にさせたくてこんな文章を書いてるわけじゃないってことだけは理解して欲しいのです。確かに bookloverの考えを批判し、失礼なことを言ってるのも承知してます。でもそれはbookloverさん自身を攻撃したいってことじゃない。あくまでも議論の上のことです。だからこそコメントに (笑) なんてことも書き加えてフォローもしてるんですよ。
 bookloverさんが私と似た考え方をもっていて、手応えのある議論ができる人だとにらんだからこそ、こちらも真剣にbookloverさんの考えの中に私が感じた疑問や矛盾を率直かつ乱暴に、またイヤラシく追求してるわけです。私がそうやって率直で痛い物言いをするのは、bookloverさんから辛辣な反論を引き出したいからであって、bookloverさんを不快にしたいからじゃない。そういうギリギリのやりとりからしか新しいものは生まれないと思うからです。だから、bookloverさんだって厳しい反論を私にしてくれていいのです。それによって私が傷つくことはないですから。
 bookloverさんは、私がbookloverさんのことを勝手に解釈して、想像だけでものを言ってるとおっしゃっていますが、考えてみてくださいよ。誰だって他人の頭の中なんて想像することしかできないでしょう。だから納得いかない考え方に出合ったとき、相手がどのように考えたかを必死に想像することしかできない、で、お前はこう考えてるんだろう、と議論を吹きかけるわけです。それにたいして、冗談じゃない、こう考えてるんだ、という反論が出てくる。こういうやりとりからお互いのこともわかってくるし、惰性に流れがちな知性を刺激して、今まで考えたことのないようなことも考させえたりする。……容赦ない議論は新しい視野を開いたり、いろいろなことを前進させると思うのです。
 なれ合いの、当たり障りのない議論をすることだってできますよ。でもそんなとこからは何も生まれやしない。それこそオナニーみたいな慰め合いじゃないですか。おもしろくも何ともない、それじゃあ意味がないでしょう。
 だからこそ私は率直な疑問をぶつけたわけだし、お互い痛みを伴った緊迫したやりとりを望んだのであって、別にbookloverさんをやり込めたいとかそんなことじゃないです。そういうのが議論というものであり、「刺激的なやりとり」ってものじゃないでしょうか。
 それをbookloverさんがすべて不愉快にまるで私がすげーイヤな奴みたいに感じてしまうとすれば、私はもう議論の進めようがありません。もちろん bookloverさんが不愉快だというのなら私はすぐに引き下がります。ただ、例の「資本主義の否定」のことは誤解されたくないので書かせてもらいたいとおもってますが。


 私もいろいろやらなければならないことをもつ身ですから、すぐにアップはできないと思います。遅くなって申しわけないですが、ちょっと待ってくれたっていいじゃないですか。こないだbookloverさんが本を読むと言ったときだってこっちはおとなしく待ってましたよ。

トラックバック そんなに放っておいて欲しいのなら、まずは放っておかなくて.. はやしのブログ

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誤解をときつつ……

 さてbookloverさんに質問のお答えをいただいたのですが、「働かない」ことは目的だ、ということ。したがって「働かない」ことは戦略として考えているわけではない、ということでした。それは私自身の考えは違うものなのですが、まあそのことを問題にする前に少しbookloverさんの誤解をといておきたいと思います。

 まず、例の『「バカ」を啓蒙することで自分の首を絞める、という発想自体が私にはありません。』という言葉をもう一度説明させてください。
 つまりbookloverさんは、「バカ」たちを啓蒙して、その結果みんなが労働を忌避するようになってしまったら、誰も働かなくなって、結局私たち自身が働かなければならないはめに陥ってしまうぞ、という究極的状況を仮定して、そのことを「首を絞める」という言葉で表現した、と私は理解しているのですが………
 そうだとすると、確かに「働かない」ことを目的にしているbookloverさんにとっては、啓蒙が「首を絞める」ことにつながる、というのはわかります。ですが、「働かない」ことを目的にしてない私にとっては、「首を絞める」ということにはならないと思うのです。だって「働かなくてはならないのなら、働けばいいじゃん。」って思ってるわけですから。
 だから私が言いたかったのは、啓蒙が自分の首を絞めるという発想は「働かない」ことを目的にしているbookloverさんだけのもので、働いてもいいと考えている私には当てはまりませんよ、ということです。

 次に、bookloverさんさんが嫌いな「ねばならない」とか「べき」とかいう言葉遣いのことですけど、誤解を引き起こすようであれば他の言葉を選びますが、よく読んでいただければけっして「価値観の押し付け」として使ってるのではないとわかっていただけると思います。
 『その「働かない」という生き方を維持するために、「バカ」を「バカ」のままとどめておかなければならない……』と私が言った理由を説明しますと………
 『「バカ」を啓蒙することは自分の首を絞める……』というbookloverさんの考え方は、別の言い方をすると『「バカ」を「バカ」のままとどめておいたほうがbookloverさんの「働かない」生き方には都合がいい』ということですよね。つまりこれはシステムを肯定している発言だと思うのですよ。いくらbookloverさんが、『「バカ」のままほっとけば』いい、と彼らへの不干渉を主張していたとても、それはどうもアヤシイ。だってそうでなきゃ「啓蒙が自分の首を絞める」なんて多少なりとも危機感を含んだ言葉は出てくるわけがないでしょう。ですからbookloverさんの本音は「バカ」にはそのまま働いていて欲しい、という「現状の維持」にあると私には思えたので、乱暴であったかもしれませんが「「バカ」を「バカ」のままとどめておかなければならない……」という言葉を使ったのです。また『資本主義自体は維持させるべき』という言葉も同じ理由から使いました。



 確かにbookloverさんは、「バカ」に対して『価値観の押し付け』はしていないかもしれない。そして『「バカ」なら「バカ」のままほっとけば』いいと、あくまでも彼らへの無関心、不干渉、というスタンスをとってはいますが、その実bookloverさんの発言には「バカ」の労働を「働かない」という自分の立場の維持のためにこっそり利用したいという本音が見え隠れしているのです。
 19世紀のブルジョワジーは労働者に教育を与えるべきかどうかずいぶん議論したと言います。高い教育を労働者に与えたほうが、クオリティの高い労働力が得られる、という考えと、労働者に知恵をつけると自分たちの立場を理解して、ブルジョワへの反抗を企てるのではないか、という疑惑の間でずいぶんと揺れ動いたようです。『「バカ」を啓蒙することは自分の首を絞める』と言うときのbookloverさんと、労働者を啓蒙すべきかどうか議論しているブルジョワジーの権力的な言説とは奇妙にダブって見えるのです。

