泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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論争

 僕は口下手だし、あまり頭の回転も速くないので、「朝まで討論会」に出てる人たちみたいにうまく討論することなんかできない。ああやって的確に、相手の言葉を理解し、また逆に切り返して自分の主張を述べるテクニックは見ててすごいなあ……っていうかとても羨ましく思う。
 それでも自分が今まで生きてきた中で、当然ながら周りと衝突することもあったわけで、何度か口論みたいなこともした。その時の議論なんてひどいもので、全然言いたいことも言えていない。まったく自分でもがっかりしてしまうほどだ。その点、ネット上の論争はじっくり考える時間もあって、僕にとってもやりやすい。………それでも論争って大変なことだと思う。

 今年の1月のことだったんだけど、bookloverさんて人と議論を始めた。当初は労働論みたいなことを議論しようとしていたはずなんだけど、だんだん問題がずれていったと言うか、僕の議論の進め方にどうもbookloverさんがあからさまに不快感を示すようになったいったんだ。あれれ? どうしちゃったんだろう、何をこの人は怒ってるんだろうと僕は当惑してしまったんだけど、はやしさんが適切にフォローしてくれて、救われたような気がしたのを昨日のことのように憶えている。
 bookloverさん自身のブログは削除されてしまったし、過去のことでもあり今更なんだけど、やはり僕の発言に対して言ってきたことだけにいくつか印象に残っている彼の言葉がある。自分の議論の進め方にまずいところがあったんだろうかと、しばらく反省的に考えたりもした。だけど、やっぱり僕がbookloverさんに不快感を与えるようなことをしたとは思えない。僕自身の発言の内容が正しいものだったかはともかく、議論するってことがどういうことなのか、その点に関してはbookloverさんは何もわかっちゃいなかったんだと思う。ただ、僕にとっては自明のことでも、他の人にとってはそうじゃないってこともある。だから、議論するってのはどういうことか、そのへんの僕の考えをを少し整理してみたくなった。それは、自分を弁護するためじゃなくて、一つのコミュニケーション論として………だ。

 まず、bookloverさんがなんで僕の議論の進め方に不快感を持ったかと言うと、(bookloverさんのブログが消えちゃったんでもう調べることができないから記憶に頼って書くけど)まるで土足で入り込んでくるように人の考えてることをあれこれと詮索し、想像だけで勝手にお前はこうだ、と決めつけている………と。さらにそんなにもあなたは自分を認めさせたいのか、他者との違いを認めることのできない奴なんじゃないか、というようなことも言っていたように思う。………そんなわけで僕は随分とぶしつけで暴力的な奴にされてしまったのだ。

 だが、前にも書いたけど、他人が何を考えているかなんて想像でしかわからないことなんであって、想像による勝手な解釈をぶつけ合うことによってしか他者と歩み寄ることなんてできるわけがないのだ。間違いや誤解はそうしたぶつかり合いの中で解決してゆけばいいし、そうやって解決してゆくしかないだろう。
 それに、いったい自分を認めさせたいというモチベーションに貫かれていない発言というものがあるのだろうか? 議論するってのはそもそも承認の欲求のぶつかり合いでしかないではないか。
 だから僕に言わせれば議論するってのはある意味で、詮索し想像し自分に引きつけて相手の考えを勝手に解釈し、それをもとにして論理を構成し相手の矛盾点に土足で踏み込み、刃物を突きつけ切り裂く行為の応酬なのだ。
 それを不快に感じて「やめてくれ」というのは、ボクシングのリング上で、何故あなたは私を殴るのだ、そんなにあなたは私に勝ってチャンピオンベルトが欲しいのか、と相手のボクサーを非難するようなものとしか思えないのである。
 何だって、bookloverさんはそんなことを言い出したのか、謎である。それとも彼は議論以外の何かをしようとしていたのか?

 ボクシングの例を出したついでに言えば、激しく殴り合っていたからといって、相手をたたきつぶしたいとか、認めないとかいうことではない。矢吹丈とカルロス・リベラのように熱い友情を感じることだってあるではないか。力一杯殴り合えるってことは、相手への敬意なしにはできない。どうでもいい奴や女子供に対して本気で拳を振り上げることはできないだろう。僕はbookloverさんが自分と似たものであると感じたからこそ、敬意を持ってアグレッシブに挑んだわけなのだ。
 だから強引で暴力的ですらある議論の進め方は、他者を認めないってこととは別の問題なんだと思う。

 すべてが激しい戦いであるべきだとは思わないけど、癒されるような優しい言葉にはない効果を激しい議論はもたらすものだ。
 人間は放っておけば惰性に流れてしまう。自分の世界にモノローグ的に閉じこもり、心地よいまどろみの中で停滞してしまいがちだ。そのような自分自身でつくり出してしまった殻をぶち破り、僕らを目覚めさせてくれるものは、暴力的な刃物のような力でしかないのではないだろうか。
 土足で踏み込むような乱暴さが、何か今まで自分でも気づいてなかったことに目を開かせることだってあるだろう。詮索的で強引な解釈がこそが、目覚めを引き出してくれるのではないだろうか。だからオーバーにはったりをかまして議論するっていうのは、正当なるコミュニケーションのテクニックだと思うのだ。

 したがって、常に新しくコミュニケーションを求める人は、自ら戦いを求める。ブログのことでいえば、あえて挑発的なエントリーをのっけたりする。それっていうのは、自ら肌をさらけ出し、さあここに刃物を突き刺せ、そしてオレのはらわたを引きずり出せ、そして土足でオレの心や頭の中を踏み込んで来い、と他者を誘惑することだ。
 それによって傷つき、痛い思いをするのかもしれない。が、痛みなくしてまどろみから目覚めることなどできない。恋愛なんかでよく言うけど、傷つかなければ成長できないっていうのと一緒なのだ。まさに痛みはコミュニケーションへの飛躍のためのスプリングボードである。まあ、もっとも痛すぎて死んでしまっては元も子もないのだが。

 いや、ブログだけではない。芸術表現なんかもそうだろう。絵を描いたり小説を書いたりするのって、一つの問題提議であり挑発であり誘惑なのだ。セザンヌやゴッホは絵を描くことで自分の肌をさらけ出し他者に向かって、さあかかってこいや! と吠えていたのかもしれない。そうすることで危険な極限への飛躍を試みていたのかもしれない。それは芸術そのものの存在意義であるコミュニケーションの追求だったにちがいない。
 コミュニケーションというのは単なる情報の移動なんかではなく、痛みを伴う、自分の殻を破る作業なのである。自分の殻が破れるとともに世界は新しく更新される。それはかつて「祭り」が担っていた役割と似ているような気がする。どちらも危険を伴った歓びでなのだ。

 ブログという道具をどのように活用しようとそれは個人の勝手だ。だがコミュニケーションツールとしていちばんおもしろく使いこなすとするなら、このような問題提議のために、すなわち自らに痛みを誘うために肌をさらすための道具として使うのがいいんじゃないだろうか。自らに試練を与えるための道具として………。いや、あらゆる芸術メディアも同様に、そのような自らに試練を与えるためのツールでありうるし、実際アバンギャルド芸術はそういうものであった。
 ブログにしろ芸術にしろ、それはフイクションでしかない。特に匿名で表現できるブログの場合自分に痛みが返ってくるような使い方をしなければ、本当の意味ではおもしろくないんじゃないだろうか。

 ついでに言っておこう。自分の身体そのもの、これもそのようなツールとして考えてみるのだ。自分の身体を使うことで(つまり行動することで)自分自身に試練を与える。自分自身に痛みが(この場合、精神的な痛みという意味だが)帰ってくるような仕方で、自分の身体を利用する(行動する)。これが、自分の人生をもっとも豊かでおもしろいものにする方法なのではないだろうか。
 あらゆる道具の結節点となる根源的な道具、それが身体だと思うのだが、この道具の用い方、実はそれがいちばんの問題なのかもしれない。コミュニケーションへと開かれてゆくために身体を徹底的に使いこなすのか、それとも身体そのものを1秒でも長持ちさせるためにメンテナンスのみに全力を注ぐのか…………。なにしろこの道具は平均80年ぐらいで使いものにならなくなってしまうのだ。大事に破壊や老朽化から守ってゆかなければならない。そのためにはあまり使わないのがいいのかもしれないが………。

 しかし、やはり道具は使わないと意味がない???

