泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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センセー、やっぱり違うと思います! その3

 もうひとつ458masayaさんが引用していた内田氏の言葉をそのまま引いておきましょう。内田氏のマジシャンのような詐術のお手並みががここに現れているからです。一言でいえば「生き方の違い」や人間の多様性を「職業」つまり社会的機能の多様性にすり替えてしまってるのです。

 「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。
その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。
現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。
そういうものなのである。
だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。


 こういった言葉を読むと、内田氏は一見「競争」を辛辣に批判しているように見えます。しかし前にも言いましたが、このような「競争」の加熱をクールダウンさせるはずの「分をわきまえる」という言い方は、やはり人間の優劣、つまり業績主義的な価値観を………ご自身が危険だと言っている同質的な価値観を前提としている言葉です。つまり、「競争」そのものはなくなっていないのです。
 実際、学校教育を「選別」だと喝破する内田氏は、「学び」を降りるものを「オレ様化」なんていう自己評価の肥大した競争を激化させる元凶みたいな存在と見なして、「身の程を知りなさい!」なんて説教してるのですが、そもそも「学び」の現場は試験によって子供を評価する(均質的な)「競争」の現場だってことには、ご自身がよくご存知であるにもかかわらずまるでノータッチです。そして、内田氏の書いたものを読む限り「収奪メカニズム」に巻き込まれるおバカな「オレ様」たちが、身の程をわきまえなければならないその相手は、「学び」のカリキュラムを勝ち抜いて来たエリートであることは間違いないでしょう。つまり内田氏がどんなに否定し、批判しているつもりでも業績主義的イデオロギーをベースにした、価値観が同一の「競争」社会はそのまま生きているし、ご本人によってしっかり肯定されています。
 実は、内田氏が否定したいのは「競争」そのものではなく、「オレ様化」したバカどもの盲目的な「競争」だけなのです。身の程知らずな奴らが「無限の可能性」というイデオロギーに踊らされ「競争」をヒートアップさせ資本主義を暴走させるのだ。バカどもさえ何とかなれば社会は安定するのに…………ってぼやいてるだけです。バカはおとなしく社会の下層に降りて「かけがえのない」(つまりバカにしかできない)下層での仕事をきっちりこなし、システムを下支えしなさい! ってわけです。
 どうも内田氏の言い方を聞いていると、普段から問題児(不良や不登校児)に頭を悩ませ、彼らの存在を苦々しく思っている学校の先生、または先生と同じ価値観の上に立つ優等生の実感を、社会学的に敷衍するとこういう思想が出来上がるんじゃないか、と思えて来ます。たぶん内田氏は学校での「競争」、業績主義的価値観の成功物語にのっかって努力する人以外信用できず、そこから降りる人の存在が許せないのでしょう。そういう奴は行くべきところ(社会の下層)に行きなさい! 原初に「学び」を降りる者の排除ありき………これが内田氏の思想のエッセンスです。おそらく内田氏の考えを無批判に支持するのは、内田氏と似た境遇にある学校の先生や優等生、あるいはそれに近い立場の人じゃないかと私は想像します。

 もし私だったら、それとは全く違う手続きで、資本主義の暴走を食い止める構想を考えます。それは簡単に言って、「競争」のベースになっている業績主義的イデオロギーから身を引き離してしまうことです。つまり、私たちの社会の中を貫き支配している業績主義の価値観をあくまでも一面的なものだと見抜き(相対化し)、そうした価値観の中の優劣のみで人間を判断することをやめ、またそうした価値観の中の序列の上位に上昇することが一面的な夢でしかないということを知ること。そのような作業をを業績主義イデオロギーの「外部」の価値観に立ち、自己肯定することで行うのです。これを私は「競争」を降りること、「競争」のベースを根っこから切り崩すことだと考えています。そうすることで、競争原理を利用し労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出すために資本によって構想されたリスク社会……すなわち資本主義の横暴を痩せ細らせるのです。
 458masayaさんは、リスク社会の到来は「資本」の要請だと言った私の言葉をとらえて、『私たちは潔白である、むしろ(資本の)被害者である、という考え方です。』とおっしゃってますが、当然ながら「資本」はそもそも私たち人間が作り出したものであり、またそれを日々支えているのも私たちです。いわば私たちと「資本」は共犯関係にあって「リスク社会」の暴走を支えているといっていい。では私たちが犯人なのかといえば、今や「資本」は地球上を覆い尽くし、私たちは「資本」の中に生まれてくるようなものです。したがってこの共犯関係はある意味強いられたものですらある。だから私たちにできるのは、業績主義イデオロギーから距離をとり、競争の原理に乗らないようにして「資本」を支えているその「支え」を外してゆくことだと思うのです。そうすることで資本主義を骨抜きにしてゆくのが私の考える戦略です。
 内田氏の考えが暴走する資本主義のエンジンを低速回転させることで温存するものであるとしたら、私の構想はエンジンのネジを抜き、分解して回転を止めてしまおうというものです。

 もう少し詳しくいうと、業績主義イデオロギーの一面的な価値観にとらわれない多様な価値観のもとに生きることのできる社会を構想してみること。限られた椅子を争うような「価値観が同一の社会」における同質の「夢」を追求するのではなく、多様な「夢」を創出すること。内田氏の言葉でいえば「同じ生き方の格差の違い」ではなく「生き方の違い」を追求すること。なんかの歌ではないけど、ナンバーワンではなくオンリーワンであること、しかも内田氏が言ってるみたいに職業的にオンリーワンなんじゃなくて、ワクワクするような個々人それぞれの「夢」の追求にオンリーワンであることです。(内田氏の言い方では「生き方の違い」は「職業」の違いでしかありません。内田氏はきっと人と人の違いや多様性を社会的役割でしか判断できないのでしょう。)
 そして、そのような社会や生き方の構想を持って現実の現行システムの中で生きてみること………そうすることで「競争」のベースになっている業績主義イデオロギーの一面的な価値観を相対化し、無力化するというのが私の考える戦略です。

 なるほどさしあたって私たちが生きてゆけるのは現行システムでしかないわけで、私たちはその中で何らかの職業に就かざるを得ません。つまり業績主義的イデオロギーのもとの序列のどこかに位置しなければならないのです。ですが、私は「かけがいのない」「代替不可能な」「選ばれた」ものとして職業や労働を考えるべきではないと思います。「天職」という言い方がありますが、正直好きな言葉ではありません。むしろ「仕方なく」「イヤイヤながら」ある職業を選択している、というあり方が正しいでしょう。しかも様々な事情や運命によって職業をコロコロ変えてしまうというのも一つのやり方かもしれない。また事情が許すなら「働かない」というのも魅力的な選択肢でしょう。(そういえば内田氏のニート論が物議をかもしているようですが……。)そのような「職業」との距離の取り方は、人間が「かけがえのない」職業なんてものに特化し、社会的な機能や役割に道具的に還元されてしまうのを避けるための一つの手になるかもしれません。
 一つの職業に就きながら「夢」を追求できるのなら、それはそれでバンバンザイでしょう。また職業への邁進が自分の「夢」の追求と過不足なく一致しているという幸福な人もいるかもしれない。しかし実際には、いろんな事情があって、自分の気に入らない職業を選択しているというのがむしろ常態だと思います。中には被差別的な職業に就かざるを得ない事情の人だっている。たとえば売春は立派な職業だと思いますが、売春を生業とする女性に向かって、『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つ』べきだ、なんてやはり内田氏は言うのでしょうか。
 ようするに、誰だって自分の「夢」なり「欲望」なりと、「職業」に齟齬を感じ、矛盾や不満を感じているというあり方が常態だと思うのです。役割では人間の「夢」や「欲望」を掬いきれるはずがない。職業なんてもので人間の多様性や「かけがえのなさ」を云々するのはおかしいのです。社会的機能なんてものに人間を還元してしまうのではなく、どれだけオリジナルな夢を追求できるか、すなわちどれだけ「代替不可能な」生き方の違いを追求できるか、ということで人間の価値は考えられるべきでしょう。そしてこの多様性の追求は「競争」でありうると思いますが、多様であるだけに一元的に量ることも、比較することもできない、敗者のない「競争」になるでしょう。

 『数学屋のメガネ』の秀さんが語っていたエディ・タウンゼントの例をもう一度考えてみましょう。

 『ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼントという人は、自らがチャンピオンになれなかったという敗者の経験を積むことで、敗者の気持ちが分かる深い人間性を身につけた人だったと思う。長い目で見れば、そのような特質において、エディという人は、最終的には勝者になったのだと僕は感じる。このような勝者の道を、多くの敗者が見出すと言うことが必要なのだと思う。』

 この例を内田氏の言葉で語れば、『エディはチャンピオンになるという「夢」をあきらめ「分をわきまえて」て、トレーナーという職業に就いた。しかし敗者の経験はトレーナーとしての彼の仕事ぶりに深みを持たせている。』ということになると思います。
 逆に私の言い方ではこうなります。『エディは敗者となる経験を通じて、「勝ち/負け」という格差を生じさせる一面的な価値観に疑問をもち、それ以外の多様な(外部の)価値観を理解できたがゆえに深い人間性を身につけた。ノウハウがあるのでとりあえず今はトレーナーを生業にしている。』
 私は現実のエディ・タウンゼントという人は知りませんから、彼の内面がどうであったかわかりません。おそらく内田氏の言い方の方がエディの内面の真実を表わしているのかもしれません。しかし私が言いたいのは、資本主義の暴走を食い止めるという文脈の中では、このようなエディの経験が「あきらめ」のプロセスである必要はないし、あってはならない、ということです。「あきらめ」である以上、この人は深い憂愁をたたえたトレーナーだという印象が拭えません。やはりチャンピオンになる「夢」はどこかに引っかかったままであり、業績主義的価値観はまだエディを支配している。挫折にともなう憂愁の影が人間臭いというかもしれませんが、やはりどこか「重い」のです。
 私が望むのは、敗者になる経験を一面的な価値観から身を引きはがすためのきっかけとして逆手にとって利用してしまうことです。一面的な価値観を相対的に眺めることができるってことは、それだけで一つの深い知性であり人間性です。そのように事態を眺めることができていれば、チャンピオンになる「夢」もまた一面的な夢でしかなくなっており、エディの前にはまったくオリジナルな「夢」、「違う生き方」が広がっていると思うのです。そのような形で事態をプラスに転換してしまう………もし私が内田氏のような教育者の立場にいるとしたら、後者のような方向でこのエディや若者をアシストする知恵を授けることを考えると思います。「あきらめる」必要など何もない。むしろ新しい「夢」へと古くて狭隘な「夢」を転換してしまうことが問題なのだと思います。
 資本主義の暴走を食い止める、というのであれば、ふつう「競争」のベースになっている価値観から身を引き離す、という方向へ進むのが当然だと思うのですが、内田氏の言ってることは逆に「競争」のベースとなる価値観を追認し、より深く資本主義社会にコミットすることでそれを達成しようとしているように見えます。実際にそんなことが可能なのかわからないのですが、この言い方では現行のリスク社会を追認する「働き」しかしないと思うのです。だって「リスク社会」を支える条件には何も変更がないのですから。だからこそ私は執拗に内田氏の言葉にケチをつけ、業績主義的イデオロギーから距離をとる=「競争」を降りる、という方向を提案するのです。それが暴走する資本主義のエンジンを骨抜きにしてゆく唯一の方法だと思うからです。

