泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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フンデルトワッサーについてのまとめ

 フンデルトワッサーの絵をはじめて見たのは、20年以上も昔のことだ。確か『ポッペだけが知っている』というタイトルの奇妙な絵だった。が、その奇妙な絵は僕の心にずっとひっかかっている。ぐるぐるとすべてを飲み込んでゆく渦巻き、無意識のそこから浮かび上がってきたような派手だがどこか暗い色彩。フンデルトワッサーさえいなければ僕がこんな絵を描いたんじゃないかと思うような絵だった。


『黄色い遺書ー黄色い福音書』

 当時はあまり情報もなかったが、最近では何冊か画集が出版されていて、けっこう人気があるみたいだ。日本人の奥さんがいたことや、絵だけじゃなくて建築もやっていることも最近知った。図書館で借りた画集をしげしげと眺め、フンデルトワッサーの言葉をたどってみると、けっこうおもしろい。ちょうどモダン/ポストモダンの建築のつまらなさ、みたいなことをずっと感じてたこともあって、フンデルトワッサーの試みがスーッと僕の心にマイナスイオンとともにしみ込んできたのだった。
 モダンの美学に対する激しい怒り、これこそがフンデルトワッサーを突き動かしている。ウネウネとした曲線へのこだわりは、直線や幾何学的なものへのアンチテーゼである。さらに徹底した生命主義、植物的な無秩序への従属。汚物との関係の回復。これらの理念は凡百のエコロジストとフンデルトワッサーをしっかりとわけへだてている。建築物を含め、彼の作品のオリジナリティは否定しようがない。そこには一つのトータルな生き方(哲学)があるのだ。

 とはいいながらも、僕が求めるものと何か違う、という実感は確かにある。それは何だろう? と考えてみた。


 スラム街の写真を眺めていると、僕は妙に心がときめく。それはギリギリの生活やこみいったスラムの人間関係みたいなものに何かを感じるってことも確かにあるが、それよりもこの奥にはいったい何があるんだろう、という迷宮のように入り組んだ集落の作りや、ちょっと前のエントリーでも引用した宮内康の言葉にあるように、廃材を利用してコラージュのように組み立てられた異様な「建築物」の相貌にときめきの原因はあるんじゃないかと気がついた。
 スラムの生活や貧困を美化するつもりはさらさらないのだが、ギリギリの生活の必要が生み出している美観は、はっきり言ってフンデルトワッサーの建築よりもおもしろい。おとぎ話に出てきそうなフンデルトワッサーの奇妙な建築がブルジョワチックな保守的なものにすら見えてくるのだ。

 確かにフンデルトワッサーの建築はおもしろい。しかしそれはやはり専門家がつくった「作品」としての建築だ。彼のつくった集合住宅は大変な人気で、入居希望者は後を絶たないらしいが、そこに住む人はやはり「商品」としてフンデルトワッサーの建築を「消費」するのだ。
 つまり、労働力の再生産過程において「消費」される建築商品だ、ということは間違いない。そこでは、労働/再生産(余暇)という分割は維持されたままだと言える。フンデルトワッサーはしきりに近代建築の画一性、機能性が、人間性に及ぼす害悪について主張している。それに対して彼は、曲線によってつくられ植物の生い茂る彼の建築が住人に与える癒しや創造的な効果について大いに語るのだ。それが真実であるかどうかはともかく、ここでフンデルトワッサーが行っている手続きは、建築によって生活全体をデザイン(変革/改良)できる、というバウハウスなどモダン建築が考えていたプロジェクトと基本的にはまったくかわらない、ということには注意すべきである。彼の建築は、彼なりの人間の「幸福」のかたちのデザインなのだ。いろいろな面で修正(たとえばエコロジカルな、植物の無秩序な成長を妨げない一種のオートマティスムなど)が施されてはいるが、やはりここには一方向的な政治性とでもいったものがある。たとえば彼はこんなことを言っている。(彼のつくる緑の生い茂る住居においては)「休日に外出する代わりに人々は家にいるようになる。結局、家にいるのが快適で、完全にくつろげるからだ。」………つまりフンデルトワッサーは、余暇の新しい形をデザインし、提案するのである。また彼は「ロースとともに始まった惨状を数え出したらきりがない。精神科医や統計学者が証明しているように、こうした環境に閉じ込められた人々の虚無感は、労働意欲の減退や生産力の低下としてあらわれている。不幸でさえ数字やお金によって計ることができるのだから、こうした合理的な建物方法がもたらした損害は、当座の蓄えより何倍も大きいのである。」という聞き捨てならぬことも言っている。………労働と余暇、すなわち労働/再生産の分割という、社会形態そのものがもっている問題には疑いを差し挟んではいないし、生産性や効率性は、フンデルトワッサーの建築においても追求されるべき目的であった、という事実もこの言葉から読み取れるだろう。
 また、フンデルトワッサーは建築において職人たちや、住民との共同作業ということを強調する。しかし、職人や住民のアイディアがフンデルトワッサーの設計のプランを大きく揺るがすほどに増殖してしまうことはやはり考えられないと思う。やはり彼の建築はあくまでも、フンデルトワッサーというアーティストの個人的なプロジェクトなのだ。それはおもしろさでもあるが、一つの限界のようにも思える。モダンの徹底的な批判者である彼のプロジェクトは、やはりモダンなのだ。

