泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 5  Trackback: 0  

議論の効用

 いろいろ読まなければならない本がたまっているにも関わらず、つい新しい本を買ってしまう………ってのは誰にでもあることだと思う。近所の本屋で的場昭弘という人の『マルクスだったらこう考える』という本を立ち読みしていると、オヤッっと思うところがあってつい買ってしまった。まだ途中までしか読んでないんだけど、グローバリゼーションとか「帝国」とかマルチチュードとかいった最近のトレンドからオリエンタリズム、サバルタン、ポストコロニアルなんてことまでマルクスとからめながらわかりやすく解説してあって勉強になる。
 僕は大学も出ていないし専門的な教育はいっさい受けていない。白状するとマルクスだって曲がりなりにも読んだといえるのは『賃労働と資本』『共産党宣言』ぐらいのものだ。左翼の友達もいないし、もともとマルクスなんて読むようになるとは思ってなかった口である。
 今も昔も僕の中にあるのは「芸術」である。作品なんて枠にとらわれない「運動」としての、肉体化した「芸術」が一歩一歩、マルクスとか社会運動みたいな方向へ僕を引きずってきた。いまだに「左翼」という言葉に抵抗を覚えながらマルクスの言葉を読むのだ。的場さんの本に引用されている『ドイツ・イデオロギー』の一節………

 『共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは「実践的な」現在の状態を止揚する現実的な運動だ

 ………「運動」なのだ。この「運動」は「芸術」であり「祭り」ではないのだろうか? もう一つ………

 『ここで、排除されたすべての存在はマルチチュードと呼ばれます。これはスピノザの言葉で(ネグリがよくこれを使っています)、「多様な人々」という意味です。多様である、ということは人間らしく生きる可能性を持っている、ということです。
 それは資本主義でない価値観をもった人々、言い換えれば、すべての豊かさを価値に還元することのない人々という意味でもあります。マルチチュードは多様であるがゆえに、一定の組織の枠にはめることはできません。多様性を求めることこそ、脱価値化すること、現代の言葉でいえば、脱コード化することです。』


 ありゃりゃ………。これは的場さんの文章なのだが、これを読むかぎり僕が内田さんの批判の中で使ってきた言葉と全く同じじゃないか。だいたい「多様性」なんて問題にしたのは内田さんへの批判において初めて行ったことだ。気がついてみれば、僕もネグリなんかと似たようなことを考えてたってこと? 「脱コード化」なんて20年前から知ってた言葉だけど、こういう意味で使ってたの?………だとしたらちょっとこれはネグリ&ハートの『帝国』を買って読んでみなければならないぞ(笑)!
 シチュアシオニストを発見したときもそうだったが、身体が……肉体化した「芸術」が言葉や概念を求めるているのだ。面白いもの、身体にシンクロナイズしてくるものを探していて、それが僕をこんなところまで引きずってきたのだ。つまり僕を社会について考えさせるようにしているものは、学的関心や論理ではなく、「芸術」なのだ。
 だから逆におかしな文章に出会ったときも、まず反応するのは身体である。いろんな人が命題を論理的に分析して正しいとか間違っていると判断しているのを見ると、別の惑星の風景を見ているような気がしてくる(まあ、僕も無意識的に論理を分析しているのかもしれないが……)。そうじゃなくてある間違った命題にNO!と言って抵抗するのは身体であり、冷徹な論理分析と言うよりも「憤り」がそうさせるのだ。いや、きっと僕だけじゃなく、みんなそうだと思うのだが………。

 まあ、とにかく内田さんへの批判は僕を意外なところに連れてきてくれたってことだ。内田さんにはお礼を言わねばなりません………ハイ(笑)。

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 10  Trackback: 0  

内田批判のまとめ

 ここしばらく内田樹氏のブログのエントリーへの批判を書き連ねてきた。私は内田氏についてはほとんど知らないし、何の利害もなく、とりたてて本人に対して何の感情も抱いていない。たまたま読む機会のあった内田氏のエントリーがどうにも納得のいかないものだった、というのが批判の直接の理由だ。ついでに言えば、私には納得のいかない論を展開している内田氏を持ち上げている人がけっこう多いのが驚きだった。だからこそ、あえていじわるな言い方で内田氏の言葉に現れている矛盾と思われる点ををあげつらって、「こんなこと言わせといていいの?」と、アピールしてきたのだ。はっきり言って私は内田氏には関心もない。しかも私など影響力のある立場にいる内田氏に比べて一介の無力な存在である。ただ、明らかなインチキに対して一矢を報いておきたい、そう思ったのだ。
 しかし、言いたいことは言い尽くしたかなとも思う。自分でも内田批判に少々げんなりしてきた。だからそろそろまとめにはいろうと思う。

 私が言いたいことは実に単純なことなのだ。内田氏の言葉には矛盾があり、その矛盾ゆえに内田氏に賛同する人のように素直にその言葉を受け取るわけにはいかない、ということだ。私は論理学や数学の素養などまったくないのだが、一読して内田氏の言葉に矛盾を感じた。不思議なのはこの矛盾を前にしてみなさんどうして内田氏の言葉に疑惑を抱かないのだろうってことだ。内田氏の肩を持つ人がいっぱいいるのを見るにつけそう思う。
 もう詳しくは書かないが、内田氏は均質的な量的な格差を競う競争社会を資本主義を暴走させるため「危険」だとする。そしてそのような事態に対して「生き方の多様性」を唱えているにもかかわらず、試験による量的な格差によって夢を下方修正することで、若者を選別する学校教育の「学び」の過程を無条件的に肯定している。
 というのも、何らかの理由で「学び」から逃走する者を「ねじれ」とか「オレ様化」とかいって、ネガティブな評価を下しているからだ。ということは逆に「学び」の過程をこなすものは「ねじれ」ていないポジティブな存在だということになり、内田氏自身、学校教育を身をもって価値的に肯定していることになる。そうでなければ、「学び」から逃走する者を「ねじれ」扱いできるはずがないからだ。