 とはいうものの、このような新しい生き方の構想を持って現行社会の中で生きることは、経済的にも、精神的にもけっこうシンドイものであることが予想されます。「競争」に乗ってマジに努力し続けている人たちの中で、「仕方なく」「イヤイヤながら」働いてたら現行社会の中で勝者になることなんてよほどの幸運がない限り無理だと思うからです。それにそんな風にタラタラと働いてる、あるいは全く働いてないやつを「競争」に乗っかった連中が軽蔑の眼差しで見ることは間違いない。内田氏や山田氏がまさにそのような色眼鏡で「学び」を降りた人を見ていて、不良債権だとか「オレ様化」だとか「大衆化」だとかいった言い方でそれを表現してくれています。
 たぶん、新しい「夢」を持って生きる人にとっての毎日は現行社会との闘いだ、ということになるでしょう。なんだよそれじゃ内田氏が言ってた「リスク社会」の中のリアルファイトの競技場と同じじゃないか、と思うかもしれませんが、これもやっぱり別物じゃないかと思います。かたや、サバイバルのため他人を蹴落とし、自分が這い上がるというマジなサバイバルだが、こちらにはそのようなマジさはないと思う。現行の価値観の中での躓きはマジさがないだけに、決して大きなダメージを与えないと思うし、業績主義イデオロギー的な規範を押し付けて来るであろう社会に対して怒ることはあってもルサンチマンなんてものとは無縁です。それぞれがそれぞれのペースで多様な夢をバラバラな方向に追いかけている陽気な戦士として生きるのです。生きることはやっぱり戦いだ………でも戦い方が違うのです。


 長くなりましたが最後に、 458masayaさんは、『内田氏の文章においては、オルテガの言うところの「大衆」の特質は、araikenさん言うところの「競争」システムの中にある人間のあり方を示すものとして引用されているのであって、あえて「誤読」という言葉を使いますが、araikenさんの『オルテガの言うところの「大衆」の特質は、「競争」システムを降りた人間のあり方を示すものとして引用される』という読みは、手ひどい誤読というほかありません。』とおっしゃってるのですが、この解釈にはちょっと無理があるんじゃないでしょうか?
 だって内田氏自身、『階層化=大衆社会の到来』と言ってるわけで、つまり階層化の進行が大衆化につながるってことですよね。『私たちは疾くから自分たちのいるのは「大衆社会」だと思っていた。しかし、もしかすると私たちは「見通しが甘かった」のかもしれない。オルテガやニーチェが絶望的な筆致で記述した「大衆社会」は日本では「これから」始まるのかも知れない。』なんて言ってることから見ても、現在にその兆候があるにしろ階層化によって「学び」を降りた勝ち誇れる自己肯定する「オレ様」たちが増加する「これから」のことを言っている、というのがむしろ「素直」な読みに思えます。
 それに内田氏が批判する「競争」は、どのみちあくまでも「学び」を降りた者たちの「分をわきまえない」競争でしかないですから、458masayaさんのおっしゃってる「競争」システムの中にある人間のあり方も、私のいう「競争」システムを降りた人間のあり方も、どちらも同じものをさしてると思います。
 そもそも私は、この「大衆」という言い方を根拠や原動力にして内田氏の論理を批判しているのではなく(内田氏に疑問を抱いたのはこの言葉によってですが)、内田氏の論理に「外部」の排除という事実を感じて、そのような排除が原因でこのような不良債権化する若者の危険視=大衆化=ファシズムなんていう排除の図式を妄想的に作り上げてしまってるんじゃないかと指摘しているのだ、ということを言っておきます。

 とりあえず 458masayaさんへの返答はこれで終わりですが、『数学屋のメガネ』の秀さんへの回答はもう一度ゆっくり読み直してから改めて、ということにしたいと思います。少々お時間をば………。(おわり)



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センセー、やっぱり違うと思います! その2

 私たちは日常生活において実際には多様で複合的な価値観の中に生きています。なるほど私たちは資本主義社会に生きているのですから、支配的な価値観は経済の成長に向けられた業績主義的な競争のイデオロギーであるにしろ、それがすべてではなく、その他の視点でもって自分や他者を評価し判断しています。『数学屋のメガネ』の秀さんがわかりやすい例を提供してくれていますので、それを使って詳しく見てゆきましょう。

『ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼントという人は、自らがチャンピオンになれなかったという敗者の経験を積むことで、敗者の気持ちが分かる深い人間性を身につけた人だったと思う。長い目で見れば、そのような特質において、エディという人は、最終的には勝者になったのだと僕は感じる。このような勝者の道を、多くの敗者が見出すと言うことが必要なのだと思う。』

 ここで言われていることは、チャンピオンになるという「勝ち/負け」の業績主義的イデオロギーおいては敗者の位置にある人間が、それとは違う物差し、つまり敗者の気持ちがわかる「人間性」において自己の存在を肯定的に評価している、ということだと思います。ここにはすでに二つの視点、価値観が併存しています。一方においては敗者であるが、他方においては勝者である。むしろ秀さんもおっしゃる通り『(敗北の)悲しみや苦しみを知ることが出来た人間は、他の人間に対する受け入れや共感という力で、勝者よりも遙かに高い人間性を示すという、負けたことによって勝つという逆説さえある』わけです。もし競争における「勝ち/負け」のみで判断すればこの人は心に大きな挫折を抱えた敗者でしかない。でもそれはあくまでも一面的な物差しでの判断でしかないのであって、現実には私たちはそれ以外の視点を導入して人間を判断しているのです。また別の例ですが………

 『学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている』

 『相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、「将来のことを考えるより今を楽しみたい」と思うほど、「自分は人よりすぐれたところがある」という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、「あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない」と思う生徒(成功物語・否定)ほど、「自分は人よりすぐれたところがある」と思うようになることがわかる。』

『現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。』


 これらは苅谷剛彦氏の言葉ですが、苅谷氏本人や内田氏によって「学び」を降りる子供たちの「自己満足」とか「自己肯定」といった言葉で語られた事態が意味することも、上のエディという人がやってるのと同じことだと思います
 そもそものはじめから苅谷氏や内田氏は、努力をしないだとか、享楽的だとか、自己評価の肥大であるとかいったネガティブな色合いに彼らを染めあげていますが、このとき「学び」を降りる子供たちは、学校教育に貫かれている競争の業績主義的イデオロギーとは別の物差しで自分を評価しているのです。学校内部で行われる競争に敗れたためなのかどうか知りませんが、とにかく子供ながらに学校での「勝ち/負け」による評価が一面的なものでしかない、ということを直感的に理解し、別の「人間性」において自分を評価しているということだと思います。
 (458masayaさんは、「学び」から降りることと「競争」から降りることは違う、とおっしゃっていますが、内田氏自身、学校教育の機能を「選別」であるとしていることからもわかる通り、ここで言う「学び」とは明らかに「競争」の意味合いを持つものだと思います。)

 このように、現実の社会の成員は、多様な価値観、すなわち業績主義的イデオロギーの「外部」の視点でもって自己を評価し生きています。ところが内田氏(または『希望格差社会」の山田昌弘氏)は、人間を資本主義社会を貫く競争の業績主義的イデオロギーだけでしか評価していない(つまり外部への視線が欠如している)ように思えるのです。
 それはまず人間の「夢」がいかなるものか、という面に現れています。例えば『希望格差社会』というエントリーを読めばわかると思いますが、人の「夢」は職業と結婚についてしか語られていません。『夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。』………また、結婚については「強者同士の婚姻」であるとか、「玉の輿」だとか経済的な意味合いでしか問題にしていないのです。
 過剰な「夢」を抱くものの姿は、内田氏にはこう映ります。

 『彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。』

 おそらく収入が良く楽な「職業」、生活を安定させるための「結婚」、金持ちになって心置きなく楽しむ「消費」、でしか「夢」は語られていません。ホリエモン的な成功の「夢」………いってみればそれは「金」のための「夢」でしかなく、「金」で得られる「夢」でしかありません。たとえば先ほどのボクシング・トレーナーのように「人間性」の追求のようなことが積極的な「夢」として語られることはないのです。内田氏や山田氏にとって「夢」とは結局、経済的な意味で計量可能で、他者と比較可能な一面的でずいぶんと貧困な「夢」でしかなく、「人間性」とか「愛」とかそういう抽象的なものは追求すべき「夢」でにはなりえないのでしょう。お二人がそのような貧困な「夢」を抱いてるのはかまいませんが、すべての人がそうだと判断されてしまっては困る。なぜそのような判断になってしまうかと言えば、いわゆる「人間性」みたいなものは資本主義の業績主義的イデオロギーからは外れた「外部」の価値だからで、お二人にはそれが見えていないからです。

 そしてだからこそ、そのような「夢」を実現できないものを不安視したり危険視したりしだすのです。

 『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(…)
いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(…)
結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。


