泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: フンデルトワッサー   Tags: 芸術  フンデルトワッサー  

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タシスム讃



 「闇の中に咲くあだ花というイメージは、彼の絵のみでなく、彼の存在をも意味する。オーストリアの世紀末の画家、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレの影を背負って、現代に生きる画家としてのフンデルトワッサーには、あだ花という言葉が一番よく似合っている。」 池和田侑子『闇から生まれた色』

 フンデルトワッサーの絵に、エゴン・シーレとパウル・クレーの影響があることはすぐわかったけど、シーレよりも純粋で、クレーよりも生命力がある、と僕は思った。

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ブログとは?

 『ブログを運営するのは殆どの人にとって仕事ではない。楽しいから、面白いからやっている、はず。だから多くの人にとっては趣味に属すると思われ、当然面白くなくなってしまえば続ける理由はない。しかしひきこもりのオレにとってはこれは趣味とは言えない。趣味とはあくまで仕事がある人のものだと思う。じゃあ何なのか?となるとよく分からないというしかない。というよりよく考えてみればブログを開設する人の心理自体結構謎だったりするんじゃないか?実はそこが一番重要だったりして、この心理の闇は相当深い。』 ( from 『大ブロ式』)

………というsantaro_yさんのエントリーに触発されて、ブログ(僕にとってのだけど)って何?っていう問題への自分なりの答えを述べてみたい。
 もう20年も昔のことだけど、自分で絵を描いて、銀座の画廊を1週間借りて個展を開いたことがあった。当時の職場で、あるおじさんに「展覧会開いたんだって? で、絵は売れたのか?」みたいなことを聞かれたんだ。僕は純粋に自己表現のために絵を描いてたので、絵を売るという考えはまったくなかった。だから「いやあ、売るつもりで絵を描いてるわけじゃないんですよ。」と答えると、「何だ、じゃあ道楽みたいなもんか……。」と言われてしまった。
 まあ、このおじさんみたいな感じ方っていうのは、ごく一般的なあたりまえの感性だと思う。つまり世間では、売るために絵を描くことは「仕事」になるけど、売る気のない絵を描くことは「道楽」だったり「趣味」でしかないってことだ。で、どっちかと言えば、いや、あきらかに、人生においてホンチャンなのは「仕事」のほうで、「道楽」とか「趣味」はあくまでも息抜きやお遊びでしかない。
 描いた絵が「売れる=商品となって交換価値を生む」なら、絵を描くことは生産行為(労働)となるが、商品であることに無関心な場合、絵を描く行為は非生産的な浪費活動でしかない、ということになるのだ。さらに、商品をつくる生産行為(労働)は真面目で真剣な、肯定的な活動と理解されるが、浪費活動は無責任で、お気楽な………せいぜいリフレッシュのためのものでしかない………というあくまでネガティブな評価しかされないのだ。

 これは、何度も書いてきたことだけど、資本主義社会の「勤勉であれ」という規範が内面化されたことによる感じ方だ。生産以外の活動は、資本主義社会下においては「無駄」であり「浪費」であり「怠惰」であるとして責められるべき悪である。
 だが、芸術の表現活動というものはそもそもエネルギーの浪費、非生産的な消尽活動だったのである。そのような無目的に世界を彩る営みがなかったとすれば、僕らの生は、労働のための生という味も素っ気もないものにまで切り縮められてしまう。人間をそんな労働奴隷のような役割に追いつめる資本主義社会に一石を投じたい、という切実な(笑)願いもあって、僕は「無駄」な絵を描いていたのだ。

 それはいいとして、ブログなんだけど………まあ、僕的には絵とまったく同じものかな、と思っている。つまり非生産的なエネルギーの浪費活動だと思っている。したがってそれは資本の立場からすればまさに「無駄」なことであり、無意味な「道楽」に過ぎないだろう。実際こうしてパソコンの前に座って文章考えるのって随分時間がかかることで、こうしてる間に働いてれば金になるなあ、っていつも思っている。が、アーティスト魂からすれば、その「無駄」なことこそ追求しなければならない目的だったりする。だって、やっぱり無駄な活動こそが面白いというか、大きく出れば宇宙の存在自体、一つの巨大で無駄な遊びじゃないか、と思うわけだ。

 だから、santaro_yさんの言葉をちょっと訂正したいのは、「しかしひきこもりのオレにとってはこれは趣味とは言えない。趣味とはあくまで仕事がある人のものだと思う。」というところで、たぶんsantaro_yさんにとってブログは、かなり切実な、なくてはならないコミュニケーションツールだと思うんだけど、それを「趣味」や「道楽」とだけ見なしてしまうのは「仕事がある人」なんじゃなくて、「仕事(生産労働)こそが人生にとってホンチャンの、真面目に追求するべき価値だ、と思ってる人」、つまり資本主義的な「勤勉」の規範を内面化している人、なんだと思う。だって、僕は馬車馬のように仕方なく毎日働いてるし、ひきこもっているわけではないけど、僕のブログは自分にとってたんなる趣味や道楽ではないですから………。

 ただ、ブログがすべてか、と言われるとやはりそうじゃないと思う。ブログにしても芸術(美術、文学、演劇、映画など)にしても、結局、表現のメディアでありコミュニケーションツールだ。それはフィクション(虚構)にすぎない………というのも虚構の中でならいくらでも自分をつくれるからね。確かに今現在の僕をいちばん雄弁に語っているのはこのブログなのかもしれないけど、だからといってブログに記事をを書くために生きてるわけじゃない。それは絵を描いていたときもまったく同じで、やはり身体をもった自分自身の生(実存とでもいうのか……)というものが一つの中心としてあるのかな、と思う。だからとりあえずは、ブログはツール、道具として考えていいと思う。(ただ、自分でも整理できてないんだけど、人間はあらゆる道具に囲まれて生きていて、道具と容易に共生関係をとることができるというか、一体化しているので、単純にそれらを道具と言い切っちゃっていいんだろうか、なんていう疑問は持っている。)とにかく僕は画家であるとかブロガーである以前に、やっぱり一人の人間存在であるわけで、絵にしろブログにしろ、その存在を充実させるための道具である、と考えている。

 そんなわけで僕の場合もsantaro_yさんが言ってるように、ブログを書くことが「楽しいから、面白いからやっている」ってことは間違いない。だが、それはどうすれば楽しく面白いものになるか、というのはもう一つの問題だ。
 個人的にはブログにのせたエントリーが、逆に自分を追いつめることができる限りで、それは面白いものになる、と思っている。自分自身に試練を与えるようなエントリーでなければ、わざわざブログを開設する意味がないかな、と。まあ、追いつめすぎて精神的に厳しいことになっちゃったんじゃしょうがないから、あくまでもその試練を楽しめる余裕があるかぎりで、という但し書きがつくけれど。
 付け加えておけば、その条件を満たすなら、レスポンスがなくても全然構わない。誰も見に来てくれなければブログをやる意味ないけど、メディアやツールを用いたコミュニケーションの場合、レスポンス自体は目的じゃないと思う。絵や彫刻を展示したってほとんどレスポンスなんてないのと同じでね。レスが欲しいなら、誰かをひっつかまえてダイレクトに自己主張でもすればいい、と思う。

 長くなっちゃうんで、このへんにするけど、ようするに僕にとっては「ブログを開設する人の心理」はごくあたりまえのことで、たいして謎とは思わない。それは金にならなくても絵を描いたり、詩をつくったり、歌ったり踊ったりするのと同じ、自己表現でありエネルギーの放出だ。それは非生産的な1つのアクション、たとえばニートであることや、ひきこもることもそうであるような、無目的的で積極的なアクションだと思う。

