泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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フンデルトワッサー宣言集3

『建築における合理主義に対する壊敗化宣言』(1958)


 絵画と彫刻は、今日では自由なものである。というのは、今日ではだれでも、どんな作品でも生産し、そのあとで展示することができる。だが建築の場合には、あらゆる芸術の条件とみなされる、この根本的な自由がつねにない。なぜなら、建築するためには、まず第一に大学卒業の資格をもっていなければならないからである。それはなぜであるか?
 だれもが建築できるようであるぺきだ。そして、このような建築の自由がないかぎりは、今日の計画された建築も、一般に芸術に数えられるわけにはいかないだろう。建築は、われわれの場合、ちょうどソヴェトにおいて絵画がおかれているのと同じような評価のもとにおかれている。実現されているものは、ぎこちない人間と低劣な知識との、孤立した、くだらぬ妥協なのだ!
 個人個人の建築への欲望をけっして妨げてはいけない! だれもが建築することができるのであり、またしなければならないのであり、そのようにして、自分の住んでいるわが家に対してほんとうの貴任をもつものでなければならない。そして、われわれは、あまりにも気違いじみた形のものはのちに崩壊するだろうという冒険を忍ぱなければならない。また、このような新しい建築方式が必要とする犠牲,、もしくは必要とするだろうと思われる犠牲を恐れてはならないし、恐れるにもあたらないだろう。そして最後に、人間が、若鶏や家うさぎがその小屋に移るように、住まいを引っ越したりすることをやめなければならない。
 そのようにして、居住者自身によってつくられた、気違いじみたものがこわれるとしても、たいていはもともとそれより先にめりめりと音をたてるものであり、逃げ出すこともできよう。だが間借り人の場合は、はじめから自分の住んでいる家に対しては、批判的にまた独創的に向かっているだろう。そして、もしも家がこわれそうに思われたときは、自分の手で壁や柱を補強することとなるだろう。
 スラム街の、物的な意味での住みにくさは、機能的で便利な建築の、道徳的な意味での住みにくさよりもよしとすべきである。いわゆるスラム街においては、人間の肉体が滅びるだけなのだが、人間のために計画したと称する建築においては、人間の魂が滅びるのだ。それゆえ、スラム街つまり荒れるにまかせた建築の原理を改造し、それを出発の基盤としなければならないのであって、機能的建築を基盤としなければならないのではないのではないのだ。
 機能的建築は、定規をもってする絵画とまったく同様に、誤りであることがわかった。われわれは、非実用的な建築、役にたたない建築へ、そしてついには住めない建築へと、迅速に近づいてゆく。ちょうど、絵画にとって絶対的なタシスムのオートマティスムがそうであったように、建築にとっては、絶対的な住めなさが大きな曲がり角となる。建築はほぼ30年間というもの、遅ればせについてきたものであるがゆえに、絶対的な住めなさの問題は、いまなおさし迫ったものとなっているのだ。
 われわれが、タシスムのオートマティスムのすべてを通過して、今日ではすでに超オートマティスムの奇跡を体験しているように、まったくの住めなさと創造的な壊敗化をのりこえることによって、はじめて、新しい、ほんとうの、自由な建築の奇跡を体験することとなるだろう。しかしながら、われわれはまだまったくの住めなさを通過していないので、また残念なことに、われわれはまだ建築の超オートマティスムの状態にいないので、何よりもまず第一に、建築におけるまったくの住めなさ、創造的な壊敗化をできるだけすみやかに実現するように努めなければならない。
 貸家に住んでいる人は、窓の外へ身をかがめ、そして、………手のとどくかぎり………壁をかき落とすことができるのでなければならない。また、かれには、長い絵筆でもって………そのとどくかぎり………すぺてをぱら色にいろどり、遠くから、通りからでも見えるようにすることがゆるされるのでなければならない。そうすると、そこには隣りの人間、つまりよそからあてがわれた小家畜と区別されるひとりの人間が住んでいる、ということになるのだ! さらにまた、かれは、たといそれによっていわゆる建築の傑作がもっている建築的、調和的な姿がぶちこわされることとなるにしても、壁をのこぎりでこまかに切りくずし、どんな変更でもやってみることができるのでなけれぱならない。また、泥や粘土で部屋をいっぱいにするのでなければならない。
 だが、そんなことは賃貸借契約では禁ぜられていることだ!
 いまや人々は、ちょうど若鶏やうさぎが自分たちの性に合わない濫のなかに入れられているように、箱みたいな構造物のなかに入れられることに対して反乱を起こすべきなのだ。
 濫のような構造物、あるいは有用な構造物などというものは、次のような三種の人間すべてに対して異質であるような建造物なのだ。これらの人間は、この仕事にかかわりをもっているのに!
 1、建築家はつくったものとなんの関係ももっていない。
 たといかれが最大の建築的天才であるにしても、かれは、そこに住む人間がどんな人間であるかを、あらかじめ予想することはできない。いわゆる建築における人間的尺度なるものも、犯罪者的な詐欺だ。この尺度がギャラップ方式で平均値としてとりだされている場合は、とくにそうだ。
 2、左官はつくったものとなんの関係ももっていない。
 たとえば、かれが、もしも何か自分個人の考えをもっているとして、それにしたがって少しばかり違ったふうに形づくろうとすると、かれは仕事を失ってしまうだろう。そのうえ、それはかれにとって、まったくどうでもよいことなのだ。だいたい、かれはそこに住む人間ではないのだから。
 3、居住者はつくったものとなんの関係ももっていない。