 不思議に思うのは、微視的権力なんていうオシャレな概念を駆使して「ニート」を語っているときのbookloverさんは、反権力の立場に立っているようにしか見えません。はやしさんもいってたでしょ、「だって(ニートを)メチャクチャ肯定してるもん。」って。なのに『「バカ」を啓蒙することは自分の首を絞める』と言ってるbookloverさんは、まるで権力側に立って発言してるように見えるんですよ。(はじめてbookloverさんにコメントをいただいたときに私が感じた違和感の原因はここにあるんだと思います。)
 多分、このあたりがbookloverさんの考え方のミソなんじゃないかと私は想像します。「働かない」で生きるというご自身の立場を説明し認めさせようとするとき、bookloverさんは反権力的な立場から資本主義社会のシステムとその規範を罵っていますが、逆に「働かない」というご自身の生活を維持し、守ろうとするとき『「バカ」を啓蒙することは自分の首を絞める』なんていう権力的な立場から資本主義社会のシステムを容認するような発言をはじめるのです。
 そして、この二つの立場の分裂の不整合のつじつま合わせのために、奇妙に社会から距離を取ったような態度………たとえばニートを肯定も否定もしないだとか、バカ」なら「バカ」のままほっとけばいい、とかいったスタンスを取らざるを得ないんじゃないだろうか、と私は疑うわけです。

 そのへんの不整合は、こうしてWeb上に意見を載せるときにも露呈している。ご自分でも書いている通り、私には「啓蒙はお勧めしません」と言ってるのに、あきらかにbookloverさんの書くものは啓蒙の役目を果たすものになっている。もし本当に『「バカ」を啓蒙することは自分の首を絞める』と考えているなら沈黙を決め込めばいいのではないかと思うのです。
 こうして私と議論を交わすことで、私がbookloverさんの意見に納得し、「働かない」立場に改宗でもしたとすれば、一人よけいに「バカ」どもの労働の果実のおこぼれにあずかるやつが増えてしまって、まさにbookloverさんの首を絞めることになるわけですよね。どうもご自身の発言が、その目的を裏切ってしまっている………。
 また、bookloverさんは、テキストの最後のところで『………に関しては、すでにaraikenさんご自身でされてるではありませんか。このように私と非生産的な、刺激的やり取りをするなど。それで十分なんじゃないでしょうか。』とおっしゃってますよね。確かにその通りで、この言葉には共感しましたが、bookloverさんにとってこのやりとりは「首を絞める」ものでないのかと逆に私は心配してしまいます。この「非生産的な、刺激的やり取り」はbookloverさんにとっても刺激的な快楽であると思うんですが、啓蒙の危険性を考えるとこの快楽は断念して禁欲的になったほうがいいのではないでしょうか(笑)。

 少なくとも私の場合、自分の語っている反権力的な言説の内容と、「非生産的な、刺激的やり取り」がもっている、非生産的ゆえに反資本主義的な行為の快楽との間に矛盾や葛藤はありません。まあ、そんなこともあって、bookloverさんの「働かない」ことを目的にした生き方というのは、「快楽」と言いながらも、なにやら禁欲的な要素(労働らしきもの)が忍び込みはじめていて、それは本当に心の底から楽しいものなんだろうか、と私は疑惑を抱いてしまうのです。………いや、bookloverさんがそれでもこれは「快楽」なんだ、というのなら私は何も言えないのかもしれませんが………。

 長くなってしまったので、もうひとつ、「資本主義システムの否定」についてbookloverさんが誤解しているところ(まあ、私の説明不足が原因なのですが)は、後日説明したいと思います。

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質問まとめました。

 bookloverさんへの折り返しの質問です。

 bookloverさんの社会の鋭い分析にはとても共感するし、敬意を表したいわけですが、やはりどうもひとつ大きな疑問が残ります。一言で言えば、「働かない」ということは目的なのか、ということです。私はむしろ「働かない=怠惰」であることはひとつの戦略であると考えていました。確かに私も労働は嫌いだし、「勤勉」の規範にはうんざりなのですが、bookloverさんのように自分が「働かない」で生きる環境を作ることを目的としているかといえば、そうじゃないと思います。したがって「バカ」を啓蒙することで自分の首を絞める、という発想自体が私にはありません。ですからbookloverさんが仮に、自分の「働かない」生き方を新しい有閑階級(エリート)としてアピールし、戦略的に「ニート」を肯定するとしたらそれはおもしろいと思うし、そのとき結果的に親の世代なり他者たちがいままで労働してきたその蓄積を、浪費/享受している、と考えているならそれは理解できます。
 ですが、その「働かない」という生き方を維持するために、「バカ」を「バカ」のままとどめておかなければならない、となってくるとそれは反動的な立場だといっていいんじゃないでしょうか。つまり結果的に資本主義社会自体は維持させるべきだ、ということになるわけですよね。「バカ」が働くシステムは維持した上でそのおこぼれにあずかると……。ということは、bookloverさんは資本主義システムの否定ではなく、ご自身の「働かない」生き方を実現することが目的だ、と考えていると思っていいのでしょうか?
 というのも、私のほうは資本主義の否定という目的がまずあって、そのためにまあ、こうして文章も書いているわけです。で、私の文章が啓蒙の役割を果たしていたとして、仮にそれを読んだ一人の人でも資本主義の押し付けてくる規範を相対化させることができるのであれば、社会の資本主義化以前に王侯貴族、宗教、祝祭などが保持していた非生産的な価値の権威を取り戻すという大きな課題に一歩近づくことになると思うのです(ニートの肯定もそのための戦略と考えています)。だから、「バカ」を「バカ」のままとどめておかなければならないというシステムの維持には与したくないし、それが自分の首を絞めることにつながる、とは思えないのです。私自身は「働かない」生き方そのものは目的にしていないからです。働かずにすめばそれにこしたことはないかもしれませんが、忙しく働いたっていいじゃないか……それよりも生産の道具と化した社会に、イレギュラーな非生産的価値を少しでも多くぶち込み、おもしろいものにすることが優先だ、と思ってるのですが………いかがでしょうか。