 トラックバック  [ブログに関する話]「沈黙のオーディエンス」について(2)  〜大ブロ式〜

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花粉症とセキュリティ

 春が近づいたせいか、マスクをかけた人をよく見かけるようになりました。今年は昨年の何倍だかの花粉が飛ぶとかで、花粉症の人にはつらい春になりそうです。
 ところで、だいぶ昔に読んだのですが、寄生虫博士として有名な藤田紘一郎さんの本で、花粉症の蔓延の原因の一つとして過度の衛生観念の浸透、ということが挙げられていました。日本の場合、回虫が日本人の体から駆逐されてゆくのとともに、花粉症に苦しむ人が増えていったというデータがあって、寄生虫の体内での存在が花粉症の発症にストップをかけていた、というのです。
 エーッ、本当かよ、と思うのですが、本を読んでみるとなかなか説得的で、免疫学の知見からこの説が語られていました。要は、近代化の進行とともに、近代的な衛生観念が国民に浸透し、寄生虫が日本人の体からいなくなることで、免疫システムに微妙な変化が起こって、スギ花粉に対するアレルギー反応を起こしやすいようになった、ということらしいのです。かつての恒常的な異物(回虫)との接触が、花粉症のストッパーになっていたのだと………。
 もちろん私にはこの説の正しさを証明することなどできません。ただ、人体と異物をめぐるこうした免疫学の考え方というのは、メタファーとして面白い、と思います。

 衛生といっても、実際にはまじない的な、「清め」とか「みそぎ」みたいな要素が、医学的な因果関係と混じり合っている………。私たちは子供の頃からトイレのあとには手を洗えとうるさく言われてきました。排泄物が汚い、不衛生だ、ということなのでしょうが、ウンコしたって、ほとんどウンコそのものには触れていないし、石けんで手を洗わなければならないほど不潔なことなのだろうか、と私はずっと思ってきたものです。実はめんどくさいので私はほとんどトイレのあと、手を洗っていません。そのために私がなんらかの感染症になったことなんてないと思います。それに最近では健康のため自分の尿を飲む、なんて話も聞くし、スカトロジーというか、ウンコを好きで食べる人もいるわけで(東南アジアでは人間のウンコは犬やブタの御馳走だったりもする。)、排泄物自体が、人間にとって決定的な毒であるとは思えません。
 私の知り合いに潔癖性らしき人がいて、トイレのあと、水道の蛇口をいっぱいに開いて、30秒ぐらいジャブジャブと手を洗い続けている………。部屋にカルキ臭が満ちてくるのがわかるほどです。いや、衛生学的には推奨される行為なのでしょうが、小便のたびにそれなのです。はたしてそこまでする必要があるのでしょうか? 結局のところ手洗いなんて「清め」の儀式なんじゃないのか、と私は思うのです。

 文化人類学なんかでよく言ってることですが、「穢れ」が「穢れ」であるのは、実体的にそのものが穢れているからではなく、あるものが「穢れ」として排除されるからこそ、それが「穢れたもの」になる………排泄物が汚く、臭く、穢れているのは、まず排泄物が「穢れ」として排除されているからだ………その排除によって、逆に私たちの清浄な日常の秩序が誕生する………。
 近代社会はその日常からひたすら「穢れた」要素=異物を排除してきました。明朗かつ計算可能で均質な近代空間は、不気味でいかがわしい「穢れた」闇を葬り去ることで成り立っています。死、狂気、病い、暴力など、不安をもたらす闇の表象は日常から排除され隠蔽される。衛生も、そのような近代化のプロジェクトの実践なのです。
 感染症とそれがもたらす死、腐敗などへの恐怖、それは病原菌が繁殖する異物との接触への恐怖であるとともに、「穢れ」との接触との恐怖でもあります。これは細菌学、病理学と呪術の混合とでも言ったものでしょう………。

 排除するからこそ「穢れる」。そして徹底的に排除し隠蔽しつづけるなら、「穢れ/異物」は私たちの日常の表層からは姿を消すかもしれません。しかし、どこか見えないところでその存在を影のように増大させている………。抑圧したものが、無意識の中で生き続け、自我を背後から脅かしつづけるというのは精神分析の考え方でした。「穢れ/異物」を日常から消し去ってしまうことで、むしろ私たちは「穢れ/異物」に対してより敏感になるのではないでしょうか。全体的に私たちの「穢れ/異物」に対する感受性の閾値が上昇し、ちょっとしたことで「穢れ/異物」との接触への恐怖が甦ってくるほど過敏になる。
 衛生観念の浸透が、花粉症のようなアレルギー症を増加させているという考えは象徴的です。過剰な清潔への指向が、逆に身体の異物に対する防御反応を過敏にしているのです。何でもないことが身体にショックを与えるほどに私たちの身体の防御態勢の閾値は上昇している。O-157という病原性大腸菌が問題になったことがありましたが、重症化した感染者を調べてみると、わりと几帳面な潔癖性気味の人が多かった、なんて調査もあるといいます。清潔な人ほど異物に対する反応はパニックを引き起こすほど危険なものになってしまう。寄生虫博士の藤田さんは「清潔は病気だ。」といっていますが、実際のところどうなのでしょうか?
 少なくとも、まじない的な「穢れ」への感受性という面においては、排除の徹底が逆に排除された「異物」との接触をより恐れさせ、排除された「異物」への感受性を過敏にさせる、ということは間違いないように思います。衛生観念を徹底的に叩き込まれ、内面化している人ほど、ちょっとした汚物との接触が、もう耐えられないものになっているのではないでしょうか。そのような人はきっと、トイレのたびに長々と手を洗い続けなければ気が済まないのでしょう。それだけの努力をしなければ、恐ろしい「穢れ」が彼/彼女の身体をどこからか襲いかねないのです。
 しかしどうでしょう。そのような潔癖性的なパーソナリィティというのは、どうもつきあいづらいせせこましいものに思えないでしょうか。いや、不潔な人がいいって言ってるわけじゃないのですが、どうも異物への過剰な防御をとる姿に、ホスピタリティの欠如を感じてしまうのです。

 話は南国に飛びますが、タイでは乳児におむつをさせていないことが多い。スッポンポンで排泄物は垂れ流し状態です。そのため乳児のいる家が小便臭いことがよくあるほどです。私の義理の姉(タイ人)の子供が赤ん坊だった頃ですが、スッポンポンのそのお尻からウンコがひねり出されてくるのが見えました。義理の姉はそれに気付くと指で肛門をチョイッとひとふきしてウンコを取り除き庭にポイッと捨てたのです。私は「ワッ!」と思いました。彼女が平然とやってのけたこの行為を私はできるだろうか、と思ったのです。 
 やがて私にも子供ができました。おむつを替えるときどう感じるだろうと心配でしたが、結局慣れてしまったのか、赤ん坊のウンコを取り立てて不潔だとは感じることはありませんでした。私も平然と子供のウンコにさわりお尻をティッシュで拭き取るようになったのです。
 ところが、私の母親は驚いたことに自分の孫の排泄物にさわれないのです。明らかに清潔好きな彼女にとってウンコは誰のものであろうと不潔なもののようで、かわいいはずの孫のおむつを2本の指でつまんで捨てにいくありさまです。孫のウンコを愛おしく思え、とは言いませんが、その姿に私はどこか悲しいものを感じてしまいます。
 くりかえしますが、人間は不潔であるべきだ、などと言いたいのではありません。私だって汚物の中を転げ回りたいなどは思わない………問題なのは異物との独特でアンビヴァレントな距離のとり方………激しく拒否し、怖れ、排除したものを、再び迎え入れようとするだけの度量………すなわちホスピタリティなのです。