 仮にこのような事態が訪れたとして、それがどれだけひどいことなのかなんて判断することができるのでしょうか? だいたいすべての人が会社や公務員として定職に就き働いているような社会が歴史上かつてあったのか、地球上のどこかに今あるのか、って話です。それに結婚せず、高齢を迎える元フリーター100万人だって、積極的にそのような道を選択してる人もいるし、それぞれ多様な価値観で自分を評価し、肯定して生きているだろうと思う。まさにボクシング・トレーナーのエディのように………。
 それを不良債権だとか社会不安の元凶のように捉えているということは、内田氏や山田氏が一面的な業績主義的イデオロギーからのみ、彼らを敗者だと決めつけていて、それだけに彼らが不満をくすぶらせて(ルサンチマンを抱いて)いるんじゃないかと妄想しているからに過ぎません。いや、実際敗者と感じている者もいるでしょうが、すべてがそうだとは言えないと思うのです。「外部」への視線が欠如し、違う物差しで人間を評価できないから「夢」を実現できないものを不安視するわけです。
 たぶん「学び」を降りる子供たちを「オレ様化」しているなんて言えるのは、同じメカニズムからでしょう。学校の業績主義的イデオロギー(競争)にのって努力をしない子供が、別の価値観でもって自己肯定することが、内田氏には不可解でワガママなものにしか映らないのであって、そういう「ねじれ」た子供は自己の可能性を過大評価した「バカ」でしかなく、消費資本主義に収奪されるだけだとして、これまた不安視されてしまうのです。
 きっと内田氏にとって真っ当な人間は資本主義の業績主義的イデオロギーに乗っかり競争を繰り広げる人たちだけであり、そこからこぼれる人は怪しい色メガネで見られ、社会不安につながる存在でしかないないのでしょう。こういう人間の捉え方を普通、差別とか排除みたいな言葉で表現します。

 私は『希望格差社会』という本は読んだことがないのですが、ここで行われる社会の分析が暗いものであるのは、それが様々な統計の裏付けによって結論された事実としてそうなのではなくて、山田氏が人間の夢や希望を競争の業績主義的イデオロギーでしか理解していないので、そのせいで格差のため落ちこぼれてゆくものが不良債権なんていうネガティブなものにしか映らないからじゃないか、と想像しています。ついでですが、この本のいかがわしさを分析してくれているブログを紹介しておきます。『格差ムチャクチャ社会』(Gimliのオルサンク語解読事始さん)『「希望格差社会」の何を私は問題とするのか』(研幾堂の日記さん)
 で、今度は内田氏がそのような暗澹たる未来をみなに突きつけ、自分で捏造した「自己評価の肥大した過大な夢を抱く人間たち」にたいして、今度はその「夢」を「断念」せよ、と迫るのです。
 このような奇怪な議論は、すべて一面的な尺度でしか人間を見ていないことに起因するのです。だからこそ「外部」への視線が必要なのです。ですから次の秀さんの言葉には共感しますし、全く正論だと思うのです。ただ一点を除いては………。

 ある種の固まったイメージの勝者を夢見ることによって、自分が最終的に少数のエリートには残れないと感じても、敗北のイメージだけが残ってしまうので、なかなか競争から降りることが出来ない。現在の状況はそのような感じではないかと思う。問題は、固定した勝者のイメージを壊し、その場での敗北は、場を変えればまた勝者になる可能性があるのだと考えを転換していくことで、建設的な生き方に結びつけていくことが、内田さんや山田さんが語るカウンセリングの中身なのではないだろうか。

 ここで秀さんは『敗北は、場を変えればまた勝者になる可能性がある』とおっしゃっていて、すでに競争の業績主義的イデオロギーの「外部」の物差しで人間を見ています。そのような視点を導入することで建設的な生き方ができると。しかし、私が言いたいのは、少なくとも内田氏はそう考えてはいないだろうってことです。
 というのも、内田氏はそのような「外部」の視点に立って「断念」する人間を別の物差しで評価する方向へは向かわずに、人間の価値は「かけがえのない」社会的機能を担うことでしか成り立たない、なんて言い方で再び「外部」の価値観を遮断し、「競争」のヒエラルキーの内部の「職業」へ没入させる方向へと議論を引き戻してしまうからです。
 結果、内田氏は「断念」する者に、職業へと邁進させることで、シフトダウンしているものの暴走する可能性のある危険な消費資本主義社会を底辺から支えさせようとするわけです。この辺の理屈はほとんど詐術に近いのではないでしょうか。このような詐術とは逆に、私が考えるのは秀さんがおっしゃっていたように「敗北することが、勝利につながる」という「外部」の価値観で自己を評価し、肯定する方向を徹底させることです。これが「競争」を降りることであり、「競争」を支える業績主義的イデオロギーをそれによって相対化し、無力化させてゆくことです。

   


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センセー、やっぱり違うと思います! その1

 458masayaさんに、内田樹氏のブログのエントリーについての私の「読み」がおかしい、という意見をもらっているので(『解釈について考える』『同−2』『同−3』)、それに答えたいと思います。『数学屋のメガネ』の秀さんからも同様のTBを受けているのですが、微妙にポイントが違うようなのでとりあえずは458masayaさんへの答えを先に示しておくことにします。が、秀さんへの答えにもなっていると思いますので、目を通していただけたら、と思います。
 さて、読んでみてまず感じたことは、458masayaさんのおっしゃってることは、以前私にTBしてくれたsnusmumrikさんの考えとよく似ているということです。お二人とも内田氏の考えと私の考えは基本的にはそれほど離れていないんじゃないかと………どちらも競争の社会を批判するものである、と指摘しているように思います。snusmumrikさんのエントリーは短いものでしたから、具体的にどうして内田氏の考えが競争社会の批判になるのか、ちょっとわからなかったのですが、458masayaさんはその辺を詳細に書いてくれたので、なるほどそういうことか、と私も納得した次第です。で、内田氏と私の間に食い違いが生じてしまったのは、私の手ひどい誤読のせいだ、と458masayaさんは分析なさっているわけです。
 しかしながらもう一度はっきり言わなくてはならないことは、内田氏の考えと私の考えは180度逆を向いている全く別の思考だということです。前にも言いましたが、一見似てるけど全く別物なのです。ですから、そのことを示すためにはもう一度『センセーそれはあんまりじゃございませんか』と同じことを繰り返して説明することになりますが、今度は458masayaさんの論に沿ってそれを行ってゆきましょう。

 何度も書いて来たので詳しいことは省きますが、内田氏(山田昌弘氏)が現在の状況をリスク社会と捉えてることに対して私は特に異論はありません。気になるのはそのリスク社会が階層化を進行させ、社会不安を招きかねないという予測と、それに対して内田氏が考える「断念」の勧めであり、これを私は「競争」そのものを問題とせず、システムを温存するものであると解し、それとは逆に私は「競争を降りる」という方向性を示しました。
 458masayaさんが指摘してくれたのは、そうではなく内田氏は決して「競争」や資本主義のシステムを維持温存しようとしてるのではなく、むしろそのようなシステムを批判し、ヒートアップした競争社会をやせ衰えさせようという意図のもとに発言しているのだ、ということかと思います。

 具体的には学校教育の「学び」を降りるものを、私が勝手に「競争」を降りるものとして肯定的に理解していることをいさめ、「学び」を降りたものが「オレ様化」するメカニズムに注意を促しています。つまり消費資本主義によって自己肯定・自己満足的な「オレ様化」した子供が作りだされ、そのような自己を過大評価した子供たちを「あなたには無限の可能性があります」的なスローガンによってヒートアップした競争社会に送り込み収奪する、ということをまた資本主義社会は行っているのだ、と458masayaさんは内田氏の論旨を説明してくれました。
 内田氏の「断念」の戦略はこのような過酷な競争社会をクールダウンさせるためになされるものだと、つまり資本主義を無条件に肯定するものなどではなく、資本主義の横暴を終息させるためのものなのだ、というのが458masayaさんがおっしゃりたいことだと私は理解しました。
 
 なるほど内田氏の言葉はそのように理解すれば、私が行った「読み」がそうであったように、人の上に立ってなされる抑圧的な発言には聞こえてこないわけです。458masayaさんが引用した内田氏の言葉をそのまま載せてみましょう。

『私たちの周りには「分をわきまえる」ことのたいせつさを知らない人々ばかりになってしまった。
彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。
政治家も財界人もメディアもイデオローグもみんなが「自由に生き、我を張り、私情を全領域に貫徹し、つらい仕事からすぐ逃げ出すこと」を支援している。
もっと欲望を持て、もっと買え、もっと飽きろ、もっと棄てろ、もっと壊せ・・・と彼らは唱和する。
「分を知る」ことは、覇気も野心も欲望も向上心も棄てることであり、人間の尊厳を踏みにじることであり、社会関係の現状を肯定する退嬰主義に他ならないのである。
だが、この「身の程をわきまえるな」という命令は誰でもない資本主義の要請である。
そのことは誰も口を噤んで言わない。
 
「分をわきまえる」というのは、資本主義の暴走に対して、「ちょっと待って」と告げることであり、決して自己限定することでも、自己卑下することでもない。
それは、自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つことである。
社会の成員のひとりひとりがおのれの「分を知り」、自分に与えられた仕事に対して「選ばれてある」という責務の感覚を持っている社会は、たしかに大量生産、大量消費、大量廃棄という「資本主義の夢の国」にはらないだろう。
だが、そこに住む人々に、ささやかだが確実な幸福を約束してくれる。

そのことの大切さをアナウンスする人はもうどこにもいない。』


 はは〜ん、なるほど。………この内田氏の言葉は、とても美しい、説得力のある言葉に聞こえるかもしれません。しかし私は正直ここに非常にイヤラシい、詐術のようなごまかしを感じます。おそらく内田氏自身の発言の意図は、資本主義の暴走を食い止め、私たちが人間らしく生きることのできる社会を構想する、というところにあるのかもしれません。(いや、そうでなければ困りものです。)しかしこの言い方では荒れ狂う資本主義を結局のところ追認する「働き」しかしないと思うのです。
 願わくば、私の読み方を言いがかりとして理解しないでいただきたいと思います。確かに私は内田氏の言葉をその意図通りに読む「素直な」読みを行うつもりは毛頭ありません。なぜならある言葉を発言した人の意図通りに理解できているかどうかは厳密には検証不可能であり、そのような試みが大して意味あるものとは思えないからです。が、もちろん曲解するつもりもありません。むしろ私がここで行いたいのは、内田氏の言葉がこの社会の中でどのような意味合いを持つものとして機能するか、という「働き」を分析することです。内田氏がどのような意図を持って発言したにしろ、実際には全く違う意味合いで理解され、機能するだろう、ということを私は「読み」として実行したいと思います。