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ニートをめぐって

 最近「ニート」という言葉を知りました。「働かない」人のことのようです。詳しいことはわからないのですが、以前かかわったことがある「登校拒否」と同根の問題であることは直感的に理解しました。たまたま、ぽいんつさんという方の記事が目にとまり、ちょっと気になることが書かれていたのでコメントしたのですが、結局私の考えを文字にしてゆくと、まとめても長いものになってしまうので、自分のサイトに考えを述べさせていただきたいと思います。

 ぽいんつさんは、ニートの人たちが働かず、税金すら払わないのに、あれこれ主張するのは許せない………勤労・納税・教育の三大義務を果たさないやつは日本国民である権利がない……… と、彼らの存在に苛立ちを隠せない様子です。私自身は馬車馬のように働いていますし、税金もしっかりと納めていますが、引きこもりがちだという彼らの態度にやや違和感を覚えるものの、ぽいんつさんほど苛立つことはありませんし、他人事だからこそこんなことが言えるのかもしれませんが、むしろ彼らの立場を彼ら自身、面白く活用していけたらいいんじゃないかと思っています。したがって、私の立場は基本的にニートを擁護するものだ、ということになります。

 育ててくれた親だの国だのに恩を返すとかいう意識がないからパラサイトしてられるんだ………とぽいんつさんはおっしゃっています。確かにこれはよく聞くし、わかりやすい言い方なのですが、子供は親に自分を生んでくれ、なんて頼んだわけではない。子供は親の都合で作られるものです。親だって恩返しを期待して子供を育てるわけじゃないと思うのですよ。
 また国への恩返しというのもどうでしょうか? 育ててもらった恩があるし道端で突然襲われたりしないように警察やさんがある程度守ってくれてるんだなと思うからこそ税金も払う………ということなんですが、確かに国は国民を育て、秩序を守ります。ですが、たとえば会社というものが社員のためにあるわけじゃないように、国家もけっして国民のためにそうするのではない、というところは押さえておかねばなりません。
 日本は資本主義国家ですから、利潤の追求という大テーマのために組織されています。国にとって国民は利潤の追求のための資源であり道具です。ですから国民を教育し、労働する身体へと成型します。質のいい産業戦士の育成が教育の役割なのです。
 また、国内の治安が安定せず、混乱が続くようでは経済活動を順調に回転させてゆけなくなってしまいます。警察の役目は経済活動を阻害する混乱を防止することにあります。
 したがって、国民を育てること、治安を守ることなどは、国家の当然の戦略であり、私たち国民を思っておこなわれていることではないわけです。(なるほど、しかしその国家戦略のおかげで日本が経済成長を達成し豊かになったんだ、という考えはあるかもしれません。が、その経済的な豊かさの追求は私たちに同じだけの苦痛もなめさせている、とも言えます。わかりやすい例をあげれば、公害や環境破壊の問題がそれにあたります。)日本だけではなく、どんな凶悪な独裁国家であっても国民を教育し、自らのシステムの維持に役立つように成型するのです。私たちは自分でおさめた税金でもって国家に都合のいい存在へと洗脳されるといっていいかもしれない。
 だから、国に恩を返す、という発想はどうもあやしい。結構そんなこという人がいますが、私には倒錯した考えに思えてなりません。親がよく子供をしばりつけたいときに「恩知らず」なんて言葉を使いますが、これはどう考えても欺瞞なんじゃないでしょうか?
 私たちは生まれてくるとき、親を選ぶことができないように、産み落とされる国も選ぶことはできません。極端な話、もしある国に生まれた以上はその国に恩を感じなければならない、というのであれば、子供を虐待する親元に生まれた子の苦しみは、受け入れなければならない運命だ、と言うのと同じことになってしまう。海を隔てた隣国の国民の姿を見てください。「将軍様のために、首領様のために」と言わされているあの人たち……。「あなたたち、そんな国のために働く必要はないよ! そんな奴のためにボロボロになって生きる必要はないよ!」と言わずにいられるでしょうか。ましてや彼らに向かって「勤労・納税・教育の三大義務を果たさないやつは国民である権利がない」なんて憤るのは、冗談にもなりゃしないでしょう。
 「ああ、そうですか。じゃあ、国民じゃなくで結構です!」といってプイとどこかよその国へ行ってしまえるのならそれでもいい。しかしそれは彼らにはできない相談でしょう。
 もちろん今言ったのはよその国の話です。しかし、私たちの日本が、そのような凶悪な国家でない、と言い切れるでしょうか? 将軍様の国の国民が、自分たちの生活や社会のシステムを疑うことができないように、私たちも自分自身の生活やシステムを疑うチャンネルを持ち合わせていないのかもしれない………。
 はっきりいって、国への恩なんていういかがわしい考えは、まず疑ってかかるべきだと思います。

 こんなことをいうと、私が親や国と随分ドライなかかわり方をしているように思えるかもしれません。でも親や国との関係って、そんな恩の貸し借りみたいなところに基盤をもってるわけではないでしょう? 私たちが、この親の元に、またこの国に、生まれ落ちたのは偶然です。しかし生まれた以上は、自分の生や自分が生きている環境をおもしろく、楽しいものに、生き甲斐を感じるものにするべきだ………。むしろそういう能動的な気持から親や国とつきあってゆくというのが自然じゃないだろうか、と思うのです。

 ですから、ぽいんつさんが親や国への恩返しをしないニートの人たちを「恥知らず」であると言ってのけるその理由は、ないのじゃないかと思うわけです。だとすると、ぽいんつさんがニートの存在にそれほどまでに苛立つ理由に、論理的で明確な根拠が実際のところあるのでしょうか? 他にもニートは嘘つきだからとか、自分で決めた規範すら堂々と守らないとかいう理由を挙げていらっしゃいますが、そういう人は「働いている」人の中にだっていっぱいいるわけですよね。
 ………とすれば、ぽいんつさんのニートへの苛立ちは、ほとんど感情的な反応のようなものでしかない。(ここからは私の想像で書きます。的外れであれば笑ってください。)たぶんそれは、「働かない」=「役に立たない」=「使えない」人間に対する感情的な拒否感………鬱々と部屋に閉じこもり他人と交流もせず無為をむさぼってるような人間が、もう許せないという身体的とすらいえる反応でしかないのではないでしょうか。