 「穢れ」を排除し、穢れたものとの接触を禁忌することは、人間性というか、文化の基礎です。タブー(禁忌)の存在こそが人間を人間たらしめている。したがって排除行為自体はきわめて人間的なことなのです。が、それは一面的にそうであるに過ぎない………。タブー(禁止)はそれを破るために設定される、と言ったのはジョルジュ・バタイユでしたが、排除行為も実は「排除されたもの」との再会を前提としていると考えるべきでしょう。
 排除とは聖別でもある。それは排除されたものに非日常的で特殊な「力」を付与します。神秘的であり、猥褻でもあり、日常的な清浄な空間に慣れきった精神にぐさりとアクセントを突き刺すような、興奮や混乱をもたらす「力」………それは「呪力」と言ってもいいかもしれません………を、「排除されたもの」は持つのです。ときには深い歓びを、ときには恐怖をもたらす驚異の存在、それが排除された異物のあり方です。
 まあ、排泄物に深い歓びを感じる人はあまりいないかもしれませんが、ウンコや嘔吐物は明らかに「呪力」を持っています。歩いてゆく先にウンコがあれば、誰だって身構えてよけるだろうし、ウンコを踏んづけた子供は、その瞬間負の呪力をまとい、仲間たちから接触を忌避されるでしょう。(最近の子供は「えんがちょ」なんて言葉を使うのだろうか?)また、夜の駅のホームの片隅に色鮮やかな花のように広がった嘔吐物は、私たちに強烈な印象を与えずにはおきません。体調の悪いときなどもらいゲロをしてしまいそうになるほど、あいつは強い「呪力」を発しているのです。
 排泄物の話ばかりになってしまいましたが、私が言いたかったのは、排除された異物との接触というものは、日常性に混乱をもたらすイレギュラーな事態だ、ということです。死や狂気、また暴力やエロスなどが突然、日常に挿入されると、私たちの精神は揺れ動き、波立ち、冷静さを失ってしまう。イレギュラーが日常のリズムを狂わすのです。
 しかしまた、イレギュラーは私たちにとって歓びや笑いのもとでもある。イレギュラーな事態は、坦々とした退屈な日常に思わぬ変化や彩りをもたらすため、私たちは興奮し、胸を高鳴らせ、痙攣的に爆笑したりする。そしてちっぽけな自分の自我の壁は崩され、大きな一体感の中に溶けてゆくのです。「祭り」というものが一体何であるのか、一言でいってそれは、労働の支配する退屈な日常に差し込まれた巨大なイレギュラーである、と言えるでしょう。

 したがって、人間性を語るには、原初の排除=タブー(禁止)の誕生とともに、禁止されたもの(異物)との再会という二つの面について考えなければならないのです。おそらく前者の排除は「労働」や「生産」の秩序にかかわり、後者の異物との接触は感情やエネルギーの「浪費」とかかわっていると思われます。再会するために引き裂く、というこの人間にだけ存在する遠回りしたドラマ作りの営みは何なんだろう、私たちは、これを「過剰」とか「遊び」とかいう言葉でしか表現することしかできないのですが、まあそれはおいておきましょう。………ここでは、排除された「異物」との再接触が、私たちに深いエモーショナルな感動(コミュニケーション)をもたらすものだということをおさえておきたいと思います。
 私は潔癖性の人にホスピタリティの欠如を感じると言いました。最近ではホスピタリティという言葉は接客業のスキルとしてしか使われないでしょうが、先ほども言ったように、ここでは「排除したものを再び受け入れることのできる度量」………すなわち「異人歓待」と訳される意味で問題にしてゆきたい。いってみれば、ホスピタリティとは「異物との親和性」と考えることができそうです。
 穢れた異物との接触を拒絶する潔癖性の人は、なるほど清浄な日常性の秩序の中に、つまり、人間が人間であるための必要条件である「労働」の秩序の中にはいますが、それを越えた「コミュニケーション」を拒絶してしまいがちなのではないでしょうか。私たちはただただ生き延びているのではない。喜び、悲しみ、ときには激情に身を任せたりもします………それは世界を揺るがせる深い快感だと思うのですが、潔癖性の人のパーソナリティというのは、エモーショナルな心のうねりの支配する非日常性や無秩序にはけっして身を任せようとはしない、心理的な「硬さ」を特徴的に持っているような気がするのです。
 日常性を支配する「労働」の根本的な動機は、個的な生命体の存続(生き延び)にあります。日常性を成立させる原初の排除(すなわち労働の秩序)はしっかりと引き受けるが、その排除された異物との再接触を拒む人というのは、結局自分自身の個的な自我の存続にあくまでも固執した人間的な「狭さ」を持っているのではないでしょうか。自分の生存のための透明な世界をかたくなに守っている人………、バリケードを張り巡らし、自らを脅かす何かが侵入してくることをたえず警戒し続けている人………、そのような神経質で常に構えている人というのは狭量で付き合いづらい人なのではないか………と、まあ私の直感を説明するとこうなるわけです。

 ですが、私は潔癖性の人を責めたいのではありません。そうではなくて、近代社会が指向してきた衛生観念の根源にも、したがって近代社会そのものの根源にも、潔癖性のパーソナリティ同様の「硬さ」や「狭さ」が見て取れるということ、つまり、近代社会の執拗なまでの異物の排除の傾向が、またそのことによるコミュニケーションの拒絶、すなわち異物との再接触の拒否の傾向があって、その結果、逆に異物に対して不安や恐怖を感じるほどに社会全体が神経質な状態になっているんじゃないか、ということがいいたいのです。まさしく私たちの社会は、「異物」の侵入を怖れてバリケードを張り巡らし、24時間、360度にわたって警戒を解くことができなくなりつつあるのではないでしょうか。私たちの近代社会は「異物」に対して異常なほど反応の閾値を高めており、その結果、重度のアレルギー体質になりつつあるのです。そのピリピリとした過剰な防御態勢がどうにも息苦しく、世の中を住みにくいものにしているように思われてならないのです。

 学校に異常者が侵入し、児童や教師を殺傷するという事件が相次いでいます。冷ややかで、不気味な不安をかき立てる事件………警察に学校を警備させたほうがいいのではないか、などという話も出ているようです。殺人鬼によって愛する子供が苦痛とともに命を奪われることを想像して平然としていられる親はいないでしょう。子を持つ親として私もみんなが感じている不安や恐怖はよく理解できます。もっとも今、こういったセキュリティに関する議論をする準備を私は持ち合わせていないのですが、気になることを一つだけ指摘しておきたいと思います。
 凶器を持った残虐な犯罪者が、人に襲いかかる………。このような事件は残念なことですが、どんなにセキュリティを強化したところでなくなることはないでしょう。自然にしろ人間にしろ基本的には暴力的な存在なのです。ついこの間まで、日本人だって戦争をしていた。国家を挙げての殺人行為をおこなっていたのです。人類が誕生して以来の歴史は、まさしく血塗られたもの以外の何ものでもありません。
 むしろ数字の上では、今の日本で犯罪に巻き込まれ死ぬ人の数は過去と較べれば問題にならないほど少ない、というのが実情じゃないでしょうか。おそらくかつてないほど安全な環境の中で私たちは生きているはずでしょう。戦時中、おそらく死は非常に身近なものだったに違いありません。頭上から降り注がれる爆弾、焼夷弾、そして原子爆弾………国民は、国のために死ね、とすら言われていたのです。虫けらのような私たちの命………それに較べれば、いかに現在が安全な社会であるかわかるというものです。 
 であるにもかかわらず、私たちの日常は異様なまでの不安に満ちているます。「怖くて子供を学校に行かせたくない………」みたいなことすら児童の親が言っていましたが、この不安はどこからくるのでしょうか。
 確かに安全ということだけを考えると、ここに行き着きます。外に出なければ危険に遭遇する可能性は減るだろうから。子供も学校に行かなければ、鋭利な刃物を持った殺人鬼に出会うことはないのは事実です。しかし皆が皆、安全のため誰にも会わず、家に閉じこもって生き続ける、というのはやはり不自然というか、あまりにも味気ない、悲しい光景です。
 生き延びるだけでなく、人の中で、コミュニケーションの中で生きようとするとき、どうしたって生命の危険と遭遇せずにはいられないのではないか。いや厳密に考えれば、私たちはこの世に生まれ落ちた瞬間から「死」の射程圏内に入るのです。何の不安もなく日常を過ごしているという状態はまったくの過信に過ぎない。足を滑らせたら最後、死の暗闇に転落してしまう綱渡り、それが私たちの生の実情というものでしょう。100%完璧に死の危険から身を守ることは不可能です。どうあがいたところで結局私たちは死ぬ運命にあるのですから。