 とりあえず458masayaさんがいままで指摘してくれたことを、私が納得したということを前提にして話を進めましょう。そのうえで、内田氏の「断念」の戦略が本当に「資本主義の暴走」をくいとめる「働き」をするのであれば、私は内田氏の言葉にケチをつけることはできないことになります。
 「夢を捨てるな」というのが資本主義の要請であり、逆に内田氏のそれに対抗する戦略は「あきらめろ」ということでした。以前にも分析しましたが、「あきらめる」ということは「あきらめなければならないもの」に対して、つまり「夢」に対して価値を感じている、ということです。同様に「分をわきまえる」ということを考えてみると、これは別の何かに対して「分をわきまえる」ということ、すなわちより優れたものに対して「分をわきまえる」ということです。
 つまり、内田さんの言葉は、あくまでも資本主義が人を競争させるために作り上げた業績主義的な序列における人間の優劣を前提にして言われていることがわかると思います。あくまでも優れた地位の人間は存在し、その人たちに対して自分は「分をわきまえる」のであり、そのような優れた地位への上昇は「夢」であるのだが、それは「あきらめる」必要がある、ということです。要するに「競争」の前提はこういう言い方をしている限り消滅していない、ということです。暴走する資本主義、「リスク社会」の前提である「競争」とヒエラルキーは温存されたままなのです。

 はたして本当に「自己の可能性を過大評価した」人間が「無限の可能性」という「危険なイデオロギー」に乗っかっているから競争がヒートアップしているのか、また彼らが身の程を知れば本当に「資本主義の夢の国」は痩せ細るのか、個人的には疑問ではありますが、まあいい。とにかくここで内田さんが考えている「断念」の戦略とは、たぶん危険なまでにヒートアップするエンジンを低速な回転へとシフトダウンするように、「資本主義の暴走」をシフトダウンさせることだと言っていいでしょう。回転を低速に保つことでエンジンそのものが焼け付いてしまうのを避けようということです。………つまりエンジンそのものは温存、維持されているのです。

 さらに、内田氏は過大な「夢」を「断念」する者に、「かけがえのない」という言い方で、人間の職業への一体化を迫っているように見えます。『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つこと』………何か歯の浮くような美しい言葉ですが、これは「夢」を「あきらめた」結果の虚無感を、社会的役割への責務によって埋め合わせようとする言葉ではないでしょうか。
 「断念」である以上、本当はやりたくない職業なんだけど、それになんとか意味を持たせたいから「かけがえのない」だとか「選び」なんて美しい言葉でフォローしなければならないのです。私は若い頃から職業で人間を判断することは許されないと思って来た口なので、社会的役割への特化を美化するこのような言葉にはむしろ不快なものを感じてしまいます。
 しかもこのように社会的役割に邁進することで、「断念」した人たちは「断念」を迫って来た社会を支える役目を引き受けるのです。つまり上で語ったシフトダウンした資本主義のエンジンを支え続けるわけです。………「ネジにするのか? 俺を!」(by 星野鉄郎………古いかな?)

 458masayaさんはこうおっしゃっていました。『「現行システム」以外にひとまず私たちの社会はありません。『根っこから切り崩して』しまったら、私たちの社会はどうなるのでしょうか? 私たちにできるのは、せいぜい現行システムを住みやすい方向に変えていくことではないでしょうか?』
 このような社会システムの改良や修正は、結局のところ現行システムの是認です。基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない。つまり「外部」への視線がないということです。
 競争社会そのものは温存されたままなのですから、危険な状態にヒートアップする可能性も温存されたままです。低速回転を維持し続けなければ焼け付く可能性のある危ういシステムを成員の大多数に「あきらめ」を迫り続けることでしか維持できないってことになります。
 私が内田氏の議論を聞いてげんなりしてしまうのは、全く別の可能性、つまり「外部」への視線が遮断されたままで話を進めてしまっているからです。私は『そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい』と言いました。が、この根っこから切り崩す、ということは(たぶん458masayaさんはそう疑念を抱いているようですが)たとえば革命を起こしたりして社会を混乱させるというようなことではありません。そうではなく、それはまさに「外部」の視点を導入するということです。そのことをこれから説明しましょう。



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資本主義の黄昏清兵衛さんこんにちわは、ってなんのこっちゃ!

 おやおや? ちょっと見ない間に内田樹先生また問題発言なさってるぞ。

 これ とか これ とか。まだきちんと読んでないからつっこめないんだけど、『サラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。』なんていうのを読むとザワザワと心が波立ってくるぞ。いやきっとこれは逆説的な真理としてお書きになってるに違いない。ぱっと読んだだけで判断しちゃだめだ。しかし『自己を供物として捧げる』なんて言葉は僕も使ったことがあるので、それだけに責任を感じるっていうか、虫の知らせというか、なんかイヤ〜な予感がするのだ。
 とりあえず今は先にやらなきゃならないことがある。トラックバックに返事を書かなければ………。kagamiさんと、sivadさんと、bluedeさんが、後者について批判してくれているようなので、今日のところは溜飲を下げ落ち着いて自分の仕事に集中しよう。

(原作たそがれ清兵衛さん、もし読んでたらすいません。いいタイトルが思い浮かばなかったのでつい……。)

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第三世界の子供を蝕む日本の映像産業

 この僕は一応、日本の映像産業界の末席を汚す存在である。世界を席巻する日本のアニメーションの制作にたずさわるものとして、いつも感じていることがある。「アニメなんか見てる と子供の頭はパッパラパーになっちゃうぞ!」 はっきり言ってアニメだけに限らず映像産業の役割というのは、寝た子をさらに深く眠り込ませるたぐいのものだ。巧妙に作り込まれた見せ物的なドンチャン騒ぎの中に子供を、いや大人までを巻き込み、捏造された永遠の現在の中に、目覚めることのない夢を見続けさせること。それが映像産業のミッションである。
 僕はそのミッションに加担することで生活の糧を得ている。まるで、軍事兵器の製造工場で働く労働者のように、心の奥底に罪悪感を忍ばせながら毎日働いているのである。

 ………なんていう冗談(いや、あながち冗談では済まないわけだが)はおいとくとして………タイにすっぽってある僕のガキが、しばらく見ない間にずいぶん大きくなってたのはいいが、すっかりウルトラマンとかガオレンジャーなんかにご執心なのだ。
 バンコクのセブンイレブンでウルトラマンのVCD(日本で言うところビデオ)が売っていて、それを子供にねだられた。家に帰るとほかの子供たちと一緒になってこのVCDに釘付けになっていた。日本のウルトラマンの吹き替えものかと思ったら、タイで作られたものだった。………これがまたひどい出来なのだ。

 学芸会もびっくりの子供たちの演技、しかもヒーローはウルトラマンじゃなくて、ハヌマンという(確か)ヒンドゥー教の猿神なのだ。

 こいつが右腕を突き上げた例のポーズで「ジュワッ!」とではなく「ハヌマ〜ン」とかいいながらPAN UPしてきたときにはズッコケてしまった。
 まず古代遺跡の盗掘団を主人公の少年が発見し追いかけるところから話が始まるのだが、いきなり少年は盗掘団の親分に拳銃で頭を撃ち抜かれ殺されてしまう。その遺体を曇った空から突然現れた巨大な「手」が天へと連れ去ってゆく。(ダリもビックリの超現実的イメージだ。)天上でウルトラの兄弟たちに念を送られて、殺された少年はハヌマンとして復活する。不思議なことに悲劇的な死を遂げた少年の生まれ変わりであるにも関わらず、このハヌマンはコミカルな3枚目の芸風なのだ。
 タイ語のドラマであるため細かいストーリーはわからなかったが、3匹の怪獣が現れていよいよハヌマンが地球を守るために登場する。戦いのシーンになると僕のガキは立ち上がって後ずさりをしながら画面に見入っている。このチンケなドラマも子供にとっては立派なスペクタクルなのだ………。
 はじめは優勢に戦っていたハヌマンはだんだん追いつめられてゆく。そこでやっとウルトラ兄弟が応援に駆けつける。
 まあ、こうなってしまっては怪獣は敗れ去るしかないわけだが、ウルトラマンたちは正義の味方とは思えないありさまで、最後の一匹の怪獣を取り囲んで袋だたきにしていた。
 戦いが終わってハヌマンはウルトラ兄弟たちと肩を抱き合い、固い握手をする。なぜだかハヌマンはタイ語と英語と日本語の三ヶ国語でウルトラマンたちにお礼を言っていた。(一体ウルトラマンは何語をしゃべるんだ? それに誰のために3カ国語を使ってるんだ? 意味わかんねー。)ウルトラマンたちは体をまっすぐに伸ばして格好よく宇宙へと帰っていくのだが、ハヌマンが空を飛ぶ姿と言ったら、それはそれは文字では伝えられないほど情けない格好だ。

 タイの子供たちはこんなの観て満足なんだろうか? 30年以上昔に作られた日本のウルトラマンやウルトラセブンの方がよっぽど出来が良かったような気がする。
 まあ問題はというと、そんなウルトラマンに夢中の僕のガキはオモチャ屋さんの前を通るたびに「ウルトラマン(タイ語の発音ではウンタラメーンになる。)が欲しい!」とタイ語で大騒ぎなのだ。必死の形相で大きなウルトラセブンの人形を抱えて離さない。げんなりした親をよそに、オモチャ屋のねえちゃんだけがニコニコ顔で次々と「こんなのはどう?」とばかりにいろんなウルトラマンを持ち出してくる。………結局ウルトラセブンの人形を買って一件落着。
 こういうウルトラマン人形はライセンスなんかどうなってるんだろう? 円谷プロに売り上げの何%かバックされるんだろうか? なんて考えながら金を払った。たかが一体350バーツ、日本円にして千円ぐらいのことではあるが………。

 結論。『第三世界の子供を蝕む日本の映像産業』なんて仰々しいタイトルをつけてしまったが、これは間違い。本当のタイトルは『第三世界の子供の親のフトコロを蝕む日本の映像産業』が正解。


 ところで、このウルトラハヌマン映画の正体が明らかになりました。抱腹絶倒のレビューはこちら>
 『ハヌマーン / ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団 前編』
 『ハヌマーン / ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団 後編』

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安全と効率は対立しない のか?

