泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1

 私はここしばらく、内田樹氏のブログのエントリーにある言葉(および内田氏が引用している山田昌弘氏の言葉)にケチをつけてきた。というのもお二人の言葉は私にはどうにも後ろ向きの言葉としてしか読み取れないからだ。それに皆さんどうも内田先生の言葉を素直に読みすぎているように思うのだ。言葉を言葉通り受け取ってどうする? インチキを見抜くにはもっとネチっこく攻めなきゃだめだ。そんなわけで、しつこくもまた内田氏の言葉にからんでみようと思うのだが、今回はちょっと視点を変えてみたいと思う。

 「リスク社会」という言い方で(新自由主義とかニューエコノミーと言われる)現行システムを分析することにとりあえず異論はない。いろんな人が同じような分析をしてるし、自分の実感としてもわかるような気がする。問題はその先で、お二人の提言はこの非情なシステムの角を削り、もう少しソフトなものにして、国民をうまくシステムに軟着陸させるための手当をしなければいけない、というものだ。そうしないと社会の階層化が進み、社会的弱者が増加し、システムに悪い影響を与えかねない(不良債権化する)というのである。
 私がこの議論を読んで感じたのは、一言でいってしまえば「外部への視線の欠如」ということだ。そしてそのことはおおまかに2つの議論上の不備につながっているように思う。ひとつは、現行システムの無条件な肯定……と、もうひとつは、システムの周辺や外部(すなわち他者)の一方的な危険視……である。明らかにこれは「外部への視線の欠如」というひとつの事態の表裏二つの面を表している。

 これまでも語ってきたことだからここでは詳しく述べないが、内田氏は「リスク社会」到来の原因としての「競争」原理については一切問題にしない。内田氏の説明では「文句を言っても始まらない。「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。」ということで、「リスク社会」到来は私たちの自業自得なのである。
 明らかに「リスク社会」は、競争原理を利用することで労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出すために、資本によって構想されたものだと思うのだが、内田氏はそのような資本主義社会のあり方にまで遡って考えることはせず、「リスク社会」を必然的で自明のものと見なすとともに、問題の原因を私たちの自分勝手な振る舞いへとずらし、お説教をかましてくれるのである。曰く……人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること……と。
 競争によって破壊されてきた「中間的共同体」が、過酷な「リスク社会」において再構築されたところで機能しそうにないってことはともかく、内田氏にとって現行システムは手当を施してまでして維持されなければならないものだということは確かだ。そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい、って考えそうなものだが、そういう発想にはいたらない(ないしはそういう議論をあえて避けている?)ようである。とにかく内田氏にとってこの「競争」社会は自明で肯定されるべきものなのだ。

 したがってその「競争」社会のルールや価値観も自明視されている………

 「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(………)
 いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(………)
 結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。」

 
 ………どうなるんですか? 先生………。それはそんなにひどいことなんでしょうか……?
 山田氏のこういった言葉から読み取れるのは、「夢」が理想の職業の実現………ある人間がシステムの中で果たす固定的な役割に就くこと、ないしはその職業による収入の問題としてしか語られていないことだ。ようするに人間の成功というものをシステム内部での(おもに収入の比較によってつくられた)その序列によってのみ判断しているということだ。
 そのような一面的な視点から人間の価値を判断できるのは、内田、山田、両氏が「競争」社会のルールに則って(競争社会のルールを内面化、自明化して)いるからにほかならない。
 しかも人間の成功とか価値を、他者との比較においてのみ(内面的なものは一切問題にされていない)考えていて、それだけをもとに階層化による暗澹たる未来の予測に結びつけてしまっているのだ。つまり客観的になされているように見えるこれらの暗い未来の分析は、実のところまったく一面的な視点から専断的になされていると考えるべきである。そしてその専断はさらに山田氏のいわゆる「希望の格差」なんていう心理的な問題の方向にずらされ、「不良債権化した若者が危険だ」という不安をあおる議論に引き継がれる。
 このような専断的な議論は「外部への視線の欠如」によって引き起こされている。「競争」のシステムからはずれた多様な価値のあり方はまるで問題にされていない。それが典型的に現れているのは、社会的弱者となった若者の危険視、においてである。


 山田さんは、あと20年後に確実に不良債権化する「元若者」たち(社会的能力もなく、家族もなく、年金受給資格もなく、保険にも入っていないような中年老年の男女)の生活保護のための財政支出と、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいいと提案している。

 内田氏は、構造改革や経済の自由化を進め「リスク社会」という非情な「競争」社会をつくりあげた結果生じてくるだろう事態に対して、そのような政策をとることで「リスク社会」をつくり出してきた資本の戦略を責めることを避け、不良債権化するだろう「元若者」たちのほうを迷惑者扱いするような口調で責めている。リアル・ファイトの闘技場で精一杯努力しなければ、いずれこのようなつけが回ってくるのだ、と言いたげである。おまけに、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいい、といった具合にシステムの下層や周辺にいるものを、社会を動揺させかねない不安要因として危険視するのだ。あくまでもシステムは絶対であり、維持されねばならない。つまりここでもシステムの外部へ向かう視線は遮断されている。そしてシステム上のゲームで敗者になる者のルサンチマンはなんとかしなければならないと、労働者の蜂起を怖れるブルジョワジーのごとく危機感を抱くのである。
 おそらく現実にニートとか引きこもりの人たちが凶悪犯罪を起こしているのを見て、不安を感じているという面はあるのだろう。まあ、いつの時代のどんな社会でも、システムの周辺部にいる人たちほど犯罪に近い………これは間違いないことだ。
 だが、内田氏や山田氏から見てシステムの下層や周縁にいる人々を一概に自暴自棄に陥りがちな人と見なしたりできるんだろうか? 実際にはどんなポジションにいる人でも様々な価値のベクトルを抱えて生きている。経済的に厳しい生活を強いられているにもかかわらず、けっこう楽しくポジティブにやってる人もいるだろうし、かなり上層にいる人が、さらに上にいる人に憧れ、心を焦がすようなルサンチマンを抱いてるなんてこともあるかもしれない。
 ようするにルサンチマンなんてことが問題になるのは、「競争」のよって立つ価値観を内面化しているかどうかによるわけだろう。 逆に、お二人のように経済的弱者の一方的な危険視ができるってこと自体、「競争」による序列、「勝ち組/負け組」という価値観、への信仰告白になっているってだけの話なんじゃないだろうか? お二人にとって負けはやはり負けでしかないから、負け組はルサンチマンを抱き、自暴自棄になるにちがいないと考えてしまうのではないのか?
 むしろ、社会的弱者が危険だ、って言うのは、お二人が負け組扱いしている人たちを、お二人自身が不審に思っている、信用できない、軽蔑している、ってことの謂でしかないんじゃないだろうか。たとえば「高度専門職についている「強者」の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに「できちゃった婚」で子どもが生まれて一層困窮化する。」なんて言葉を読むと(また深読みだとか詮索だとかって言われそうだが)、「何やってるんだか。刹那的な快楽に身を任せてるから「できちゃった婚」なんかになるんだ。避妊ぐらいしろよ。利口な奴はそのへんぬかりなくやってるぜ。お前らみたいのがいるから社会に危機が訪れかねないんだ。」っていう渋い顔をした内田、山田、両氏の副音声が聞こえてくるようなのだ。
 というのも、内田氏はこの経済的弱者(すなわちシステムの周縁や外部にいる人たち)への不信感の根深さを、オルテガの大衆論につなげることで大々的に表明なさっているからだ。(つづく)

 以下参考サイト

     引き続き、柄にもなく労働を語る




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コミュニケーション・スキル

 不登校のお子さんがいるチャマさんのブログで、僕がだいぶん昔に書いた文章を取り上げてくれて、なんだかチャマさんの考えを混乱させてしまった(?)ようで、僕も「あれ?」と、ちょっと気になったので自分なりに整理してみようかと思った。コメントすればいいと思ってたんだけど、予想通り長くなってしまったので、エントリーすることにします。問題になってるのはこんなことだ………
 
『………厳密にいうと、「生きること(コミュニケーション)」と、「生き延びること(生存)」とは分けて考えないといけない。』

椅子から飛び上がってしまった(くらいの気持ちだった)。
だって、私がほんの数ヶ月前に学んだことと違うんだしぃ。。。少し前に自分が「ほぉ〜!」と思ったことを『いけない』とされてしまったしぃ。。。
私が学んだこととは、人は生存のために社会が必要で社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠、ということだった。そんなことを今までのエントリーではおテンコモリで書いてきた。
。。。これは捨て置けん!