 ようするに、「守り」に入りだすときりがないのです。先程述べたように、私たちの近代社会の日常は「守り」の意識が突出しています。神経質にバリケードを張り巡らせ、危険への防御意識はまさにアレルギー体質のように過敏になっている。だからこそ犯罪者のような「異物」に出合うと、私たちの社会の免疫体系は激しいアレルギー反応に陥るのです。戦時中にあったであろう日常的な死への不安や危機感は、現代においてはたった一人の異常者によって広範に引き起こされてしまうのです。
 いつの時代にも異常者(異物)は存在したでしょう。しかし現代ほど「異物」が異様な不安や恐怖の表象と結びついている時代はかつてなかったのではないでしょうか。清浄な空間をつくることを目指してきた近代社会は、そのプロジェクトを進行させるにともなって、その清浄なる空間に唐突に闖入した「異物」に痙攣的に驚愕せざるを得なくなっているのです。たぶん、危険な異常者が増加したのではなく、逆に社会全体の空気が異常者を危険なエッジを纏わせながら浮き立たせている。それが、安全であるはずの社会が不安に満ちているように感じられる原因なのではないでしょうか。
 殺人鬼の心理は私には想像もできないのですが、たとえばこんな考え方はどうでしょうか。少しでも異質な存在であると社会から認知されはじめると、その人は社会が想い描く異常者の表象を自ら受け入れて、社会の描き出すシナリオ通りの「異物」の物語を演じ始める。反社会的で、危険で凶悪な「異物」の物語を………。勝手な想像ではありますが、社会の側が結局、排除すべき「異物」を必要としているのかもしれない。ひょっとして学校に刃物を持って押し入る殺人鬼というものは、私たちの近代社会が分泌した「物語」なのかもしれません。彼らは生贄的にその役回りを演じきってしまったのかもしれません。彼らには殺人の欲望があったのか? あったとしてその欲望は満たされたのか? もしかすると、操り人形のようにやらされてしまった、なんてことはないだろか、陰惨な事件を見るにつけ、そんなことを考えてしまいます。
 きっと、これからますます犯罪に対するセキュリティは強化されてゆくと思われます。警察やガードマン、監視カメラなどが僕らの日常をチェックし、未然に犯罪から社会を守る方向へ向かうに違いないでしょう。ですが、想像するに、そのような「守り」の意識を高めれば高めるほど、不安も高まるに違いありません。ちょっとした「異物」に出合うだけで社会の防御体系は大規模に作動を開始してしまう。一億総中流の日本社会から、なんらかの形で逸脱する分子は、防御システムのよって「異物」として判断され排除される。「魔女狩り」という言葉を思い出すのですが、あやしい「異物」の臭いを発する人物はどんどん排除されていって、最終的には不気味に浄化された徹底的に均質な社会空間が出現するんじゃないでしょうか。
 だがその浄化され、セキュリティの完備した安全なはずの空間は、人間味を一切欠いた個々がバラバラに分断された砂漠のような空間でもあるのではないかと思われます。なぜならお互いがお互いを、均質で清浄な空間を乱す「異物」でないか監視し合いながら生きることになるだろうからです。不安を呼び起こす異物は絶対にあってはならないのです。それはけっして豊かでも心が落ち着ける親密な空間でもないように思います。おそらく「守り」の意識が行き着くところはこんな寒々とした風景じゃないでしょうか。

 じゃあ、どうすりゃいいんだ、ってことになりますが、単純に言って「守り」から「攻め」に転じるしかないのではないでしょうか。どう守ったところで危険から完全に逃れるすべはないのだから、開き直って逆に「攻め」に出てみてはどうかと思うのです。
 古いフォークソングで申しわけないのですが、海援隊の『俺が信長』という曲にこんなフレーズがあります。「天から貰うた 命のクセに 返すのを惜しんで 泣いて居るのか………」と。
 私たちの命は、いつか返さなければならない天からの貰いものです。そんなちっぽけな命にしがみつき、惜しんで守りに入りだすと、私たちは逆に自在さを失ってしまう。私たちは不安に備えて貯金をし、財産を蓄える。そうすると逆にその財産を狙う泥棒や詐欺を警戒し、さらに守りの意識が高まってゆくという事実があります。
 また、万が一に備えて年金を積み立て、生命保険に入り、火災保険、自動車保険にはいり………とやっていくと、結局、私たちの手元にあるのは保険料を払うために働く毎日だ、ということになってしまいます。こうして自分の人生はガチガチにプロテクトされ、重い鎧をぶらさげたまま、やりたいこともやれず、挑戦したいことにもアタックできない、まったく鈍重なカメのような歩みしかできなくなってしまうのです。
 いや、戦国時代と現代をまぜこぜにして混乱するかもしれませんが、おそらく信長についてのこの歌は、いつかは返さなければならない命であれば、守ることをせず、惜しみなく、危険に向かって投げ出してやる、つまり「攻め」に出るべきだと………また、そのような信長の位置からは、逆に守りに入り重くなって震えている奴らは笑い飛ばすべきものでしかない、ということ………そして、そのような「守り」に入らない軽さがあってこそのスピード感で、天下を取るところまで行ったのだということ………この歌にはそんな思想がこめられているような気がします。まあ「守り」のスタンスからは何も生まれないってこと、それだけは間違いありません。
 戦時中私たちは国のために死ねと言われていましたが、戦後になって価値判断はひっくり返り、「命の重さ」「命の大切さ」が、至上の価値になりました。さらに様々な面で近代化の制度が整えられます。社会保険制度や衛生のプロジェクト………それらはいわば、私たちの「生き延び」のための、リスク回避のための「守り」のプロジェクトでした。戦後半世紀以上が過ぎた今、それら「守り」のプロジェクトは逆に私たちに重くのしかかり、自由に呼吸することも許されないような圧迫感をもたらしているのです。だからこそ、私たちが必要としている戦略は「攻め」なのです。