 この歳になって自動車教習所に通った。無事卒業とあいなったわけだが、ずっとひっかかっていたことがある。主に学科教習で執拗なまでに繰り返されて言われることが二つあって、それは………いかに安全な運転が大事であるか、そして交通事故によって引き起こされる悲劇は避けなければならない……つまり人間の命がいかに大切かということと、もう一つは交通の円滑性、ということについてである。これは単純にいうと「安全と効率」の問題である。
 バカなこと言うようだが、なんでそんなに命が大切なら、命を限りなく危険にさらす高速運転が可能な道路なんかを作るのだろう? なんでそんな恐ろしい自動車なんか走らせてるんだろう? って教習を受けながらボンヤリ考えていた。高速になるといかに視野が狭まってしまうか、いかに停止距離が長くなってしまうか………慎重に運転しなければ大変なことになるぞ! と脅しをかけられ続けるのだが、じゃあいいよ、車なんて運転するものか!………ってわけにもいかないだろうなあ現実問題として。私自身も危険へ通じるはずの免許を高い教習料を払って取ろうとしてるわけだし。

 交通機関の整備は経済成長のためには欠くことのできない条件だ。高速かつ円滑に物流が行われなければならない。人や物資の移動が滞ることは生産性の低下につながる。したがって交通の円滑性(効率)は資本主義社会の至上命令だ、といえる。
 高速な移動は危険である。「どこでもドア」でもできない限り基本的にはそうだろう。しかし効率性の追求は私たちに素早い移動を要求してくる。ということは安全と効率は対立するものなのだ………と僕は考えていた。命は大切だ、なんて言ってるけど資本主義社会にとっては本当は人の命より大事なものがあるのだ。そのために人を危険にさらしてもかまわない、大事な価値が………。それはもちろん利潤(もうけ)の追求である。

 JR西日本の脱線事故のニュースを新聞で読んでいると、猪瀬直樹氏のコラムがあって、タイトルには『尼崎脱線事故 効率と安全 対立しない』(読売新聞 5月5日 朝刊)と書いてあるではないか。あれっ? と思って新聞に掲載されている猪瀬氏のなんだか怖い正面写真ににらまれながらこのコラムを読んでみた。

 

………JR福知山線の快速電車脱線事故が起きると、効率を追求するあまり安全が軽視されている、という見方が主流になり始める。JRと私鉄の乗客争奪戦が惨事を招いた、と原因を競争のせいにする。(中略)………効率の追求と安全を対立させる議論は極めて観念的なのだ。効率と安全は、顧客の利益という面でも、現場で働く者にとっても、両立するからである。



 え? じゃあ、私は観念的だったのか………(笑)。猪瀬氏は道路公団の民営化推進委員として活躍しているようだから、その立場上、今回の事故が民営化によって引き起こされたわけではない、つまり国鉄の分割民営化による私鉄との競争激化=過剰な効率の追求が事故の原因ではない、ということを主張せざるを得ないようだ。しかし明らかに対立してるように思える「安全と効率」の問題を猪瀬氏はどんな魔法で解消してくれるんだろう?
 要約すると、猪瀬氏によればここには2つの誤解があって、事故の多発の原因は民営化そのものにではなく、民営化の仕組みが間違っていたせいだ、ということ、また、過密ダイヤは決して日本だけでの問題ではなく世界中の都市鉄道の宿命なのだ、ということ、これを主張する。

 

事故の背景に過密ダイヤがあるのは事実だが、もう一歩、踏み込んで考察しなければいけない。我われ自身の姿、日本人の長所と欠点が見えてくれば処方箋は見つかる。
 職人的なものづくりでは日本が世界一である。大田区の町工場然り。あまり知られていないが、列車のダイヤ編成も完璧すぎるぐらいに精密で他国の追随を許さない。(中略)………外国人は、効率と安全が高度に両立する姿を目の当たりにして驚嘆する。



 どうやら猪瀬氏は「安全と効率」の対立の解消に日本的な職人芸をもってしようとしているようだ。電車の運転士のオーバーランとそれに続く無理な回復運転について、猪瀬氏は運転士が職人失格の烙印を押されることを恐れてのことだと解釈する。結論的に事故の責任の所在はこう説明される。

 

23歳で職人としては経験不足の未熟な運転士を、なぜ通勤・通学の時間帯に配置したか。責任は、民営化されたのに未だにお役所的お座なりの人事管理システムしかつくれなかったJR 官僚にある。



 まだ民営化が不完全で、国鉄時代のお役所的な体質を引きずっているところに今回の脱線事故の大きな原因があるのだ、と猪瀬氏は言うのだ。民営化が徹底されればこのような事故は減るはずだ、これが民営化推進委員としての立場からの猪瀬氏の主張である。

 私が国鉄時代の負の遺産云々よりも一労働者として気になるのは、そのようなシステムの問題より現場で働く者の方だ。結局、猪瀬氏はここで「安全と効率」の対立はアクロバティックな職人芸によって乗り越えろ!……としか言ってないんじゃないかと思うのだ。職人的な運転技術、職人的な運行管理、職人的に適切な人員の配置…………つまり現場の労働者の努力によって「安全と効率」の対立を解消するという方策が猪瀬氏の魔法の正体なのだ。つまりはこれ、もっと気合いを入れて働けば「安全と効率」は両立できますよ、ってことですよね。猪瀬氏は一種の労働倫理、日本的な精神性によって問題を解決するように迫っている。顧客のニーズ、安全、そして利益を上げるという企業の目的という異なる要求をを一挙に解決するためには、やはりどこかにしわ寄せが来ざるを得ない。つまり労働現場に………である。
 いや、交通機関の運転手に手を抜いてお気楽に運転されては困る。そりゃそうだ。そりゃそうなのだが、人の命のかかった「安全」を考えたときその決定的な部分を現場の人間の職人的なスキルだけに頼らざるを得ないのではあまりにもリスキーではないか? どんな職人だって人間なんだからミスもする………そのような職務における緊張感の中に常に職員を追い込むことでしか達成できない「安全と効率」の両立ってことに一体意味があるのだろうか。
 つまりそのような外国人もビックリの職人芸に頼らざるを得ないということは、やはり「安全と効率」は対立しているということではないのだろうか。どちらかといえば観念的だと非難されるべきはむしろ猪瀬氏の議論だ。いや観念的というよりほとんど詐術に近い議論のようにも思える。スピードというものはどうしたって危険なのだ。本当に安全を考えたら高速の移動は避けなければならない。………いやそれは現実的に無理であることはわかっている。が、問題なのは、そのような危険にほかならないスピード(効率性)を私たちに要求してくるものがある、ということだ。

 なるほど交通機関にスピードを要求するのは顧客である。顧客のニーズがあるからこそ交通機関はスピードアップを図るのだ。じゃあ、利用者が交通機関に危険な運行を押し付けているのだろうか。
 鉄道の利用者のほとんどは通勤客であり、彼らはみな会社の就業時間に従って動いている。定められた出勤時間を守らなければならない。それだけではなくわずかな休日やプライベートな時間も効率的に利用しなければならない。そのためには交通機関に遅延があってはすべて台無しになってしまう。
 そう考えれば交通機関の円滑な運行を求めているのは、会社の都合であり、生産の都合であり、産業社会そのもの都合である。はじめにも述べた通り生産性の向上、そして利潤の増大のためには人や物資の移動が滞ることは許されないのである。産業社会(資本)のリズムが私たちの生活を律し、効率を要請してくるのである。
 利用者に事故の可能性を常に抱えている高速度の交通機関に乗車することを迫り、運転士に職人的なスキルと絶えざる緊張感によって「安全と効率」の対立を解消せよと要求するのは、常に利潤、経済成長を求めて運動し続ける「資本」なのである。

 そう考えてゆくと今回のような悲劇的な事故は(あたりまえだが)すべての交通機関が可能性として持たざるを得ないものだ、と言える。実は、「資本」が保持し続ける「効率性」への意志が私たちを危険(スピード)へと追いつめ、現場の職員が職人芸によってかろうじて決定的な事故に陥るのを回避し続けている、というのが交通機関の労働現場で行われていることではないだろうか? つまり交通機関での労働に従事する人たちの仕事の中身は、「安全な運転」であるというより、「危険の回避」なのである。その職人芸がふとした気のゆるみから綻んだとき事故は起こるべくして起こるのだ。

 猪瀬氏によれば民営化がもっと徹底されればこのような事故は減るはずだ、ということのようだが、国有化だろうと民営化だろうと「資本」が背後から「効率性」を迫ってくる限り交通機関は事故への高いリスクを負い続けると思う。むしろ民営化を推進することにより「資本」は「競争」の原理を明確に交通機関の労働現場の中にも貫徹させようとしてきたわけだろう。おそらくは今後も職員一人一人を競争関係におくことで、運行に必要な高度な集中力や職人的なスキルを引き出そうという方向に進んでゆくことは間違いないと思う。職員たちは今回事故を起こした運転士のように、背後から運転ミスは許されないぞ、ミスをすれば給料や将来の出世に響くぞ、という「脅し」をかけられて運転席に座るのだ。また誰か無理な回復運転をする人だって出かねないのだ。

 アクシデントというものはなくならない。生は常に危険と隣り合わせだ。しかし経済成長の名の下に余計なリスクを背負わされている私たちの現実についてよく考えるべきだ。交通機関の職員に職人的な作業の緊張を強い、毎日死亡事故の可能性のある乗り物に乗って通勤せざるを得ない私たちの現実を………。果たしてそのようなリスクを背負ってまで経済成長は追求しなければならないものなのか? そのようなリスクを背負ってゆかないと私たちは生活してゆけないのだろうか………?
 こうした問いは悲劇的な事故の後の混乱の中で攪乱され見えなくなってしまう。JRの経営陣を、またボウリングや宴会を開いていた職員たちを吊るし上げ、はては度を過ぎた取材をするマスコミ自身が吊るし上げられしてるうちに、悲劇的な事故の黒幕である「資本」の姿はどこかにかき消されてしまい、遺族のやり場のない悲しみと怒りのみが宙をさまようのだ。