 これが私には見逃すことなどできないとんでもない矛盾にしか思えないのだが、内田氏の肩を持つ人たちはそうではないのだろうか? 多様性を語りながら多様性を認めていないのである。いってみれば異文化交流を唱えながら外国人差別をしてるようなものだ。
 量的格差を争う競争が危険だというのなら、学校教育のメカニズムにも批判的であるべきだろうし、生き方の多様性を唱えるのであれば、「学び」を降りる者をもポジティブな存在として認めるべきだ。それが、不登校であろうと、引きこもりであろうと、怠け者であろうと、不良であろうと、享楽的であろうともである。多様性を認めるということは、そのような形で人間を排除したり差別したりしないことではないのだろうか。それができてないということは、内田氏は単なる「ウソつき」じゃん……って思うのだ。
 私の批判のやり方を見て「極端な二項対立への性向がある」なんて言ってる人がいるが、そんなこと言う前に内田氏の二項対立を指摘してあげたほうがいいのではないか? 若者たちを、真面目に学ぶ若者/学びを降り「ねじれ」た若者、という二項に分節しそのうち一方を他方を貶めることで評価するという典型的な二項対立の思考を披露しているようだが………。しかも「ねじれ」た若者の性格は「勝ち誇れる自己肯定」とか「バカ」なんて言われて社会不安の元凶にされ、あげくの果てにはファシズムにまで結びつけられている。内田氏はそれほどまでに「学び」の選別/自己評価の下方修正を受け入れない輩が気に食わないのである。

 内田氏の考えの背後に、どんな理路があり、どんな問題意識の埋め込みがあるのかは知らないが、こういうインチキを見せられると、誰だって素直にその人の言うことを聞く気にはなれなくなるんじゃないだろうか。どんな戦略的思考があるったって、多様な人間の生き方を主張するために、あえて排除や差別を行うっていう戦略なんて普通あり得ないだろう。
 内田氏があからさまに現行体制に有利なように世論を導くような意図を持ってこのような発言をしているとは考えたくないので、たぶん不幸にも「多様性」という言葉の意味を、わかってらっしゃらないのだ………そのために内田氏はこんな思考の隘路に陥ってしまったのに違いないと、私は考えている。
 だから本当のところ、内田氏にとって多様な生き方とか、資本主義の暴走なんてのはどうでもいいことなんだろうと思う。 この社会の居心地の悪さの原因をどこかに求めたいという動機があって、それを普段から苦々しく思ってる「学びから逃走する若者たち」におっかぶせたい、というのが内田氏の思考のアルファでありオメガなのだ。
 逆に言うと内田氏は、そうやって若者たちを諸悪の根源へと仕立て上げなければならないほどに、現行の「リスク社会」は居心地の悪い非情なシステムなのだってことを、回りくどいかたちで証明してくれている、とも言える。

 もちろん私自身も資本主義の暴走は大問題だと思うのだ。しかし激しい競争がそれを引き起こしているなら、競争のベースになっている業績主義的価値観の専制を無効にするのが正しいやり方なのではないか?(内田氏は「学びから逃走する若者たち」が競争を激化させる」張本人であるかのように事態を捏造しているが………。)そのためには、業績主義的価値観の専制によって押しつぶされている多様でオルタナティブな価値観を救い出し、育てるべきだ。そのためにこそ「生き方の多様性」を認めることが必要なのだ。排除や差別をすることではなく、ましてや二項対立的な思考に陥ることなく………である。

 生き方の多様性を認めるってことは決して楽なことじゃない。「居直り」なんていうイージーな状態ではあり得ないと思う。多様性を認める人はつねに心を可能なかぎりオープンな状態にして、外から訪れる他者をそのまま受け入れなければならない。たとえそれが外国人であろうと、犯罪者や狂人であろうともだ。考えてみるとそんなこと自分にもできるかどうかわからない………尻尾巻いて逃げ出してしまうのかもしれないが、自分が耐えられるかぎりそのような他者を前もって排除することなく受け入れるというのが、多様性を認めるってことだ。
 そしてそのことはつねに自分自身の足元をぐらつかせる作業でもある。自分の足元すら絶対ではない、と認識させてくれるのが多様性や他者との出会いだからだ。だから自分の足元の上にあぐらをかいているような「居直り」状態は、「生き方の多様性」を求める人には無縁なはずなのだ。
 つまり多様性を追求する人は、内田氏風にいえば、新しい次元の責務を背負って生きるのである。資本主義社会に貫徹する業績主義的な価値観への没入からの「解放」であるにしても、それは決してお気楽なものではないのだ。
 そしてその責務は押し付けられた一元的価値観への反抗という一面も持つ。現行の資本主義社会は効率的な利潤の追求のために私たちを業績主義的な価値観をベースとした一元的で激しい競争に巻き込むのだ。あるときは巧妙に私たちの「夢」や「欲望」を操作/捏造することで、またあるときは強制的な制度=規律という形をとって、社会は私たちに一元的な価値観を押し付けてくる。多様性を追求するということは、それらの社会の介入にNO!を言い続けることでもあるわけだ。
 内田氏の言葉も(一見、多様性をうたってはいるが)結果的には一元的価値観を私たちに巧妙に押し付ける「働き」をしている。そのあたりに私はモーレツに反発したくなるのである。

 私の内田氏への極端な物言いの仕方を見て、何かの先入観から強引に否定的なイメージで内田氏を語っているように見えるかもしれない。でもよく読んでいただければわかると思うのだが、私の言葉は、内田氏の犯していると思われる矛盾をもとに考えていけば「内田氏の言葉はこのようにしか読めないだろう」という、一つの「読み」の提示なのである。したがって私の「読み」が絶対に正しい、とは思っていない。内田氏の言葉には何も矛盾などないということが納得できれば、私は自分の「読み」をいつでも撤回する。
 だからこそ内田氏を擁護する人たちに、私はあえてやや誇大な調子で内田氏の言葉にある矛盾を語り、アピールしているのだ。誤解しないでほしいのだが、「内田氏はこうだ」と決めつけたいのではなく、みなさんの反発を期待し、建設的対話を望んでいるからこそそうするのだ。
 実際いくつか反論もいただいたわけだが、私の目を開かせてくれる面白いツッコミもあったけど(だから反論をくれた人たちには感謝している。)、上に示した内田氏の矛盾を説明してくれる反論はなかったと思う。………だからたぶん、内田さんは「生き方の多様性」なんてわかってないだろうな、と想像するわけだし、実際ご自分の大学でも教員を数値で評価するシステムを導入しようと奮闘なさっているようなので、きっと量的格差を競う競争にも本心ではさほど危機感を募らせてはいないのだとも結論し、私の考えは「あたらずとも遠からず」だろうなと思うのである。

 トラックバック
,

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 4  Trackback: 0  

先生も大変だ

 僕らと同様、大学の先生も大変だ。もうのんびりと仕事してることなど許されない。絶えず仕事ぶりは管理者にチェックされ、数値化され、仕事の質いかんに関わらず量的な評価によって格付けされる。大学同士、先生同士、激しいサバイバル競争に巻き込まれてゆくのだ。均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会であるが、仕方ない………生き延びるためにはこのように改革してゆくしかないではないか。これは時代の流れなのだ。誰を恨んでも仕方がないのである。
 さあ先生、ストレスを溜め込んで胃を痛めてる暇はありません。明日から私たちと一緒にサバイバルゲームを戦って参りましょう!