 それに対して、スラムに感じるおもしろさは、「作品」を目的としていないものが醸し出している「表情」としてのおもしろさなのではないだろうか。あれらは「商品」としてつくられたものではないし、専門的な建築家が設計したわけでもない。スラムの住人は商品化した住居を「消費」しているのではないのだ。ここにないのは、「作品」としての建築に切っても切り離せない政治性、「生活はこうあるべきだ」という理念である。まさに生き、住むことへの切実な欲求がつくり出したアナーキーで匿名の造形、それがスラムという「建築」から私たちが見て取れるものなのだ。

 このスラムの美観と絡めて次の文章を読んでみる。

遊びの自由の中に人間の独創性があり、それによって、以前のように労働時間と余暇の時間とをわけることが不必要になるのである。

細分化された芸術に対して、新しい文化は、使いうる要素をすべて含んだ実演を引き起こすことになる。もちろん、それは共同制作で実現されるものであり、いうまでもなく無署名(アノニマス)である。


 これらは誰の言葉かわかるだろうか? 実は、フンデルトワッサーの宣言を調べるために『世界建築宣言文集』という本を図書館で手に入れたのだが、フンデルトワッサーの次のページにはなんとシチュアシオニストの宣言が載せられていたのだ。(同じ文章が、『アンテルンシオナル・シチュアシオニスト』の第4号に『マニフェスト』として訳出されている。両方読み比べてみると、同じ文章とは思えないぐらい訳が違っている。それにしても、シチュアシオニストを状況主義者と訳すのは理解できるが、多分「レトリスト・インターナシオナル」のことだと思うんだけど、「国際文筆家協会」なんて訳してあって、ウ〜ンこれはどうなんだ? と思ってしまう。ま、無理もないけどね。レトリストなんて僕も聞いたことなかったから。)

 僕はモダンアートやモダンの美学に対してフンデルトワッサーとはまったく違う、より根源的な批判のアプローチをしたいと思っている。それはシチュアシオニストとまったく同じ戦略だ(と僕は思っている)。つまり「作品」という表現方法を拒否するのだ。「作品」は「商品」へと容易に移行し、それは「消費」されるものとして、労働/再生産の二分法を形の上では維持する。つまり商品化によって、「作品」を制作する「労働」と、「作品」を鑑賞する「消費」(再生産)とに表現行為は分割されてしまう。同時にこれはコミュニケーションの形としては、能動的なアーティスト(制作者)から受動的なオーディエンス(観客)への一方向的なものになってしまうことを意味する。
 実は今現在、僕らが知っているアート(芸術)というものは、ほとんどこの手続き(二分法)に則ってなされている。(この件についてかつて長々と書いたことがある。)その手続きはアートを商品化し、資本主義社会の市場へと流通させるためのアタッチメントになっているというのが僕の考えだが、シチュアシオニストの戦略もまったく同じポイントをついているのではないだろうか? つまり「作品」制作を放棄し、「状況」の構築へ向かうというのは、このアタッチメントの働きを無効にしようという戦略なのではないか、と思うわけだ。
 
 さらにシチュアシオニストの文章は続いている。

一方的な芸術に対して、状況主義の文化は、対話の芸術であり、共同の行為の芸術であるだろう。

 目にしうる文化のすべてにおいては、事態は、芸術家が社会から分離され、芸術家自身もまた………競争のゆえに………互いにはなればなれに生きる、というまでになった。しかしながら芸術がこのような「資本主義」の袋小路にはまり込む前ににも、それはもともと一方的でであり、答えなしの状態であった。芸術はこのような、原始的な状態に閉じこめられた時期を乗り越えて、完全なコミュニケーションへと向かうだろう。
 より高い段階では、誰もが芸術家になる………つまり、文化的な、全体的な成果の生産者と消費者になる…………


 つまりは、「状況」の構築の中で、情報の生産/消費という分割、すなわち制作者/観客という分割を無効にしたい、というのがシチュアシオニストの考えであるということだ。その結果現れるであろう、双方向的なコミュニケーションの形を僕は新しい「祭り」としてとらえて、シチュアシオニストを「祭りの戦士」として解釈する、というのが僕の野心なんだけど、まあそれはこれからの課題にしておく。(それにしても翻訳によってまったく意味が違ってしまうものだなあ。上の文の中の「芸術がこのような「資本主義」の袋小路にはまり込む前にも……」というところ、インパクト出版の『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』では「資本主義が行き詰まる以前に、芸術はすでに……」と訳されている。ぜんぜん意味が違うぞ。僕としては後者のほうが誤訳であったほうがすっきりするんだけどなあ。だってこの文脈でいきなり「資本主義が行き詰まる」なんて言葉が出てくるだろうか、と思うんだけど。それに資本主義は行き詰まったことなんてあったの? って、やはり原文が読めないとつらいってことかなあ。)
 どうだろう? スラムのもつ表情が驚きとともに僕らに語りかけるのは、ひょっとしてシチュアシオニストが「対話の芸術であり、共同の行為の芸術」と言っているものと、けっして遠くないものなんじゃないだろうか? そういえばアウトノミアの戦略のひとつにスクウォッティングなんてのがあったけど、スラム居住者だってスクウォッターだし………。そう考えてみるとスラムの住人って、アバンギャルドな存在なのかもしれない。

 さて、しばらくフンデルトワッサーについて調べてきたのだけど、個人的にはすごく好きだし、おもしろくて尊敬もするんだけど、上にも書いてきたような意味で、ちょっと僕の問題とはズレているような気がする、というのが正直なところだ。もっとも、ちゃんとしたことを言うためには、もっと彼のこと調べなきゃならないんだろうけど、まあ、これからもそのへんはよく調べて、考え続けるつもりなので、きょうのところは暫定的なこの結論で終わりにしたいと思う。


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2005年03月16日の記事

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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