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フンデルトワッサーについてのまとめ

 フンデルトワッサーの絵をはじめて見たのは、20年以上も昔のことだ。確か『ポッペだけが知っている』というタイトルの奇妙な絵だった。が、その奇妙な絵は僕の心にずっとひっかかっている。ぐるぐるとすべてを飲み込んでゆく渦巻き、無意識のそこから浮かび上がってきたような派手だがどこか暗い色彩。フンデルトワッサーさえいなければ僕がこんな絵を描いたんじゃないかと思うような絵だった。


『黄色い遺書ー黄色い福音書』

 当時はあまり情報もなかったが、最近では何冊か画集が出版されていて、けっこう人気があるみたいだ。日本人の奥さんがいたことや、絵だけじゃなくて建築もやっていることも最近知った。図書館で借りた画集をしげしげと眺め、フンデルトワッサーの言葉をたどってみると、けっこうおもしろい。ちょうどモダン/ポストモダンの建築のつまらなさ、みたいなことをずっと感じてたこともあって、フンデルトワッサーの試みがスーッと僕の心にマイナスイオンとともにしみ込んできたのだった。
 モダンの美学に対する激しい怒り、これこそがフンデルトワッサーを突き動かしている。ウネウネとした曲線へのこだわりは、直線や幾何学的なものへのアンチテーゼである。さらに徹底した生命主義、植物的な無秩序への従属。汚物との関係の回復。これらの理念は凡百のエコロジストとフンデルトワッサーをしっかりとわけへだてている。建築物を含め、彼の作品のオリジナリティは否定しようがない。そこには一つのトータルな生き方(哲学)があるのだ。

 とはいいながらも、僕が求めるものと何か違う、という実感は確かにある。それは何だろう? と考えてみた。


 スラム街の写真を眺めていると、僕は妙に心がときめく。それはギリギリの生活やこみいったスラムの人間関係みたいなものに何かを感じるってことも確かにあるが、それよりもこの奥にはいったい何があるんだろう、という迷宮のように入り組んだ集落の作りや、ちょっと前のエントリーでも引用した宮内康の言葉にあるように、廃材を利用してコラージュのように組み立てられた異様な「建築物」の相貌にときめきの原因はあるんじゃないかと気がついた。
 スラムの生活や貧困を美化するつもりはさらさらないのだが、ギリギリの生活の必要が生み出している美観は、はっきり言ってフンデルトワッサーの建築よりもおもしろい。おとぎ話に出てきそうなフンデルトワッサーの奇妙な建築がブルジョワチックな保守的なものにすら見えてくるのだ。

 確かにフンデルトワッサーの建築はおもしろい。しかしそれはやはり専門家がつくった「作品」としての建築だ。彼のつくった集合住宅は大変な人気で、入居希望者は後を絶たないらしいが、そこに住む人はやはり「商品」としてフンデルトワッサーの建築を「消費」するのだ。
 つまり、労働力の再生産過程において「消費」される建築商品だ、ということは間違いない。そこでは、労働/再生産(余暇)という分割は維持されたままだと言える。フンデルトワッサーはしきりに近代建築の画一性、機能性が、人間性に及ぼす害悪について主張している。それに対して彼は、曲線によってつくられ植物の生い茂る彼の建築が住人に与える癒しや創造的な効果について大いに語るのだ。それが真実であるかどうかはともかく、ここでフンデルトワッサーが行っている手続きは、建築によって生活全体をデザイン(変革/改良)できる、というバウハウスなどモダン建築が考えていたプロジェクトと基本的にはまったくかわらない、ということには注意すべきである。彼の建築は、彼なりの人間の「幸福」のかたちのデザインなのだ。いろいろな面で修正(たとえばエコロジカルな、植物の無秩序な成長を妨げない一種のオートマティスムなど)が施されてはいるが、やはりここには一方向的な政治性とでもいったものがある。たとえば彼はこんなことを言っている。(彼のつくる緑の生い茂る住居においては)「休日に外出する代わりに人々は家にいるようになる。結局、家にいるのが快適で、完全にくつろげるからだ。」………つまりフンデルトワッサーは、余暇の新しい形をデザインし、提案するのである。また彼は「ロースとともに始まった惨状を数え出したらきりがない。精神科医や統計学者が証明しているように、こうした環境に閉じ込められた人々の虚無感は、労働意欲の減退や生産力の低下としてあらわれている。不幸でさえ数字やお金によって計ることができるのだから、こうした合理的な建物方法がもたらした損害は、当座の蓄えより何倍も大きいのである。」という聞き捨てならぬことも言っている。………労働と余暇、すなわち労働/再生産の分割という、社会形態そのものがもっている問題には疑いを差し挟んではいないし、生産性や効率性は、フンデルトワッサーの建築においても追求されるべき目的であった、という事実もこの言葉から読み取れるだろう。
 また、フンデルトワッサーは建築において職人たちや、住民との共同作業ということを強調する。しかし、職人や住民のアイディアがフンデルトワッサーの設計のプランを大きく揺るがすほどに増殖してしまうことはやはり考えられないと思う。やはり彼の建築はあくまでも、フンデルトワッサーというアーティストの個人的なプロジェクトなのだ。それはおもしろさでもあるが、一つの限界のようにも思える。モダンの徹底的な批判者である彼のプロジェクトは、やはりモダンなのだ。

 それに対して、スラムに感じるおもしろさは、「作品」を目的としていないものが醸し出している「表情」としてのおもしろさなのではないだろうか。あれらは「商品」としてつくられたものではないし、専門的な建築家が設計したわけでもない。スラムの住人は商品化した住居を「消費」しているのではないのだ。ここにないのは、「作品」としての建築に切っても切り離せない政治性、「生活はこうあるべきだ」という理念である。まさに生き、住むことへの切実な欲求がつくり出したアナーキーで匿名の造形、それがスラムという「建築」から私たちが見て取れるものなのだ。

 このスラムの美観と絡めて次の文章を読んでみる。

遊びの自由の中に人間の独創性があり、それによって、以前のように労働時間と余暇の時間とをわけることが不必要になるのである。

細分化された芸術に対して、新しい文化は、使いうる要素をすべて含んだ実演を引き起こすことになる。もちろん、それは共同制作で実現されるものであり、いうまでもなく無署名(アノニマス)である。


 これらは誰の言葉かわかるだろうか? 実は、フンデルトワッサーの宣言を調べるために『世界建築宣言文集』という本を図書館で手に入れたのだが、フンデルトワッサーの次のページにはなんとシチュアシオニストの宣言が載せられていたのだ。(同じ文章が、『アンテルンシオナル・シチュアシオニスト』の第4号に『マニフェスト』として訳出されている。両方読み比べてみると、同じ文章とは思えないぐらい訳が違っている。それにしても、シチュアシオニストを状況主義者と訳すのは理解できるが、多分「レトリスト・インターナシオナル」のことだと思うんだけど、「国際文筆家協会」なんて訳してあって、ウ〜ンこれはどうなんだ? と思ってしまう。ま、無理もないけどね。レトリストなんて僕も聞いたことなかったから。)

 僕はモダンアートやモダンの美学に対してフンデルトワッサーとはまったく違う、より根源的な批判のアプローチをしたいと思っている。それはシチュアシオニストとまったく同じ戦略だ(と僕は思っている)。つまり「作品」という表現方法を拒否するのだ。「作品」は「商品」へと容易に移行し、それは「消費」されるものとして、労働/再生産の二分法を形の上では維持する。つまり商品化によって、「作品」を制作する「労働」と、「作品」を鑑賞する「消費」(再生産)とに表現行為は分割されてしまう。同時にこれはコミュニケーションの形としては、能動的なアーティスト(制作者)から受動的なオーディエンス(観客)への一方向的なものになってしまうことを意味する。
 実は今現在、僕らが知っているアート(芸術)というものは、ほとんどこの手続き(二分法)に則ってなされている。(この件についてかつて長々と書いたことがある。)その手続きはアートを商品化し、資本主義社会の市場へと流通させるためのアタッチメントになっているというのが僕の考えだが、シチュアシオニストの戦略もまったく同じポイントをついているのではないだろうか? つまり「作品」制作を放棄し、「状況」の構築へ向かうというのは、このアタッチメントの働きを無効にしようという戦略なのではないか、と思うわけだ。
 
 さらにシチュアシオニストの文章は続いている。

一方的な芸術に対して、状況主義の文化は、対話の芸術であり、共同の行為の芸術であるだろう。

 目にしうる文化のすべてにおいては、事態は、芸術家が社会から分離され、芸術家自身もまた………競争のゆえに………互いにはなればなれに生きる、というまでになった。しかしながら芸術がこのような「資本主義」の袋小路にはまり込む前ににも、それはもともと一方的でであり、答えなしの状態であった。芸術はこのような、原始的な状態に閉じこめられた時期を乗り越えて、完全なコミュニケーションへと向かうだろう。
 より高い段階では、誰もが芸術家になる………つまり、文化的な、全体的な成果の生産者と消費者になる…………