 まあ、チャマさん自身の不登校についての考えと僕のそれの間に大きな差はないみたいなので、これは単に言葉の問題なんだ、って言っちゃえばそれまでなんだけど、何かちょっとひっかかるものがあった。それはチャマさんに対してじゃなくて、チャマさんがどこかで学んできた『人は生存のために社会が必要で社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠』という考え方に対してだ。
 これ読んで、そりゃその通りだ、って僕も思った。でもよくよく考えてみるとチャマさんの言った通り僕の考えとは正反対なんだ。僕は「コミュニケーションを突き詰めると、生存は脅かされる」というバタイユ的な立場でものを言っている。………それだけに、「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」という言い方がちょっと面白くないのだ。

 そういえば巷の社会学者が、若者論かなんかでそんなことを言ってたような気がする。「コミュニケーション能力」とか「コミュニケーション・スキル」とかって………。だけどコミュニケーションっていうのは、そんな「能力」とか「スキル」なんて問題なんだろうか? つまりこれ、人と付き合うためのテクニックってことだと思うんだけど、それは古い言い方だと「処世術」みたいな言葉に近いものに思える。
 ようするに「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」という言い方って、人が生き延びてゆくためには周りとうまくやってゆくテクニックが必要だ、ってこと以上のことを言ってないんじゃないかって気がする。いや、それが難しいんだ、って言うことなのかもしれないけど………。
 処世術ってことをもっと悪い言葉でいえば、手練手管、とか、口八丁手八丁、なんていうことにもなるし、「生き延びる」…「生き残る」……つまりサバイバルの技術、つまり人を蹴落とし、自分の生存を確保するってことにもつながってゆきそうな気もする………ここで言われてるコミュニケーション能力ってのは、一言でいってしまえば「計算して人と付き合ってゆく」能力や技術ってことじゃないかと思うのだ。でもそのスキルを行使することって難しいことなんだろうか?

 もちろんそういう能力がなければ人は生存できない。僕らもその能力を日々行使している。誰でも明日のこと、将来のことを考え、自分の利益になるように計算して仕事をしたり、周囲の人と付き合ってゆく………てめえの好き勝手にやってたら生きてゆけないからだ………それはあたりまえのことだろう。………が、それだけが人生のすべてか、といえばそうじゃない。生存のためだけの計算ずくの付き合いだけがコミュニケーションだとしたら、世の中はずいぶん味気ないものになってしまう。
 そうじゃなくて、コミュニケーションっていうのは、生き延びる(生存)ことを越えたところからはじまるものじゃないかっていうのが(昔に書いた記事の中で)僕の考えてたことなのだ。

 これはバタイユが言ってたことそのままなので、興味があればそちらを読んでもらうとして、「遊び」とか「祭り」なんていう、本当に心から楽しいことっていうのは、そのような計算ずくの行為(つまり将来への配慮)ではあり得ないだろう。我を忘れて楽しみ、歓び、笑っているときって、「処世術」とか「コミュニケーション・スキル」なんてところからすっかり離れてしまっているはずだ。歓ぶことにテクニックなんていらないと思う。
 例えば、恋愛してるときって、のぼせあがって、すっかり周りが見えなくなってしまったりするけど、心がときめいているときっていうのは、やっぱり計算や配慮は姿を消してしまうものだと思う。ま、計算ずくの恋愛ってのもあるかもしれないけど、それは恋愛じゃないしね。

 逆にいうと、「遊び」にしろ「祭り」にしろ「恋愛」にしろ、将来への配慮や計算をなくさせるという意味では、生存を危機に陥らせる可能性を持っている。………遊んでばかりじゃ食っていけない。「祭り」の興奮の中で人が死ぬ。恋の甘さは死の甘さにつながっている………。10年ぐらい前に「失楽園」なんて映画がはやったけど、恋愛も突き詰めると、2人の溶け合った世界に没頭し、日常生活への配慮なんて無味乾燥なものに思えて、行き着くところは情死だったりするわけだ(もっともこれはあくまで「物語」の中でのことだけど)。

 僕がいってたコミュニケーションというのは、まさにこちらの、「遊び」とか「祭り」とか「恋愛」においてのような、生存すべき自己の枠を越える動きのことを言っているのだ。またそれだけに、コミュニケーションは自己の生存を脅かすものであると。しかしながら、コミュニケーションのない人生というもの、つまり、生き延びるための計算や配慮だけが突出するような人生は、まったく無味乾燥なものでしかない。生き延びて(生存して)いるだけでは本当の意味で人間的ではない。コミュニケーションがなくては人間は半分でしかないのだ。
 資本主義社会ってのは、基本的に計算がすべてみたいなところがあるだけに、僕が言ってる意味での「コミュニケーション」は過小評価される運命にある。それだけにむしろ今の世の中において「コミュニケーション」は貴重ですらあると思う。
 そういうものとして僕は「コミュニケーション」を考えていたので、「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」という意味で言われた「計算して人と付き合ってゆく」能力に、「コミュニケーション」という言葉が狭められて使われてしまったいるのが、面白くなかったのだ。たしかに、そのような付き合いも「コミュニケーション」ではないとは言えないだろうが。


 で、ここからは不登校の話に戻ろうと思う。チャマさんも言ってたけど、登校拒否は学校=社会への不適応である………と。もちろんそれはその通りだ。が、チャマさんの言い方だと、社会への不適応=コミュニケーション能力の不全状態、っていうマイナスの捉え方………能力やスキルの欠如ってことになって、それは病気や障害とはいわないまでも、なにかネガティブな方向で子供を理解することにつながるんじゃないかと思う。
 社会への不適応は、子供の生存………つまり将来のことを考えると、明らかに「不利」だ。うまく社会と折り合いを付けて、学校教育のカリキュラムをこなしてゆけた方が、将来的に「有利」であるに違いない。その意味で、親は子供が心配だし、不安も抱く………それは痛いほどわかる。だが、社会への不適応をそのようにネガティブな事態としてのみとらえるのは正しいのだろうか? それに、子供って社会に適応することなんてわけなくやってのけるんじゃないかって気がする。だから本当は適応できないんじゃなくて、適応したくないってことじゃないんだろうか? まさしく子供は適応を拒否しているってことなんじゃないだろうか?

 僕の言い方だと逆に、登校拒否は、子供自身が生き延びるための(将来への)配慮を自ら拒絶するがゆえに、それは「コミュニケーション」なのだ、ということになる。子供の心はわからないけど、たぶん学校へ行かないのは良くない、自分にとって有利じゃないってことは漠然と感じていると思う。みんな行ってるとこなんだから、自分も行くってのは自然な感情だろう。それなのに学校に「行かない」、「行けない」っていうのは、そこに一つの判断が………いや、計算ずくの判断や選択ってことではなく、計算以前の、あるいは計算を越えた無意識的、本能的な、判断があって、それをギリギリの形で表現している「コミュニケーション」なのではないかと思うのだ。
 したがって、社会への不適応はコミュニケーション不全と見るのではない。部屋にこもって布団をかぶり、石地蔵のように固まってしまうのは「表現」であり、子供は立派にコミュニケーションしているということだろう。それはきわめて人間的なアクションだと思う。
 学校の中に、自分が人間らしくあるために何か危険なものを察知した子供が、自分の将来への配慮を顧みず、自分の人間性を守るためあえて危険な賭けにでている。そんなギリギリの本能的な選択の表現が登校拒否なんじゃないだろうか。しかしその選択は周囲からことごとく否定されてしまうので、その表現は何か切羽詰まった、病的なものに見えてしまうってことじゃないんだろうか………。

 だから、チャマさんがどこから「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」だっていう考え方を学んできたのかは知らないけど、この考えは社会に適応できない人をコミュニケーション能力が欠如した人だっていう、まるで生きる能力や資格がないみたいなネガティブな存在と見なしてしまうものなんじゃないかっていう気がするのだ。
 社会学者とか心理学者って、けっこうこんな感じに人を脅かすことでシステムに迎合しようとする人が多いから、彼らの言葉には気をつけなきゃいけない。そういう人たちは自分が乗っかってきたシステムが崩れてしまうことを無意識に怖れているから、たとえシステムが非人間的であろうともそれに適応するべきだというし、システムから逸脱するものを一方的に「病気」だと見なしがちだし………。
 つまり僕がちょっと気になったのは、チャマさんが間違ってるっていうのではなくて、登校拒否を擁護するのにチャマさんがわざわざ不適切な言葉を使って、それを行おうと努力しているように見えたってことだ。まあ、僕の言ってることがまったく見当はずれだって可能性もあるが………。

 もっとも、何度も言ってることだけど、僕が登校拒否を「コミュニケーション」だと持ち上げたところで、子供の苦しみが消えるわけではない。だが、人間らしくあるってことが、社会に適応することだけではない(つまり社会の成り立ちそのものが非人間的ってこともある)ってことをしっかりと認識し、登校拒否という子供のアクションを肯定してやるってことは、難しいことではあるがまず親がしなければならないことだと思う。だいたい、計算と処世術が生活を牛耳っている今の世の中において、登校拒否児ほど純粋な「コミュニケーション」を行ってるものはないんじゃないか、なんて僕は思ってしまうんだ。

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誤読ではないともう一度考える

「もう一度誤読について考える」 by 数学屋のメガネ

 秀さんという方から、私の「希望格差社会」というエントリーに対してトラックバックをいただきました。このエントリーを書いてけっこうたくさんの人にトラックバックを飛ばしたのですが、誰も相手にしてくれなかったので(涙)、このように率直な意見をいただけたことは、とてもありがたく思います。
 読んでみると、私のエントリーへの批判ではなく、誤読であることの指摘とのことなのですが、ウ〜ン………そうかなあ? というのが私の感想です。いや、私の読み方が唯一の正解だなんていう気はさらさらないのですが、秀さんの読み方もちょっとあやしいなあ、と思いました。