 この根拠のない拒否的な感情は、逆にぽいんつさんの身体の中に刻み込まれた内なる規範を浮かび上がらせます。つまり単純にいえば、「人間は働くべきだ」「人間は勤勉であるべきだ」という規範です。このような規範が内面化されているからこそ、「働かない」人を前にして理由もなく激しい苛立ちや拒否感がわき上がってくる。
 確かに人間働かないわけに行かないのは事実です。働かなければ食っていけない。死ぬしかないのですから。しかしその事実は「働くべきだ」という規範とは別の問題です。だって、「働かない」人に対して、働かないのなら死ぬしかないよと、ふふんと笑ってクールに対応することだってできるはずだ。自業自得の、まあ一種の自殺のようなものと考えることもできるわけでしょう。自殺者にそんな激しい苛立ちって感じるでしょうか?
 おそらくは、テキパキと働く社交的な人間がぽいんつさんの心の中でひとつの理想的な人間像としてあるのかもしれない。ときには酒を飲み、羽目をはずし、またときには女性と恋愛を楽しんだりするかもしれないが、基本的には明るくそつなく仕事をこなし、キャリアを積み上げ、積極的に人生を切り開いてゆくような、そしてそのような生き方はまた社会にためにも有益なものであると、そんな人間のあり方が理想だったりするんじゃないでしょうか。そのような人間の集まりであってこそ日本が楽しく豊かな国であると………暮らしてゆくに値する国になるのだとぽいんつさんは思っている。
 であるのにもかかわらず、ニートとは何だ! 働きもせず、税金すらおさめない、暗く、うすぼんやりと無駄に時間をむさぼっているだけの虫ケラではないか!……ってなわけです。
 ようするにニートに対する激しい拒否感は、その存在がぽいんつさんの内面の規範に逆らうものであるから、わき上がってくるということなのです。おそらくぽいんつさんがやっているのは、その根拠なき苛立ちの理由を説明するのに、「親や国に対する恩を返すことをしない」などという実際には存在しない道義的な理由とすり替えてしまっているということです。そしてその結果ニートを「恥知らず」なんていう不道徳な存在にまで貶めてしまっているのです。

 「人間は働くべきだ」「人間は勤勉であるべきだ」という規範というのは、資本主義社会の規範であるということは説明するまでもないでしょう。私たちが長年受けてきた学校教育などによって私たちの身体に刻み込まれてきた、よき産業戦士たるべき規範です。私が言いたいのは、ぽいんつさんがあまりにも無批判に資本主義社会の規範を受け入れ、肯定してしまっておられるのではないかということ、そしてついでに言えば、そのような「勤勉」の規範によってつくられる人間の生が、かならずしも人間的だとは言えないだろう、ということです。
 白状すると、私もぽいんつさんがニートに苛立つ気持はよくわかります。私も当然日本で教育を受けてきてその影響を受けているため、ぽいんつさんと感性を共有していることは間違いないのです。親や学校から植え付けられ、また友人とのつきあいのなかで育まれ、マスコミやさまざまなメディアによって浴びせかけられる「こうあるべきだ」という人間の理想や規範を私も共有しているに違いないのです。偉そうに他人を分析してはいますが、ようするにこれは自己分析なのです。そしてほかならぬニートたち自身も、「勤勉」の規範のプレッシャーにさらされ、まんじりとすることもなく出口なしの状態で苦しんでいるはずだと思うのです。
 教育というものはそれほどまでの力を発揮しているものなのです。極端な話、教育とは洗脳です。先ほど話題にした「将軍様にために……」なんて全国民がいってる国の姿。あれはまさしく教育の成果なのです。私たちは彼らを笑い、また同情するかもしれませんが、日本の教育が実践していることも、彼の地のそれとまったく一緒なのです。

 まとめるとこうなります。資本主義国家にとって国民は生産のための「道具」だと上で述べました。そして私たちもクオリティの高い「道具」であるように育てられてきたのです。だからこそ私たちも「人間は勤勉であるべきだ」という規範をたずさえて日々生きている。その規範こそがニートの存在を感情的に拒絶する原因だ、というのが私の考えです。
 しかし人間は一体「道具」なんてものであっていいのでしょうか。「役に立つ」「使える」………これらの形容詞はみな道具の属性であって、人間のそれではありません。………しかしこれを語り出すと長くなってしまいますので、一言だけ付け加えておきますが、「遊び」や「祭り」みたいなことが楽しいのは、それが無目的で、無駄で、浪費的なものに向かって開かれているからなのではないか、ということです。そしてこれは(もし精神的に追いつめられ、苦しんでいるとしたなら)ニートの人たちにも言いたいのですが、資本主義社会が押し付けてくる「人間は勤勉であるべきだ」という規範を疑うことを知って欲しいということ………というのも、それによって自分たちの落ち込んでいる鬱々たる厳しい状況を、システムへの反抗へのひとつの試みとして解釈してみるなら、ひょっとすると気が楽になるどころか、自分のやむにやまれず追い込まれた状況を革新的な試みとして肯定することができるかもしれないからです。