 つまりは、「状況」の構築の中で、情報の生産/消費という分割、すなわち制作者/観客という分割を無効にしたい、というのがシチュアシオニストの考えであるということだ。その結果現れるであろう、双方向的なコミュニケーションの形を僕は新しい「祭り」としてとらえて、シチュアシオニストを「祭りの戦士」として解釈する、というのが僕の野心なんだけど、まあそれはこれからの課題にしておく。(それにしても翻訳によってまったく意味が違ってしまうものだなあ。上の文の中の「芸術がこのような「資本主義」の袋小路にはまり込む前にも……」というところ、インパクト出版の『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』では「資本主義が行き詰まる以前に、芸術はすでに……」と訳されている。ぜんぜん意味が違うぞ。僕としては後者のほうが誤訳であったほうがすっきりするんだけどなあ。だってこの文脈でいきなり「資本主義が行き詰まる」なんて言葉が出てくるだろうか、と思うんだけど。それに資本主義は行き詰まったことなんてあったの? って、やはり原文が読めないとつらいってことかなあ。)
 どうだろう? スラムのもつ表情が驚きとともに僕らに語りかけるのは、ひょっとしてシチュアシオニストが「対話の芸術であり、共同の行為の芸術」と言っているものと、けっして遠くないものなんじゃないだろうか? そういえばアウトノミアの戦略のひとつにスクウォッティングなんてのがあったけど、スラム居住者だってスクウォッターだし………。そう考えてみるとスラムの住人って、アバンギャルドな存在なのかもしれない。

 さて、しばらくフンデルトワッサーについて調べてきたのだけど、個人的にはすごく好きだし、おもしろくて尊敬もするんだけど、上にも書いてきたような意味で、ちょっと僕の問題とはズレているような気がする、というのが正直なところだ。もっとも、ちゃんとしたことを言うためには、もっと彼のこと調べなきゃならないんだろうけど、まあ、これからもそのへんはよく調べて、考え続けるつもりなので、きょうのところは暫定的なこの結論で終わりにしたいと思う。

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フンデルトワッサー宣言集3

『建築における合理主義に対する壊敗化宣言』(1958)


 絵画と彫刻は、今日では自由なものである。というのは、今日ではだれでも、どんな作品でも生産し、そのあとで展示することができる。だが建築の場合には、あらゆる芸術の条件とみなされる、この根本的な自由がつねにない。なぜなら、建築するためには、まず第一に大学卒業の資格をもっていなければならないからである。それはなぜであるか?
 だれもが建築できるようであるぺきだ。そして、このような建築の自由がないかぎりは、今日の計画された建築も、一般に芸術に数えられるわけにはいかないだろう。建築は、われわれの場合、ちょうどソヴェトにおいて絵画がおかれているのと同じような評価のもとにおかれている。実現されているものは、ぎこちない人間と低劣な知識との、孤立した、くだらぬ妥協なのだ!
 個人個人の建築への欲望をけっして妨げてはいけない! だれもが建築することができるのであり、またしなければならないのであり、そのようにして、自分の住んでいるわが家に対してほんとうの貴任をもつものでなければならない。そして、われわれは、あまりにも気違いじみた形のものはのちに崩壊するだろうという冒険を忍ぱなければならない。また、このような新しい建築方式が必要とする犠牲,、もしくは必要とするだろうと思われる犠牲を恐れてはならないし、恐れるにもあたらないだろう。そして最後に、人間が、若鶏や家うさぎがその小屋に移るように、住まいを引っ越したりすることをやめなければならない。
 そのようにして、居住者自身によってつくられた、気違いじみたものがこわれるとしても、たいていはもともとそれより先にめりめりと音をたてるものであり、逃げ出すこともできよう。だが間借り人の場合は、はじめから自分の住んでいる家に対しては、批判的にまた独創的に向かっているだろう。そして、もしも家がこわれそうに思われたときは、自分の手で壁や柱を補強することとなるだろう。
 スラム街の、物的な意味での住みにくさは、機能的で便利な建築の、道徳的な意味での住みにくさよりもよしとすべきである。いわゆるスラム街においては、人間の肉体が滅びるだけなのだが、人間のために計画したと称する建築においては、人間の魂が滅びるのだ。それゆえ、スラム街つまり荒れるにまかせた建築の原理を改造し、それを出発の基盤としなければならないのであって、機能的建築を基盤としなければならないのではないのではないのだ。
 機能的建築は、定規をもってする絵画とまったく同様に、誤りであることがわかった。われわれは、非実用的な建築、役にたたない建築へ、そしてついには住めない建築へと、迅速に近づいてゆく。ちょうど、絵画にとって絶対的なタシスムのオートマティスムがそうであったように、建築にとっては、絶対的な住めなさが大きな曲がり角となる。建築はほぼ30年間というもの、遅ればせについてきたものであるがゆえに、絶対的な住めなさの問題は、いまなおさし迫ったものとなっているのだ。
 われわれが、タシスムのオートマティスムのすべてを通過して、今日ではすでに超オートマティスムの奇跡を体験しているように、まったくの住めなさと創造的な壊敗化をのりこえることによって、はじめて、新しい、ほんとうの、自由な建築の奇跡を体験することとなるだろう。しかしながら、われわれはまだまったくの住めなさを通過していないので、また残念なことに、われわれはまだ建築の超オートマティスムの状態にいないので、何よりもまず第一に、建築におけるまったくの住めなさ、創造的な壊敗化をできるだけすみやかに実現するように努めなければならない。
 貸家に住んでいる人は、窓の外へ身をかがめ、そして、………手のとどくかぎり………壁をかき落とすことができるのでなければならない。また、かれには、長い絵筆でもって………そのとどくかぎり………すぺてをぱら色にいろどり、遠くから、通りからでも見えるようにすることがゆるされるのでなければならない。そうすると、そこには隣りの人間、つまりよそからあてがわれた小家畜と区別されるひとりの人間が住んでいる、ということになるのだ! さらにまた、かれは、たといそれによっていわゆる建築の傑作がもっている建築的、調和的な姿がぶちこわされることとなるにしても、壁をのこぎりでこまかに切りくずし、どんな変更でもやってみることができるのでなけれぱならない。また、泥や粘土で部屋をいっぱいにするのでなければならない。
 だが、そんなことは賃貸借契約では禁ぜられていることだ!
 いまや人々は、ちょうど若鶏やうさぎが自分たちの性に合わない濫のなかに入れられているように、箱みたいな構造物のなかに入れられることに対して反乱を起こすべきなのだ。
 濫のような構造物、あるいは有用な構造物などというものは、次のような三種の人間すべてに対して異質であるような建造物なのだ。これらの人間は、この仕事にかかわりをもっているのに!
 1、建築家はつくったものとなんの関係ももっていない。
 たといかれが最大の建築的天才であるにしても、かれは、そこに住む人間がどんな人間であるかを、あらかじめ予想することはできない。いわゆる建築における人間的尺度なるものも、犯罪者的な詐欺だ。この尺度がギャラップ方式で平均値としてとりだされている場合は、とくにそうだ。
 2、左官はつくったものとなんの関係ももっていない。
 たとえば、かれが、もしも何か自分個人の考えをもっているとして、それにしたがって少しばかり違ったふうに形づくろうとすると、かれは仕事を失ってしまうだろう。そのうえ、それはかれにとって、まったくどうでもよいことなのだ。だいたい、かれはそこに住む人間ではないのだから。
 3、居住者はつくったものとなんの関係ももっていない。
 なぜなら、かれが実際に建てたのではなく、かれはそこに住まわせられるにすぎないのだから。かれの人間的な要求、人間的な空間というものは、もちろんそれとはまったく別のものだ。たとい、建築家と左官が居住者と建て主の申し立てをよく聞いて建てるように努めたところで、事情は依然として同じなのだ。
 建築家と左官と居住者が一体になるとき、つまりひとりの人間となるときにのみ、建築について語ることができるだろう。その他のものは、すべて建築ではない。それは形になった、犯罪者的な行為なのだ。
 建築家一左官一居住者は、父なる神一子なる神一聖霊なる神とまったく同様に、三位一体である。類似、つまり三位一体のえせ同一を注意せよ。建築家一左官一居住者の統一が失われたならば、そこには建築はない。ちょうど、いまつくられているものが建築とは認められないように。人間は、失ってしまった批判的、創造的機能をふたたびとりもどさなければならない。それがなければ、人間は人間として存在することをやめることとなるのだ!
 さらに、建築における定規の使用も犯罪者的だ。それは、容易に証明されるように、建築的三位一体を破壊する道具だとみなされよう。
 どこへでも直線を持ち歩くこと自体すでに、少なくとも道徳的に禁ぜられなければならないだろう。直線は、現代の文盲のものたちのシンボルだ。直線は、現代の崩壊の病の徴候だ。
 われわれは、今日、直線のカオスのなかに、直線のジャングルのなかに生きているのだ。信じられないならば、一度努力をして身のまわりの直線を数えてみるがよい。そうすればよくわかるだろう。というのは、けっして数え終わることがないだろうから。
 私は、安全剃刀の刃の上に546本の直線を数えたことがある。まったく同じように見える同種の製品をもう1枚加えてみたとすると、直線の教は1,090 本となり、もしそれに包装を加えるとすると、安全剃刀の刃についておよそ3,000本の直線がうまれることとなるだろう。
 それほど遠くもない以前にあっては、直線を持つことは王や富裕者や如才のないものの特権であった。今日では、どんな愚かものでも何百万という直線をズボンのポケットに入れているのだ。われわれを、監獄のなかの囚人のように、ますます包み込んでゆく、この直線の原始林は、開墾しなけれぱならない。
 これまで人間は、自分の住んでいるジャングルをつねに開墾し、そして自由になってきた。もちろん人間は、まず第一に、自分がジャングルのなかにいるのだということを意識していなければならない。なぜなら、このジャングルは、そこに住むものが何も知らぬまに、こっそりとつくられてきたのだから。そしてこんどは、直線のジャングルなのだ。
 定規やコンパスが、ほんの1秒間でも………そしてただ頭のなかだけのことにしても………ある役割を演じたような近代建築は、すべて否認されるべきだ。設計の仕事や製図板の仕事や模型の仕事については、まったくいう必要もない。それらは、病的に不毛であるぱかりでなく、ほんとうに不条理なものとなってしまったのだ。
 直線は神にそむくものであり、非道徳的なものだ。直線は、けっして創造的な線ではなく、複製的な線なのだ。そこには、神や人間精神があるのではない。あるのは、むしろ快適さを欲しがる、頭の悪い、ありの群だ。
 直線による形象は、たといそれがどんなによじれたり、曲がったり、つき出たり、穴だらけになったりしたところで、それによって虚弱なものとなっているのだ。それはすべて連係のパニックであり、構成的な建築家の不安であるのだ。まにあうことは、タシスムヘ、つまり住めなさへと交代することだけなのだ。
 安全剃刀の刃に錆が生じたなら、壁がかび臭くなり始めたなら、部屋の隅に苔が生え、幾何学的な黄(かど)がまるくなったなら、それでも人は、いろいろな細菌といっしょに生命を家のなかへ引き入れたことを喜ぶだろう。そしてわれわれは、学ぶべき点の多くある建築的変化について、その証人を以前にもましてよく知ることとなるだろう。
 構成的、機能的な建築家たちの無責任な破壊狂については、よく知られているとおりだ。かれらは、90年代やユーゲントシュティールの、スタッコ仕上げのファサードをもった美しい家をあっさりと破壊し、そこへかれらの空虚な形態を移し植えようとした。私は、直線形の怪物のような構造物をすえるためにパリの町を廃墟に帰せしめたル・コルビュジエのことをさしているのだ。公正を期するために、いまや、ミース・ファン・デル・ロー工、ノイトラ、バウハウス、グロピウス、ジョンソン、ル・コルビュジエらのものもまたとりこわさなければならないだろう。これらも、この1世代以来古ぴてしまい、また道徳的にもたえがたいものとなってしまったのだ。
 だが、超オートマティスト、および住めない建築のかなたにいるものはすべて、先輩たちを人間的に遇する。かれらは、もはや破壊しようなどとは思わない。
 機能的な建築を道徳的な荒廃から救い出すためには、清らかなガラスの壁やなめらかなコンクリートの面に壊敗剤をふりかけ、そこにかびが繁殖するようにすればいいのだ。
 いまや産業は、その根本的な使命を認識しなけれぱならない。使命とは、かぴによる創造的な壊敗化を押し進めることだ!
 いまや、産業界の専門家や技師や博士たちにおいて、壊敗化に対する道徳的な責任感をはっきり示すことが、産業の課題なのだ。
 このような、創造的壊敗化およぴ批判的腐朽化に対する道徳的責任感は、すでに教育法上の根拠をもっものとなっていなければならない。
 かぴのなかに生き、かぴを創造的につくり出すことのできる技衛家のみが、明日の世界の支配者となるだろう。
 われわれが多く学ばなけれぱならない創造酌な壊敗化ののちにはじめて、新しい、すばらしい建築がうまれるだろう。