 「希望格差社会」(祭りの戦士さん)を読んでみると、これは内田さんが意図していないことを深読みして論じているのではないかなと僕は感じた。論理そのものに反対しているのではないのだ。内田さんの主張が、このエントリーで語られているようなものなら、ここの批判はある意味では当たっているだろうと思う。しかし、内田さん自身は、ここで語られているようなことを全く言っていないとしたら、これは内田さんへの批判としては当たっていないのではないかと思う。まさに内田さんの文章の誤読ではないかと思うのだ。

 ………ということですが、なるほど確かに私は内田さんの意図を越えて文章を深読みし、詮索的に語ってはいます。が、それは内田さんの論理がどうもおかしいように私には思われ、その結果として内田さんの文章はこのようにしか読めないのではないか? と思ったので、その疑問をぶつけているのが私の深読みした文章なのです。………だからちょっと秀さんの議論はなんだか変だな、と思えるのです。
 まず秀さんは、いくつか私の文章をあげてそれが誤読であることを示しています。で、内田さんを擁護する形で、秀さん自身の言葉で結論的に、内田さんの真意はこうなのだ、と示してくれています。たとえば………

 これは、空想的な夢を抱くような状況から、だんだんと現実を正しく認識するように働きかけ、空想的な夢が実現不可能だと悟ったら、それをあきらめることも必要だということを知らせるという、内田さんが語る論理を誤読したために出てきた結論のように見える。

 たとえ、プロの有名選手になれなくても、数学者になれなくても、自分は今の社会の中で、自分なりの役割を引き受けて価値ある存在として生きていけるとも思っている。そういう断念を積み重ねる教育システムの必要性を内田さんは語っているのだと思う。

 「過大な期待を諦めさせる」というのは、子供が抱く空想的な夢を、だんだんと現実を考慮に入れた大人の夢に変えていくことを意味するのだと、僕は読んでいた。それは、若者の可能性を無視した、社会の安定性のために若者を犠牲にするというような視点でのものではないと思う。


 ………といった具合です。でもちょっと勘違いされているのは、私がケチをつけたいのは、まさにここで秀さんがソフトに語り直してくれた内田さんの論理なのです。つまり私が批判したいのは「子供が抱く空想的な夢を、だんだんと現実を考慮に入れた大人の夢に変えていくこと」が教育の役割であると語っている内田さんであり、またそのような教育は「社会の安定性のために若者を犠牲にする」ことではないのか? と私は疑問をもっているのだ、ということです。………ではどうしてそう考えたかを説明してみましょう。

 内田さんの議論をおおざっぱに言うと、「リスク社会」が到来し、われわれは自己責任のもと、リスクの受け皿もないまま激しい競争にさらされている。その結果、階層分化がおこり、弱者となった若者が増える。そのような若者は危険だから、いまのうちに手を打たねばならない。で、中間的共同体の再構築が必要だ………ということだと思います。
 なんでそんな「リスク社会」になってしまったんだろう? 内田さんの説明を聞くとこうです。

 文句を言っても始まらない。
「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。
「夫らしく妻らしくなんて役割演技はたくさんだ」「親の介護なんかしたくない」「子どもの面倒なんかみたくない」「隣の家とのつきあいなんて鬱陶しい」「会社の同僚の顔なんか終業後に見たくない」「オレはやりたいようにやる」「あたしの人生なんだからほっといてよ」…ということをみなさんがおっしゃったので、「こういうこと」になったわけである。
誰を恨んでも始まらない。


 ………というわけで、自分たちのせいらしいのです。でも本当にそうなんでしょうか? たとえば、秀さんはご自身のエントリーでこう述べてらっしゃいます。

 「リスク社会」は、極端な競争社会ももたらすようだ。この競争が、また人情を失わせる要因になっているのではないかと僕は思えて仕方がない。敗者に対する同情心が失われてしまうのではないだろうか。

 まったくその通り、としか言いようがないと思います。ようするに「競争」が、人間をバラバラに分断しているのです。切磋琢磨、なんて競争を美化した言葉もありますが、基本的には他者を蹴落とし、自分は上に這い上がる、というのが競争であって、それが人間の横のつながり(内田さんの言ってる中間的共同体もその一つでしょうが)を切り裂いてきた当のものだと思うのです。(足を引っ張ったり、抜け駆けしたり、っての競争意識の中で起こるものです。)
 つまり「リスク社会」というのは、個人を競争させることで、最大のパフォーマンス(労働)を引き出そうとする産業(資本制)社会の要請によってつくられたシステムなのです。したがって「リスク社会」に生じる危機をなんとかしようとするときにまず問題にしなければならないのは、「競争」であり、「競争」のよって立つ一元的な価値観(勝ち組/負け組)であり、そのような「競争」を強いるシステムそのもののあり方、だと思うのですが、内田さんの議論ではそのへんのことはまったく触れられていないのです。つまり、「競争社会」そのものに対して内田さんは何の疑問も持っていないのようなのです。そのうえ、「リスク社会」なんてものが到来したのは、私たちの自業自得だとまでおっしゃっている。

 それに対しての内田さんのとる戦略というのは、「中間的共同体の再構築」ということでした。しかし「競争」が破壊してきたそのような共同体を再構築したって、結局また壊れてしまうんじゃないでしょうか? つまり、内田さんの提言は根本的な解決になり得ないのではないかと思うのです。抜本的な解決を目指すのであれば、「競争社会」の是非をまず問うべきでしょう。
 で、この「中間的共同体の再構築」というのは具体的にどんな働きをするかと言えば、このあまりに非情な「リスク社会」の不備を手当てし補完すること(「断念」の教育システムもそのような働きをしている。)、すなわち「競争社会」の安定的な維持のためのもなのだとしか思えません。
 内田さん(実際には山田昌弘さんなのですが)によると、競争に敗れた敗者、社会的弱者となった若者、システムを降りてしまうもの、などが「リスク社会」では短期的に増える傾向にある(若者の不良債権化だと内田さんは言ってる)、ルサンチマンを抱く彼らの増加を放っておいては危険だ、何とか早めに手を打たなければならない、とおっしゃっています。さらに他のエントリー(『階層化=大衆社会の到来』『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』)では、そのような社会的弱者=下層階級は勝ち誇る自己肯定をする「大衆」なんてものに直結されています。あげくの果てに彼らはファシズムにつながりかねない危険な存在にされてしまっている。………どうして一方的にシステムの下層にいるものや、システムを逸脱するものを危険視してしまえるのかわからないのですが、内田さんは彼らに怯えているらしいのです。この危機感は一体なんでしょう? 御本人は「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」なんてホスピタリティあふれる美しい言葉を語ってはいますが、本当は、内田さんはシステムに乗っかった人しか信じられないのではないかと思ってしまうのです。
 とにかくこのような論の展開をみていると、この「競争」のシステムは維持しなければならない、階層分化を進展させないためにも、若者には過大な夢を捨てさせて、そこそこのポジションで生きることを受け入れさせなければならない、と言っているようにしか私には聞こえません。だから教育とは、システムを安定的に維持するための後ろ向きな介入だと内田さんは考えてる、なんても言いたくなってしまうのです。というのも……最後までひっかかるのです。「なんでこの人は「競争」のシステムそのものを問題視してくれないんだろう?」ってことが………。

 私が内田さんの立場であれば論理の道筋として、まずそのように非情な「リスク社会」をつくり出してきた「競争」を問題視するところから始め、一元的な「勝ち/負け」の価値観に疑問を抱かせ、システムからこぼれ落ちる部分を正視し、そこに(「不良債権」だとか「大衆」なんかではなく)別の価値を発見させてゆくこと、そして押し付けられた一元的な価値観と闘う知恵を授けることを「教育」と呼びたい。「あきらめさせる」とか「断念」なんて言葉、どうあっても聞きたくありません。どんな立派な心意気から言われたのだとしても、後ろ向きな、抑圧的な言葉にしか聞こえないのです。

 確かに、秀さんのおっしゃってるように、内田さん自身は私がいままで述べてきたようなことを考えて発言なさったわけではないと思います。おそらくは世の中を憂い、若者を気の毒に感じ、なんとかしたいというところからなされた発言だったのでしょう(少なくともそのつもりなのだと思います)。ですが、内田さん自身の意図や思惑を越えて、内田さんの語った言説は、その分析や論理の甘さ故に、システムによって都合のいい利用のされ方をしてしまうようなシロモノになってしまっているように私は感じました。そして、そのことへの批判を含めて私はあえて挑発的なエントリーを書きました。
 もし、内田さんの意図していないことを深読みすることが、誤読であるとするなら、私のしたことは誤読のそしりをまぬがれることはできないのかもしれませんが、私が行いたかったのは、内田さんの言葉が現実にシステムの中では、私が述べてきたように後ろ向きで、抑圧的な働きをしかねないのだ、いやそのようにしか機能し得ないだろう、ということを指摘することであり、そのような事態に一矢報いておくことです。もちろんこのような私の内田解釈に対して疑問や批判があるだろうとは思います。しかし、けっしてそのような議論の手続きそのものは不当なものではなく、たんなる深読み(つまり言いがかり?)などではない、と私は思っています。つまりこのような読み方も「あり」ではないかと思うのです。というか、他人の意見を批判するときって、その人の意図していること以上の深読みでもってするのがごく普通のやり方のように思いますが。たぶん秀さん自身、他人の論理を批判するときには同じような深読みをやってるんじゃないですか? ついでに言えば、他人の誤読を指摘するということは、他人の「読み」を自分の「読み」に取って代えることでしかないわけで、そういう意味ではやはり「批判」でしかないな、と思います。