 もうちょっと具体的に「攻め」ということについて言うと、それは近代社会が排除し隠蔽し続けている「異物」に正面から向き合うこと、そしてその「異物」を恋人を抱擁するように迎え入れることです。そしてまたそれは、死や狂気、魑魅魍魎や穢れたものがうごめく闇を正視することでもあります。そこにはイレギュラーな事態が満ちあふれています。イレギュラーは危険の源泉であるとともに歓びのもとでもあるのです。
 上で私は『「祭り」とは、労働の支配する退屈な日常に差し込まれた巨大なイレギュラーである。』と述べました。気がついてみれば、イレギュラーな「異物」の排除に躍起になっていた近代人のもとからは、「祭り」がなくなってしまいました。ホスピタリティの器量とともに、歓びをも失ってしまったのです。「祭り」のエネルギー源は「異物」との対面のもとにしかあり得ないのです。私が「攻め」に転ずる、というとき夢見るのは、そのような「祭り」の光景………闇ナベのようにいろんな「異物」がゴッタ煮状態にあるような光景です。多分それはセキュリティの完備した安全で平和な郊外のニュータウンとは正反対の迷宮のような世界です。
 もっともそれは夢の光景です。とりあえず、今現在私たちが選べる戦略について個人的な考えを言っておくとするなら、「攻め」に転ずるとは、自らが「異物」となること、につながるのではないかと思います。もちろんそれは自分が殺人鬼になる、なんてことではない。それでは社会が分泌したストーリーに自分を同化させてしまうだけです。殺人鬼になる、なんていうニヒルでつまらないイレギュラーはごめんだ。あくまでも社会の中に面白いイレギュラーを創り出す!ということなのだ。が、結果的にそのような行いは「異物」として、犯罪者的なものとして社会から認知されてしまうのではないかと思うのです。この唯一の希望は、誤解に満ちたつらい道です。しかしその道へ向かって舵をとる以外にどんな対抗策が、どんな「攻め」方があるだろうか、と思うのです。
 殺人のような残虐なイレギュラー行為は、明らかにルール違反です。しかし、一つだけ許される殺人があります。それを行う権利がある唯一の殺人の対象、それは自分自身です。近代社会に「祭り」をもたらすために自ら「異物」への道を選ぶ者………それは自分の命を自己犠牲的に捧げる生贄の「祭り」なのかもしれません。また「生贄」なんて言い方をしてしまいましたが、殺人鬼のように社会によって分泌された生贄と、自己犠牲的な生贄との間には大きな差があります。前者はリアクションであり、排除によってマジョリティがアイデンティファイするするための仕掛けですが、後者は肯定的なアクションなのです。生臭い言い方かもしれませんが、本当に陽気な「祭り」の影には「死」が、私たちにとって異物の中の異物、異物のキングである「死」がぽっかりと口を開けているものです。




 私の子供は今バンコクにいます。統計的にはバンコクの犯罪率は東京のそれよりはるかに高い………。殺人や誘拐も多いだろうし、聞いた話では犯罪者はあまり逮捕されないといいます。それは、ワイロをもらうのに忙しい警察のせいでもあるし、仕返しを恐れて捜査に協力しない市民のせいでもあるでしょう。さらに交通事故の数もひどい………。子供の安全、という面に関しては日本に暮らしたほうがずっといいはずなのです。なのになんでなんだろう? 日本で子育てすることの奇妙な不安は………。なんでなんだろう? 怪しく暗い闇を持つガチャガチャしたバンコクに子供がいたほうが私はホッとするのです。
 多分それはタイ人の持つホスピタリティのおかげではないかと思っています。一口には言えませんが、日本社会に較べると、タイの社会ははるかに柔軟なホスピタリティを持っています。それだけに統計上の数字では言い表せない、ざっくばらんなゆとりみたいなものを感じるのかもしれません。危険な闇をはらみつつも「異物」に寛容なタイ社会は、高度にセキュリティの張り巡らされた神経質な潔癖性のアレルギー社会日本よりも、健康なのかもしれません。根拠のないものとはわかっていますが、その辺りに私がタイでの子育てに不安を感じていない原因があるのかもしれない………と、まとめて終わることにします。

Category: アート・建築・デザイン   Tags:  スラム  思想  芸術  建築  

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スラム

 実は秘かに建築に興味を持っている。近代建築にも興味があってル・コルビジェとかミース、グロピウスなんて名前は頭に入っている。もちろん彼らの建築の意義は認めざるを得ない。伝統的、装飾的な建築を否定する形で近代建築は姿を現した。機能的で、国際的なじつにスッキリとした美観。そこには近代がどのようなものであるべきか、という思想が込められていた。近代のプロジェクトの壮大な実験であったのだ。が、時間の経過とともに当然ながら近代建築の様式に対して批判が提出される。が、それでも彼らの歴史的な意義は揺らぐことはないのである。
 ところでその後、建築様式のメインストリームとなって現れてきた、ポスト・モダニズム建築であるが、これがどうもいただけない。一言でいってつまらないのである。ちょっと見てほしいのだが………。


 僕のうちの近くにあるゴミ処理施設なんだけど、典型的なポスト・モダン建築で、田んぼの真ん中にこんなのが建っているんだ。


 よく見るとギリシアとかヨーロッパの宮廷みたいな建築様式が装飾的に使われている。


 設計した人には悪いんだけど、こういう小細工は面白くないし、よくあるラブホテルみたいな悪趣味さがある。こんな設計を任せた市もどうかしてるんじゃないかと思ってしまう。しかもこの施設は巨大なので妙な威圧感があるのだ。
 この感覚、何かに似てると思ってたんだけど、戦後のモダンアートの作品と同じだと気がついた。アンフォルメルとか抽象表現主義とかポップアートとかいろいろ流派があるけど、結局、あれらはすべて商品じゃないか、って僕は思ってしまう。ああやってアート作品同士の間でなんとかイズムとかいって、差異を競って、商品としての価値をひねり出そうという労働………それが戦後のモダンアートだと思うんだけど、ポスト・モダン建築もまったく同じなんだ。それは退屈なものなんだけど、新しい建築物はこぎれいで巨大なもんだから、こちらを力で圧倒してくる。なんていうか、資本主義社会の権力をこれ見よがしに見せつけられているようなそんな気になってくるのだ。システムには逆らえないよ、という無言の圧力を感じてしまう。
 たとえばなんだけど、同じゴミ処理場にしても、どうせデザインするならこのくらいやって欲しい、っていうのがこれ。建築というものでいかに自由な表現ができるか、日本の建築家も学んで欲しいものだ。

 一方、ポストモダン建築とは対極的なものではあるが、非常に面白い問題を提議している「建築」がある。
 『現代建築 ポストモダニズムを超えて』という本にスラムについての記述がある。ずっと前から気になっていた記述だ。ちょっと書き出してみよう。

『アジアやラテンアメリカにおいて大都市人口の半ばを占めるという、一都市数十万から数百万人が居住する現実のスラム、あるいはわれわれの幻像としてのスラムには、コミュニティがある。そこでは皆がいわば肩を寄せ合って暮らしており、ある一区画における生活の共同性は顕著である。それに対してたとえば我が国の今日の一般的な住宅地には、そういったコミュニティイの存在は希薄である。コミュニティの再生、それは近代建築、あるいは近代都市計画の誕生以来今日まで続く基本的テーマである。失われたコミュニティをわれわれはスラムに見いだし、ある感銘を受けるのであろう。そこには少なくとも人間がいる。生き生きした子供たちがいる。』

 そのあとに「同潤会アパート」についての記述が続く。随分古い鉄筋コンクリートのアパートなのだが、住民たちがそれぞれ勝手に部屋を広げるためや利便性を高めるために増築を繰り返した跡が見いだせるのだ。

『………既存のものは使いものにならなくなったのだろう。あとから取り付けられた給排水管が、こういった増室の隙間をはうように縦横に走っている。その光景は一瞬どきりとさせるほどのものだが、同時にある感動をわれわれに与えた。その感動はおそらく、生きること、住むことへの切実な欲求が建物に露に現れていることから来るのであろうし、また、建物がまさに生きている(増殖している)ことを目の当たりにしたことによるに違いない。』