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旅は道連れ

 新しい液晶iMacを買った。といっても型落ちした整備品だが。新しいOSもついて9万円台………お買い得だぜ。CRTのiMacに比べてさすがにキビキビと動く。今日からはこいつが祭りの戦士の相棒だ。さあ、iMacよ、立ち上がれ! 旅立ちの時が来た。祭りの太陽を求めて暗闇の中へ進路を取ろう! ギラギラと輝く祭りの太陽を求めて………。

 こう言って祭りの戦士はiMacをたずさえ闇の中をトボトボと歩き出した。

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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その4

 この間、snusmumrikさんという方から意見をいただいた。snusmumrikさんは山田氏や内田氏の言葉を私とまったく正反対に解釈しておられるのだが、なるほどと思わされる面もあった。いい機会なのでsnusmumrikさんのエントリーの文に寄り添いながら内田、山田、両氏と私の考えの差をはっきりさせようと思う。

 山田氏や内田氏は、得るべき価値を限定し、敗北者を救済しない競争社会について、「競争社会に乗らない」という方向性を示している。自分の身の程を知り、自分の能力内で社会参加することができ、自己肯定と他者への配慮が可能なネットワーク(中間的共同体?)を作り出す、ということだと思う。

 対して、荒井さんも結論部分では「競争社会=システム」に対して戦う、という宣言をしていらっしゃる。その結果、自分も「競争を降りる=強者たり得ない」だろうとしている。山田氏や内田氏と言っていることは同じように思うのだが、何が違っているのだろう。


 つまりsnusmumrikさんによると、山田、内田、両氏は「競争社会に乗らない」という提言をしていて、それは結局私の主張と同じじゃないか、とおっしゃっているわけだ。確かに私自身はそう主張している。しかし、山田氏や内田氏は本当に「競争社会に乗らない」という主張をしているのだろうか? 私の前々回のエントリーを読んでいただければわかると思うのだが、お二人は「競争」のシステムの敗者を危険視し、内田氏にいたってはシステムを降りたものを「バカ」呼ばわりし、ほとんど人間扱いしていないかのようだ………。したがって、お二人が「競争社会に乗らない」という方向性を示している、なんてことはあり得ないと思う。もしそうであればシステムを降りたもの(外部の存在)をもっとポジティブにとらえてるはずだが、お二人にとって「競争を降りる」ことは人の道をはずれることのようだから………。
 とすれば、snusmumrikさんが「自分の身の程を知り、自分の能力内で社会参加することができ、自己肯定と他者への配慮が可能なネットワーク(中間的共同体?)を作り出す、ということ」と解釈した内田氏、山田氏の言葉は、決して「競争社会を降りる」ということではなく、文字通り「断念することで、競争社会内での負け組の地位を受け入れろ」と言ってるとしか理解できないのであって、競争社会の序列はそのまま肯定され前提とされていると思うのである。
 またsnusmumrikさんの指摘でなるほどと思ったのは、私の主張が「競争を降りる=強者たり得ない」=弱者となるだろうということであるなら、「身の程を知って自分の能力内で社会参加している」負け組=弱者という立場と結局は同じじゃないかっていうところだ。結果だけを見れば確かにその通りかもしれない。が、それは全然意味が違うのだ。

 「諦める」ということは、諦めなければならないものに対して価値を感じているってことだ。あくまでも「競争」のシステムにおける「勝ち組」のポジションは意味のある「夢」であり続けているいうことだ。
 逆に、「競争」を降りているのなら、そのような勝ち/負けの序列はもはや問題になってはいない。
 例えば好きな女がいて、なんらかの理由でその女を諦めなければならないという状態と、他に気になる女ができたために今まで好きだった女に無関心になってしまう状態、との間と同じぐらいの差があると思う。
 好きな女を諦めなければならないと苦悩するときって、やっぱりその女は私にとって大きな価値をもってるからこそつらいのであって、他に好きな女ができて興味がそっちへ行ってしまったら、元の女のことなんてびっくりするほど気にならなくなってしまうだろう。
 だから内田、山田、両氏のような「格差」とか「階層化」を論じる人たちが、よく「ルサンチマン」なんて言葉を使って下層にいる「負け組」の挫折した精神状態を云々するわけだけど、それはあくまでお二人のような人たちが「競争」を肯定していることの表明でしかないし、また現実に「負け組」の地位にいるらしい人たちが、そのことに関して心にモヤモヤを残したり、システムに対する恨みをグツグツと煮えたぎらせていたり、また逆に自分の負けを受け入れ「身の程を知ってできる範囲で社会に貢献しよう、そしてその中に小さな幸せを見つけていこう」という諦め(クールダウン)の境地に達していたりするとすれば、それはやはり「競争」原理による序列にとらわれたままでいるということだ。そのような人たちにとって「競争」を勝ち抜くことによって獲得できたはずの「夢」は、諦めきれない女のようにいまだに心を占領する「価値」なんだってことだと思う。

 そのような「競争」によって得ることのできる「夢」に価値を感じてこだわり続けている人たちは、正直いって私にはすべて後ろ向きに見える。前向きであるということは、そのような「競争」を降りてしまうことだ、と私は思う。

 「競争を降りる」ということは、そのような競争原理内の「優劣」や「序列」に基づき、他者との比較によって自分の価値を推し量ろうとする一切の手続きとオサラバすること………まったく一面的で、おそらくは資本の生産性の増大に好都合なように人間を管理し、最大の労働力を発揮させるためにつくられた、業績主義的な優劣だけによって人間の価値を判断するシステムから身を引き剥がすことだ。
 このような身の引き剥がしはシステムの外部への視線なしには敢行され得ない。つまり外部の異質なものに対する親和性が同時的に発生しているはずである。しかし内田氏らの言葉にはそのような親和性は見当たらず、あったのはむしろ異質なものへの排除の視線でしかない。
 私たちはシステムから身を引き剥がした瞬間に、多様な形の「夢」や「欲望」が様々なベクトルをもって疾走し、交錯し、渦を巻いている空間の中に放り出されるだろう。そこには他者となんらかの比較をすることを可能にする基準もなく、物差しもないからだ。それゆえ私たちは自らの存在の価値や意味を自分自身で創り出し、発見してゆかなければならない。それが「自己価値化」そして「自己肯定」という言葉の正体なのだ。
 それがニーチェの言っていた「貴族」的な価値判断なのである。外部に基準をおき、そことの比較によって自分の価値を量る「奴隷」的な価値判断にたいして、自分の内側から、自分の充実から自らの価値を感得することなのだ。内田氏は「貴族」の特質を「勝ち誇った自己肯定」なんていう、自分勝手で何も考えてない人間の代名詞として使用していたが、どうなんだろう? むしろ私には他者との比較で自分を評価することの方が安易で、何も考えていないことのような気がする。 
 自分で自分が納得できるような生き方をしなければならない。自分で自分が「面白い」と感じられるように生きなければならないのだ。内面からの充実という手応えのある生き方をするということ………他者との比較で自分を評価しないというのはそういうことだと思う。そこには、外的な基準と比較することで生じる「ルサンチマン」なんてものは論理的にあり得ない。競争を降りた瞬間に私たちの前に晴れやかな空間が広がるだろう。ただし、常に「攻め」の状態になければならない、という条件付きではあるが………。というのは、自分が自分を「面白い」と感じるためにはつねにアクティブな「攻め」の状態にあるべきだと思うからだ。常に自分を前へ前へと押し出すことが必要なのだ。危険な「賭け」へと自分を投げ込み続けることで、一種の緊張を自らの内部につくり出す………。それが手応えのある生き方につながると思うのだ。

 しかし「競争を降りた者」は自己の内部に緊張をつくり出す「賭け」の対象には困ることはないだろう。というのも内面の問題はともかくとして、私たちは現実に「リスク社会」という「競争」が猛威を振るっている社会の中に生きていて、そこで生き抜くためにはどうしたって社会と闘ったり、折り合いを付けたりせずにやってゆくことはできないからだ。社会はあらゆる機会を捉えて私たちにシステムの論理を押し付けてくるだろう。「システムに逆らってたらあなたは生きていけないよ」というわけだ。かなりの確信を持って言えるのは、「競争」を降りた人は結果的に経済的にはかなりの低空飛行を強いられるだろうということだ。まったくもって「競争を降りる=強者たり得ない」ということなのだ。そのうえ、「競争」原理を内面化した人たちに囲まれて、マイノリティとして誤解や疑惑の目にさらされ続けるに違いない。(現に内田氏もそのような視線を飛ばしてるじゃないか……。)
 「競争」を降りたものの生は経済的にも精神的にも闘いの連続だ。しかしそれは晴れやかで陽気な闘いである。むしろその闘いを楽しむことに自らの価値の源泉を求めるべきだ。はっきりいって「競争」のつくり出す序列にしがみつき、必死に上に昇ろうとあがく人々の姿は「競争を降りた者」にとっては滑稽なものでしかない。その我を忘れた真剣さに対して、「競争を降りた者」が持っているのは遊び心である。彼らが生き抜くためのシステムとの闘いは陽気な戯れなのだ。いってみればこの闘いとは、自分の生を面白くするためにシステムを逆にサンドバックとして利用してしまうってことだ。
 このような生き方は一つの危険な(運が悪けりゃ死ぬだけさ………)「実験」に該当する。「競争を降りた者たち」はこのような実験を競い合うように押し進める。しかしその「競争」には(一元的な基準がないから)目的地もなく、方向もバラバラであるため、ある「実験」の成功は他の人の「実験」の失敗につながらない。ここでの勝利は他者の敗北を前提としないのだ。
 したがって、「競争を降りた者」の「夢」の形は、「競争社会」内部における「夢」と大きく様相を異なったものになるだろう。「誰も敗れることのない勝利」、これが彼らの合言葉である。(この言葉は実は受け売りだが……)なんらかのポジションを他人を打ち負かして獲得することが「夢」なのではなく、ひとりひとりがこのような危険な「実験」(そういえばニーチェは生とは実験だ、と言っていた)をその果てまで突き進むこと、そしてこの低空飛行(とは限らないが)の冒険をとことん楽しむってことが「競争を降りた者」の「夢」となるだろう………。