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ちょっと気になっている対立

 「東京シューレ」VS『不登校は終わらない』
 東京シューレの見解について
 『不登校は終わらない』は終わらない   

 もちろん僕は不登校の当事者でもなんでもないのだが、この対立が気になっている。『不登校は終わらない』(貴戸理恵 著)はまだ読んでいないが、『不登校 選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵 常野雄次郎 著)は読み終えたので、それだけを手がかりに、一部外者として見当はずれの意見にならないことを願いつつ、ちょっと強引に自分に引きつけて、この対立について考えてみたい。

 『選んだわけじゃないんだぜ!』を読んで印象に残ったのは、(フリースクールの「明るい登校拒否の物語」に、不登校の経験を回収されてしまうことへの憤りのようなものが、当事者の立場からすると、存在するのだ、ということだ。
 ひとりぼっちで、家族にすら理解されずひたすら苦しみ、闘い、耐えていた不登校児にとって、フリースクールの「明るい登校拒否の物語」はほとんど「解放の物語」であったと想像される。否定され続けた自分が、一発カウンターで大逆転勝利でもしたかのように肯定されるのだから。常野さんは『東京シューレ』での日々が人生の絶頂であったとまで言っている。とにかく、フリースクールは(その明るい登校拒否の物語で)劇的に不登校児を救うことができたのは間違いないだろう。
 だが、思春期を過ぎて大人になっても人生は坦々と続いてゆく。大逆転の物語を心に抱いた不登校経験者たちは新しい現実に直面してゆくことになる。なんていうか、パワーアップした手強い敵が新たに、しかも次々と襲いかかってくるのだ。残酷にも、もう「大逆転の物語」は過去のものになって感傷とともに思い出の彼方である。そうそううまくハッピーエンドで話が終わるはずがない、そんな実感が貴戸さんや常野さんの中にあるのだろう。

 まあ、これは僕の勝手な想像に過ぎないのだけれど、(もう20年前の話で、当時はまだフリースクールなんてなかったんじゃないかと思うが、それらしきコミュニティは存在していた。)不登校経験者の友達を見てて同じようなことを僕も感じていた。彼らは不登校の問題を乗り越えてきた自分にプライドをもっていた。何の疑問ももたず学校に通い続けた子たちより、どれほど自分たちが繊細な感性を持っていて、人間を型にはめようと言う社会の圧力と闘い続けてきた純粋さをもっているか………。確かに彼らのプライドは正当なものだと僕も思う。なぜだか僕には登校拒否という体験をした彼らが羨ましくすら思えた。(だって僕はそんなドラマを自分の過去に何一つ持ち合わせていないのだから。)だが、社会に出てからの彼らは何かつらそうに見えた。想像でしかないし、具体的に何を感じてたのかもわからない。が、純粋に自分を貫いてきた、というプライドが強いだけにますます、新たな敵を前にゆきづまり、苦しんでいるように僕には見えたのだ(偉そうに書いてるけど、僕自身だって毎日苦しんでるんだけどね……笑)。
 当時からボンヤリと考えていたのは、登校拒否の問題はもっと大きな課題の中に解消されるべきなんじゃないか、ということだった。逆の言い方をすると不登校という事態が社会に突きつける問題の射程は、学校教育の枠を超えたものだ、ということになる。

 思い出すのだが、(20年前に活動していた)「登校拒否を考える会」で、彼らは精神科医の渡辺位先生と小さな対談を行い、僕も一緒になって録音テープから文章をおこしていった。その中で渡辺先生は、登校拒否をした子供の葛藤、引きこもり、暴力、神経症の症状などを、「下痢」にたとえていた。毒が体内に侵入すると体はその毒を強制的に排出しようと反応する。それが「下痢」であって、それは人間が自らの体を守るための正常な反応だと………。つまり、登校拒否は非人間的な学校教育=毒にたいして子供が全身でもって抵抗する、自らを守る正常な反応だと説明していた。
 つまり、本来子供をの成長を助けるのが教育であるはずなのに、現実には経済の発展に役に立つ人材の育成のための教育になってしまっている、がために子供はそれを危険と察知して、激しい拒否反応を示している、という筋書きであった。だからこそそのような反応をすることができる君たち不登校児こそが正常なんだ、と渡辺先生は主張していた。

 詳しい事情はまるで知らないのだが、おそらく「フリースクール」もこのような論理によって成り立っているのではないかと思う。だからこそフリースクールという場が、苦しむ子供にとって開放の場(自分こそが正常であると肯定できる場)であったのだろう。
 しかし、常野さんが本の中で書いている「明るい登校拒否の物語」、すなわち………

 

起:「学校に行くのがつらいよー」
 承:「学校に行けなくなったらもっとつらくなっちゃったよー」
 転:「学校に行かなくてもOKと気づいたら楽になった!毎日楽しくてしょうがない!」
 結:「現在は社会人として立派にやってます」



………という筋書きが「フリースクール」の紡ぎだす一つのマニュアルとなっているというなら、これは「公教育の迂回」としてとらえることができる。すなわち、画一的で非人間的な公教育を迂回できさえすれば、不登校児も最終的には普通の人と同じ着地点に到達できる、というマニュアルとして理解できる。
 だが、これはようするに不登校の問題をあくまで学校教育の問題としてのみ理解するということであって、不登校が社会に突きつける問題の射程を掬いきれていないように僕は思う。

 では不登校問題のもつ射程はどれほどのものなんだろう? 先ほどの渡辺先生の主張の後半部、教育が、経済の発展に役に立つ人材の育成のためのものになってしまっている、という主張、やはりここに注目しなければならない。渡辺先生は、教育とは本来子供の成長を助けるためになされるものだ、と考えていたようだが、それはたぶん違う。
 教育とは子供の成長を助けるというよりは、子供をシステムに馴化させることを目的に、社会によって企画されたものであって、経済の成長が至上命題である産業(資本制)社会の要請に沿ったものだ。つまりそもそものはじめから、教育は強制であり、圧迫であり、抑圧であり、ある意味非人間的だ。………したがって問題なのは、学校教育の非人間性というより、そのような教育を企画する産業社会の非人間性だということになるのではないか。
 つまり、不登校児の拒否反応は、学校教育に対してというよりも学校を含んだところの社会のあり方そのものへの拒否反応と考えるべきだろう。学校化社会なんて言い方もあるぐらい学校の本質は社会の本質と通底しているのだ。ひょっとすると、不登校児は産業社会のあり方への異議申し立てをひとりぼっちで行っていた、ということになるのかもしれない。

 だからこそ、不登校の問題は大人になっても「終わらない」わけだ。確かに大人になるといろいろと立場は変わるかもしれない。が、闘うべき相手は実のところ何も変わっていない。子供の頃は「学校」というわかりやすい標的があっただけにむしろ闘いやすかったかもしれない……。しかし、大人になるとある程度の自由を得られる代わりに、標的を見失ってしまい何をどう闘ったらいいのか逆にわからなくなってしまう、なんてこともあるのではないか。
 不登校経験者が大人になってどんな生活をしているのか僕は知らない。僕が知ってる数少ない不登校の友達(彼は働いていた)を見ていて、また彼らの行き詰まりを見ていて感じるのは、不登校問題の射程を計り損ねているために、何と闘ったらいいのかわからないというもどかしさであり、それだけに募りくる焦りや不安みたいなものがある、ということだった。彼らもまたきっと「明るい登校拒否の物語」をまだ抜け出せていなかった………それを乗り越える大きな物語にたどり着いていなかったのではないか……。いま、彼らがどうしているのか知る由もないのだが………。
 実際、常野さんの書いたものなんかを読むと、「明るい登校拒否の物語」をこぼれ落ちる不登校児や経験者が少なからずいるというのだが、そのことが示すのはやはり「フリースクール」の論理は不登校という事態の核心を説明し切れていないということだろう。

 大人になった不登校児の遭遇する新しい苦しみについて「フリースクール」になんらかの責任があるわけではないし、「フリースクール」の存在の意義は認めざるを得ないのだが、しかし、もし「明るい不登校の物語」が「フリースクール」のマニュアルである続けるとするなら、「フリースクール」は一つの限界をもつだろう。なぜならその「物語」は不登校問題の射程を学校教育の問題にのみ切り縮めてしまっているからだ。だからこそ、その「物語」は「現在は社会人として立派にやってます」ということをもってハッピーエンドと見なすことができる。しかしそれではフリースクールは公教育の綻びを手当てするを迂回路を担っているだけであり、システムの不備を補完する役割を担っているに過ぎない。………また、それだけにそれは抑圧的に作用する可能性をも持っている。