 長くなってしまいましたが、最後にもうひとつぽいんつさんの文章で気になることがあります。それは、ぽいんつさんの日本という国……すなわち自分が生きている環境とのかかわりかた、とでもいったものについてです。
 私は日本が好きだし日本人であることを誇りに思いたい人間なので、誇れない人がいるのは嫌だ………といっておられるわりには、日本という国が誇れないものになったと実感した瞬間に捨てる………といい、育ててもらった恩があるし道端で突然襲われたりしないように警察やさんがある程度守ってくれてるんだなと思うからこそ税金も払うけど、治安が悪くなったり税金が高くなったりして恩以上のものを出せとか言われたら出て行く………のだそうですが、どうもこれはおかしな文章です。
 育ててくれたり守ってくれた恩に対して税金を払うといった、貸し借りだけのつきあいで、その気になればいつでも捨てられるような国であれば、その国の中にどんなに誇れない奴がいても大して気にもならないんじゃないかと思う。それこそ、そんな国は捨ててよその国でやっていけばいいように思うのです。
 それに、もし、ある国に愛着なり、誇りというものを感じたいのであれば、そういう精神的な価値に見合った分のなんらかのエネルギーの支出、つまりぽいんつさん側から国への(上のほうでもちょっと書きましたが、自分の環境をおもしろくするための)能動的な働きかけがなくてはならないのではないでしょうか。
 いつでも捨てることができるような国に誇りを感じたいってのはおかしな話ですよ。なんだか野球チームの応援みたいじゃないですか。「私は巨人が好きだから応援するが、勝てなくなった時点で巨人を捨てる。いいプレーを見せてくれるから入場料も払うが、プレーがつまらなくなって、入場料に見合わなくなったら他のチームのファンになる」って言ってるのと同じじゃないですか。
 野球ならそれでもいいかもしれませんが、自分が生きる環境との付き合いというのはそんなものなんでしょうか。ぽいんつさんは日本の文化が好きだともおっしゃっていますが、文化というのはただ受け取るものではない。自分も参加してつくってゆくものですよ。つまり私たちは、ある国なり環境なりの観客なのではなくプレーヤーなんだということです。それに野球ファンだって本当のファンは負け続けようが何しようが入場料を払い、声をからして応援を続けるんです。それだけのエネルギーをチームのために支出したからこそ、そのチームが優勝でもしようものなら、自分のことのように喜び、チームを誇りにも思うんですよ。
 ぽいんつさんは恩義にはずいぶんうるさいのに、文化的、精神的な価値という面に関しては、受動的、というか観客的なんじゃないですか。ニートへの批判が、ぽいんつさん自身が生きる日本という環境を少しでも良くしたいというプレーヤーとしての気持から発しているのなら、まだわかる。けれども、いつでも捨てられるような日本という国をスタンドから観客として観ているような態度で、あれこれ批判が繰り出されるのは、どうにも納得がいきません。正直いって、この混乱したぽいんつさんの立場には、ご自身が批判しているニート以上にがあり、自分で決めた規範すら堂々と守れないという態度を感じてしまうのですが………いかがでしょうか。

 長くなってすいません。率直な感想を書きました。無礼はお許しください。

 参考記事

   『NEETなる言説の意図---そこに張り巡らされた微視的権力のいやらしさ』

   『ニートを肯定する』


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祭りの戦士とは何か?

 古代メキシコのアステカ族の都ティノチティトランにそびえ立つピラミッドの上では、祭りのたびに数多くの生贄が殺害され、血が流された。アステカの神話では太陽の神に人間の血を捧げ続けなければ太陽はその運行を止め、世界は滅んでしまうと考えられていたのだ。自らの部族の中から生贄を出すだけでは足りず、ピラミッドの上で殺害する人間を獲得するためにアステカ人は近隣の部族と「花の戦争」と呼ばれる戦を繰り返したという。…………私たち近代人には受け入れがたい残酷で身の毛もよだつような罪深い社会。彼らの神話や習俗を気違いじみた妄想の体系だと断罪するのはたやすいことだ。しかし、ジョルジュ・バタイユが『呪われた部分』の中で深い共感とともに分析しているこのアステカの神話の中には、近代社会においてはすでに忘れかけられている……だが今もなお逆らいえない真実がギラギラと輝いている。
 生贄と戦争というアステカの事業は、彼ら自身に悲劇的な緊張を強いるものだ………。アステカの男子が生まれるとき、産婆はへその緒を切りながら赤ん坊にこんなことを語りかけたという。「お前は戦闘の場のために生まれたのです。お前のつとめは太陽がのめるように、敵の血を捧げることです。戦の場で死んで華々しい死を迎えて命を終えるにふさわしいものと見られることは、お前にとって幸ある定めです。 ………」アステカ人の生命は生まれた瞬間から太陽の神に捧げられたものだった。栄光ある戦場での死 ………太陽を輝かせつづけるための犠牲となることこそが誇り高きアステカ戦士の定めであったのだ。
 惜しみのない犠牲………このような生命の浪費こそが太陽のエネルギー源であり、古代メキシコ高原に強烈な陰影をともなった原色のドラマ(悲劇)を花開かせる原動力となっていたのだ。彼らの残した神話、美術、建築物などは、私たちには想像もつかないようなドラマ ……アステカの栄光……が、かの地に踊っていたことをまざまざと想起させるだろう。
 私たちは無尽蔵にも思える太陽のエネルギーを受けて生命を営んでいる。一方的な太陽のプレゼンス………私たちは太陽に負債を負っているのである。借り受けたものを返済しなければならない。さもなければ神々との関係は壊れて、太陽はその運行を止め、宇宙は崩壊してしまうだろう………このような負い目がアステカの民の心を支配していたのかもしれない。贈与と返礼の普遍的 な経済原則が、野蛮だといわれる古代社会をもしっかりと貫いている。随分と乱暴なやり方ではあったが、アステカ人は私たちにこう教えているのだ ………

 太陽の輝き(栄光)は、惜しみなき自己犠牲(浪費)によってしかあがない得ないのだ……… と。

 一方、私たちの近代資本主義社会が追求しているものは、死から可能な限り遠ざかろうとする「生き延び」への意志である。資本の蓄積の根源には不安の解消 ………あらゆる生命の危険への備えという動機があるはずだ。富を蓄えておくことで不測の事態に出合っても快適な生存を維持することができる。………個人の苦痛なき生き延び………これが近代的価値の根源である。
 資本は(私たちの生存の維持のための必要を越えた剰余の)富をさらに増殖させるため、すべて生産力向上へ向けての投資にまわす。その結果資本は無限の増殖サイクルへと突入する。資本とはまさに私たちの中にある「生き延び」の原理が爆発的に暴走してできたモンスターである。
 貪欲に「生き延び」のみを追い求めた報いなのだろうか………近代資本主義社会のもとで人間は利潤の追求という至上の目的のために生産の道具と化してしまった。私たちは働くために生まれ、死んでゆくのだ………。肥大化した生産力が生み出した文明の恩恵を受け、快適な暮らしを享受しているかに見えるが、私たちは道具としての隷属的な生の虚しさを味わい続けているのもまた事実 なのだ。生産工場と化した地球の家畜のように管理された労働者の群れ………、それが私たちの自画像である。 坦々とした生産のリズムを覆い隠すかのようにスペクタキュリーな商品が日常にあふれ、私たちがその書割りのような見せ物に夢中になっているうちに、大空に輝いていた太陽は厚い灰色の雲の向こうへ消えてしまった。