Category: フンデルトワッサー   Tags: 芸術  フンデルトワッサー  

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フンデルトワッサー宣言集2

子供のためのデイセンター
フランクフルト・へッデルンハイムのためのフンデルトヴァッサー建築プロジェクト(1987)


1、景観とちぐはぐな居住地に応じた自然の増加
2、自然と調和のとれた生活
3、都市の空気にかわる田舎の空
4、ロマンティスズムを現実にしようとする憧れ
5、散歩や散策をするために全面草でおおわれた屋根
6、夏は涼しく冬は暖かい省エネハウス
7、隣人や非居住者の生活の質の改善
8、世界的に慣例となっている都市計画の行き詰まりから抜け出すための創造的方法

 こうした革新は決して新しいものではない。目的はむしろ建築において人間の尊厳を再び取り戻すことである。あるいはただ人間性を取り戻すことだといっていい。直線が危険で、心地よい幻想を生み出すだけであり、廃墟していく危険性を誰もが知りながら、なぜむやみに定現を使うのだろうか。数十年前、バウハウスのメンタリティが袋小路に入ってしまったことを身をもって証明しているにもかかわらず、建物がいまだに非人間的で自然不在であり続けているのは、信じられないことである。
 居住建築の背後にあるバウハウスのメンタリティは、無感覚、無感情、尊大、冷酷、攻撃的、平坦さ、無菌、無装飾、冷たさ、非詩的、非ロマンティック、匿名的、空虚、といった冒葉で表現することができる。概能性があるという幻想。
 人の住む家を、国際的な建築マイフィアに明け渡すわけにはいかない。彼らは文化の政治学に突き動かされ、また人々と虚無的な美学ゲームを行おうとしているのである。
 美術マフィアが美術館や美術雑誌を使って、当世流行の絵画の好ましくない醜い様式を一般大衆に押し付けようとするのは、別段悪いことではない。現代美術の流行は年々変わっていくもので、そうした作品を購入したり鑑賞しなけれぱいいのであるから。
 しかし、人と自然の敵であるこの知的マフィアが、正道から逸脱した流行のデザインで、魂のこもっていない建造物に家を仕立て上げ、何世代にもわたって人々を住まわせることは、終身犯罪を犯すのと同じである。
 この独善的な家に我慢して住まざるをえないことこそが、我々の西洋文明や国家や自然、そして、我々自身が苦しむ精神的かつ肉体的な一般的不自由さに直結するのである。今日の建築家や都市計画者はかつてないほど、非良心的なクライアントの意気地のない操り人形になりさがっている。
 建築家は、大量生産をもくろむ圧力団体や金目当てのマフィア、また権力争いの政治に、卑屈に従属する立場になりさがっている。戦争犯罪と同様、普通は良心に反して(もし良心があるとすればの話だが)、建築家は命令におとなしく従って、自然や生活また人間の魂を組級的に破壊する強制収容所を建ててしまうのだ。
 臆病心からであり、愚かにも幾何学的直線をやみくもに使うようになり、それは、美学や精神衛生やエコロジーの見地から見れば、我々の都市をみじめに荒廃させている。
 直線が生み出すものは、都市計画や肉体的な健康に等しく害を及ぼす癌のような潰瘍である。我々の都市は、建築の『ピボクラテスの誓約」をしなかった犯罪者的建築家が具体化した、常軌を逸した気まぐれの産物である。私は自然や人間に害を与える家を建てることを断固拒否する。
 バウハウスのメンタリティをもった2世代にわたる建築家達は、我々の生活環境を破壊してきた。
 都市計画者がやってくると都市は醜くなった。
 人は大地とのふれあいを失った。
 人は、大地や自然環境から切り離されて生活している。
 我々はコンクリートとプラスチックを用いて自らを卑しめているのである。
 雨でさえ都会の土の中にしみ込んでいくことはもはやないので、導管を使ってどこかに排水しなければならない。
 我々が死んだときでさえ、腐葉土から12フィート下の所に、機密され防水された棺で埋葬され、植物と接するどころか腐葉土になることもできないのだ。
 そうしたことに代わるヘッデルンハイムの複合施設が全体としてもつ利点は、巨大であることである。この複合施設のコスト効率の計算に関して、ぜひ注意すべきことがある。エコロジーや創造面における必要事項や人々の願望、精神面での必須事項をコンピュータに蓄積し、何をおいても最初に考慮しなければならないということである。このように、近代的道具であるコンピュータは、建築や都市計画、経済、交通、エネルギー、農業について、何が安く何が高いのか、何が意味があって何が害になるのかを、あらゆる文脈の中で計算することに利用させる。
 エコロジーや他のデータを含む利用可能なあらゆるデータの活用を、全ての計算の絶対的な前提条件としなければならない。
 例えば、プランナーと建築家がただ資材や土地や労力のコストをやりくりしたために安価な家が建ち、その家のために我々は大きな被害をこうむる。これは何を意味しているかである。その価格には、後で負担しなければならない諸費用が、(最初の計画段階で容易に考慮できるにもかかわらず)含まれていない。段々増えていく冷暖房費、ほこりや騒音や空気汚染の防止装置の費用など、これらは単に最初から草屋根を計画していなかったからである。芸術の破壊、犯罪、不満、ノイローゼ、失業、医療費の高騰、都市からの離脱、自尊心や尊厳が傷つけられること、個人の創造性が抑圧されること………このようなことが生じる原因は、誤った計画のため、および、エコロジーや創造的要素をその豊かな相互作用と全体像において考えなかったがらである。そしてその結果、諸費用はどんどん膨れ上がることになるだろう。
 このつけは間違いなくまわってくる。しかし、時間がたてば、プランナーにとって、関わりや因果関係を無視すること、すなわち、責任をとらないことなど、たやすいことなのである。
 それゆえ、この複合施設の建設に対する私の創造的貢献は、ただ、個人の創造性に向けて一歩前進を果たしただけだとみなすべきである。
 自然、芸術、創造は、一つの統一体である。我々はそれらを単に分けてしまったのである。もし我々が自然の創造を犯し、自己の内なる創造を捨て去ってしまえば、そのときは、自分自身を破滅させることになる。自然だけが、我々に創造や創造性を教えることができるのであり、真の無教養とは、創造的に活動する能力がないということである。
 我々は、人間が依存している唯一の創造的に卓越した力である自然を、平和的に扱う方法を模索しなければならない。自然の平和的な扱いは、以下のポイントを含んでいる。