 貴戸さんや常野さんが言っている「明るい不登校の物語」に不登校の経験が回収されてしまうことへの違和感や不快感の存在………が示すことは「不登校問題の意味」の解釈において(東京シューレと貴戸、常野両氏の間に)大きな「ズレ」があるということだ。
 貴戸さんと常野さんは、まったく新しい「不登校像」を提示しようとしているのだ。一言でいって、それはたぶん「反システム的異物としての不登校」という像である。この不登校像は一般の人には受け入れがたいものである。なぜなら、不登校をそのようなものとして認めることができる人は、やはり、「異物」でなければならないからである。例えば、『選んだわけじゃないんだぜ!』の中の貴戸さんの文章にこんなのがある。

「理解する」ってなんなのか、ますます不思議になってしまう。
「学校に行かないと決めた」明るい不登校児に対しては、「理解者」がけっこういた。マスコミは学校批判のかたわら「学校の外で明るく元気に過ごす不登校児」を取り上げて、センセーショナルに持ち上げて報じた。学校の先生や研究者や医者など、高い学歴をもった人の中に、不登校を積極的に肯定しようという人はいく人もいた。
 理解者である彼らは問うた。
「どうして不登校は世の中では否定されるのか?」
 それに対して、常野くんは言う。
「どうして学校エリートであるあなたたちが、やすやすと不登校を肯定するのか?」


 つまりシステムの価値感を受け入れている人には、不登校を肯定できるはずがないのである。不登校を肯定できるということは、単純に言って、学校の中に貫徹する産業(資本制)社会の論理に疑問を抱いている=資本制システムにとっての「異物」である、ということでもある。不登校を理解し、肯定するということは、普通の人にとっては価値観のコペルニクス的転回を要求するものである。システムに乗っかったまま、あるいはニュートラルな立場から不登校を「理解」することはできないのだ。
 不登校の子供の親に、そのような価値観の転回がやすやすとできるものだろうか。それは親の生活全体を揺るがしかねない事態である。だって親も「異物」にならなければならないのだから。
 その点、「フリースクール」の「明るい不登校の物語」は親にも、マスコミやエリート学者などにも受け入れやすかった。なぜならその「物語」は、上で述べてように公的な学校教育のみに批判の対象を絞り込むことで、システムそのものを補完する役割を果たしているからだ。つまり「フリースクール」は「異物」のように見えて「異物」ではない。常野さんの言い方を借りれば、それは脱臭されたニンニクのようなもの………一見、反体制的な組織に思えるが、実はしっかりとシステムに寄り添っているのだ。
 だから「フリースクール」関係者は誰一人として「異物」にはならなかったし、なる必要もなかったのだ。

 したがって、『東京シューレ』と貴戸さんの対立は必然である。これは「システム」VS「反システム的異物」の対立であるのだから。たぶん相互理解は難しいのではないだろうか。もし奥地さんが貴戸さんの言葉を理解したとするなら、『東京シューレ』は活動の意味をその土台から問い直さなければならないだろうから。

 常野さんは、『登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだと。』と語っています。この言葉の意味は、不登校を社会における「異物」としてとらえ、「異物」として臭くて汚いまま、肯定しようということだろう。
 そして不登校というものを理解し、肯定しようとするなら、反システム的「異物」としての不登校という形で理解すべきであるとともに、それはまた理解する者に自らが「反システム的異物」になることを強いるものだということなのだ。このへんが不登校問題の奥深さ、難しさだと思うのだが、それにしても常野さんのこの言葉がピンとくるのは、20年前に僕自身が漠然と考えていた「登校拒否の問題はもっと大きな課題の中に解消されるべきなんじゃないか?」という疑問に、常野さんの言葉が応えてくれているような気がするからだ。

 僕は、貴戸さんや常野さんが提出している、新しい不登校像………すなわち「反システム的異物」としての不登校像に賛成します。そしてそれは「反システム的異物」としての新しい生き方を模索することを提案するものだと僕は解釈します。で、「異物」としての生を歩むとき、不登校の問題は「異物」としての生の単なる一つのエピソードになってしまっているのじゃないかとおもいます。あ、もちろん「異物」という言い方はあくまでシステムの側からの視点であって、システムの側からは臭くて汚いものと見なされる、ということですが………。

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希望格差社会

 内田樹氏の本は読んだことがないのだけど、名前だけはネット上でよく見かけたため知っていた。とても好意的な評価があちこちで見かけられた。構造主義についての本を出しているのも本屋で見たことがある。僕自身はと言えば、不勉強なことに、構造主義の本など一冊も読んだことがなく、入門書なんかでボンヤリとイメージを持ってる程度だった。
 内田氏のブログにニーチェという文字が出ているのを知って、これなら何とかなるかもしれない、と思って『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』を読んでみたのだ。するとニーチェの解釈が通俗的なのにビックリ、また他のエントリーの内容も、エーッ !? って感じで、これが大学の先生なのか? と思った。
 僕は、構造主義というのはてっきり反近代の、っていうか、システム批判の思想だとばっかり思い込んでいたので、内田氏の文章の中に見え隠れする、体制的な言説にちょっと虚を突かれてしまった。
 それ以上に驚いたのは、それらのエントリーについてるトラックバックやコメントが、ほとんど内田氏の書いたものを絶賛していることだ。そんなバカなことって………と思ったけど、ま、そういうもんだよな。あらためて僕は自分がマイノリティであることを思い知らされた。常日頃、マイノリティとしての道を突き進むべきだ、なんて言ってるにもかかわらず………忘れてしまうんだよ、自分の立場ってものを。
 相手にしてくれるわけでもなし、いつまでも内田氏の語る言葉にひっかかっているつもりはないのだけれど、もう一つだけ別のエントリーに食いついてみたい。『希望格差社会』というエントリーだ。

 『希望格差社会』というのは山田昌弘氏の本で、これも僕は読んだことがないのだが、内田氏のエントリーに引用されている文を読むかぎり、どうも胡散臭さ満点の本である。内田樹氏はこの山田氏の社会分析を共感をもって紹介する。

 

「言いにくいこと」がはっきり書いてある本である。…………(山田氏は)「若者が社会的弱者になりつつある」ということと、「やがてこの弱者たちが社会に危険をもたらすであろう」ということの二点を指摘している。



 社会的弱者になった若者が危険? ……内田氏はまた何に怯えているのだろう? 山田氏の『希望格差社会』という本の内容を強引にまとめると、現代の日本は「リスク社会」であると、そしてそのような社会では、自身でリスクをヘッジできる能力の高い強者と、生活能力の低い弱者とに階層分化がおこる、ということらしい。これは僕もいつだか読んだことのある、ネオリベラリズム権力下の人間のあり方を思わせる分析だ。この社会においては何事も自己責任において行われなければならない。つまり………

 

自分のことに対しては、自分が決定する。これが自己決定の原則である。そして、自分で選択したことの結果に対しては、自分で責任をとる、これが『自己責任』の原則である。リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められている。
 失業したり、フリーターになったりするのは、自分の能力の問題である。離婚したのは、離婚するような相手と結婚したからである。(………)リスクが避け得ないものとなると同時に、個人は、そのリスクをヘッジすること、そして、生じたリスクに対処することを、個人で行わなくてはならない時代になっている。



 ………ということだ。かつては社会の内部にあった中間共同体(例えば、国民国家や地域共同体や血縁集団や「親方日の丸」的企業など)が、ある程度リスクの受け皿になっていた。しかし、構造改革の流れの中で、このような中間共同体はもはや破壊されつくされてしまった。………内田氏はそのへんの事情をこう説明する。

 

 戦後日本はひたすら「中間的なセーフティネット」を破壊してきた。
都市化・近代化で、まず農村的な地域共同体と血縁集団が破壊された。
しばらくは「親方日の丸」的な企業が終身雇用と年功序列制によって失われたこの共同体を代補した。
 だが、「社畜化」したサラリーマン男性が家庭より企業に優先的に帰属感を抱いているうちに、最小の血縁集団であった核家族が解体してしまった。
 ポスト産業社会化とともに、サラリーマンにとっての最後の共同体的よりどころだった企業も解体して、とうとう「中間的共同体」が何もなくなってしまった。
まるはだかにされて、正味の個体の生存能力をフル動員して生き延びるしかない、リアル・ファイトの闘技場に私たちは放り出されたのである。

 

 このような熾烈な競争状態におかれた個人は、その生活能力によって「勝ち組」と「負け組」に分かれ、例えば「勝ち組」の男はやはり「勝ち組」の女を配偶者に選ぶだろうし、「負け組」は「負け組」同士でパートナーを見つけねばならなくなるだろうから、子孫の代までもこの格差は引きずられ、さらには差は開くばかりとなる。つまり………

リスク社会は「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というフィードバックを繰り返して短期的に二極に分化する。



 ………というのが、「リスク社会」において階層の二極化が進むメカニズムだ。その結果、出現する暗鬱な未来は山田氏によってこう描かれる。

 夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(………)
 いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(………)
 結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。



 もっともらしいようでもあり、ホラ話のようでもある、ずいぶんと断定的な分析なのだが、ようするに、このままではいまの若者は不良債権化(生活を保護しなければならなくなり、そのような生活に陥った不満から犯罪を起こすことを考えれば、治安コストも必要になる………)してしまう。どうやら内田樹氏は、そのせいで若者が危険をもたらすと言っているようだ。
 まあ、それはいいとして、じゃあ、どうしたらいいか? が問題である。山田昌弘氏の議論を用いながら内田氏はこうまとめる。