 なんだかこうやって書いてくると「競争を降りた者」のイメージは、内田氏の描いた「貴族」の姿もびっくりな「美しい」ものになってしまった………(汗)。でもまあ、内田氏にはずいぶんひどい描き方をされたんだからこれであいこだろう。
 私が考える前向きな提言とは、このように危険ではあるが、誰にも「諦めろ」などとは言わない前向きな、そしてそのあり方がそのまま「競争」のシステムに疑問符を突きつけるような一つの生き方を示すことなのである。
 この提言は内田氏の「中間的共同体の再構築」のような具体的な社会の改造や変革につながるものではない。だがこの問題はシステムを変えることで解決できるようなものではないと思うし、むしろシステムの分析は生を変革するためにある、と私は考えている。


 最後に、snusmumrikさんの指摘に戻りたい。snusmumrikさんは、私と山田氏や内田氏の考えに大きな違いがないのに、なぜ私がそんなにもいらだつのかを分析している。

 そのいらだたせたものとは、要するに「自分は大学の教育者という恵まれた身分(強者)なのに、なぜ他人がそうした地位に就こうとすること(競争社会に乗り、勝とうとすること)を否定するようなことを言うのか。それは逆に、既存の体制を維持することにつながるのではないか」ということではないだろうか。

 山田氏や内田氏が言おうとしているのは、限られた地位・限られた価値をみんなが求めようとすることではなく、それ以外の場所を「ふくらます」ことだと思う。それも民主的な(自己肯定と他者への配慮が可能で非暴力的な)場所として。その意味で、競争から降りることを奨励することにより、競争以外の場所にあるネットワークを豊かにしよう、既存の競争社会を痩せたものにしよう、と言っているのではないだろうか。


 私は山田氏や内田氏の現行社会内での強者のポジションについてとやかく言う気はない。人は生まれや運やその他いろんな要因で、いろんなポジションにいるものだ。問題なのはポジションではなく、その「向き」なのだと思う。
 できることならお二人がsnusmumrikさんの言ってるように考えて発言なさってくれていればうれしいのだが、内田氏は「競争から降りることを奨励する」どころかそれは「ねじれ」だとおっしゃっているし、「競争以外の場所にあるネットワーク」は内田氏によるとファシズムにつながるってことのようなので「既存の競争社会を痩せたものにしよう」とはお考えになっていないように思うのだ。(『階層化=大衆社会の到来』『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』参照)むしろ、結果的にお二人の言葉は「競争に取り残されると大変なことになるよ」という「恫喝」として、競争社会を維持し太らせることに役立つものにしかなっていない。そしてシステムを揺るがす元凶になりかねない弱者予備軍=若者は「諦め」させてシステムの下層へ軟着陸させなければならないと考えておられる。しかも若者を優しく気遣うそぶりを見せながらそうしている。

 自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。
『希望格差社会』参照)

 内田氏には「外部への視線」が欠如しているので、このようなありがた迷惑なバックパスを出すことしかできないのだ。本当のインテリだったら皆があっと驚くような、ゴールに直結するスルーパスを通してみろ! 教育者だったら若者をアシストするようなプレーを見せてくれ!
 攻撃的センスのない「守り」の思想………私が苛立つのは、このような内田氏の「後ろ向き」さ加減に、なのである。(おわり)



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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その3

 内田樹(山田昌弘)氏は「リスク社会」の暗澹たる未来、すなわち階層化の進行を食い止めるために、いくつかの提言をする。私が今までさんざんケチをつけてきたのは、若者を「断念」させるためのシステムが必要だ、という提言だ。これが私には後ろ向きなものにしか思えない、と言ってきた。どのへんがどう後ろ向きなのか………翻って、では前向きな姿勢とはどういうものなのか、という問題に移ってゆこう。
 
 内田氏らの提言が後ろ向きに思えるわけは、まずはそれがなんら「リスク社会」の抱える問題の解決につながりそうにないからだ。私はそれに対して、「競争」社会そのものを問題にするべきだ、と言ってきた。では、「競争する」とはどういうことなんだだろう? まずそこから考えてみよう。
 「競争」とは単純に言って、自分が勝ち上がるために他人を蹴落とすとことである。野球やサッカーなどのチームスポーツにおけるポジション争いを見ればすぐわかると思うが、限られたレギュラーポジションを獲得するために、選手たちはライバルとなって緊張関係を強いられる。自分がレギュラーポジションを獲得したということは、他の選手が控えに回ることである。誰かが勝つことは、他の誰かが負けることを前提にしているのだ。そして勝ち負けは勝利への貢献度というわかりやすい一つの物差しによって、他の選手と比較されることで決定される。チームが一つにまとまっていられるのは、チームの勝利という共通の利害があるからに他ならない。選手たちは自分がレギュラーポジションを獲得し選手として成功するために、自らのスキルを磨くための練習を怠ることはできない。ゲームへの出場を果たしても、結果をアピールするためにくたくたになるまで全力でプレーする。チームの狙いはそのようなライバル関係を利用し、選手から最大のパフォーマンスを引き出し、チームの勝利に結びつけることだ。
 「リスク社会」における人間関係もチームスポーツ内でのそれとまったく同じである。スポーツにおいてはチームの勝利が最終的な課題だが、現実の社会において問題なのは、社会を組織する「資本」の利潤の獲得である。違うのはたぶんそこだけである。
 私たちは社会内部の序列における、より高いポジションを獲得することにモチベートされ、他人と「競争」を繰り広げる。そのような高いポジションは限られているため、誰かが勝ち組になるためには、誰かが負け組にならねばならない。ここでも誰かの勝ちは、他の誰かの負けを前提にしている。勝ち負けの判断はシステムへの貢献度(業績)によって、またその貢献への報酬(つまり経済的な格差)という一つの物差しで他人と比較することで成り立つ。資本はそのような労働者のライバル関係を利用し、労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出し、生産性を向上させ、最大の利潤を手にしようとする。
 
 この「競争」の原理が、歴史的に見ても「共同体」という人間同士の横のつながりを破壊してきた。資本主義が興隆するとともに、伝統的な身分社会は崩れはじめる。メリトクラシー(業績主義)は、相互扶助的であった伝統的な共同体に楔を打ち込む。努力すれば地位を上昇させることができるという考えが、同一身分内部に競争関係を引き込むのだ。その結果、資本主義社会下の人間は原子的な個人に分解される。労働組合のような中間的共同体が、資本の専制に対抗するため労働者たちによってつくられたが、そのような共同体も労働者階級内部に競争意識が浸透すると力を失ってしまった。その結果現れたのが内田氏の言っているところの、個人個人が競争の舞台に引きずり出されるリアル・ファイトの闘技場、すなわち「リスク社会」なのである。
 したがってこの非情な「リスク社会」の引き起こすであろう問題(例えば格差の増大やそれによる社会不安)を根本的に解決するには「競争」原理そのものを問題としなければ埒があかないだろう。内田氏の言ってる中間的共同体の再構築の案は、最終的に「競争意識」によって解体されるであろうことは目に見えているからだ。
 それに、内田氏の提案する中間的共同体ってどんなものなんだろう。具体的には何も示されていないが………。代わりに私が勝手に想像してみるとするなら………。
 
 先ほどスポーツのたとえを用いたときに、チームが結束する条件として「チームの勝利という共通の利害」ということを述べた。つまりある共同体の外部に競争相手や敵を立てれば(つまり共同体の成員に共通の利害、共通の敵を作ってやれば)、その共同体の横のつながりは活性化する。フォア・ザ・チームというやつだ。これはフォア・ザ・ファミリーでもフォア・ザ・カンパニーでもいい。このようなリアクション的な手続きによってつくられる共同体の代表は、「ファシズム」つまりフォア・ザ・ネイションである。資本(競争)によって分断された地域的な共同体意識を諸外国に対する民族意識として高揚させるとともに、社会内部での競争に敗れたもののルサンチマンを吸い上げるものとして「ファシズム」は機能していた、と何かで読んだが………。内田氏はまったく別なところに「ファシズム」の可能性を見ていたようだが、ご自身の中間的共同体の再構築論も何かキナ臭いものに思えなくもない。

 人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。


 確かにこのような美しい魂の持ち主が共同体をつくるのならそれらしいものになりそうな気もするが、前のエントリーで書いた通り、内田氏自身や内田氏のいわゆる「エリート」の方々は、かなり排他的な視線の持ち主だったことを考えると、むしろヤバイものができあがってしまうんじゃないだろうか?


 だからこそ私はまず「競争」そのものを問題視すべきだと言っているのだが、内田氏らは「競争」の原理そのものをまったく問題にしていない。非情なリアル・ファイトの闘技場の存在そのもの、そしてそのルール、勝ち/負けの序列、といったものには一切疑義を差し挟んでいない。「競争」ゲームのルールはあくまでも動かしがたい前提条件なのだ。内田氏らの教育についての「内輪の言語」もこのような条件から生まれる。
 学校教育の役割は「選別」にあると内田氏は断言する。人間をシステム内に適切に配置するための選別、この冷徹な教育の機能の分析はしかし、批判的にではなく資本の権力(ゲームのルール)をそのまま肯定するために利用される。

 「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。


 勝ち負けの序列内において、勝ち組のポストは限られた数しかない。とすれば、負けるものの発生は不可避である。だから負け組になる人たちの「夢」を断念させなければならない、ということになる。なぜなら、満たされなかった「夢」は恨み(ルサンチマン)に変わり、自暴自棄的な犯罪や社会不安の元になるから、というのである。
 何度読んでも腹立たしく、不快な気分にさせるのはこの「過大な期待をクールダウンさせる」であるとか「『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」とか「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」とかいう断念を求める後ろ向きの言葉だ。これらの言葉をポジティブな提言として理解することができる人が多いのには正直驚いてしまう。
 諦めろ! と言うってことは、何かを断念してまで守らなければならないものがあるっていうことだ。………私たちの「夢」を捨てさせてまで守らなければならないものって一体なんなのでしょうか先生? それは非情な競争社会を守るということなのですか? それともまさか、エリートとして教育システムの上に立っている先生ご自身のポジションを守りたい、なんてことはないでしょうね? 何か他の道はないのでしょうか? 結局、誰かが勝つためには誰かがあきらめて負けを受け入れなければならないんでしょうか先生?………