 近代以前、「祭り」(浪費)は至高の価値として社会の中に君臨していた。古代や中世の社会は、祝祭、王権、貴族、宗教といった非生産的、浪費的な価値を 中心に動いていたのだ。人々はそれらの中に「聖なるもの」を見たり体験したりしていた。
 しかし、市民革命、産業革命というヨーロッパの大事件を通じて権力を勝ち取っていったブルジョワジーは、社会にドラスティックな転回をもたらした。それまで至高の価値として社会に君臨していた「祭り」(浪費)にかえて、「生産」をその地位に据えたのだ。非生産的、浪費的な価値は断罪され、祝祭、王権、貴 族、宗教など、かつての「聖なるもの」は、衰退し、形骸化していかざるを得なかった。「俗なるもの」、生産的価値の全面化………それが私たちの近代なのだ。
 資本主義は、その相棒である科学技術と加速度的に向上する生産力でもって、瞬く間に世界を覆い尽くした。もはや地球上を支配するのは生産の論理のみである。その結果、私たちの世界からは、かつて「浪費」によってまかなわれていた「栄光」のドラマが消えていったのは必然である。生命の浪費(犠牲)によって死の濃い影がおちていた強烈なコントラストをもったドラマから影が消え、灰色の雲の覆われた、物理法則のみが掟である茫漠とした散乱光にみたされた無彩色 の空間が私たちの前に広がっている。
 あなたは、毎日大きな不満なくそこそこ楽しく暮らしているはずなのに、何かポッカリと心に大きな穴が開いたような感じを抱いたことはないだろうか。何かが足りないと感じたことはないだろうか。ひょっとするとその足りないものとは、青空にギラギラと輝く「祭り」の太陽なのではないだろうか。

 それにしても太陽はどこへ行ったのだろう。天上に熱く燃えるあの眩しい太陽は………。あの目も眩むような輝きが私たちのところに戻ってくることはないのだろうか?…………もしあなたが太陽を渇望するのなら、いまこそ私たちはアステカの民の教えに立ち返るべきなのだ。

 太陽の輝き(栄光)は、惜しみなき自己犠牲(浪費)によってしかあがない得ないのだ………という教えに。

 いやいや、まさか21世紀の世界に生贄の殺害の儀式を復活させるなんてバカなことは考えちゃいないさ。ただ私は、この索漠とした灰色の近代空間を、新し いドラマで満たさなければならない、という欲求を抱くのだ。色鮮やかで、コントラストの強い、新しい形の「祭り」で満たしたい…………。
 実は、新しい形の「祭り」のオルガナイザーにはすでに先達がいる。それは孤独な思想家や芸術家たちだ。たとえばニーチェやゴッホといった人たち ………。人間性や新しい美を追い求めた彼らの思想や作品は時代のコード(規範)を破るものだった。それゆえ時代は彼らを無視し、排除し、システムの辺境へと追いやった。そこは近代社会の生産主義的理性が理性であるために排除した、もののけやら狂気やらエロスなど が徘徊する闇だった。マイノリティとして闇の中へ消えていった彼ら………しかしながら彼らの死後、時代は彼ら の言葉や芸術が眩しい輝きとともに闇へ通ずる辺境の空に立ちのぼってくるのを驚きとともに見つめるのである。
 私は彼らの言葉や芸術に近代社会に生まれた新しい「聖なるもの」を見る。「俗なるもの」に覆い尽くされた近代社会に彼らは「聖なるもの」の輝きを導き入れた。彼らは「聖なるもの」をつかむために、辺境への孤独な旅を引き受けたのだ。彼らは誤解と嘲笑に満ちた闇への道を、近代的な日常の安逸を捨て突き進んだのだ。彼らの悲劇的な生は、近代社会における孤独な「祭り」だ。そしてこの孤独な「祭り」の輝きは、彼らの自己犠牲的な辺境への歩みによってあがなわれているのだ。

 生産的な価値が支配する私たちの近代社会の辺境の地の彼方に、近代が失った外部(祭り)への脱出口がある。かつて「祭り」は季節ごとに訪れ、神は神殿に 降り立っていた。しかしそのような「聖なるもの」の輝きは、いまやつらい旅を乗り切って闘いとらねばならないものとなった。それが近代人の「祭り」の太陽 とのかかわり方なのだ。
 ニーチェやゴッホたちの後からも、次々と辺境の旅へと出発するものが現れた。アバンギャルド芸術、ダダ・シュルレアリスム………。そしてその流れはいまも途絶えてはいない。シチュアシオニスト、アウトノミアといった反体制的な運動の中にも、ニー チェやゴッホの中に燃えさかっていたのとまったく同じ「祭り」の奪回への意志を私は見るのである。
 芸術家とか哲学者とか革命家なんていう職業的なカテゴリーで彼らを語るのはやめたい。私はここで『祭りの戦士』という言葉を提案する。古代メキシコで太陽にエネルギーを与えるために戦ったアステカ戦士のように、近代の灰色の空に新しい「祭り」の太陽を輝かせるために、果敢にシステムに闘いを挑み、孤独を恐れず辺境への道を歩んでゆく者。それが『祭りの戦士』である。

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Q&A その3

 さて、万年筆さんからの最後の質問は以下のようなものです。

 3、荒井さんは、資本主義論者が労働/生産の利点を論理で押し付けて来た時、どのように感じられますか? 私ならイライラすると思います。分かってないくせに、と感じて。でも私が「祭り」を彼らに説こうとすれば、必ずや同じ反応が返ってくることでしょう。同じく存在する人間に世界観について諭されるのは嫌なものです。
 私は頑なまでに「作品」というものの力を信じております。なぜなら芸術作品だけが、こっそりとその創作者の生へ、人々の関心を向かわせてくれるからです。社会を変えようと思えば、システムに犯された人々の心を納得させ、変えるしか無い。ではその為の試みが徒労に終わった時、つまり自分の理論が通じなかった時、彼らを排除しますか? 殺しますか? 私は初めからコミュニケーションを通して理解し合い、変えてゆきたい。そしてその為に、おそらく「作品」のパワーに頼るでしょう。メッセージより強く、行動より説得力がある、と信じているので。
 ゲルニカに中1の時感動して、ピカソのことを調べました。そこには彼の生が、創作への態度、として存在していました。だから私は感動し、それを至高性以外の何ものでないと理解した。美術の教科書にあった絵はどれも単なる「絵」としてしか当時の私にはうつらなかったが、ゲルニカは訴えて来た。それは真にピカソの実力だと思います。既成の主義、無意識に我々を覆っている退屈な理性、それを芸術家としてのスキルが超えたのです。
 荒井さんのエッセイ/作品を見て、すぐにどういう人なのか知りたくなりました。勝手な、厚かましい意見ですが、知って抱いたのはただ一つ、絵を辞めてしまったのか・・・という、くちおしい気持ちです。