 「私は、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となると信じている。(………)
 能力をつけたくても資力のない者には、様々な形での能力開発の機会を、そして、努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みをつくることである。(………)
 学校システム、職業訓練システムでは、これくらい努力したら卒業、もしくは、資格をとれば、これくらいの仕事に就ける、収入が得られるという保障をつけたメカニズムをつくるべきである。」(241頁)
 なるほど。
 もうひとつの提案はもっとシビアだ。
 「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
 この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。
 しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
 時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。



 そして内田樹氏の結論はこうだ。


 重要なのは「哲学」だと私は思っている。
人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。



 驚かざるを得ないのは、内田氏自身が日々たずさわっている教育の機能が、「過大な期待を諦めさせる」ことや「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことにある、なんてことを堂々と告白なさっていることだ。確かに内田氏はある意味、教育の機能を正しく認識しているといえるかもしれないが、何のためらいもなくポジティブにこう語られてしまうと少々ビビってしまう。現実的に学校教育が、若者のためになされている、なんてナイーブなことは言わないにしても、建て前でもいいから学校のセンセーには「君たちの未来のために働いているんだ。」ぐらいのことは言って欲しいものなのに、内田氏によると「君たちの未来への熱い夢をクールダウンさせ、システムの秩序を維持するために働いているんだ。」ってことらしい。
 僕自身のことも含め、すべての職業のことを突き詰めてゆけば、こういうニヒルな認識に到達するのは確かだ。(例えば自動車産業は、殺人、環境破壊のマシーンをつくる産業だ、といった感じに)しかし、自分の仕事が子どもたちに「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成すること、だなんて公にできる教育者ってどうなんだろう? 内田氏の下で学ぶ学生はこれ聞いてどう思うんだろうかと心配してしまうのだが………。しかも「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない、だなんてケチまでつけてるし………。確かにクリエイティブ業界なんてものはインチキだ。そんなの3ヶ月も働いてみればハッキリわかるだろう。だからって社会システムを安定的に維持させるために、若者の人生にもっと否定的に介入しなければならないってのはいかがなものだろう? 「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要だ? 大きなお世話じゃないか!
 それにしても、「過大な期待を諦めさせる」なんて言い方で教育について語る山田、内田、両氏のポジションはもう明らかに高みから若者を見下ろしたそれであり、人をコマのように配置する社会政策を云々するエリートの政治的な視点であることは確かだ。この人たちにとって人間とはシステムのためにあるものなのだ。本来、人間のためにこそシステムはあるべきものなのに………。

 このふざけた議論の結論は、破壊された中間的共同体を再構築することだっていうんだけど、そのような共同体は何によって破壊されたのかと言えば、それは「競争」によってでしかあり得ないだろう。
 歴史的にも、「競争」こそが、相互扶助的な共同体の絆や連帯をバラバラの個人に分断し孤立させてきた当のものである。したがって、この苛烈な競争社会の中に、「中間的共同体」を再構築しようとする試みは、どんなやり方をするのか知らないけど、たぶんスタートからして躓かざるを得ないんじゃないだろうか。

 つまり、問題にしなければならないのは、「リスク社会」がはらむ階層化への不安などではなく、「競争社会」そのものなのだ。結局のところ内田氏は、「競争社会」の是非についてはまったく不問にし、この「競争社会」のシステムをどのようにしたら維持できるのか、ということについてのみ心を砕いている。
 しかし僕らが問題にし、吟味と批判の俎上に載せなければならないのは、「競争」すること、そして競争の結果得られるもの………富、社会的地位などといったものの価値、さらに競争を強いる社会の真の目的………無制限の利潤の追求という資本主義的な価値感………などに他ならない。
 であるにもかかわらず、内田氏や山田氏が行っているのは、経済的な格差のみで、勝ち/負けを判断するという月並みな人生観をそのまま受け入れ、競争そのものを無条件に肯定するとともに、競争に敗れた社会的弱者を「不良債権」だなんて言い放って、何やら迷惑で、疎ましい存在にまで貶めることだ。そして、この「不良債権」をなんとかするために早めに手を打っておかなければ、危険だと……。
 え? 何が危険? ………つまりこの「競争社会」のシステムが機能不全に陥る暗澹たる未来が訪れかねない(だって階層の二極化が行き着くのは大衆化でありファシズムだと内田氏はいうのだから。)………詮索だと揶揄されるのをのを怖れずにいえば、内田氏自身が肯定し、乗っかってきた競争社会のシステムが崩壊する=このシステムの規範に従い努力をしてきた内田氏の自我の支えが崩壊する………という危険を怖れているのではないだろうか? この山田氏や内田氏による社会分析と提言はひょっとして口ほどにもなく、「自分が強者として特権を享受」し続けるためになされているのではないだろうか? こないだと同じようなことを繰り返すことになるけど、社会的弱者を「不良債権」なんて呼ぶ態度はどうしても「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れる」なんて言葉とつながってくるとは思えないのだ。

 だが、「競争社会」を批判の俎上に載せたところで、社会がひっくり返るわけじゃないし、問題が解決されるわけでもない。システムは僕らの想像をはるかに超えて堅牢かつ柔軟だ。システム批判の叫びやアクションの一つや二つ、痛くも痒くもないだろう。だが、僕はそうし続けねばならない、と思う。それはシステムの規範を踏みにじることであり、ある意味、競争を降りることだ。したがって、けっして競争社会における強者たり得ないだろう。むしろ、マイノリティとして弱者への道を突き進むことなのかもしれない。だが、それが僕の「哲学」であり、人間の社会的能力の利用の仕方であり、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできる唯一の道なのだと思うのだ。
 まあもっとも、内田氏だったらこんな僕の立場を大衆の自己肯定=ファシズムと理解するのかもしれないが。

 以下参考ブログ

     生存適者日記

     Demilog@はてな

     格差ムチャクチャ社会(『希望格差社会』その1)

     階層化について思った雑文

     「現実肯定」社会の行方

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竹島問題について

 ………僕に言えることなんて何もない。日本の領土か、韓国の領土かって、そんなの知らないし、どうしたらいいのかもわからない。せいぜい、国家なんてものがなくなっちゃえば、領土問題なんか自動的に消滅するはずだ、って事ぐらいしか言えない。

 それにしてもテレビで反日のデモの映像なんか見ると、どうしてあんなに彼ら熱くなってるんだ? って思う人が多いと思う。確かに植民地時代の遺恨とか色々なしがらみがあるのはわかる、しかしあそこまでするか? って……。国旗を燃やしたり、指を詰めたりとギョッとするような過激さで主張する韓国人…… (韓国人だけじゃなく中国人なんかも同じかもしれないけど)。

 歴史とか、国内事情とか、そういうファクターはとりあえずわきに置いといて考えてみるんだけど、ああいう激しさで自己主張するのは韓国人の気質に負うものが多いと思う。彼らは、別に日本人に対してだけじゃなく、アメリカに対しても、「北」に対しても、また韓国人同士でも、激しく自己主張し、ぶつかり合っている。僕の知るかぎりでも、韓国人はしょっちゅう喧嘩しているように見える。キムチパワーなのか、火を吐くように怒鳴り合っている。とにかく内にある感情はすべて外に吐き出さねば気が済まない、といった風情なのだ。

 それに較べると、日本人は自己主張しない民族だ。よく言うけど、「和」を大切にして、出過ぎず、分をわきまえ、波風立てず、他人に迷惑をかけず、なのである。やたらと自己主張するのは、単純に言って礼儀に反する行いだ。われわれは基本的に、感情をあらわにしない/できない文化の中に生きている。
 逆に韓国では、言いたい事も言えない奴は蔑みの対象だし、感情は実にダイレクトに放出される。「アイゴー!アイゴー!」と家族の死に慟哭する韓国人の姿をどこかで見た事がないだろうか。そこまで泣き叫ぶか? と、まるで演技してるかのような悲しみ方だ。
 むしろ日本人なら、感情を抑えて、それでも抑えきれないものが吹き出す姿の方に悲しみのリアリティを感じると思う。隣の国であるにもかかわらず、韓国はまったく違う世界なのだ。

 だから、二国間のコミュニケーションは、どこかズレたまま進行せざるを得ない(まあ、どこの国とだってそうなんだけど)。彼らは彼らの流儀で主張しているのだと思う。言うべき事をはっきり、強く激しく主張する。これは彼らにはあたりまえの事なのだ。たとえば、韓国国内の、市民運動や労働運動の激しさといったら、それはそれはすごいものだ。
 ところが、われわれ日本人にとっては、そのような激しい自己主張はあってはならないというか、礼を欠いた姿に映ってしまう。なんだこいつらは!……ところかまわず、状況もわきまえず、激昂し紅潮させた顔をさらして怒鳴り立てやがって! ………それはまるで、怒張した陰部を顔の前に突きつけられるような、破廉恥なものに感じられてしまうのではないか?(これが欧米人のする事なら、白人コンプレックスの日本人は「白人は我が強いから……。」と言って終わらせてしまうが、韓国人相手だと同じアジア人だけに妙に腹が立ったりする。)
 また、韓国人のほうは、デモに対する日本人の反応が、なんだか煮え切らないものに感じられているのかもしれない。彼らはデモをすることで「日本人よ、さあ撃ち返して来い!」と言いたいのかもしれない。なのに日本人の反応は、はっきりしない、なんだか相手にされているのかどうなのかわからないような、宙ぶらりんな気持にさせるような、そんな反応に思えるのかもしれない。(当然、植民地時代の経験が韓国人に日本コンプレックスをもたらし、感情をさらに複雑なものにさせているはずだ。)