 1、自然とコミュニケーションをとるために、自然の言語を学ばなければならない。
 2、不当に利用し荒廃させてきた自然の領域に立ち返らなければならない。例えば、空の下にある水平的なもの(屋根や道など)は全て、自然に属しているという原理。
 3、植物の自然な成長を受け入れること。
 4、人間の創造と自然の創造を再び統合しなければならない。これらの創造が分割されることによって、人間や自然にとって破局的な結果がもたらされてきた。 
 5、自然の法則と調和した生活。
 6、我々は自然の客人なのであり、自然の法に従って行動するべきである。人間は、地球を略奪した危険な寄生生物である。人間は、地球を再生するために、エコロジーを配慮した場所へ自ら戻るべきだ。
 7、人間社会はもう一度、廃棄物のない社会になるべきだ。そのような社会で廃棄物に敬意を払い、再活用する者だけが、死を生に換え、そして、地球に存続する資格がある。なぜなら、そのような人々は万物の循環に敬意を払い、生命を再生させるからである。

 自然と調和した家を求める人間の願いや人間の創造性は大きなものである。しかし、この最もわかりやすい欲求が、居住者や、持に子供達や生徒達に与えられていないのである。人々は依然として・強制収容所のようなプレハブや魂のぬけた冷たい無感情の建物に住み、学ぶことが要求されているのである。
 もし都市に自然を取り戻すために新しい建材を使わないとしたら、それらの建材は重要だと言えるだろうか。
 我々は、夕一ルやレンガや木やゴムなどの伝統的な材料の他に、セメント、鉄筋コンクリート、プラスチック、アスファルト、合成ゴム、ステンレス鋼、発泡粘土や、これらをミックスした様々な材料がある。
 全ての建築家にとって、人が住む家を建てることだけではなく、特に都市で自生する野草のための住処をつくることは、やりがいのある挑戦になるだろう。
 自然との調和、個々の人間の創造との調和一一この双方を満足させ統合するのが、よい建築である。
 あまりにも長く地球を奴隷にしていたために、それゆえ起きる破局的な結果に我々は慣れてしまった。今やその役割を代え、我々は大地の下に我が身を置き、大地を上に抱くべきときである。これは決して暗い洞窟で暮らすことでもなけれぱ、湿気の多い地下室で暮らすことでもない。全くその逆なのだ。
 我々は頭上に大地と樹木をもつことができる。そのようにしても、同時に光も得ることができる。白然の賜物の下に身を置くことは、泉徴的な意味でも、文字通りの意味でも、自然を抱いた家で暮らすことになるのだ。
 我々には、世界を再び大きくするために、美のパリアが必要である。我々が代わりにしていることは、自分がいる場所に、あるいは、自然がまだ蝕まれていない場所に、あらゆるものを捨てているのである。更に・その場所に行くために醜い道路を作り、途中であらゆるものを捨てているのである。
 このように、世界は至るところで小さくなり、醜くなっている。早急に必要とされるのが美のバリアである。このような美のバリアは、規格化されていない不規則なもので成り立っている。つまり、自然な植生あるいは個人の創造によって成り立っているのである。
 両者はお互いを補い合う創造である。もし個人が自分の空間で、「窓に関する権利を主張して環境をデザインすれば、もし各人が自分の空間で、植物に自然に成長する機会を与えてやれば、次代の王国はすぐにも実現するだろう。と言うのも、パラダイスはまさにちょっと角をまがった近隣にあるのであり、自分が今いるまさにその場所にあるのだから。
 パラダイスは探したり見つけたりすることはできない。パラダイスは権威によって調達したり工場生産できるものではない。ヘッデルンハイムの複合施設は、世界に対して一つの実例を提示することになるだろう。適正な状況下で自然に接して暮らし、働くことは、あらゆる人にとって、達成し実現することが可能であるだけでなく、より経済的でもある。すでに述べたように、複合施設全体が与える利点は無限である。それは、我々か高い金額を払わねばならない非人間的で自然不在の建物を建てる通常の方法と変わらない。

 1、上から見ると、ヘッデルンハイムの複合施設は、自然林のある野原や公園のように、完全に緑で覆われている。家を草と樹木で全面的に覆うことで、最適な断熟作用が生み出される。夏は涼しく、冬は暖かい。ウィーンにあるレーヴェン通りの私の家は、アパート全館を暖房するのに、利用可能な暖房器3台のうち1台を使用すれば十分である。(冷暖房の節約=エネルギーコストの節約)
 2、休日に外出する代わりに人々は家にいるようになる。結局、家にいるのが快適で、完全にくつろげるからだ。
 3、空気もよくなり、酸素も豊富になり、湿度が保たれ、ほこりも激減する。気候自体もよくなる。そして、騒音公害は大幅に減少する。
 4、福利全般も比較にならないほど改善される。人々は健康になり、頭痛が減り、うつ病は少なくなり、病気も減る(薬、医者、病院や療養所への入院、心理カウンセラーに対する、費用を大きく節約できる。長期的に見れば、この節約された金額は、初期の建設コストを上回る)。
 5、非人間的、自然不在の建物に住むことによる恐ろしい結末………芸術の破壊、テロリズム、精神病、自殺………も、大部分避けられる。