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 6  Trackback: 0  

「居直り」という問題 その2

 『私には、内田氏は、佐藤氏が指摘している構造を問題とする意識から議論を展開しているように思われる。つまり、山田氏や苅谷氏が日本の格差社会化を告発すればするほど、不平等はあたりまえのものとして自明化され、抗いようのないものとして認識されてしまう。そして、人々は自らの失敗を「社会のせいだから仕方ない」として居直り=自己肯定を決め込んでしまうのである。思うに、内田氏はこの状況に焦っている。
ひどく単純化すれば、内田氏がまず言いたいことはこの言葉に集約されるのではないか。すなわち、「社会のせいにするな!」、である。』


 ………以上がきはむさんによる内田氏の問題意識だ。つまり内田氏は『自らの失敗を「社会のせいだから仕方ない」として居直り=自己肯定を決め込んでしまう』やつらが、地道な努力を放棄し、肥大化した「自己評価」や現実離れした「夢」に踊らされ均質的な自由競争をヒートアップさせ、資本主義を暴走させるのだとして「焦っている」ということになる。さらに、きはむさんによると………

 『そこで、内田氏が提示する処方箋が「断念」である。すなわち、過大な夢をあきらめさせ、過大な自己評価を下方修正させる作業を重視せよ、とのことだ。なぜ「断念」が上述の問題への処方箋となるのか。それは、「断念」の性質が、社会ではなく自分自身に責を求めざるを得ないものだからであろう。
自らの「失敗」を社会のせいにできる限り、彼は何度でも同じ過ちを繰り返し、何度でも搾取されるであろう。しかし、一旦自責的「断念」によって自己の能力を社会の中に位置づけた人間は、同じ「失敗」を繰り返すことは無いであろうし、自らの分をわきまえた適度なコミットメントを継続することが予想される。
さらに内田氏は、中間共同体の復興を言うことで、araikenさんが強調する業績主義的・競争社会的価値の「外部」的価値を社会に内部化しようと試みる。つまり、「断念」によって自らの価値の実現を限定せざるを得なかった人々を中間共同体に包摂することで、代替的充足を提供しようとする。これによって、夢をあきらめさせられた人々はその心理的欠落感を埋めるのである。 』


 これはたぶん内田氏自身が言いたいことの的確な理解だと思う。このように分析しながらも、きはむさん自身は内田氏の戦略には同意しない。もちろん私も何度も書いてきたように「断念」の処方箋には賛成できない。………が、私はそれ以前に言いたいことがある。

 内田氏はこう言っていた。

 『自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。』


 量的な格差が前景化する均質的社会は危険だと………。だから自由競争を「断念」せよ、………と。だけど内田氏は学校教育という「競争」に対してはまるで批判的な態度はとっていない。学校での競争の結果はあからさまに子供の将来に影響を及ぼす。つまり学校における競争は実社会で行われる競争に直結している。つまり学校教育における競争もまた「危険な」量的格差を争う競争であるはずだ。
 だったら、いっそのこと学校における「学び」(競争)も「断念」させてしまったらどうだろうか? そんなに均質的な競争が危険なものであるのなら………。学校における競争を断念させるのであれば、当然「学び」(競争)を降りる子供たちは、「ねじれ」には該当しなくなると思うのだが………。むしろ子供たちには「学びからの逃走」を積極的に勧めるべきではないのか。………が、もちろん内田氏にそのような発想はない。
 ようするに内田氏は自分が身をもって肯定し、そこを勝ち抜いてきた学校教育という名の量的格差を競う競争だけはイノセントなものだと見なしているのだ。それとも量的格差を争う「競争」の中にも良い「競争」と悪い「競争」があるとでもいうのだろうか? 

 『しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。』


 この内田氏の言葉をきはむさんは………

 『「外部」の価値に旅立ったはずの若者が、資本主義社会の内部で搾取されている。内部に位置する産業が、「外部」の価値を持ち上げることによって、甘い蜜を吸っている。ここには「外部」などなく、オンリーワンの価値を追求しているはずだった若者は、陳腐な内部で踊らされているだけではないか。 .....
 内田氏の問題意識にはこうした視点が埋め込まれているのではないかと思う。』


 ………と解釈している。だが、私だったら全く違う解釈をする。
 たぶん内田氏はそもそも『教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない』連中を許せないのだ。つまり内田氏はわがままに自己肯定する「オレ様」たちを………内田氏が身をもって肯定してきたところの、また今現在も役割としている「教育」という名の「選別」作業を受け入れない連中の存在を、どうしても認めたくないのだ。なぜなら内田氏はたった一つの「生き方」、たったひとつのゲームのルールしか認めてないし、知らないからだ(学問としては知っているようだが、内田氏に生き方のは反映していない……)。認めているのはまさに現行のシステム………競争によってドライブされる資本主義社会に適合した「生き方」だけである。学校教育とはまさに現行システムに適合するように人間を「成型」することと、適切に人間を配置するための「選別」を使命としている。内田氏にはそこから逃走する人間たち(子供、若者)が理解しがたいルール違反に思えてならないのではないかと思う。
 だから、本当いうと内田さんは『自己を過大評価する「夢見る」若者たち』がクリエイティヴ業界に収奪されようと何されようとどうでもいいのだと思う。じゃあ何のために上のような発言をしてるかというと、わがままな「オレ様」たちを悪者に仕立て上げたいからだ。こういう『教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない』連中がたくさんいるから、そしてバカどもが競争に踊らされるから、資本主義の暴走に拍車がかかるのだ!………という具合に「オレ様」たちを諸悪の根源として吊るし上げたいのだ。
 だって、資本主義社会の内部にいる以上、誰だって搾取され、収奪されるはずだろう。自己を過大評価した「オレ様」たちだけじゃなく、「学び」をこなし、大学を卒業した学生だって、(起業して搾り取る側に回れば別だが)就職してサラリーマンになればどのみち搾取され、激しい競争に巻き込まれるのだ。「外部」にいようと「内部」にいようと、オンリーワンを追求しようと、ナンバーワンを追求しようと私たちはみな基本的には収奪される運命にあるのだ。
 しかし内田氏のマジックはここでも見事に発揮され、まるで「外部」に「居直った」自己肯定する「オレ様」のせいで資本主義の暴走がヒートアップしているかのように事態を捏造する。しかもクリエイティヴ産業の横暴を責めるようなふりをしながらそうしている。…………本当は資本主義の暴走を糾弾する気なんかこれっぽっちもないくせに………である。
 『量的格差だけが前景化する均質化社会は危険だ』なんて言って「競争」を批判するそぶりを見せたってダメなのだ。内田氏の足もとの学校教育が「成型」であり「選別」であり「量的格差を争う競争」であるにもかかわらず、それを肯定していることからも内田氏の立場は明らかなのだ。
 内田氏がそのような立場を取ることはもちろんかまわない。しかしまるでそうではないようなそぶりを見せながらそうするというのが、イヤラシイのである。以前書いたことだが、『自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。』なんて言って、「生き方の違い」というオルタナティブな人間のあり方をちらつかせながら、人間の生き方の多様性を社会的機能(職業)の多様性へとすり替える………こういうやり方が気に食わないのである。
 その結果、「居直り」を決め込む「オレ様」に内田氏が求めるのは「断念」とそれによる社会的機能への定着だ。こうすることで、内田氏はやっと安心できるのだ。「オレ様」たちが「かけがえのない」「とりかえのきかない」社会的機能に還元されることで、現行システムのルールに背くことのない「たった一つの生き方」がようやく実現するからだ。
 あとは社会的機能にどうしても還元できないニートや引きこもりをなんとかしなければ………。どうやったら彼らは現行システムのルールに乗ってくれるのだろう? これを考えるのが内田氏の次のミッションになるってわけだ。