 いや、だからって「竹島は日本の領土だ!」って言い返せばいいっていうのではないんだろうけど、僕が言いたいのは、そのような感覚のズレが、二国間相互に不信感を………つまり、日本人にとっては、「何で韓国人はあんなにカッカしてるんだ?」とその異様な激しさに不快感を抱き、逆に韓国人は、「一体、日本人はわれわれと正面を向いて話し合う気があるんだろうか?」と本心をつかみかね、日本は何か信用できない国だ、という不信感を抱かせてしまうんじゃないだろうか? ってことだ。

 まあ、今言った事が日韓のギクシャクした関係の原因のすべてだなんて言う気はない。ただ、個人の感情は理屈では説明のつかないもので、共同体のシステムとのかかわり抜きには語る事ができないと思う。妙な差別感情や排他的な感情をもたないニュートラルな位置から隣国と付き合いたいと考えている人でも、すでにこのような根本的な下地の部分において苦々しい異文化体験を迫られるというわけだ。もっともそのズレを好意的にとれるときもある。そのとき異文化は不思議な魅力を持って目の前に現れるのだ。ヨン様の微笑みは、もしかすると、日韓の相互的な不信感の裏面なのかもしれない。

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自己肯定の自画像

 内田樹の研究室 『階層化=大衆化の到来』 を引き続き読んでみた。読んでみたら、僕の前のエントリーで取り上げた『ニーチェとオルテガ 「貴族」と市民」』がどんな脈略で書かれたのか………ニーチェの読みがずいぶん通俗的だなあ、ってことがまず気になったんだけど、オルテガに託して内田さんが語っている部分が、どんな意味合いを持っているのかわかった。

 内田さんは苅谷剛彦という人の説に寄り添いながら論を展開する。おおざっぱにまとめてみると………。日本社会は厳密に言えば、学歴社会=業績主義ではなく、それ以前の社会的条件によって学歴社会のステージにあがるためのモチベーションにすでに差があって、現実には業績平等主義は働いていない。
 つまり、下層階級のダメ親の元で育った子供は、ダメ親の影響を受けて、そもそも学歴社会の競争に乗っかる気があまりないので、競争の機会の平等というものの、やる気がないのだから最初から差がつくのは目に見えているようなものだと………。
 で、さらにこの格差は開く一方だという。というのは学歴社会の競争を降りた子は、それによってなぜだか、自己有能感を得るからだ………

「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」
つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」

 そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」



 こうして内田さんは例の「自己肯定」とか「自己満足」という言葉で定義されたオルテガの大衆論に、階層化した日本社会の分析を接続するのである。つまり階層の二極分化の進行の結果生まれ、どんどん増殖してくるであろう「大衆」=自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している……=「バカ」が登場し、蔓延するのを………その「大衆」の「自己肯定」はファシズムにまで行き着くらしいのだが………内田さんは背筋に寒いものを感じながら怯えている、ということらしいのだ。
 この状況に対してどうすべきだと内田さんが考えているのかは知らないが、気味悪いのは、臆面もなく表明された体制エリートとしての内田さん自身の「自己肯定」である。

 「大衆」の対称点にあるのは、「貴族」であり「エリート」だ。つまりこの内田さんの文章中にでてくる、学習意欲を持って努力する生徒、学歴社会のシステムの土俵の上で競争に励む「上層階級」である。「下層階級」がオルテガのいうところの「勝ち誇った自己肯定」をする「大衆」に接続されたように、「上層階級」はオルテガのいうところの「貴族」や「エリート」に接続される。そしてその具体像は『ニーチェとオルテガ 「貴族」と市民」』において詳しく展開されている。曰く………

 自己充足と自己閉塞のうちにあるこの大衆の対蹠点に、オルテガは「エリート」を対置する。「エリート」というのは、まことに誤解を招きやすい語だけれど、オルテガによれば、その特性は自己超越性と自己開放性にある。
 「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ、(・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとって生は味気ないのである。(・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう。」

「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である。」

オルテガがたどりついた結論は「努力」とは「自分自身との不一致感」によって担保されるという、平明な事実であった。
おのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いている人間はそれを埋めようとする。
「ことばにならない欲望」を抱いている人間はそれを「ことばにしよう」とする。
おのれのうちで「聞き慣れないことば」が語ることを知っている人間は、「聞き慣れないことば」を語る他者からその意味を知る術を学ぼうとする。

オルテガのいう「貴族」とは、畢竟するところ「自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか、ついに確信できない人間」のことである。

オルテガが「貴族」という語に託したのは、外形的な「人間類型」や「行動準則」のことではない。
そうではなくて、自分の行動もことばもどうしても「自分自身とぴたりと一致した」という感じが持てないせいで、そのつどの自分の判断や判定に確信が持てない。だから、より包括的な「理由」と「道理」を求めずにはいられず、周囲の人々を説得してその承認をとりつけずにはいられず、説得のために論理的に語り修辞を駆使し情理を尽くすことを止められない…
という「じたばたした状態」を常態とする人間のことをオルテガは「貴族」と言ったのである。
自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間だけが、公的な準位で「見知らぬ他者との共同生活」に耐えることができる。
つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間。
オルテガはそのような「複雑なひと」のことを「貴族」と呼び、「市民」と呼んだのである。




 ………それにしてもこの「貴族」って一体誰のことだろう? ひょっとして内田先生自身のこと? って思ってしまうのは僕だけではないだろう。「貴族」/「大衆」という分類は、実在について語ってるのではなく、人間の内面のファクターであるってことなんだけど、いずれにせよ内田さんが、学歴社会のシステムの競争の土俵から降りてしまった人は、自己肯定、自己満足、自己閉塞という特徴をもつ、無神経で傲慢な「大衆」の要素を抱えていて、システムのカリキュラムを辛抱強くこなし、勤勉で、努力する人こそ「貴族」の要素をもっているのであり、それは社会のために奉仕する「自己開放性」なのだ、と言いたいのは間違いないだろう。

 ようするに内田さんが認める存在は、現行の教育システムを受け入れ、肯定し、その土俵の上で競争を演じる、真面目かつストイックに努力する勤勉な人、なのであって、そこからなんらかの形で逸脱し競争から降りてしまう存在は、認めがたい危険な存在だと決めつけられてしまう。享楽的で、努力をしない怠け者として否定されなければならないはずであるにもかかわらず、どうしたことかそいつらは「自己肯定」してしまい、放っておけばその「自己肯定」や「自己満足」はオルテガのいう「大衆」のごとくに増長し、あげくの果てには「ナチズム」に到達しかねないというのだ。
 内田さんの議論をまとめれば、階層化を放っておけば、システムを否定する「バカ」が増え、ファシズムが再来するぞ! ということになって、それに対する処方箋は、と言うと、そのような取りこぼしのないシステムをつくる、ってことになるのだろうか? つまりすべての人、すべての子供を学歴社会の土俵に乗せ、努力させ、競わせることのできるシステムの構築しかあり得ないんじゃないだろうか? これはまた見事に産業社会の要請に応えた回答ではないか。(ま、これはぼくの勝手な想像なわけだけど、当たらずとも遠からずってとこじゃないかな?………。)

 ニーチェの誤読以前に、薄気味悪い論の展開がここにある。システムに従順で、一縷の疑問をもたずに刻苦勉励する人間がそんなに偉いのか? システムを降り、現在を享楽的に過ごすことにネガティブな評価のみを下せるのか? そこにポジティブな可能性を探ろうとする努力もなく、何をもって一方的に、競争のシステムから降りた人を、勝ち誇った自己肯定をする「大衆」なんてものに直結してしまえるのか? 本当に内田さんが自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間であるというのなら、そのような努力もなしに、システムから逸脱した人間を「大衆」だとか「バカ」呼ばわりすることはできないんじゃないだろうか………、正直言ってここにあるのは、自分自身の乗っかってきたシステムを疑うこともなく、苦悩し、逡巡し、迷いながら生きる繊細かつ複雑な人間として自らを描きうる、臆面もなく無邪気で、勝ち誇った体制エリートの「自己肯定」以外のなんであろうか。ここにあるものこそむしろ「排除」であり、「差異化」であり、「断絶」であり、「内輪の言語」ではないのか。そしてこのような態度こそ、自分とは異質な者と対話を試み、ある種の公共性の水準を構築し、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している………としか僕には思えないのだ。
 このような言葉が、何冊も本を出してる大学の先生の口から吐き出されていることに、むしろ僕は背筋が寒くなる。いや、大学の先生(御用教授)だからこそいえるのかもしれないが………。

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何かが違う!