 ウィーンのフンデルトヴァッサーハウスと同様に、フランクフルト…ヘッデルンハイムの複合施設の唯一の短所といえぱ、こうした調和のとれた環境で暮らしたいと思う人があまりにも多くて、この複合施設を見ようと世界中から訪問者が日々殺到することである。
 解決策は、先ず、この複合施設の利用者を守るために境界を設け、次に、同じような家をもっと建てることである。需要は底なしである。
 散歩と散策のための屋根は草で一面覆われ、誰でも利用できる。この家には容易にたどりつけないような場所はない。屋根の草の上や木の下でリラックスできる。子供だけが夢見るような、未来のユートピア的でおとぎ話のようなビジョンは、実現が本当に可能であるという意味で、ここでは明々白々な事実なのである。
 草や自然を用いて家の屋根を作ることで、余暇活動に使える空間は2倍近くになるだろう。と言うのは、そうでなければ不毛で死んでいた屋根が、草いっぱいの野原になり、森になり、丘になり、見晴台になり、公園になり、庭になるからである。
 利用者は自然と向き合う心を誇りに思うだろう。
 空の下に水平であるものはみな、自然に属するものである。それがここでは実現される。
 我々は自然の客人なのであり、自然の法に従って行動するべきでる。それがここでは実現される。
 屋上にいる人は、家を建てたときに不当に奪ってしまった自然に立ち帰らなければならない。それをここでは実現させる。
 これは自然との共生に対する積極的な貢献である。ただ口にするのではなく、行勘に移し、生きた実例を示すのである。
 草屋根の複合施設は、我々の都市の無計画な膨張に対する、前向きな解決策なのである。一つずつ上に積み重ねられたサイロのような集合住宅に住む人間の匿名性は、間違ったことである。
 自然の広大な地域に、単調な郊外団地を際限なく築いて自然を破壊することも、やはり間違っている。ロサンゼルスは最悪の例である。垂直的に高層に人間を積み上げていくことは、自然の中に水平的に膨張していくと同様に間違った行為である。一方、草と樹木の屋根をもつ住宅地では、自然はだんだん豊かになる。
 と言うのは、人々のための生活空間を造っているのにもかかわらず、自然のためのより大きな生活空間が創られているからである。新しい風景が創られるのである。
 フンデルトヴァッサー・ヘッデルンハイム複合施設は、今日の人間が望んでいる安全やロマンティシズム、自然と調和したコミュニティヘのあこがれを現実化したものである。若い頃から染みついた創造的不能状態に悩む大人にとって、残された唯一の可能性は、自分の子供時代を振り返ってみることであり、夢に破れた時点まで戻って再びスタートすることである。それは、まったく夢物語ではないばかりか、現実的な土台なのである。それなしでは真に一人の人間であることができない、人間存在の根なのである。
 過去、若者のための建築の分野、すなわち、学校や幼稚園などで、恐ろしい罪が犯されてきた。子供の心を冷たく杓子定規に抑圧し、成長しつつある創造性を抑制することが、何十年もの間、まさに圧迫的で均一的な建築によって実践されてきた。子供達はその建物の中で、人生で最も重要な年月を過ごすのである。
 強制収容所的スタイルで建てられたこのような学校の中での精神的虐待は、代表的な罰である体罰をもはるかに凌ぐものである。
 この数十年の間に、自然や創造性に敵意をもった教育機関や保育園ですごすことを余儀なくされた若い世代の人々にとって、持続的に受けた精神的ダメージはとてつもなく大きい。子供たちは、大人とは違って、あらかじめ決められ心や命を破壊する環境に対して、身を守ることはできない。
 ヘッデルンハイムでは、若者たちは邪魔されず、生き生きと、積極的に自然や美や創造性と触れ合うことになるだろう。
 それは彼らの人生に刻印され、この家で過ごした子供時代は、美しいものとして彼らの記憶に永遠に残り、彼らの人生に明白な影響を及ぼすだろう。
 彼らはまた、個人的に経験したことを好ましくて美しいものとして他の人々と分かち合い、それを世界に向かって実行していくのである。
 ヘッデルンハイムの人間は真に自由である。また、理知的で理論的な建物に落胆させられることもない。
 パラダイスは、我々が自分自身の創造性によって、自然の白由な創造性との調和の中で創るものなのである。

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フンデルトワッサー宣言集1

ロースからの脱出 個別建築改造法案 または 建築ボイコット宣言(1968)

 親愛なる諸君
 画家であるわたしが、なぜ建築の問題に関わるのかと問う人々がいる。しかし、私は画家であると同時に、ひとりの人間でもある。あなたがどこかに腰掛けようとするときに、もし椅子が汚れていたら、まずその汚れをふき取るだろう。同じように、もし私が薄汚れた建築に入っていったとしたら、私もまずその建築を掃除しなければならない。建築物が汚れていればいるほど、より強くより効果的にその汚れを取り除かなければならないだろう。私は家に自由な人間として入っていくのであって、決して奴隷として入っていくのではない。自由な人間であればこそ、私はあらゆることができるのであり、絵を描いたり、発言することができるのだ。私がこの邪悪な籍型……監獄型建築の害毒を攻撃するのにウィーンを選んだのには、もうひとつ重要なわけがある。それは私がオーストリア人だからだ。そのことは、私に、なすべきであるという道義的義務感を与えてくれた。というのも、この建築上の犯罪はウィーンから世界へと送り出されたものだからである。
 オーストリア人アドルフ・ロースは、この残虐行為を世界にもたらした。1908年、彼は『装飾と犯罪』宣言を巧妙に発表したのである。彼の言ったことは的を射ていたが、アドルフ・ヒトラーもそのことをよくわかっていた。しかしアドルフ・ロースは50年後のことを予想することはできなかった。世界は彼が召還した悪魔から逃れられないということを。
 私自身にとって、またすべてのオーストリア人にとって、60年前にここで解き放たれた破局的事態を告白し、この事態と戦っていくことは義務である。ちょうど15年前の1958年にゼッカウで私は「建築における合理主義に対するカビ宣言」を発表している。私はもはや一人ではない。事態を理解している建築家が出てきている。ドイツは建築家の良心に関する会議を開催した。建築家にとって、自ら行ってきたことに対する責任が重くのしかかっている。しかし彼らには、その解決策はわかっていない。製図板を使わずに建てられた新しい建物を私はいまだ見たことがない。状況は改善されつつある。しかしまだ十分ではないのだ。
 ロースの話に戻ろう。もちろん型板を使った装飾はしょせん偽物であるというのは真実だ。しかしそれは罪にはならない。だが装飾を取り除いてしまえば建築かもっと立派になるというのもまた間違っている。ロースはむしろ不毛な装飾を、生き生きとした創造性の成長に置き換えるべきだったのだ。しかし彼はそうせずに、直線を重視し、同質性を重視し、なめらかさを重視した。今や、われわれはなめらかさを手にしたのだ。しかしすべてのものは、そのなめらかさゆえに滑ってゆく。神ですらそうだ。人間にふさわしくない線は、神のイメージとしてもふさわしいものではない。直線は悪魔の道具である。直線を使う者はみな、人類の滅亡に手を貸しているのだ。
 「直線は人類を滅亡に導く」
 この滅亡とはどのようなものだろうか。しかし、われわれはすでにそれを味わっているのである。ニューヨークでは、アパートの一区画あたり精神科医が10 人から12人住んでいるという。診療所は病気のよくならない精神病患者で溢れかえっている。なぜなら、診療所自体も、ロースの建築様式で建てられているからだ。病人は、消毒された画一的な病院に収容され、死のような単調さのなかで病気は増殖している。そこでは、発疹、胃潰瘍、癌、また説明のつかない病による死が現れている。たとえ、精神病医や健康保険があったとしても、そうした建物のなかで回復することは不可能だ。郊外では自殺者が増加している。また数えきれないほどの自殺志願者がいる。男性のように、昼間外出ができない女性たちがいる。ロースとともに始まった惨状を数え出したらきりがない。精神科医や統計学者が証明しているように、こうした環境に閉じ込められた人々の虚無感は、労働意欲の減退や生産力の低下としてあらわれている。不幸でさえ数字やお金によって計ることができるのだから、こうした合理的な建物方法がもたらした損害は、当座の蓄えより何倍も大きいのである。このことは、合理的に建てられた建物を放置しておくのは犯罪的なことだという証明にもなっているのだ。私はこうした大量生産に反対しているわけではない。今の時代には、残念なことに、まだ大量生産が必要なのである。しかし大量生産で生まれた生産物を、現在の状態で、放り出したままにしておくことは、個人が束縛されていることを示すことであり、また個人が奴隷であることの証である。
 創造的な建物を抑圧している犯罪的な法律を撤廃するために手を貸して欲しい。人々はまだ、自分の服をデザインし、自分の家の中であろうと外であろうと自分でデザインする権利があることすらわかっていないのである。一人の建築家や依頼主がアパートの区画全体の責任をもつことはできない。何世帯かが住んでいる建物一つにしてもそれは同じだ。この責任は、建築家であろうとなかろうと、住人みなに課せられた責任であるべきだ。個人が家を改善することを禁じたり制限したりする、管理当局によって押し付けられたあらゆる規制や賃貸者契約などは、撤廃されなければならない。実際、外壁だろうと内装だろうと、個人的に変更したいというあらゆる市民を財政的に援助し支援することは、国家の義務である。人は自分の建築的な皮膚に対する権限をもっている。それにはひとつ条件がある。すなわち、家の改装によって隣人に迷惑をかけたり、結果的に家の安全性を損なうようなことはあってはならない。そのために、すべてをうまくいくよう計算してくれる技術的な専門家が必要なのである。
 持主だけでなく借主も家を改装する機会を与えられるべきである。次の借主がそうした改装を受け入れない場合は、アパートは元の状態に戻すべきである。しかし個性的な改装が次の借り手にも喜んで受け入れられるのは九分九厘確かなことです。なぜなら改装は、アパートをより人間的なものにするために行われているからである。もしこうした個性的に建物を改装するための法律が承認されないとしたら、収容された住民の監獄にいるかのような精神状態はますます悪くなっていき、最後には恐ろしい結末を迎えることになるだろう。たった2つの可能性しかない。すなわち、絶対的な奴隷状態か、あるいは個人の自由の制限に対する反抗のいずれかである。