 3つ目の質問を読んで感じるのは、万年筆さんが「作品」表現に与えている特権的な地位とでもいったものです。
 人間である以上誰もがもっている自己主張、………自分を認めさせたい、わからせたいという欲望、(これをヘーゲルは承認を求める欲望として、世界史の原動力だと考えていました。)それが満ちあふれている万年筆さんの言葉には共感を抱きます。脚本家を目指す万年筆さんがその「作品」という形での自己表現の中に込めているもの、それはこの悪魔的なと言っていいほど熱い、承認を求める欲望なのだと思います。
 しかし、ひとつ言っておきたいのは、私が選択した「作品制作の拒否」という戦略の中にも、万年筆さんの中にたぎっているのと同じ欲望が貫徹しているということです。

 私の出発点は、「作品」表現とそれ以外の「日常」的な表現は等価であるべきだ。そしてこの二つの表現の間に矛盾があってはならない、というところでした。なぜなら、どちらの表現も同じ、自分を認めさせたいという欲望の発現だからです。つまり、万年筆さんが、資本主義論者と議論を闘わせているときの自己表現と、脚本で物語を創作するという表現の間に質の差があってはならないのではないかということです。少なくとも、どちらもが自己主張するという「祭り」(コミュニケーション)への意志であるなら、あらゆる表現の形がそのための手段となるからです。たとえば、万年筆さんが資本主義論者と熱く議論を闘わしている瞬間というのはたとえ実りのない議論に終わろうとも、間違いなく立派なコミュニケーションだと思うのですが………。

 私は頑なまでに「作品」というものの力を信じております。なぜなら芸術作品だけが、こっそりとその創作者の生へ、人々の関心を向かわせてくれるからです………と万年筆さんはいいます。そして、「作品」の力は、メッセージより強く、行動より説得力がある………と。
 本当にそうでしょうか? 「作品」よりも日常的な表現のほうが、説得力を持つ例はたくさんあるように思いますが………。1年間かけて作り上げた作品よりも、その人がふともらした言葉や、立ち居振る舞い、目つき、なんてものが多くを語ることだってあるんじゃないですか? どんな表現が説得力を持ち、自分の想いを伝える働きをするかなんて、それはもう状況によってさまざまでしょう。
 いい例になるかわかりませんが、惚れた女に自分の気持を伝えるのに、詩をつくり、曲をつけて歌って伝えるのと(そんな奴いないかもしれませんが)、モジモジと吃りながら直接伝えるのと、どっちが説得的かなんてわからないじゃないですか。女にもよるし、どっちのやり方でもダメかもしれないし………。
 それに、セザンヌにしろゴッホにしろ、彼らの作品は生前ほとんど誰にも相手にされなかったんですよ。むしろ私や万年筆さんのような思想的なマイノリティの場合、どのような表現方法を選択しても、誰にも理解されないなんていう事態を覚悟しておくべきかもしれません。彼らが偉大だったのは、それでもコミュニケーションへの意志を持ち続けた、ということにつきます。
 もちろん、コミュニケーションが理解につながる、というのはひとつの夢でしょう。しかし仮に作品のほうが説得力があったとしても、それが理解につながらない場合は多々あるわけです。むしろ私は理解されることそのものは目的としません。理解されようがされまいが、「祭り」(コミュニケーション)への意志を持ちつづけることが大事だと思うからです。
 とすれば、「作品」のほうが説得力があるなんていう手段の「効果」を問題にする理由もないように思うのですよ。

 とにかく、表現の形式はそれぞれ得意不得意もあって、説得力という意味でダイレクトなメッセージや行動と「作品」の間に優劣をつけるのはおかしいと思います。ただ、確かに「作品」は個人の身体的な限界をはるかに超えることができます。創作者のあずかり知らぬ遠いところで、また創作者が死んだ後も、コミュニケーションの力を発揮し続けている。それが作品メディアのパワーだというのならうなずけます。
 しかし、それら作品は創作者の意図を越えた扱いを受ける可能性ももっている。誤解されたり、祭り上げられたり、高額な商品として投機の対象になったり、と。ゴッホやピカソの絵が何億円するのか知りませんが、このような事態は、ピカソが『ゲルニカ』のカンバスに絵の具を塗り込めていたときの精神状態とは別世界の話であるのは万年筆さんも認めてくれると思います。
 「作品」にはこういう側面もあるわけです。そしてさらに私が感じるのは、芸術に現れている「祭り」の精神の反システム的な契機を、「作品」を商品化することでアーティストという職業的なカテゴリーへと押し込め、骨抜きにしてしまおうという資本主義社会のやり口です。だから私は「作品」化していない日常的な表現手段に「祭り」(コミュニケーションへ)の意志の発現を絞り込んだのです。これは、「祭り」を断罪する資本主義社会への反抗的な戦略です。

 万年筆さんは、荒井さんのエッセイ/作品を見て、すぐにどういう人なのか知りたくなりました。勝手な、厚かましい意見ですが、知って抱いたのはただ一つ、絵を辞めてしまったのか・・・という、くちおしい気持ちです………とおっしゃっているわけですが、「絵を辞めること」「作品の制作を拒否すること」は、表現の「欠如」では決してないということを理解して欲しいのです。逆にそれは日常を「祭り」で満たしたいという意志なのですよ。
 これはある意味、厳しい選択です。だって「じゃあ、あなたは何もやってないじゃないか。」「だだの、普通に人であるに過ぎないじゃないか。」と、「欠如」として理解されがちからです。万年筆さんもそう思うから「絵を辞めてしまったのか・・・」なんて思うのでしょうが。しかし、「ただの」ではない………。だって、「ただの」人はいま私が語っているこんなことは考えもしないし、万年筆さんとこのようにコミュニケーションすることもなかったのではないですか? ここで私たちが語りあったことも、ちっぽけな「祭り」だったんじゃないですか? ここにはひょっとして一枚の絵を描くよりも強力なコミュニケーションがあったんじゃないでしょうか?

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2005年 今年もよろしく!