 そして最後にこう締められる。

『われわれは、心の中では今日の工業化され、こぎれいにされた住宅や都市空間に対していつもなにか反発というか違和感を持っているのではないか。
 アーバニティという言葉がある。都市らしさといった意味の語だが、60年代、CIAMらの提案にはじまる整然としてこぎれいな近代都市計画や住宅地計画に対して、いわばゴチャゴチャとしてこみいった都市の提案のコンセプトとして生まれたものである。スラムやバラック街は、まさにこの反・こぎれいなものそのものである。そこでは都市や建築の構造が物体として文字通り透けて見える。そのことがわれわれを安心させるのだ。それに対して工業化された都市の中では、都市の構造も建築の構造もその滑らかな装いの中で隠されている。隠されているもの………見えないもの………に対するわれわれの不安がそこでの反発や違和感を生み出してると言えないか。
 アジアのスラムにおける建物やさきのバラックは、その大半が廃材によって造られているのだが、そのことが投げかける意味も大きい。廃材のコラージュとしてのそれらの建築が、かつてシュルレアリスムやダダがわれわれに与えた衝撃にも似た何かをおぼえさせるのだ。そこでは廃材………かつて生きられたもの………が、プロの職人ではなく素人による新しい組み合わせの中で新しい意味をもってわれわれの前に現出する。と同時に次のこともわれわれに気づかせる。使い捨てられ見捨てられたもの、それらはまだ生きている、生き続けようとしていることを。
 廃材や身近なもの(材料)で物を組み立てること、それはわれわれの幼児・少年体験として身体記憶に残るものである。このこともアジアのスラムやバラックにもつわれわれのある言いようもない親近感の説明から切り離すことはできないだろう。』


 これだ!と思ってしまう。商品として企画され設計された建築なんかより、生活の必要から出てきたカタチのほうがずっとおもしろい。これはアートにもそのまま言えることだと思う。作品そのものを目的につくられたものはおもしろくない。常にそれ以前の生活というか生き方のようなものがまず問題なのだ。スラムは面白い問題を提議している。
 さらにスラムにおけるコミュニティについての記述も僕にはひっかかる。「コミュニティの再生、それは近代建築、あるいは近代都市計画の誕生以来今日まで続く基本的テーマである。」と書いてある。現実にはむしろ、商品としての住居や建築、そして都市計画そのものが、コミュニティを分断しているように僕には感じられる。確かシチュアシオニストは都市計画を批判していたが………。
 どうもすぐ結論を出せそうにない。だが、面白そうなのでこれからも建築について考えていこうと思う。

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正の祝祭

 『harowanwanの日記』というブログの中で、harowanwanさんが雑誌『現代思想(特集 フリーター)』を読んだ感想として、以下のようにおっしゃっていました。

 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」、西澤晃彦「貧者の領域」が興味をひいた。 ミドルクラスはその揺らぎつつある地位を確認するために、フリーターという集団を必要としているって話なんだけど、途中からなんかこの解釈はなにかで読んだ話だとおもったら、赤坂憲雄の「排除の現象学」で言われているに近いのでありました。

 これを読んで「あっ」と思った。そうだよ、そうだよ。似てるんだよ。「異質なもの」の排除というテーマ………。渋谷望の上の論文はまだ読んでないけど、『魂の労働』で語られるアンダークラスの排除と、赤坂憲雄の「排除の現象学」で言われていることってよく似ている。そうか、だから『魂の労働』にすんなり共感できたんだ………。
 赤坂憲雄は異人論という分析装置を使って、近代社会における排除の構造を分析する。近代以前の共同体における「異質なもの」との両義的な関係性、つまり、穢れたものでもあり、神聖なものでもある、という両義的なかかわり方が近代社会では消失し、「異質なるもの」は一方的に排除されるべきものに、というか「異質なるもの」の排除によってこそ近代空間は成立しているのだと主張する。ホスピタリティ(異人歓待)の習俗は近代社会においてはなくなってしまった、というわけだ。
 狂気、乞食、不具者、などとの両義的な価値を持った関係は消え去り、彼らは病者、犯罪者、脱落者、というネガティブな表象の中へ押し込められてしまったのだ。赤坂は、いじめ、浮浪者、自閉症患者、外国人労働者、などを近代社会によって排除されたものとして見事に描き出している。これらの排除された人々というのは、渋谷の言うところのアンダークラスとピッタリと重なるわけだ。

 ただ、赤坂憲雄の「排除の現象学」では、分析だけで終わってしまっていて、そのような(ミドルクラス的な)近代社会の薄っぺらさに対して、じゃあ、どうしてゆくのか、という赤坂の考えはまったくと言っていいほど示されていない。
 また赤坂自身、その後は民族学や歴史学の方へ関心を移していったようで、「排除の現象学」の中にあふれていた、近代システムの批判の視線は薄れていってしまった。私にはそれが非常に物足りないものだった。

 渋谷望の『魂の労働』は、そんな僕の溜飲を下げさせてくれるような本だと思う。赤坂憲雄にはない反システム的な要素がむしろこの本を書かせた動機となっているのだ。harowanwanさんは『しかし、現状分析として悪くないだけに、よけいに読むほど救いのない特集。60年代と違って、いまどき「米帝国主義と戦う人民の連帯」とかいっても通じないのはさすがに執筆陣もわかっているからそれは書かない。現状が見えるひとは、ただただ嘆くしかない。』と、絶望感を漂わせています。確かに赤坂憲雄の『排除の現象学』を読んだときは私もそのような絶望感を感じましたが、『魂の労働』を読むかぎり、渋谷望は正しい方向性を打ち出せていると思いました。

 要は、より巧妙な支配の戦略を繰り出してくる資本に対して、どのように対抗的な価値をぶつけてゆくのか、ということだと思うのですが、 渋谷は『誰にもマネのできない「手に負えないスタイル」を有したマイノリティになること………暗がりの中に、つまりあらゆる尺度の外部で、これらを可能にする自律的な空間を膨張させ、卑小なオーバーグラウンドを飲み込むこと。これこそ善悪の彼岸において闘われる能動的な抵抗の形態ではないだろうか』と、『魂の労働』を結んでいる。つまり自ら進んでマイノリティであることを意志する必要があるということです。
 これはそのまま異人論の文脈で語ることができると思います。赤坂がいうところの「異質なるもの」は、両義性………すなわち穢れているがゆえに恐れられ忌避されるネガティブな面と、神聖であり、退屈な日常を活性化するポジティブな一面を併せ持っていた。つまり労働の規範が支配する平板な日常をおもしろいものにするには、「異質なるもの」の日常性への介入が不可欠だということです。したがって、「現状が見えている人は、ただただ嘆く」のではなく、自らが(システムの側から見れば)異人(=マイノリティ)となって、マージナルな闇の領域へ歩んでゆく、ということでなければならない………。ホスピタリティが消失してしまった近代に、このような形で新しい「異質なるもの」とのチャンネルを自ら切り開く必要があるのだというわけです。

 赤坂憲雄は排除のメカニズムを「負の祝祭」という捉え方をしていた。しかし、では「正の祝祭」というものもあるはずだと思うのですが、それについてはまるっきり語ってないのです。近代社会=資本主義社会には祝祭はあり得ないのか? そんなことはない。渋谷が描いているようなアンダーグラウンドにおけるマイノリティの闘争こそが、私には「正の祝祭」に思えるのです。そのような闘争を通じて新しい「祭り」を組織すること、またその「祭り」を自ら楽しむこと、それが資本の支配の戦略に対する決定的なカウンター攻撃になると思うのです。