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フンデルトワッサー宣言集


『ギリシア人の最後』


 近くの大学図書館にフンデルトワッサーの画集やインタビューの掲載された本がおいてあったので、いくつか面白い宣言をピックアップしておきたい。

 『建築における合理主義に対する壊敗化宣言』(1958)

 『ロースからの脱出 個別建築改造法案 または 建築ボイコット宣言』(1968)

 『子供のためのデイセンター
 フランクフルト・へッデルンハイムのためのフンデルトヴァッサー建築プロジェクト』(1987)


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フンデルトワッサーの建築

『建築の医者』

われわれの家は、ながらく、おかしな考えを吹き込まれた都市計画ブランナーや凡庸な建築家によって建てられていた。家は病気になることはなかったが、病んだ家と見なされ、この世に生まれてきた。
われわれは、これらの何干もの家に我慢して暮らしていた。これらの多くの家は、無感覚で、情緒がなく、尊大で、無慈悲で、攻撃的で、神が不在で、のっぺりとしていて、不毛で、飾り気がなく、冷たく、ロマンティックではなく、個性がなく、ぽっかりと穴が開いているように空虚である。
それらは機能性の幻想でできている。そうしたことが、これらの建物の抑圧的な本質であり、その住人は通行人までをも病気にしてしまうのである。
次のようなことを考えてみよう。100人が住んでいる建物の前を、毎日10000人が歩いて、また車で通りすぎる。これらの通行人は住人と同じく………実際にはそれほどでもないかもしれないが………これらの、無慈悲な家のファサードの抑圧的な影響をうけているのだ。病院そのものも病んでいるのだ。
強制収容所やバラックのようなスタイルのビルディングが、若者が社会にもたらすはずのもっとも価値あるもの………自発的で個性的な劇造性………を破壊し、凡庸なものにしてしまった。
もし建築家がこの病気や病気のもとである建物を治せるのだとしたら、はじめからそんな建物は建ててはいなかっただろう。
だからこそ新しい専門家が必要とされているのだ。すなわちそれが建築の医者である。
建築の医者の唯一の仕事は、人間の尊厳を取り戻し、自然と人間の創造の調和を取り戻すことである。その仕事は、すべてをひきずり下ろすのではなく、ただ戦略的な観点にたって対象を変えることであり、大きな労力や責用がかかることもない。この仕事には、川筋を変えられた河川をもとに戻したりすること、あじけない平板なスカイラインに変化をもたらせること、でこぼこの起伏のある土地を改造することも含まれる。また、壁のひびと継ぎ目のあいだで芽吹いた植物の自発的な成長に手を貸すことも、建築の医者の仕事である。なぜならそうした植物は、誰の邪魔にもならない限り、窓に変化を与え角や緑に丸みを与えてくれるからである。
建築の医者はまた、より決定的な外科的手術の責任も負う。したがって壁を切り離したり、塔や柱を立てたりといった仕事もする。
われわれが必要としているのは、単に、窓に関する権利、草や樹木を屋根に植えること、木の間借り人を育て植え付けることを認めてもらうことだけなのである。
もし、さまざまな様式で窓が躍動するようにデザインすることが許されれば、ファサードやインテリアをできるかぎり不規則な要素で飾ることが許されたなら、家は蘇ってくるだろう。家は生命をもち始めるだろう。どんなに醜悪で病んでいようとも、あらゆる家は治療ができるのだ。

フンデルトヴァッサー



『フンデルトワッサーハウス』


『フンデルトワサー美術館』


『イン・デン・ヴィーゼンの中庭』


『ブルーマウ温泉保養村』


『ダルムシュットのウッドスパイラル(模型)』



 「装飾は悪である。」と語ったのはオーストリアの建築家・デザイナーであったアドルフ・ロースであったが、フンデルトワッサーは真っ向からロースに代表される近代建築の理念に反対する。したがって、フンデルトワッサーの建築は徹底的に装飾的なのである。一見無意味で、イレギュラーな形態によって彼の建築は成り立っている。
 直線的、機能的、画一的なモダンの美学へのアンチテーゼとしてのフンデルトワッサーの建築。アールヌーボーというかガウディ風の造形は、それはそれで面白い、とは思う。が、僕が気になるのはむしろ、植物と建築との絡み方だ。
 エコロジー的な発想がそこにあるのは間違いない。植物(生命)はコンクリートやレンガ、タイル、石などの硬い素材でできた建築物にからみつき、覆いかぶさってゆく。放っておけば植物は無方向かつ無秩序に繁茂し、人間の予想もしない形で成長し、堅固な建築物を飲み込んでゆくのだ。建築物と植物、一体どっちが主人なんだろう? 
 フンデルトワッサーは「壁のひびと継ぎ目のあいだで芽吹いた植物の自発的な成長に手を貸すことも、建築の医者の仕事である。なぜならそうした植物は、誰の邪魔にもならない限り、窓に変化を与え角や緑に丸みを与えてくれるからである。」と主張する。ほとんど手放しで植物的な生命のオートマティズムに従おうとする意志を感じる。きっと、生長した植物が、建築物を浸食し、破壊することになってもフンデルトワッサーは植物の側に立って、建築や住環境を再構成することを考えるのではないだろうか。
 このような一種独特なエコロジカルな理念が、モダンの美学に対してフンデルトワッサーが提出する回答であるように思う。それはシュルレアリスムが用いるのとは違った意味での「オートマティズム」、人間精神のというより、生命(自然)の「オートマティズム」とでもいうようなものなのかもしれない。

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フンデルトワッサーの言葉



「ポフツカワの木と移ろう恋 パースでの一週間」

『潔癖症』

潔癖症は我々の交明において典型的な兆候だ。かつては、不潔と不適切な衛生が病気や死の原因となった。今日では、病気は過度の殺菌状態によって引き起こされている。
有機的、一見無秩序なもの、変化、人間の制御できない創造性や自然の植生は、汚らわしいもの、無秩序、危険なものとみなされる。
過度の殺菌状態は死を招く。洗剤産業や圧力団体はテレビやメディアで好き勝手に間違った記憶を植えつけ、無節操な政治的プロパガンダで洗脳しようとしている。彼らは単純な人々や子供の最も基本的な本能に訴えかける。あなたのシャツは焼もちやきの隣人のシャツより白くなること間違いなしといった具合に。しかし、致死量の有害物質は我々の愛する人や自然を殺すという事実については語られない。我々は汚染と反汚染を同時に促されているのである。
反汚染は、汚染以上にますます危険になってきている。廃物は製品よりますます危険なものになっている。
我々の醜悪で無菌状態に近い団地には、すでに完全にきれいな窓を5回ずつ拭く女性がいる。これは嘆かわしく危険な潔癖症だ。
もし壁にしみがついたら、画一的で無菌状態に近い正面壁を守るために、正面壁全体が塗り直される。
悩みが生じるのは、普通の石鹸で洗濯したきれいなシャツに、しみがついていたときである。このしみはこのシャツを一般大衆のものと違ったものにしてくれた、という思いがけない幸運として歓迎するかわりに、直ちに、もっと危険度の高い有害物質を用いて取り除くのだ。さらに舗装の割れ目から生えてきた草や、植えていないのに勝手に生えてきた樹木に対しても、困ったことだと感じる。こうしたものを残酷に踏み潰したり引き抜いたりするべきではないのに、実際はそうされている。
これらは我々の誤った文明の病理の典型的な兆候なのである。
過度の殺菌状態は死を招く。制御できない有機体の成長や変種や知性を使って保護することは、生につながる。
我々には美のバリアが必要だ。
美のバリアは規格化されていない不規則なものである。