 だから内田氏には、きはむさんが言ってた「居直り」に対する警鐘を打ち鳴らしているという「問題意識の埋め込み」はたぶんないと思う。ウチダマジックに騙されてる限りにおいてそう見えるだけの話だ。内田さんにある問題意識は、「居直り」や資本主義の暴走への焦りなどではなく、ルールを逸脱する者の「排除」である。
 「社会のせいにするな!」………なるほど、ごもっともである。だけどそのあとここで内田氏が言ってるのは「お前らのせいだ!」ってことでしかない。つまりこれ、自分自身が身をもって肯定してきた「競争」は棚に上げておいて、それ以外の「競争」を告発するという形の、最悪の部類にはいるオヤジの「説教」だと言っていいだろう。
 ふつう、「社会のせいにするな!」のあとには「オレたちみんなのせいなのだ!」って言葉が続きそうなものである。つまり、資本主義の暴走(リスク社会)を支えているのは私たち自身なのだという具合に、私たち自身が共犯者になってしまっているそのカラクリを暴きだし、自分自身の足元を疑い、係争に投げ入れ、いかにしてその支えを外してゆくかを考えるという方向に進むべきだと思う。だがそうはせずに魔女狩りのごとく「学びから逃走するオレ様」を吊るし上げ、説教をかますのが内田氏のやり方である。そしてその排除は(成型であり選別であるところの)学校教育のイノセント化(浄化)とパラレルな過程である。つまり現在学校教育に携わっていて、かつ学校教育を勝ち抜いてきたエリートである内田氏ご本人もイノセントだ、という議論を「お前たちのせいだ!」という言い方でなさっているのである。
 「生き方の違い」を語ってはいるが、間違いなく内田氏は現行のゲームのルールに乗ろうとしない(違う生き方の)存在を認めたくない………つまり資本主義社会に適合する「生き方」しか認めていないのである。多様性、すなわち「外部」への視線は全くないのである。そのような視線は、現行のゲームのルールを逸脱し、ほかのゲームのルールに則って生きようとする人を、極端な話、人間扱いできない。卑怯な「なんでもあり」の「ねじれ」た「居直り」野郎にしか見えないのである。実際に居直っていようが、またはオルタナティブに生きていようが関係なく、現行のルールを外れる者は人間じゃないのである。だからそういう人に対して「諦めろ!」とか「身の程を知れ!」なんてことも平気で言えるのだと思う(まさしく人非人扱いだ!)。このあたりが内田氏による「ねじれ」だとか「勝ち誇れる自己肯定」とか「肥大した自己評価」とか「居直り」なんて言う言葉の由来である。そこにあるのは多様性を認めることのない秘められた原初の「排除」という事実である。それはオルタナティブへの志向を持つ人であれば可能なかぎり、いや絶対に避けなければならないことである。

 で、何度も繰り返してきたことをもう一度言うと、これらの内田氏の議論は資本主義社会と業績主義による一元的な「競争」によってドライブされる「リスク社会」を、「学び」から逃走する子供や若者たち(すなわちオレ様)をスケープゴートに仕立て上げることによって、結果的にはイノセントなものにしようという議論にしかなり得ないだろう、ということだ。
 きはむさんもオルタナティブな人間や社会のあり方を志向しているということなので、ある意味私と似た者同士なんだと思う。でも内田氏は全く別の陣営に属する人だ。オルタナティブ陣営にまぎれこむバックパサーなのである。現代思想を研究し、何か「違う生き方」を示してくれているのかと思いきや、びっくりするほど「おじさん」的で保守的なパス回しを展開し、私たちと一緒になって相手チームと戦ってると見せかけて、敵のFWにこっそりとバックパスを出してアシストするのである。やっぱりsavidさんが言ってたように内田氏は新自由主義陣営の最凶の刺客なのかもしれない。



Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 4  Trackback: 0  

「居直り」という問題 その1

 きはむさんにちょっと面白い意見(  『araikenさんの内田氏批判再考』および『「外部」を志向することの困難』)をもらって、紹介された宮台真司氏の本を読んでみたのだけれど、想像以上に言ってることが難しくて、これでは相当じっくり読まなければ宮台氏について何かを言うことはできないと思った。だからとりあえず宮台氏のことはおいておくことにして、まずはきはむさんが言ってた「外部を志向することの困難」ってことにしぼって私の思うところを語ってみようと思う。
 きはむさんは、内田樹氏、佐藤俊樹氏、そして宮台氏に共通の問題意識として、「居直り」にたいする警鐘の意識があるのではないかということを指摘してくれた。それはつまり、いたずらに支配的価値観の「外部」を強調することで、価値観を相対化するという態度は、「なんでもあり」の自己正当化=自己肯定に陥っているってことじゃないか…ということで、おそらく内田氏の言葉の背後にもこのことに対して警鐘を鳴らそうという意識があるのだろうと、きはむさんは言っている。
 なるほど、そんなふうにも読めるのか………確かにこの「居直り」の感覚はわかるような気がする。「すべては許されている」わけだから、何しようと勝手じゃないか………といった具合に卑怯な開き直りによってあらゆる面倒なことを放棄してしまっているような状態を想像する。
 で、宮台氏が言いたいのは、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル思想などの左翼思想が、安易に価値の相対化を行うことはまた、ネオコンと呼ばれる右翼の「居直り」的主張の土台にもなっている、ということらしい。ひとことでいえば、安易に「外部」を強調するのは逆に反動的であり危険だ、ということだろうか。
 きはむさんによると宮台氏の言い方はこのようなものである。