 内田氏はこのような不気味な断念のシステムを導入してまで現行を維持させなければならないと思っているのだ。システムのために行われる若者への抑圧的な介入の提言、これを後ろ向きといわずなんて言おう。たぶんそれに代わるアイディアを………人間のための社会という「夢」や「ビジョン」を内田氏はお持ちではないのだ。なぜなら内田氏には「外部」が見えていないからだ。現行以外の可能性は初めから勘定に入っていないのだ。だから内田氏にとって「システムを降りる」という選択は狂気の沙汰である。だが私は内田氏とはまったく逆に、「競争のシステムを降りる」という選択に唯一の希望を見る。内田氏が「ねじれ」と称した「競争を降りたものの自己肯定」にこそ前向きなアクションを見る。したがってそれは私たちにとって「夢」とは一体なんなのか、ってことも考え直させるものとなるだろう。

   


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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その2

 内田樹氏は『階層化=大衆社会の到来』というエントリーにおいて、苅谷剛彦という人の議論を援用しつつ、山田昌弘氏の社会的弱者と化した若者の不良債権化という問題にもうひとひねり付け加える。つまり、不良債権化した若者のようにシステムの周辺や外部にいる人たちが自己肯定するというメカニズムについて述べるのである。

 この階層分化が急速に進んでいるのは、「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(210頁)からである。
 不思議なことだが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えているのである。これについては苅谷さんが恐ろしい統計を示している。
 私たちは「勉強ができない」子どもは「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることができないだろうと推測する。ところが統計は微妙な経年変化を示している。もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ない。しかし、階層間では有意な差が生じている。
「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(198頁)
 つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)


 「学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱すること」すなわち「競争」を降りることが逆に「競争」を降りた人の自己肯定につながっている………。これはとても大事なポイントだと私も思う。例えば登校拒否児が学校へ行かない自分を肯定するときのように、ここには反システム的な自己価値化への契機があると思うからだ。資本の押し付ける一元的な「競争」の価値観の外部へ視野がここから開かれるのだ。(これについては後ほど詳しく述べよう。)ところが、内田氏はこの事態を「ねじれ」であると断罪する。本来「競争」を降りた人間は否定されるべきである。なのにこいつらはどういうわけだか自己肯定してしまう………そんなバカなことってあるだろうかってわけだ。 ようするに、内田氏にとってこのような価値の反転はあってはならないことなのだ。そして、内田氏のこの憤懣は劇的な形で展開してゆく。

 苅谷さんは97年の統計に表われたこのような「ねじれ」は1979年段階では見られない点を指摘している。
階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行しているのである。
そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(211頁)
 どうして、「学びから降りる」ことが自己満足や自己肯定に結びつくのか、その理路はわかりにくい。けれども、このような状況は決して「いまはじめて」起きたことではないように思われる。私は苅谷さんが指摘したのと似た状況を記述したテクストを読んだ記憶がある。それは今から75年前にスペインの哲学者が書いた『大衆の反逆』という書物である。


 階層化の進行という事態に加えて、システムをはずれた人間の「自己肯定」という奇妙な事態が起こる。で、内田氏はこの「自己肯定」という言葉だけをたよりに、この問題をニーチェの貴族/畜群論、そしてオルテガの大衆論へと強引に接続するのである。
 内田氏のニーチェ解釈は研究者にはあるまじき通俗的なものだが、それは問題にしないでおこう。内田氏がニーチェを持ち出してきた理由は、ニーチェの言うところの「貴族」の特質が「勝ち誇った自己肯定」である、って言葉が必要だったからにすぎない。そしてどこか傲慢なにおいのするこの「勝ち誇った自己肯定」という言葉を、先ほどの「競争」を降りた人間の「自己肯定」と重ね合わせることで、オルテガの大衆論へとつなげる………そのための連結器としてニーチェを利用しているに過ぎない。
 オルテガの言うところの「大衆」の特質は、「競争」システムを降りた人間のあり方を示すものとして引用されるのだが、これを読めば内田氏がどのようにシステム外部の人間を見なしているか、いかに彼らを不審に思い、信用せず、軽蔑しているかってことがよくわかると思う。オルテガの「大衆」の特質を内田氏のエントリーから書き出してみよう。

「いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴えるという習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっている。(・・・)大衆的人間は、その性格どおりに、もはやいかなる権威にも頼ることをやめ、自分を自己の生の主人であると感じている。」

「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。
ニーチェの「蓄群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところが、オルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。
ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。

自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、オルテガの「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないからだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」

いまや大衆が権力者として「判断し、判決し、決定する時代」なのである。彼らは彼らの判断の妥当性を基礎づける上位審級をもう要請しない。

「サンディカリズムとファシズムの種族のもとに、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れたのである。(…)理由を持たない権利、道理のない道理である。」


 ようするに聞く耳を持たない、傲慢で自分勝手なものとして「自己肯定」する存在の特質が描かれている。それに対して、オルテガの「貴族」とか「エリート」の概念を内田氏は示す。それは明らかに「競争」のシステムの中心に留まり、あくまでもそのシステムを肯定するものの立場、内田氏自身がそうであるところの人間の姿である。長くなっちゃうから引用はしないが、興味ある人は直接内田氏のエントリーにあたって欲しい。(ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」

 この記述は以前にも指摘した通り、内田氏自身の、あるいはシステムの中心に位置する「エリート」の自画像である。実に美しい言葉のオンパレードだ。自己超越性と自己開放性、奉仕の生活、「自分とは違うもの」を同一の共同体の構成員として受け容れること、「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力、努力する生、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生……などなど、である。そういう人は自己中心的で傲慢な「大衆」と違って、迷いや苦悩ももっている。「自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか、ついに確信できない人間」であり、「じたばたした状態」を常態とする人間であり、自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間であり、つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間である。
 臆面もなくとはこのことだ、と思わずにいられないのだが、間違いなく御本人の口からでた言葉である。自分はエリートとしてこのような逡巡と苦悩の生を送っているが、それに対して「競争」の努力を降りたものたちは、はっきりいって………

 思想家たちは、「邪悪な人間」と「バカな人間」のどちらを優先的に憎むかによって、二つのカテゴリーに分けることができる。「バカ」を「悪人」よりも憎むタイプの思想家たち(ニーチェ、ハイデガー、ポパー、フーコー)の系列にオルテガも間違いなく属している。
アナトール・フランスの「愚か者は邪悪な人間よりも始末が悪い」という金言を引いたあと、オルテガはこう続けている。「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らないからだ。」(階層化=大衆社会の到来)


 ………死ぬまで治らない「バカ」である。暗示的にではあるがそうおっしゃっている。内田氏の怖れるのはこの「バカ」の増殖した大衆社会の到来である。

 ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。(現に、『大衆の反逆』の刊行の一年後に、ニーチェの「貴族主義」を看板に掲げた20世紀最悪の「大衆運動」がドイツで政権の座に就くことになる)


 つまり、内田氏の考えのなかでは、かたや、不良債権化した若者=システムを逸脱した人間=勝ち誇った自己肯定をする大衆=ナチ(ファシズム)=「バカ」という系列があり、「競争」システムにの中心にいるもの(内田氏自身?)=「貴族」「エリート」という系列と対峙しているのだ。もちろん内田氏が認める人間は後者である。すなわち業績主義的な競争原理に則って、学習意欲を持ち努力する人間である。このような人は努力するだけでなく、奉仕し、対話をし、逡巡し、苦悩するといった具合にとても人間的に描かれている。逆に前者の人間は、そのような努力をせず『将来のことを考えるより今を楽しみたい』、「現在の享楽を志向」する人間として、描かれている。
 ようするに内田氏が認めるのは、禁欲的で勤勉な人間、近代資本主義のエートスを内面化した人間なのだ。そのような労働倫理を逸脱するものは、享楽的、浪費的、非生産的で破廉恥な穀潰し的存在として端からネガティブな存在として危険視されている。それは妄想的にファシズムにまで到達するほどの危険視だ。このような一方的な危険視を私たちは普通「排除」とか「自己閉塞」と呼ぶ。
 
 私がなぜ内田氏の言葉を素直に受け入れられないかというと、ご自身では自分の立場を「自分とは違うもの」を同一の共同体の構成員として受け容れるなんてホスピタリティあふれることを言ってるくせに、システムを逸脱する存在(他者)を「バカ」呼ばわりし、まるで人間扱いしてない(異邦人をわが幕屋のうちに招き入れてくれるんじゃなかったの?)………といった明らかな矛盾(排除)を犯しているからだ。どんなにきれいなこと言ったって、内田氏にとって信用することのできるのは、きっと「リスク社会」の土俵の上でリアル・ファイトを繰り広げることのできる人間だけなのだ。
 内田氏には外部(他者)への視線が欠如している。だからこそ「競争」のシステムは維持されなければならないのだ。だからこそ若者の夢を断念させるための中間的共同体が必要だなんて言うのだ。だからこそ「競争」原理そのものを問題にしないのだ。いや、問題にし得ないといった方が正しい。内田氏にとって生きることは即「競争」することだろうから。
 勤勉であることや、「競争」し、ストイックに努力することが悪いなんて言うつもりはない。競い合うことがすべてマイナスだとも思わない。が、人間的な価値はそれだけではないはずだ。資本のつくりだしたゲームのルールによってのみ勝ち/負けの序列が決定されていることが問題なのだ。むしろ私たちが改めて発見しなければならないものは、そのような「競争」によってせき立てられ奉仕させられ続けている、生産(利潤、富の追求)の秩序や価値の外部にあるのではないのか。ひょっとして、内田氏や山田氏(苅谷氏も?)たちがはじめからあやしい色メガネで見ている、「享楽的」な生き方の中にこそ何かを見いだせたりするんじゃないのだろうか。

 ちょっとネットで調べてみたら内田氏には『ラカンによるレヴィナス』という本があって、『ラカンの精神分析理論を手掛かりに,レヴィナスの「他者」論を読み解く。』なんてうたい文句が記されてるみたいなんだけど、内田先生は「他者」が何であるのか理解なさってるんだろうか? まえがきで『私はレヴィナスについてはかなり長期にわたって集中的な読書をしてきたが,いまだにレヴィナスが「ほんとうは何を言いたいのか」よく分からない。』なんて発言なさってるようなんだけど、これレトリックでもなんでもなくて、正直な告白なんじゃないかって勝手な推測をしたくなってしまう。いや、私自身はラカンもレヴィナスも知らないし、内田氏の本も読んだことがないから、これ以上何も言えないんだけど………。

   


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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