『廃物のない社会に向けて』

もしはっきりとした良心をもちたいと思ったら、廃物のない社会のために戦わなければならない。我々は自然の客人であり、自然の法に従って行動しなければならない。使い捨ての社会に寛大であってはならない。人は、自分自身が世界を荒廃させてきた最も冠険な寄生生物であることを、認識しなければならない。地域を再生させるために、エコロジーの体系の中で自分の本来の場所に戻らなければならない。自然は何百万年にもわたって、沈積物や有害物質を、腐葉土層、植物の層、酸素の層で覆ってきた。その結果、人間は地球で生きていけるのである。しかし、恩知らずな人間はその後、丹念な宇宙的な配慮で隠されていた沈積物や有害物質を取り出し、地表に出してしまった。こうして、無責任な人間の大それた行動により、時間の始まりと同じように世界の終わりも作り出してしまった。
我々は自殺行為を行なっているのである。我々の都市は癌に似た潰瘍なのである。
我々はみな、ゴミに対して責任がある。ゴミは刑事犯罪にするべきだ。根本的にゴミのない状態にするために、ゴミを産出する業者、包装業界、ゴミの原因を作り出す人、ゴミを出す人は、厳重に罰せられるべきである。
我々は自分の国で生産されたものを食べず、食料を遠くアフリ力やアメリ力、中国、ニュージーランドから輸入している。自分たちの糞も保存しない。汚物を遠くへ遠くへと流していく。そうして川や湖や海を汚染しているのである。糞は我々の土地に還元されることもなければ、食料が生産された場所に還元されることもない。我々は食前・食後に感謝の言葉をロにするが、糞をするときは誰も感謝の言葉を口にしない。我々は大地の賜物である日々のパンを神に感謝するが、食べ物が糞になると、自分の糞に祈りを捧げることなどしない。廃物は美しい。廃物に感謝し、再び一体となるのは、美しくて楽しい行為である。



 どうやらフンデルトワッサーはエコロジストらしい。しかし、エコロジーというのは大切なことだとは思うが複雑な問題で、けっこうクリーンなイメージで語られることが多いけど、やっぱりそれはウソくさいと思う。きっとそれは緑にあふれた公園のような世界を目指すものではなくて、汚物や異物………無節操で無秩序なものへの親和性を回復させることなんじゃないだろうか………これを読んでそんなことをちょっと思った。

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フンデルトワッサーの横顔

 『1982年 パリにて』



こんな感じの人。


 『奥様』



5年間連れ添った日本人の奥さん。池和田侑子さん。けっこう美人だぞ!


 『ハングルグの線』



レルヒェンフェルト美術大学にて………これはすごいかも。鬼気迫る一品。


 『建築における合理主義に反対して裸の演説を行うフンデルトワッサー』


ミュンヘンにて。イヤ〜ン! こんなことまでなさってたの?



 『おまけ』


フンデルトワッサーとは全然関係ないんだけど、極東にある島国のとあるアーティストの作品たち。東京の下町の小さなアパートが彼のアトリエだった。なんか『神田川』が似合いそう。あなたはもう捨てたのかしら? 24色の油絵具………ああ、捨てたさ! ………なんか文句あっか?

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センチメンタルな東京コーヒー

 常野雄次郎さんの『登校拒否解放の(不)可能性』という記事を読んで、興奮するとともに、少しセンチメンタルな気分になった。

 記事に対して、いろいろ批判のコメントやトラックバックなんかがくっついているけど、僕にとっては常野さんの議論は明快であり、また納得し共感できるものだった。
 登校拒否児の排除・抑圧は、学校を肯定する人が、自らをマジョリティとしてアイデンティファイするためになされている、という排除のメカニズムの分析。
 そして奥地さんによる「フリースクール」の試みは、システムを強化、肯定するものに結果的になっているという指摘………すなわち、登校拒否というものが、実は学校制社会=資本主義社会システムの拒否であるにもかかわらず、奥地さんのしていることは、学校制社会の規範の逸脱が保持しているシステムにとって危険な一面を切り捨てることによって、浄化され無害になった不登校者の像を捏造していることである、という分析………。
 さらに、社会的異物=モンスターをめぐる3つの物語………これらの議論は読んでいて面白くて夜中なのに目が冴えてしまったほどだ。この間、僕がのっけたこのエントリーと較べてもらえれば、常野さんの感性が僕のそれとけっして遠いものでないことはわかっていただけると思う。

 それと「奥地圭子さん」という名前を見つけて、僕の心はちょっとセンチメンタルに20年前にタイムスリップしてしまった(笑)。当時僕は(この言葉が世に出るか出ないかの頃だと思うが)フリーアルバイターだったが、そこでいっしょに働いてた友達に登校拒否経験者がいた。なぜ僕を誘ってくれたのかわからないが、「ニューフェイズ」という名の「登校拒否を考える会」をやってるので参加しないか、と言われた。
 彼らはかつて国立国府台病院精神科の渡辺位さんという先生のもとを訪れていた登校拒否児だった。この渡辺先生という人は、登校拒否は病気ではなく、歪んだ教育の押し付けに対する健康的な反応である、という主張をしていて、本を書いたり講演をしたりしておられた。
 その先生を訪ねた登校拒否児たちのコミュニティみたいなものがあったらしくて、けっこう個性の強い連中が集まっていたようだ。まだティーンエイジャーの子供たちなのに、面白い主張をもっていて、たとえばマルクスと登校拒否を絡めて論じてるような子もいた。彼らの書いたものを読んで、もう成人していた僕はうなってしまった。
 そんなコミュニティの分派みたいなものだったんだろうか、「ニューフェイズ」を主催している子に僕は誘われたのだった。まあ、会と言っても数人しかメンバーもいなくて、二つほどあった運営方針、「登校拒否というものを一般の人にも理解してもらうこと」そして「登校拒否をしている子に居場所を提供すること」は、ほとんど機能していなかった。隔週ぐらいで会合をもって手書きの会報を作ったり、一緒に遊びに行ったりしていた。(当時の僕らがどんなことを考えていたのか、僕の書いたマニュフェストみたいなものを載せておきます。)
 そんなわけで、活動的にはほとんど無力なものだったけど、問題はとりあえず何かのアクションを起こすことであり、一見つまらないディテールを積み重ねることだったと思うし、あの会のことは今、それはそれで楽しい思い出になっている。
 彼らの話を聞いていたとき「奥地さん」という女性の名前がよく出ていた。もう僕もほとんど忘れかけていたことだった。結局、意見が噛み合なくなって「ニューフェイズ」自体は空中分解してしまったが、今から思えば若々しいというより幼かったあの頃の雰囲気がちょっぴり懐かしい………。

 もう本当に会わなくなってしまったし、彼らどこでどうしてるんだろうと思う。その渡辺先生のコミュニティに一人、劇団に所属している女の子がいて、その後その子を主人公にした「登校拒否」をテーマにしたドラマの公演が行われることになった。僕はテレビのニュースでその子の公演が話題になってるのを偶然見た。練習風景とか、応援する家族とかが映し出されていた。お定まりの、家族のコメント……「今思えば、登校拒否してた頃って、一体なんだったのかしら……」というのを僕はぼんやり見ていた。僕の勝手な感想かもしれないけど、あの女の子の舞台の練習の姿もインタビューに答える顔も、全然楽しそうではなかった。正直、なんか利用されちゃってるなあ、と思った。きっと、常野さんの言っているハッピーエンド付きの物語のウソ臭さ、というのはこういうことだと思う。

 確かに言えることは、不登校という事態に含まれる問題は、学校に行くとか行かないとかいう問題だけなのではなく、成人してからも、何度でも直面する問題なのだ。つまり常野さんのいうところの学校制社会=資本主義社会のシステムに対する拒否/反抗こそが、登校拒否の本質であるからだ。したがって、登校拒否解放運動というものは、資本の支配の戦略に対する対抗の運動だと言い換えることができる。
 常野さんは『登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。』といっている。これは、登校拒否とは資本主義社会のシステムにとってあきらかにイレギュラーな要素(異物)である、ということであり、このイレギュラーを徹底的に肯定すること………これこそが登校拒否の解放につながる、と言うことだと思う。
 さらにいえば、イレギュラー(異物=モンスター)を肯定することは、肯定する人をも(資本の側からすれば)「異物=モンスター」として認識させてしまうことになる。したがって、僕らは自ら「異物=モンスター」への道を歩まなければならないことは必至であり、その責務を引き受けるだけでなく、それを楽しむことができてこそ、真の開放の道が開けるというものだと僕は思っている。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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