 『我々にとっての「外部」は、所詮「内部から見た外部」すなわち「外部という内部」であって、実際の外部環境を把握することは叶わない。自分に属さないものとして観察された外部は、自分の観察による構成物であり、「内外差異という内部」に過ぎない。近代の「外部」など夢想に過ぎず、あるとしてもそれは近代の徹底後に見えてくるものであって、現今で近代の「外部」を叫ぶのは愚行である。』

つまり「外部」なんて所詮幻想なのであり、そんなものについて語っても意味はない、ということらしい。このことを宮台氏はあちこちで言ってるみたいだ。

 確かにもっともらしく聞こえる言い方だ。でもこの言い方を聞いていてすぐに浮かんでくる疑問は、宮台氏の言うところの「近代の徹底」は一体何と比較して測られるのだろう、ということだ。近代化がどれだけ徹底しているかなんてことは、近代以前や近代の徹底後といった「外部」の比較対象なしに決定づけることができるものなのだろうか? それに宮台氏は「近代を支えている諸概念は必要な虚構である」と言ってるようだが、例えば近代的主体が虚構であることを知るためには、やはり近代的主体以外の人間のあり方という「外部」のポイントが必要だったのではないだろうか? そういうポイントなしに近代的主体性の虚構性を暴けるとは思えない。………つまり宮台氏は「夢想に過ぎない」だなんて言ってる「外部」を用いた思考をすでに行使しているのじゃないか?
 「外部」なんてものは言葉でしかない。「内部から見た外部」であり単なる頭の中の構成物に過ぎない。………あたりまえのことだ。かといって全く問題にならないわけではない………。私たちは頭の中に「外部」を措定することではじめて自分が生きている現実に没入している状態から身を引き離し一歩距離をとることができるのだ。
 たとえばマルクスは資本主義的生産様式の性質を認識するのに、歴史的に資本主義以前の社会と、資本主義以降にありうべき共産主義社会という「外部」を対立させて分析をした。またフロイトは意識というものを解明するのに無意識という「外部」を対立させて語ることをもってした。「共産主義社会」にしろ「無意識」にしろ所詮は「言葉」に過ぎず、「夢想」であり、「外部という内部」に過ぎない。が、それは現実を認識するための装置として有効に働いているわけだ。

 つまり自分の目の前にある現実は、その他の様々な形で、別様にあり得たという可能性を排除することで成り立っているという事実を暴きだすために、私たちは現実から一歩引き下がることをしなければならない。「外部」をめぐる思考とはそのために行われるプロセスである。
 マルクスやフロイトだけではない。時代は下って構造主義やおそらく宮台氏が述べているカルスタ、ポスコロなどもそのような思考のプロセスなのではないだろうか(詳しいことは知らないけど……)。
 他ならぬ内田樹氏が構造主義についてこう書いている。

 『私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分で判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。』(『寝ながら学べる構造主義』)


 これを読むと(構造主義についてはほとんど何も知らないので、たぶん、なんだけど)「なんだよー、内田先生わかってるじゃん!」って言いたくなってしまう。たとえばレヴィ=ストロースの仕事は、未開文化のあり方という文化人類学的「外部」から近代社会を照射する試みなのだろうし、フーコーもたとえば「狂気」を「外部」へと排除することで近代社会が成り立っているというメカニズムを暴きだしているわけだ。
 つまり、近代の外部がどこかにあるとか、そのような外部に抜け出すことができるとかそういうことを彼らは言いたいのではないはずだ。そうではなくて、目の前の現実に没入してしまっていては「見えてこない」「感じることができない」「考えることのできない」ことを意識化し、思索の主題にさせるために「外部」についての思考が必要なのだ。宮台氏だって「近代の徹底後にしか「外部」は見えてこない」なんて言ってるってことは、どう考えたって「近代」を「近代以外の何か」(つまり近代の外部と)と対立的に考えてるのだし、そうしなければ宮台氏の思考も展開させようがなかったはずだ。だからそういう思考の手続き自体は正当なものであって、なんら愚行にはあたらないと思う。
 じゃあ、宮台氏は何だってこんなこと言ってるんだろう? ようするに左翼側からの批判に答える必要があって、「外部」なんて言い方をして「居直り」を決め込む奴ら(馬鹿左翼)を攻撃しなければならなかったってことだろう。つまり「外部」についての思考を都合よく利用して自己正当化するネオコンや左翼がいるってことを、きっと宮台氏は言いたいのだろう。それだったらわかるような気がする。だけど、それなら「外部」を問題にするのが間違いなんじゃなくて、「外部」をめぐる思考の使い方、関わり方に問題があるってことではないかと思うのだが………。

 それにしてもここで言われている「居直る」っているのはどういうことなんだろう。………「外部」を措定することで、支配的であった価値観(現行のゲームのルール)を相対化し、それ以外のありうべき価値観(別のゲームのルール)の上にふんぞり返って、今までのっかってきたゲームのルールに無効を宣言している状態ってことだろうか。「なんでもあり」なのだとすれば、いままでのゲームのルールにおいて「負け」てしまって苦しめられてきた自分をそこから解放させることができ、自分に都合の良い全く別のルールに自分をのせてしまえば、「勝ち」に転換できるってことだ………。
 だが考えるまでもなくそのような「外部」や別のルールは現実に存在するわけではなく、つまり「外部と言う名の内部」でしかなく「夢想」でしかないのであって、「外部」について語っている当のご本人も現実に生きているのは近代社会であり、資本主義社会であるわけだ。だからその近代社会の中で闘ってゆく戦略を考えなくってどうする(現行のゲームのルールを離れることは不可能なのだからあくまでもそれにこだわるべきだ!)………ってことを宮台氏は言いたいのだと思う。ごもっともである。
 しかし私自身の実感が「居直る」という言葉に反発を覚えさせる。「外部」を思考することで、支配的価値観への没入状態から距離をとり、価値観を相対化した人が、「居直る」とはどうしても思えないのだ。
 価値観は多様なんだから「なんでもあり」なんだ、ってことは身勝手な判断をできるっていうことではなくて、反対に自分以外の多様な価値のあり方を認めるってことだ。自分は正しいはずだと開き直るのではなくて、間口を広げて可能なかぎり自分と異質な価値を受け入れようとすることだと思うのだ。つまりそれは異質さを認めたまま他者と共存することを目指すものであって、自分に都合のいい価値観の上にふんぞり返るような安易な状態だとは思えない。多様な価値のあり方(他者)を認めるということは、自分自身を絶対視しないということでもあるはずだからだ。
 私たちが自律的でオルタナティブな生き方を主張するということの背後には、このように徹底的に自分の足元をも疑い、突き崩すという作業がピッタリと張り付いていなければならない。自分自身の立場だって絶対的ではなく根拠のないものだ、という認識は当然の前提である。私たちは根拠を持たず宙ぶらりんのまま生き、多様な価値とつねに出会い、いろんな角度からそれらを発見し続けるという状態が、価値を相対化し支配的価値観への没入状態から距離をとる人のあり方だと思う。だから絶対に自己肯定は「居直り」とイコールで結ばれるとは思えないのだ。