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除名処分

 私はその日サッカーの試合を観ていた。ワールドカップ最終予選北朝鮮戦だった。緊迫した試合運びに手に汗を握りながらテレビにかじりついていた。後半ロスタイム、ゴール前にいたこの日代表初出場の大黒が目の前にこぼれたボールを見事ゴールに流し込んだ。私は拳を握り、ガッツポーズをしながら立ち上がった。そのとき部屋の入り口にAが立っているのに気がついた。
 Aは冷ややかな目でテレビに映し出された映像と私の顔とを交互に眺めていた。わたしはギクッとして手をしたに下ろした。「随分とまたフットボールにご執心だな。」と彼は軽蔑の眼差しを私に向けながら口を開いた。「スポーツという捏造された祝祭に夢中になっているなんて、インテリが聞いて呆れるってものだ。」二の句がつげない私をよそに、Aは腕を組み、私の横に立ってテレビを見下ろしながら語り続けた。「国の誇りをかけた戦いだと? 古くさいナショナリズムを相も変わらず再生産している。ワールドカップなんてナショナリズムの祭典以外の何でもない。それは君もわかっていたはずではなかったのか?」
 試合が終わりブラウン管はインタビューを受ける選手の姿を映し出していた。Aは、しばらく黙ってインタビューに聞き入っていたが、私をチラッと見ながらまた話しはじめた。「勝利のために、チームに貢献できてうれしい………か。見たまえ。スポーツ選手たちはチームの歯車となって、ピッチを走り回るのだ。それに彼らは絶えず熾烈な競争の中にある。ポジションを得るために仲間たちと常に競い合う立場におかれるのだ。そのため他の選手よりも少しでも多く練習し、自分の技に磨きをかけつづける。勝利という捏造された栄光と、自らのプレーヤーとしての価値、すなわち報酬が彼らを肉体を酷使する激しい労働へとモチベートしているのだ。
 もっとうまくなって、プレーの精度を高めて、集中力を高めて………といった彼らの言葉は、まさしくわれわれが問題にしてきたポスト・フォーディズムにおける資本の支配の戦略下にある労働者の状況、つまり自発的従属の姿を思い出させるだろう。スポーツ競技とは典型的なネオリベラリズム的システムのモデルであり、教科書なのだ。
 どうしてわれわれがそのようなスペクタクルに共感できるであろうか。それは批判の対象でなければならなかったのではないか。」
 Aはくるりと向き直り、私を指差しながら睨みつけた。。「きょう私は、君の非行動主義の原因を見た。君は権力に迎合しているのだ。どんなに外面を取り繕おうとも、私の目は欺くことはできない。この言葉を良くかみしめたまえ。君はプチ・ブルジョワなのだ!」
 Aは踵を返して部屋の入り口へと向かった。「次回の会合においてわれわれは君のメンバーとしての去就について議論しなければならないだろう。われわれの組織は不純な分子を必要としない。近いうちに君にも連絡が行くだろう。」と言い残して彼は部屋を出て行った。テレビのブラウン管の中ではジーコ監督が興奮気味に勝利の報告を続けていた。
 …………数日後、私は組織を除名されたという通知を受け取った。


 ま、冗談はともかく、ブログをはじめたときから気になっていることがある。僕は小倉利丸の労働論が好きでよく読むのだが、ある雑誌でスポーツ(オリンピックについて言ってたんだと思うけど)がナショナリズムを再生産している、したがってまったく興味を持てない、という意味のことを言っていた。同じようなことだが、ラジオで、ある在日韓国人がオリンピックをナショナリズムの祭典だとこき下ろしていた。
 確かにその通りだと思う。納得できる論理だ。僕もよくわかっているのだ。宮台真司がワールドカップをナショナリズムと考えずに「祭り」と理解するべきだ、なんて言ってるのを聞いたことがある。正直グラッとくる考えではあるが、僕にはそんな迂闊なことは口が裂けても言えない。スペクタクルとは捏造された「祭り」であり、捏造されたイレギュラーだ。にもかかわらず、現実的にはサッカーやオリンピックというスペクタクルのテレビ中継を熱心に見ている僕がいるのだ。正直いって日本人が活躍するのを見るのはうれしいようなのだ。これは僕の甘さなのだろうか? 深夜のオリンピック中継でゆずの曲に合わせて宙を舞う体操選手の姿を見て目をウルウルさせてたりするのだ。これは僕が年を取ったせいだろうか? そうかもしれない………。
 反システム的なサイトを展開しようとしてるのに、無邪気なサッカー観戦の話題ってどうなんだろう? と、1年前から思ってきた。そんな記事をブログに載せていいものだろうか。そして実はビクビクしてたりするのだ。誰か怖い人に「君はプチ・ブルジョワだ!」なんて古くさい言い方で責められるんじゃないか、なんて。僕には左翼の友達なんて一人もいないのに………。
 僕は芸術畑の人間なので、アートという名のスペクタクルにはちょっとうるさい。特に今の職業である映像に関しては、生々しいだけに批判的だ。………であるのにもかかわらず、案外、映画なんか見て目頭を熱くしているのだ。しかもそれは題名を言うのもはばかりたくなるようなB級のハリウッド映画だったりする。
 自分でもよくわからないけど、他人の思考で自分の感情を抑圧するのは良くないような気がした。自分はアマチャンなのかもしれないが、自分の感情にはそれはそれとして真正面からつきあってゆかねば、と思っている。だから矛盾も含めて、すべてを垂れ流そうと思う。

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大きい道


     拘束されるな
     追従するな
     定規で引いたものには不信を
     直線は胸に抱くな
     個性的であれ
     自由であれ
     創造的であれ
     そして何よりも色彩豊かであれ
     そうすれば何者にも脅かされぬであろう
     なぜなら
     そうしてこそ
     打ち負かされることも
     打殺されることもないからだ

      フンデルトワッサー

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フンシャル


 戦後のジェネレーションの美術作品で本当に面白いと僕が感じるのは、中西夏之とフンデルトワッサーの絵画しかない。僕は作品を創らないという戦略をとっている。僕にはその道しかなかった。しかし彼らの作品は、「それは戦略の一つでしかないんだよ」と僕に告げているような気がする。

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イレギュラー

 この時期になるとよくあるニュースだが、受験のためにに特急列車に乗ったものの、学校のある駅には止まらない列車だとすでに列車が出発してしまった後になって気がついた、という受験生のニュースをラジオで聞いた。受験生は車掌に相談し、車掌は乗客に断りを入れた上で、目的地の学校のある駅に特別に列車を止めて受験生をそこで降ろした。
 まあ、とりあえず鉄道会社側の粋な計らいによって受験生はめでたく試験を受けることができた、ということだった。鉄道会社は「今回は特別なのであって、こういうリクエストにはそうそう答えるわけにはいかないよ。」という意味のコメントをよせていた。
 あたりまえのことなんだろうが、公共交通機関は時刻表通りに運行しなければならない。よほど緊急の事態が起こらないかぎり、たった一人の乗客の都合のために他の乗客に迷惑をかけるわけにはいかない。他の乗客だって時刻表通りに交通機関が運行することを期待して列車なりバスなりを利用するわけだ。10分間、列車が遅れたために大きなビジネスチャンスが消滅してしまった、なんてこともあるかもしれない。仕事で利用する人じゃなくても………たとえば休日を利用した旅行なんかでも、限られた休日が交通機関の遅延によって台無しになってしまったらショックだろう。