 あけましておめでとうございます。

 新年からサイトのタイトルを『祭りの戦士』にすることにしました。実は「祭りの戦士」とは何かという解題テキストをしたためていたのですが、うっかり消去してしまって元日に間に合いませんでした。ま、これからまた練り直すとしましょう。
 実は年末にとある会社から届くはずであった仕事が、いまだ手元にありません。おそらく正月休みに入ってしまったと思われるので、もう正月は仕事がないと考えたほうがいいと思われます。この機会に、目前に迫っている教習所の仮免検定および学科試験に備えて三ヶ日はゆっくり勉強にあてようかと思います。オッ?………除夜の鐘が聞こえる………。今年もよろしく! ってことで。

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Q&A その2

 引き続き万年筆さんの質問に答えていきましょう。

 2、「祭り」がその地位を社会の中で回復し、資本主義的理知的労働/生産が取り除かれたとき、「祭り」はその浄化作用を失わずに「祭り」として存在し続けられるのですか? 毎日祭りだと正直飽きませんか? 祭りが社会システムの一部に組み込まれていたという遥か昔、祭りの散財する期間ではない、それ以外の期間、人々の暮らしは、現在の資本主義が与えてくれているような安定、を保持出来ていたのですか? 私は「祭り」の至高性に賛成ですが、資本主義的日常の保障も無視は出来ません。そして常に「祭り」であるような世界を好む気になれません。

 ………ということですが、私の書いたエッセイをよく読んでいただければわかると思いますが、私は確かに「祭り」がその地位を社会の中で回復すべきだ、とは言っていますが、資本主義的理知的労働/生産が取り除かれなければならない、とは言っていません。私たちは労働せずには生きてゆけないことは動かしようのない真実でしょう。おそらく万年筆さんがお読みになったであろう、カイヨワの『祭りの理論』にもありますが、「祭り」とは浪費と破壊の時間です。現実問題として、労働がなくなり浪費と破壊が続くような世界はありえないでしょう。「祭り」の毎日に飽きるとか飽きないとかの問題ではなく、そのような世界で私たちが生きてゆくことはできないと思います。
 誤解しないでいただきたいのですが、私は労働のない社会を夢見ているのではありません。そうではなくて私が願っているのは、社会が近代化(資本主義化)する以前には存在していた浪費の価値と権利を、近代社会に取り戻したい、ということです。したがって、常に「祭り」であるような世界を好む気になれませんという万年筆さんの指摘はまったくの的外れであることはまず言っておかなければなりません。(おそらく「祭り」は瞬間的なものでしょう。『一時的自律ゾーン』(ハキム・ベイ)という言葉がありますが、これは私の考えている「新しい祭り」と重なるような気がしてなりません。)もう一度私が問題にしていることを整理しておきます。

 近代化以前の社会においては、むしろ浪費は中心的な価値として社会の上に君臨していました。民衆は「祭り」の日のために働いていた………。さらに王侯や貴族、僧侶、などの存在、王宮や寺院などのモニュメンタルな建築、美術など、生産された富は惜しげもなくこのような非生産的な価値に向けて浪費されていたのです。
 しかし、ブルジョワジーが権力を持ち、社会が産業化するとともに、浪費に変わって生産が中心的な価値として登場してきます。ブルジョワジーは伝統的な身分制度を打ち壊したわけですが、それとともにシステムに組み込まれていた浪費の価値を断罪することになります。その結果、伝統的な祭りや、王権や宗教など浪費のシンボルは、私たちの近代社会においてはすっかり形骸化し戯画と化しています。

 つまり、近代社会はデモクラシーを獲得しましたが、それ以前の社会が保持していた、日常/祭り、の二項対立のうちの日常の秩序、すなわち生産労働の価値が全面化するという事態をも招いたというわけです。私たち近代人の上には生産の価値が君臨し、教育などを通じて生産の価値(勤勉な労働倫理)は私たち一人一人に内面化するに至っています。
 カイヨワも労働の秩序が支配する日常というものに関して『毎日仕事に明け暮れる、規則的で平穏な生活。禁止の体系の枠に組み込まれ、万事が慎重さそのものの生活。「静して動さず」の格言が世の秩序を維持しているこうした生活…………』と述べていますが、労働の秩序の規則的で平穏な退屈さが私たち近代人の生活全体を覆い尽くしてしまったということです。

 万年筆さんもきっとそうだと思うのですが、みんなが毛嫌いし、社会派のロック歌手なんかが告発しようとする「レールの敷かれた人生」の退屈さというのは、産業社会の生産的な秩序特有のものなのです。誰もが納得していない………。心の中に漠然と、あるいはピリピリと………働くための生、生産のための道具になってしまっている自分から脱出するための出口を求めているのではないでしょうか。
 産業社会のシステム、生産の秩序の外部への突破口。それはもうかつての「祭り」の形態(近代以前の浪費の制度)にたよることでは発見できない………。おそらくは、まったく新しい形態の「祭り」をシステムへの反抗という形で闘いとらねばならないのだと思うのです。
 ようするに私が『祭りのあと』というエッセイで言いたかったのは、この生産の秩序の外部への新しい道筋を見いだし、進んでゆくことが、新しい「祭り」の形になるだろうということ、そしてアバンギャルド芸術はまさにその新しい「祭り」の形であった、ということです。

 「祭り」(浪費)の価値を肯定する社会の実現というものはひとつの夢なのかもしれません。(共産主義の目指すところは、ここにあるのじゃないかと私はやや強引に解釈しています。)ですが、出来上がった社会はひとつの体制でしかないわけで、それは結局抑圧的に働き出すのだろうと思わざるを得ません。
 退屈で、勤勉の倫理をおしつけてくる私たちの近代社会を活性化しようと願うならば、もはや伝統的な形態としては失われてしまっている生産の秩序の外部への新たな突破口をうがつために闘わなければならない。そしてその闘いそのものが新しい「祭り」なのだと………、圧倒的に巨大化した生産の社会に少しでも多くの「祭り」をぶち込むこと………、私たち一人一人が「祭り」の輝きをまとうこと………。それはシステムに隷属的にではなく、自律的に生きることなのだと思います。
 ………でもそう考えてみると、近代資本主義社会というものは、私たち一人一人に新しい「祭り」の可能性を提供してくれたんじゃないかとすら思えてしまいますが(笑)。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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