 私が抱いている自己肯定のイメージはむしろ、ある一地点に腰を下ろしてしまうような呑気な「居直り」なんてものではなく、自分自身で足元を崩してしまうため、つねにジャンプしつづけなければ生きてゆけない………ちょっとシンドイけど、退屈することのない「運動状態」であり続けようとすることだろうか。それは支配的な価値観(現行のゲームのルール)からの解放ではあるが、新しいレベルでのゲームプレーヤーになるような感じだ。
 もっとも宮台氏が言ってるように私たちの目の前にあるのは、現行のシステムであり、現行のゲームのルールでしかない。だから私が考えるのは、内面的なスタンスとしては新しいレベルでのゲームを遂行しつつ、生きてゆくために仕方なしに(とりあえずこれしか手元にないから)現行システムのゲームに参加する、という戦略だ。………あくまでも仕方なく、イヤイヤながら現行のゲームにつきあう、というシステムとの距離感が大切だと思う。決してそこに没入しないために………。
 いずれにせよ「外部」の可能性、多様な価値のあり方を主張しながら生きるというのは決して安易なものではないのだ………「なんでもあり」であることを認めるからこそ私たちは「居直る」ことなどできないのだし、またそれだけに、一面的で「たった一つの生き方」を私たちに押し付けてくる現行の社会システムに対しては憤り、NO!と叫び、闘わざるを得ないのだ。

 したがって二つの問題がここにはある。「外部」を語ることで「居直ってる」人がいるらしいこと。それと、「外部」について語る人間を「居直り」としか見なせない人がいるということ。
 前者はまだまだ「甘い」人だ。本当の意味で価値の多様性をわかってるとは思えない。支配的な価値観を「外部」を利用して否定したが、自分に都合のいい価値観の上にあぐらをかいている状態なのだろう。つまり自分の足元は疑っていないのだ。が、支配的価値を疑っているということはオルタナティブなあり方への第一歩だと思う。
 そして後者の方はと言えば、やはり価値の多様性を理解していないため、「外部」を語る人が現行のゲームを放棄した卑怯者としか見なせないという人だ。つまりこのような人は「外部」を語る人を「居直り」であると判断する以上、実はその軸足を支配的な価値観(つまり現行システム)の上にしっかりと置いている………やはりあくまでも現行のルールの中で勝負すべきだ、と考えているように思えるからだ。まあ、宮台氏がそうであるか今のところちょっとわからないので、コメントを差し控えるが(たぶんそうではないかと思う)、きはむさんによる問題の投げかけに答える意味で、内田氏についてしつこくも(正直もうゲンナリしてきた)この視点からもう一度分析してみよう。

トラックバック 自由と平等 what is my l..



Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 32  Trackback: 0  

読書会

 はやしさんたちが中心となって進めている『読書会』が始動しました。とりあえずは、ならし運転って感じですが、どういう巡り合わせなのか私は内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』を読むことになっちゃいました。ほかにもいろんな本を読んでゆく予定になっってます。参加してるメンバーを見ると明らかに左寄りの面子がそろっちゃってるけど、立場に関わらずいろんな人に参加してもらえたら楽しいだろうなあ、と参加者として思ってます。不肖私もいろいろ勉強させてもらおうと思っております! ぜひ皆さんも一度お立ち寄りを………。

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 3  Trackback: 0  

なぜ私は内田批判をするのか その2

 実は私には若い頃、登校拒否経験者の友達がいました。私たちは今で言う「フリーター」として同じ職場で働いていました。親しくなって彼が登校拒否経験者であることを知り、登校拒否を肯定的に理解するための小さな運動を行っている、という話を聞きました。
 彼に言わせると、まさに学校は(内田さんも見抜いていたように)「選別」の場であり、試験や通知表による量的格差による「競争」の場であって、ある意味非人間的な空間なのだということでした。おおざっぱにいえば登校拒否とは通常考えられているのと違って「怠け」や「サボり」に類するものではなく、一元的な「競争」でしかない学校教育に対する子供ながらの拒否反応なのだ、というのが彼の主張であり、そのような形で登校拒否というものを一般の人にも理解させ、今も周囲の無理解にさらされ精神的に追いつめられた登校拒否の子供たちを肯定的にとらえることで救いたい、と考えていました。まあ、最近話題のフリースクール運動のはしりのようなものでしょう。
 私もはじめはびっくりしましたが、彼の考えや立場を急速に理解し受け入れてゆきました。何より当時16〜17歳ぐらいの若さであったにもかかわらず彼は非常にまじめで、同じ仕事をしていたアルバイトの大学生たちより熱心に仕事もこなしていたし、人間的にも深いように思えました。(大学生たちなんか仕事もサボるし、バイクやツーリングの話ばかりしてるくせして、学歴のない彼や私を明らかに低く見ているのがわかりました。いやバイクに夢中になるのが悪いなどと言う気はありませんが………。)
 彼の「夢」は何よりも登校拒否というものを人々に理解させたいということと共に、一面的で量的な格差のみで人間を理解しないような新しい社会のあり方を構想し、そのような新しい生き方を実践してゆくというところにあり、バブル経済に浮かれ始めていた日本に蔓延する経済的成功の「夢」なんてものとは全く別物でした。まさに彼は内田さんが言うところの「同じ生き方の格差の違い」などに興味を持たず、「生き方の違い」を追求していたのです。つまり「夢」の形は全く新しい形に転換していたということです。
 もう20年も昔の話で、今では彼とも全く会っていないので、現在もそのような「夢」を抱き続け、活動しているのかは知りません。が、少なくとも私の中に彼の存在は生き続けているし、そのような均質的な「競争」の外部の価値観はほとんど私の身体にしみ込んでいます。