 なぜなら、かれが実際に建てたのではなく、かれはそこに住まわせられるにすぎないのだから。かれの人間的な要求、人間的な空間というものは、もちろんそれとはまったく別のものだ。たとい、建築家と左官が居住者と建て主の申し立てをよく聞いて建てるように努めたところで、事情は依然として同じなのだ。
 建築家と左官と居住者が一体になるとき、つまりひとりの人間となるときにのみ、建築について語ることができるだろう。その他のものは、すべて建築ではない。それは形になった、犯罪者的な行為なのだ。
 建築家一左官一居住者は、父なる神一子なる神一聖霊なる神とまったく同様に、三位一体である。類似、つまり三位一体のえせ同一を注意せよ。建築家一左官一居住者の統一が失われたならば、そこには建築はない。ちょうど、いまつくられているものが建築とは認められないように。人間は、失ってしまった批判的、創造的機能をふたたびとりもどさなければならない。それがなければ、人間は人間として存在することをやめることとなるのだ!
 さらに、建築における定規の使用も犯罪者的だ。それは、容易に証明されるように、建築的三位一体を破壊する道具だとみなされよう。
 どこへでも直線を持ち歩くこと自体すでに、少なくとも道徳的に禁ぜられなければならないだろう。直線は、現代の文盲のものたちのシンボルだ。直線は、現代の崩壊の病の徴候だ。
 われわれは、今日、直線のカオスのなかに、直線のジャングルのなかに生きているのだ。信じられないならば、一度努力をして身のまわりの直線を数えてみるがよい。そうすればよくわかるだろう。というのは、けっして数え終わることがないだろうから。
 私は、安全剃刀の刃の上に546本の直線を数えたことがある。まったく同じように見える同種の製品をもう1枚加えてみたとすると、直線の教は1,090 本となり、もしそれに包装を加えるとすると、安全剃刀の刃についておよそ3,000本の直線がうまれることとなるだろう。
 それほど遠くもない以前にあっては、直線を持つことは王や富裕者や如才のないものの特権であった。今日では、どんな愚かものでも何百万という直線をズボンのポケットに入れているのだ。われわれを、監獄のなかの囚人のように、ますます包み込んでゆく、この直線の原始林は、開墾しなけれぱならない。
 これまで人間は、自分の住んでいるジャングルをつねに開墾し、そして自由になってきた。もちろん人間は、まず第一に、自分がジャングルのなかにいるのだということを意識していなければならない。なぜなら、このジャングルは、そこに住むものが何も知らぬまに、こっそりとつくられてきたのだから。そしてこんどは、直線のジャングルなのだ。
 定規やコンパスが、ほんの1秒間でも………そしてただ頭のなかだけのことにしても………ある役割を演じたような近代建築は、すべて否認されるべきだ。設計の仕事や製図板の仕事や模型の仕事については、まったくいう必要もない。それらは、病的に不毛であるぱかりでなく、ほんとうに不条理なものとなってしまったのだ。
 直線は神にそむくものであり、非道徳的なものだ。直線は、けっして創造的な線ではなく、複製的な線なのだ。そこには、神や人間精神があるのではない。あるのは、むしろ快適さを欲しがる、頭の悪い、ありの群だ。
 直線による形象は、たといそれがどんなによじれたり、曲がったり、つき出たり、穴だらけになったりしたところで、それによって虚弱なものとなっているのだ。それはすべて連係のパニックであり、構成的な建築家の不安であるのだ。まにあうことは、タシスムヘ、つまり住めなさへと交代することだけなのだ。
 安全剃刀の刃に錆が生じたなら、壁がかび臭くなり始めたなら、部屋の隅に苔が生え、幾何学的な黄(かど)がまるくなったなら、それでも人は、いろいろな細菌といっしょに生命を家のなかへ引き入れたことを喜ぶだろう。そしてわれわれは、学ぶべき点の多くある建築的変化について、その証人を以前にもましてよく知ることとなるだろう。
 構成的、機能的な建築家たちの無責任な破壊狂については、よく知られているとおりだ。かれらは、90年代やユーゲントシュティールの、スタッコ仕上げのファサードをもった美しい家をあっさりと破壊し、そこへかれらの空虚な形態を移し植えようとした。私は、直線形の怪物のような構造物をすえるためにパリの町を廃墟に帰せしめたル・コルビュジエのことをさしているのだ。公正を期するために、いまや、ミース・ファン・デル・ロー工、ノイトラ、バウハウス、グロピウス、ジョンソン、ル・コルビュジエらのものもまたとりこわさなければならないだろう。これらも、この1世代以来古ぴてしまい、また道徳的にもたえがたいものとなってしまったのだ。
 だが、超オートマティスト、および住めない建築のかなたにいるものはすべて、先輩たちを人間的に遇する。かれらは、もはや破壊しようなどとは思わない。
 機能的な建築を道徳的な荒廃から救い出すためには、清らかなガラスの壁やなめらかなコンクリートの面に壊敗剤をふりかけ、そこにかびが繁殖するようにすればいいのだ。
 いまや産業は、その根本的な使命を認識しなけれぱならない。使命とは、かぴによる創造的な壊敗化を押し進めることだ!
 いまや、産業界の専門家や技師や博士たちにおいて、壊敗化に対する道徳的な責任感をはっきり示すことが、産業の課題なのだ。
 このような、創造的壊敗化およぴ批判的腐朽化に対する道徳的責任感は、すでに教育法上の根拠をもっものとなっていなければならない。
 かぴのなかに生き、かぴを創造的につくり出すことのできる技衛家のみが、明日の世界の支配者となるだろう。
 われわれが多く学ばなけれぱならない創造酌な壊敗化ののちにはじめて、新しい、すばらしい建築がうまれるだろう。


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2005年03月15日の記事

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

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