 内田樹 『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』

 有名な大学の先生の一文だ。何度か読んでみたんだけど、どうも奇妙な文章に思えてしまう。内田さんの趣旨は、不当に誤解されているオルテガの考え方を評価しなおそうということだと思うんだけど、僕はオルテガを読んだことはないし、内田さんがオルテガに託して語ろうとしていることについては、とりあえず何も言わないでおくにしても………オルテガを持ち上げるために出してきたニーチェの貴族主義の解釈は、通俗的だし首を傾げたくなるようなシロモノだ。
「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。
ニーチェの「蓄群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところが、オルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。
ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。
 
 自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、オルテガの「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないからだ。

 内田さんはここで、ニーチェの言うところの「貴族」の自己肯定とオルテガの言う「大衆」の自己肯定をイコールで結んでいる。で、自己肯定ゆえに「外部」を必要としない、というニーチェの自己価値化の手続きが、いつのまにか「外部」に関心がないという傲慢な大衆のあり方、つまり自己満足や自己閉塞と混同されている。
 たとえ「大衆」の特徴を述べるために自己肯定という言葉を使っているにしろ、ニーチェが言うところの自己肯定という言葉の意味とは全然別物のはずである。
 それに、ニーチェの言う「貴族」は、「貴族」であるために(「距離のパトス」をかき立ててもらうために)「劣等者」という名の「他者」を必要とした、ということなんだけど、そのような「他者」を立てることで、自分の存在を肯定するというリアクション的な手続きは、むしろニーチェの言うところの「奴隷」側の価値評価なんじゃなかったっけ? 
 むしろ、自己肯定、自己価値化、という「貴族」的な価値評価というのは、そういった「劣等者」という名の「他者」を必要としないからこそ、自己価値化だったはずだ。また、
 
ニーチェとオルテガの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとる。

 ニーチェが貴族の復権をむなしく説いてから………

そして、
 
ニーチェ的貴族の条件は最後には「人種」概念にまで矮小化した。

 と内田さんは述べている。確かにこの辺りがニーチェの怪しいところではあると思う。ニーチェが、「貴族」という言い方で、現実的に『「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求』し、『ニーチェが貴族の復権をむなしく』説き、その条件を人種的な問題に還元してしまったとすれば、彼は限りなく気違いに近い人と言われても仕方がない。実際そうとられても仕方がないようなことも言っているし、ニーチェ自身混乱もしていたのかもしれない。しかし………
 
当時の左翼知識人たちは、オルテガが社会を「大衆」と「貴族」を二分して、少数派の「貴族」に未来を託すという、まったく歴史的階級状況を無視した政治的提言をなした反動的思想家とみなして、その主張を一笑に付した。
ただ、彼らは一つ重大なことを見落としをしている。
それはオルテガが「大衆」とか「貴族」と呼んだのは、人間の「集団」のことではない、ということである。
オルテガが「大衆」とか「貴族」と呼んでいるのは、一人の人間の中に存在する複数の「ファクター」のことである。

 と、内田さんはオルテガを擁護しているが、この言葉はそのままニーチェの思想にも適用していいんじゃないだろうか? 「貴族」とか「奴隷」とかいう言い方は、レトリックとして読まないと、ニーチェの思想の真の射程……貴族的な自己価値化という観念のもつ射程……は見えてこないように思う。(このへんは僕も裏付けをとるべきかな?)
 それに、はじめに内田さんが述べていたニーチェの言うところの超人道徳の特徴………
 
ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。
いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務として、「貴族の責務」(noblesse oblige)として観念したことである。

 ………ここで言う貴族性は、とても「外部」に無関心な自己満足的なものには思えない。このように生きる人はむしろ、オルテガの言う「エリート主義」同様、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という自己犠牲的な生き方をしているように思えるのだが。

 さて、うまく言いたいことが言えたのか自分でも疑問ではあるが、ようするに、僕がこの内田さんの文を読んで、まずパッと感じたのは、オルテガが不当な理解をされているのを告発するのに、ニーチェの不当な理解をもってしているのではないか、ということだ。

Category: 日記・その他   Tags: 思想  

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仮面

 表現するってことは、仮面をかぶることだ。内面にあるものを100%吐き出すつもりで表現しているにもかかわらず、いつもそれは一面的なある表情の仮面なのだ。恒星の周りをめぐる惑星のように、周囲に見せているのはその半分、光のあたった面でしかない。ストレートに表現しようとすればするほど、影のように暗く後退してゆく面がある。ちょうどゲシュタルト心理学でいうところの図と地の関係のように………。仮面の背後の闇の中にまったく別の顔がある。……… おかしなものだ。表現するってことは、隠すことでもあるなんて。………それで、まあ、よく思うわけだ。一体全体、表現って、見せるためにすることなのか、それとも隠すためにすることなのかって。ニーチェもそんなことを言ってたけど、僕らは必死こいて隠すために表現し、仮面をかぶるんじゃないだろうか、って………。

Category: 旅行・タイなど   Tags: Thai  

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パタヤ


 パタヤに行ってきた。ご存知の方もあるかと思うが、パタヤというリゾート地は、ベトナム戦争当時に米兵の帰休地として開発されたという経緯をもっている。戦闘で疲弊した兵隊を癒すあらゆる快楽が用意されていたという。海、酒、女、ドラッグ………。
 戦争が終わり米軍が撤退すると、パタヤは観光地として生まれ変わった。はっきり言って海は湘南あたりと大差ない有り様だが、歓楽街として観光客に快楽を提供する場であり続けている。
 夜のパタヤはピンク色に染まる。そこで働く女たち………ビーチ沿いに無数に軒を連ねるスタンドバー、ゴーゴーバー、おかまバー、娼婦置屋、アプ・オプ・ヌアット(日本で言うところのソープランド)………などで働く女性(だけではないが)のすべて、ではないだろうがほとんどは売春婦(夫)である。さらに、海岸通りの闇で客を待つフリーの売春婦を加えると、いったいどれだけの人口が性産業にたずさわっているのだろうか。………毎晩どれくらいの精液がこの街で発射されるのだろう?………なんて考えてしまう。

 客になってるのはおもに白人観光客だ。シンガポールや香港、台湾などから来る中国系、あるいはインド・アラブ系、などもよく見かける。もちろん時には日本人も………。しかしやはり圧倒的に目を惹くのは、白人だろう。
 パタヤ、そしてその周辺の観光地には白人男性とタイの女性のカップルがあふれている。もうこれは日常的な光景だ。どちらがどちらのエスコートをしてるのかわからないが、手頃なパートナーを見つけて疑似恋愛を楽しんでいる。
 驚くべきなのは、タイ人たちはこの事態を顔をしかめることもなく、平然と、微笑みをもって受け入れていることだ。よほどオルタナティブな発想を持った人ならともかく、ふつう自国の女性が、大挙して訪れる金持ちの外国人のお相手をしてるのを見せつけられると、複雑な気持になりそうなものだが………。
 公式には、タイ政府もタイの上流階級もこのような現実を認めていないだろうが、庶民は公然と売春産業を受け入れている。なんていうか、まったく気にしてないという感じで、観光客が金を落としていってくれるならそれでいいじゃないか、と思ってるようにしか見えない。

 売春は立派な労働であり職業だ。労働であるが故にそれはつらい苦役であるにしろ、他の職業と何が違うというのか………と思う。しかしながら、現実には不当な差別があり、公然とこの職業を主張できる状況にはない。そこはまあ、家父長制なんて問題ともかかわるところなんだろうから、そういう議論はとりあえずフェミニストにおまかせするとして………。
 それにしてもこんなに開けっぴろげな売春の風景は見たことがない。僕にしたって世界中を見て回ったわけではないので、正確なところを申し上げることはできないにしても、このあっけらかんとした、開放的な売春の風景はちょっと驚異でさえある。
 これ、もちろんパタヤだけではない。津波の被害にあったプーケットもそうだし、サムイ島、あるいはバンコクのパッポン、スクムウィットなどでも繰り広げられている光景なのだ。

 なぜ、こうなるのか? 日本人がひっかかっているようなつまらぬこだわりがない、ということなのか? タイ人ってけっこうオルタナティブな人たちなのだろうか? そうも思える。ちょっと見た感じ、売春婦へのあからさまな差別は見たことがない。(実際にはそんなこともないと言うが。)

 タイ人は肉体的な快楽に正直な人たちだ。そして汗水流して働くということを好まないのも確かである。サバーイ(快適)という言葉にそれは素直にこめられている。売春は肉体的に楽なわりに稼げる仕事であるが故に(まあ、性感染症なんかのリスクも高いわけだが)、単純に肯定されているのか? ……だとしてそれは安易さなのか? いやしかし、安易というなら売春はやはり禁じられたものであるはずだ。だが売春がまったく禁じられていないなんてことはありうるんだろうか………。ちょっと待てよ、「安易」なんて言葉は、僕の中の「勤勉」が言わせてるんじゃないのか?…………

 とまあ、こんな調子でそのへんはちょっとはっきりとした答えが出せないでいるのだが、少なくともわれわれがこだわっている規範やモラルのようなものが、タイではあまり強固には働いていないってことは確かだと思う。こういう風土では、日本では問題になる、例えば援助交際なんてことが、真面目な議論の対象にならないような気がする。
 それゆえ感じる開放感や脱力感みたいなもの、それが僕には快感である。タイ人のこだわりのなさには脱帽する。しかしそこには安易さというか、あきらめのような何か不潔な惰性のようなものも感じてしまうのだ。すごい、でも本当にこれでいいの? 僕がいつもタイ人を見て感じることはこれなのだ。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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