 しかし、明らかに彼のような存在は内田さんの立場では、「学び」を降りた者であり、業績主義的価値観の「外部」の価値によって自己を肯定している「ねじれ」て「居直った」存在に該当するはずです。しかし私の実感では、彼のような存在の方がよっぽど人間的であり、むしろ「勝ち誇れる自己肯定」なんて言い方で形容したくなるのはエリートであるはずの大学生たちの方でした。
 それだけに内田さんの言い方が私にはほとんど皮膚感覚として受け入れがたいのです。「学び」を降りた者を十把一絡げにネガティブな存在と見なしていいはずがない。なんでそんなことができるんだろう。それはやはり学校での「競争」を無批判にポジティブなものと見なしているからではないだろうか。内田さん自身がずいぶん鋭く均質的な量的格差を争う「競争」を危険なものとして批判していたにも関わらずに………です。
 もちろん学校での「学び」自体が悪いことだなんて言うつもりもないし、競い合うことが必ずしもマイナスではないと思います。問題なのは試験の点数のような一面的で量的な差異のみによって競争が行われ、子供が格付けされ判断されてしまうことです。秀さんも教員をやっておられるようなのでわかると思いますが、成績が悪くても人間的に魅力のある子供や、成績が良くても薄っぺらい感じの子供、という評価もあるはずです。しかしそのような人間性などによる評価はたぶん、試験の数値に比べてマイナーで、付加的な評価でしかないでしょう。あくまでも学校教育で問題なのは点数による量的格差なのだと思います。
 また、「学び」を降りる者が登校拒否をした私の友達のように真面目な奴なのは例外で、本当に「ねじれ」て居直りを決め込んでるような場合もあるでしょう。「学校の成績だけがすべてじゃない」なんて言い方は巷に流通しているわけで、そういう言葉を利用して開き直り的にいっさいの努力を放棄している子供もいるだろうと思います。いやむしろ「学び」を降りる子供は、ほとんどはそのような子供なのかも知れません。
 しかし「居直り」というのはどういう状態なんだろう………つまりニヒリスティックに古い「夢」(同じ生き方の格差の違いの追求)を打ち砕きはしたが、新しい「夢」の形(生き方の違いの追求)に転換できていない状態にあるってことじゃないでしょうか………「居直り」という言葉や態度にいい印象は持てないのは確かですが、とにもかくにも「居直れる」ということは学校教育を貫通する一面的な支配的価値観………均質的な「競争」に疑惑を抱き始めた証拠です。もし本当に内田さんが均質的な「競争」を批判する立場にいるというのであれば、そのような「居直る」子供たちをも肯定的にとらえて、業績主義的な価値観から完全に身を引き離させ、新しい「夢」の形を創りだすアシストをするという方向でものを考えることもできるはずだと思うのです。
 でも内田さんの文章をどう読んでもそのような発想はないようで、むしろ勉強をしなくなった子供たちを不安視し、「学び」を降りる者は「ねじれ」でしかなく、逆に学校での「競争」はなぜかイノセントなものにとどまっている。私がどうしても納得できないのはこのへんの内田さんの論理なのです。

 とりあえず以上が私が内田さんの言葉に不審感を抱き、「素直」には受け入れられないひとつの理由です。「生き方の違い」を求めるべきだという内田さんの言葉は、その中身を欠いているとしか思えない………。本当の意味で「違う生き方」を内田さんは認めてないと思うからです。
 たとえば、『スピリッツ』療法というエントリーで内田さんは、『NEET、引きこもりなど、将来が決まらないでうじうじしている男性』を治療の対象(つまり病者?)だと見なしてしまっていますが、「生き方の違い」「多様性」を称揚する人だったら、このような見方は許されないのではないでしょうか? 「生き方の多様性」を認めるということは、そのような人たちの生き方をありのまま受け入れ、向かい合うということだと思います。それこそ「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れる」ように、です。それを治療の対象にカテゴライズしてしまうとは………(軽いノリで書いただけかもしれませんが)。本当は内田さんは「一つの生き方」しか認めていないと思う。つまり均質的な競争社会を支える人間の生き方しか認めてないと思います。内田さんの言う多様性は均質的な競争社会を支える機能的な多様性(職業の多様性)でしかないからです。だからこそNEET、引きこもりなどのように、社会を支える機能を担うことのできない人間に対して「病気を治して早く職業に就いて働け!」と言いたくなるのだと思います。本当に生き方の「多様性」を認めるのなら内田さんは「NEETや引きこもりは立派に一つの生き方だ」と言わなくてはいけない………。

 学校教育の競争を勝ち抜き、エリートの道を進んでゆくことを一つの勝利だとするなら、登校拒否経験者である私の友人のような存在はある意味敗者になるのかもしれませんが、私には、彼はその敗者の立場を(秀さんの言い方を借りるなら)見事に逆転し、勝者として生きているように思いました。だけど彼のような存在は内田さんの思想の中でポジティブな位置を占めることはできない………そのような勝者は「ねじれ」ていて「居直り」を決め込んでるだけで内田さんの言うところの「社会的機能」に収まらない存在になってしまうでしょうから………。
 このような私自身の人間経験(登校拒否の友人との出会いの経験)が、内田さんの言葉に対してほとんど肉体的な拒否感を発動させてしまい、秀さんや458masayaさんと内田さんの言葉の「解釈」に大きな食い違いが生ずるひとつの原因なのではないかと考えてみたのですが、いかがでしょうか?
 私は内田さんの人生をまるで知らないので、憶測だけで言わせてもらっちゃうと、内田さんは今まで大きな挫折や落伍者的な位置に陥ったことなく、身近にもそのような社会と人生の矛盾を味わっている人が全くなく、順調に優等生的な道を歩んできた人なのではないでしょうか(いや、もしそうだとして、それはそれで立派なことですが)。それだけに自分が勝ち抜いてきた均質的な「競争」を本気で疑ってみる回路がないんじゃないか………内田さんの論理を追ってゆくと私はそんな想像をしてみたくなるのです。(おわり)

 トラックバック またまた心の理論 〜今度は自分自身に〜 what is my l..