 交通機関が遅滞なく円滑に運行されねばならないわけは、遅滞による時間のロスを避けるためだ、と言える。ここには効率性を重視する産業社会のタイトな要請があるのだ。交通の遅滞によって物流や人の移動が円滑になされなければ、生産活動に支障を来すことになる。効率的に生産を増やし、最大限の利潤を得るためには、生産のリズムを狂わすイレギュラーな要素は極力避けねばならない。
 僕らは資本の奏でる生産のリズムの中に生きている。考えてみれば、交通機関を利用する乗客たちに時刻表通りの運行を期待させているのは、ビジネス客にしろ旅行客にしろ仕事(労働)の都合なのだ。労働中であろうと余暇を過ごしていようと、そのスケジュールを規定しているのは資本による生産のリズムだ。僕らの日常は生産のリズムに仕切られている。10分や20分の運行の遅れが大きな意味を持つのは、それが生産のリズムを狂わせるからなのだ。冷静になって考えれば、80年の人生の中で、交通機関の少々の遅れに何の意味があるのかとも思うが、生産のリズムは僕たちの体の奥深くまで浸透しているため、僕たち自身イレギュラーな事態に苛立ってしまうのだ。
 ギュウギュウ詰めの満員電車で通勤の途中で電車が止まってしまう………人身事故とのアナウンスが流れる。どうだろう、ほとんどの人は心の中で舌打ちし、遅刻の理由を会社や顧客にいちいち報告しなければならなくなった状況に苛立つんじゃないだろうか。僕だってそうだが、そのとき電車に飛び込んだ人の死の理由なんてことは頭の片隅にものぼらないと思う。そのとき僕らは生産のリズムにのまれているのだ。
 はっきり言って、生産のリズムを狂わせるイレギュラーな要素は、それが自殺者であろうと何であろうと資本主義のシステムにとっては「悪」であり「犯罪行為」である。だからこそ試験に遅れそうな受験生のために緊急停車するという、人間臭く粋な計らいにも一言お咎めの言葉も添えられるわけなのだ。

 たとえばタイの鉄道とか長距離バスなんて平気で1時間ぐらい遅れて運行しているが、タイ人は皆そんなもんだろうと思ってるようだ。それにバスが遅れるのは運転手の都合だったりする。運転手の親族がバンコクに出かけるのだが、「準備に手間取ってるんだ。30分ほどバスの出発を遅らしてくれ。」と親族に頼まれたら、彼ら、公共交通機関であるにもかかわらず出発を30分遅らせるだろう。(僕の想像だけどね。)資本のリズムの支配する公共性なんてものより、コネクションが優先されるのだ。(まあ、それもどうかと思うのだが。)
 タイの経済学者だったか、「日本経済は私たちにはまるでスーパーマンのように見える。」なんてことを言っていたのを読んだことがある。太平洋戦争の敗戦、戦後のオイルショックなど、何度も危機に見舞われながらも、その度に不死鳥のようによみがえってくる日本経済………。それがタイ人には驚異なんだそうだが、実は僕ら日本人はそれ相応のものをタイ人以上に経済の発展のために捧げているということなのだ。常日頃から僕らは労働中であろうとなかろうと、かなり無理して生産のリズムに自分自身をシンクロさせているのだ。その肉体化し、内面化した努力が日本経済のパフォーマンスを影で支えているわけなのだ。

 しかしながら、生産のリズムに従属した生というものほど味気ないものはないだろう。受験生の例もそうだが、人間臭いこと、おもしろいこと、というのは結局のところイレギュラーなことなんじゃないだろうか。本当の意味で僕らが人間的に豊かだ、と感じるためにはイレギュラーな要素は必要不可欠なものなのではないか。確かに僕らは生きるために働くし、資本のリズムにも合わせるわけだ。しかしそれだけがすべてになったとき、僕らは生き延びているのに過ぎないではないか。
 シュルレアリスムという芸術運動はオートマティズムという技法を用いて、作品制作や生活そのものを驚異に満ちたものにしよう、という運動だった。自動性、偶然性によって生産的理性を揺さぶり、日常生活にイレギュラーな要素をぶち込もうとしていた。彼らはイレギュラーな要素を「痙攣的」という言葉で表現していた。彼らの活動はスキャンダラスなものとなったが、それはイレギュラーにこだわる彼らの活動の当然な結果であり、意図するところでもあっただろう。
 もうほとんど過去の芸術運動になってしまったかのようなシュルレアリスムではあるが、僕は非常に重要な運動であったと考えている。作品制作という芸術の枠組みを越えて、日常生活への介入という今日的な課題が明確に現われはじめているからだ。おそらく彼らの限界は作品をつくるという目的を捨てきれなかったことにあったのだと思う。
 戦後に登場したシチュアシオニストたちはシュルレアリスムの批判的な乗り越えである。出発点において彼らは作品の制作を拒否し、「状況の構築」という新しい命題を提示する。これが意味するのは資本主義社会の生産のリズムに対してイレギュラーな介入をおこなうということだ。彼らは「日常生活をワクワクするものにしたい」と主張する。………もう彼らの試みの意味は明らかだろう。(シチュアシオニストの存在はあまりにもマイナーであるため、僕はその重要性を何度でも強調したいのだ。今、はやし氏のブログでドゥボールの『スペクタクルの社会』の読解がおこなわれている。興味ある方は一読をお勧めします。)

 生産のリズムを狂わせるイレギュラーな要素は、資本主義のシステムにとっては「悪」であり「犯罪行為」である、と上で述べたが、シチュアシオニスト的な試みは資本の側からするとまさに「悪」であり「犯罪」の臭いのするダーティな印象を持つものにならざるを得ない。さらに資本の奏でる生産のリズムにシンクロしているとき、すべての人にとってイレギュラーなアクションは「悪」なのだ。
 したがって、もし僕たちがイレギュラーな非生産的な価値を追求し出したとすれば、僕らは犯罪者的な、キナ臭いオーラをまといはじめるに違いない。そして生産のリズムにシンクロするすべての人たちと闘わなければならないという厳しい道がまっているわけだ。
 生産のリズムにシンクロするとき人は意識せずとも「産業戦士」と化している。逆にイレギュラーな非生産的な価値を追求するとき、その人は「祭りの戦士」となるのだ。「祭りの戦士」はいつも「日常生活をワクワクするものにしたい」と考えているエピキュリアンである。しかも問題にしているのは自分のちっぽけな快楽などではなく、大げさに言えば世界の歓喜とでもいったものなのだ。しかし現実に彼が歩く道は世界との闘いという、いばらの道だったりする。それが「祭りの戦士」のつらいところでもあり、面白いところでもあるのだが………。

 ふと考えてみるのだが、列車に飛び込み自殺を図る人たち………彼らが何を考えてダイブしたのかは知る由もないのだが、ひょっとすると交通機関の円滑な運行という生産のリズムに、自らの命をかけてイレギュラーな要素をぶち込もうとしたのではないだろうか。ニヒリスティックな決断には違いないが、自分の命でもって資本主義帝国に一矢報いてやろうとしたのではないか、なんて想像してみたくなる。「祭りの戦士」の孤独な玉砕………。
 そんな自殺者の心の動きなどはどこ吹く風で、月曜日の朝、人身事故でストップした電車の中の産業戦士たちは、やれやれまたかよ、なんて思いながら携帯電話で会社や顧客に「すいません。今電車の中なんですが………」なんて連絡を入れるのだ。

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リグリアの太陽



自分が革命的であるとは考えていない。
革命的である人とは、戦う人だ。
私は戦いを好まない。
ただ、私は何一つ壊すことなく、すべての人々のために出口を見いだしたいと思うのだ。
誰一人として、本当に誰一人も、傷つけることのない発展を創りだしたいのだ。
すでに存在しているものを土台として、伝統をより立派なものに徐々に変えていくのだ。

フンデルトワッサー

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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