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 3  Trackback: 0  

なぜ私は内田批判をするのか その1

 おそらく私たちの考え方はそれほど違うものではないにも関わらず、なんで内田樹さんの文章をこれほど異なった受け取り方をしてしまうのか、というのが『数学屋のメガネ』の秀さんが不思議に感じてることだと思います。私もこのことにはびっくりしています。しかし個人的な感想を言えば、秀さん自身の考えは内田さんよりも自分に近いなと思います。秀さんの書いたものを読むと、むしろ私と一緒に内田さんを批判してもらえないだろうか、なんて思える文章に出会うことさえあります(笑)。
 ただ、秀さんの立場はたぶん458masayaさんと基本的には同じ立ち位置にあるのではないかと思うので、ひとまずは『センセー、やっぱり違うと思います!』をよく読んでもらうのが一つの答えになるとは思います。ですが「誤読」というものが秀さんの一つの関心事のようですので、それについて私から言えることは何だろうと考えてみました。

 『誤読』という以上はやはり『正しい読み』というのがどこかにあるはずだ、ということだと思います。例えば内田さんが言いたかったことを、その意図通りに受け取ることができるとすれば、それは『正しい読み』に該当するということだと思います。
 しかし秀さんもお気づきの通り、内田さんが使った言葉を厳密にその意図通りに私たちが理解し受け取ることはまず不可能でしょう。ある言葉を内田さんと例えば私が全く同じ意味で理解することはできない………内田さんが「学校」という言葉を使ったとして、内田さんにとっての「学校」は女子大生があふれた華やかな空間がイメージされてるかもしれないが、私にとっては友達に「いじめ」を受けた暗いイメージがまとわりついたものとして理解してしまうかもしれない………同じ経験を共有できない私たち人間にとって、ただ一つの単語ですら同一のものとは理解できないと思う。
 したがって、私たちは他人の言うことを『誤読』する可能性がある、というよりも『誤読』せざるを得ない、または厳密に『正しい読み』はあり得ない、と言った方が正確だと思います。つまり私たちにできるのは、他人の言葉を自分なりに「解釈」することだけでしょう。
 ですから私だったら『誤読』や発言の意図にそった「素直」な「読み」はいかにして可能か、といった問題の立て方はしません。『誤読』が『誤読』であることや、ある「読み」が本当に「素直」であるかどうかは厳密には証明できないからです。私たちが考えるべきなのは、ある『解釈』が妥当なものかどうか、を判断するくらいのことでしょう。例えば内田さんの発言についてのある『解釈』が妥当なのかどうか検討する、といったところだと思います。

 内田さんの言葉一つをとってもいろいろな「解釈」があり得るとはいうものの、私と秀さん、あるいは458masayaさんのあいだにこれだけ極端な「解釈」の違いが現れているというのはやはり不思議なことであり、考えなければならない問題です。なぜこのような「解釈」の違いが生まれてしまうのか…………?
 先入観、というのは確かにひとつの原因ではあるでしょう。確かに私は内田さんのニーチェ解釈をめぐって内田さんの言葉に疑惑を抱き始めました。でもそれはきっかけに過ぎず、やはり私の否定的な内田解釈を決定づけたのは、内田さんの論理のもつ矛盾です。

 内田さんの論理の矛盾を突くことは、すでに458masayaさんへの回答において示したつもりです。ですがもう一度大事なところだけ抜き出すとするなら、内田さんは「競争」を批判するようなことをいいながら「競争」を肯定し、追認している、ということころです。この矛盾した内田さんのスタンスが私には正直言って理解しがたい錯誤にしか思えないのです。
 内田さんの発言の意図は、リスク社会=資本主義の暴走に歯止めをかけたい、ということでした。

自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。


 この内田さんの言葉はあきらかに業績主義的な価値観に沿って行われる一元的な「競争」の批判です。このような量的格差を争う競争がヒートアップしている現状、つまり資本主義の暴走を鋭く批判しているわけです。
 にもかかわらず内田さんが何も手を付けずに、ほとんど無邪気に肯定している量的格差を争う「競争」が一つだけあります。………それは学校教育です。

 内田さんによると学校教育は「選別」です。確かに現実的には、教育は教え育てる機関であるというよりも、試験や通知表の数的な評価によって子供たちを格付けするものとして機能しています。そのような教育現場での評価が子供の進路、進学、就職といったことに大きな影響を及ぼすことを考えると、実社会で日々行われている(内田さんが言うところの)量的格差による自由競争は、学校の中でもう始まっていると考えることができる。まさに学校教育は量的格差による子供の「選別」です。
 もし本当に内田さんが均質的な量的格差による自由競争が危険だと考えるなら、現行の学校教育に対しても批判的であって当然だと思います。しかし実際には内田さんは学校での競争を疑問視している様子はありません。のみならず「学び」の競争=均質的な格差における成功物語を降りる子供たちを「ねじれ」てると評し、享楽的でまるで居直ってるような存在と見なしてしまっている。本当に均質的な「競争」を支持しない人であれば、絶対に「学び」を降りる子供たちをこのようにネガティブに扱うことはできるはずがないと私は思うのです。
 したがって内田さんが「競争」のヒートアップ=資本主義の暴走を憂いているというのはウソだ、と私は結論し、内田さんの言葉はむしろ「リスク社会」を追認する「働き」をしてしまうと主張するわけですが、そのことは横においておきましょう。

 秀さんの関心はなぜ「解釈」にこれほどまで違いが現れるのか、その不思議さをもっと問いつめたいということだと思うので、秀さんの考察の参考になるかどうかわかりませんが、なぜ上で述べた内田さんの論理の矛盾点が私にとってそれほどまでに気になる点であるのか、私の経験を含めて詳しく書いてみましょう。その結果どうして私のような内田さんの文章の「読み」が生じて来たのかの理解の糸口になるかもしれないからです。秀さん自身の考察もどんどん続いているようなので、話題がかぶってしまうかもしれないのですが、先に私の内田解釈の前提みたいなものを知っておいてもらうのは、意味があるんじゃないかと思います。(その2へ続く)

 トラックバック


Category: 日記・その他   Tags: 思想  

Response: Comment: 26  Trackback: 0  

代替不能性

 内田樹さんの批判の夢中になってるうちにやらねばならない仕事がたまってしまったよ。今受けてるのは劇場版『鋼の錬金術師』の仕事です。けっこう人気あるみたいだね………これ。
 書きたいエントリーは山ほどあるのですが、1週間ほどストップします。これから「かけがえのない」仕事を「選び」の意識を持ってこなしてゆきま〜す。……ってなんか嫌味なこと書き過ぎかなオレ?

06 2005 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 65
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 116
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS