泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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タイの漫画4

またまた妙に色っぽい会社に女性が就職活動にやって来たみたいだが………

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"จะมาสมัครตำแหน่ง ผู้จัดการเหรอคะ...คุณรู้มั้ยคะ ฉันน่ะเคยเป็นนางสาวไทยมาก่อน"
訪問者:就職を希望しているのですが………。経営者の方ですか? ご存知でしょうか、私はミス・タイランドだったことがありまして………。

ยังเป็นได้แค่พนักงานบัญชีเลย...
女社長:そうね、できてもいいとこ帳簿係ってとこかしら………。

ฉันอดีต มิสไทยแลนด์เวิลด์ ได้แค่ประชาสัมพันธ์
受付係:私も昔、ミス・ユニバースのタイ代表だったのに、受付の仕事をしてるのよ。

左手の受付嬢に上には「超美人株式会社」という看板が………。


 ん? どこを面白がればいいんだろう、これ。……こんな美貌によって役職の決まるスゲー美人会社のレベルの高さをなのか、ミス・タイランドだった過去を「売り」に就職活動する女性の甘さを笑えばいいのか………。左下のほうに作者のコメントらしきものが書いてあるが、
 「ภรรยาท่านประธานอดิตนางงามจักรวาล………皆様方の奥様も昔は世界一の美女でしたね。」……ここが笑いのツボ? 
………ウ〜ン、わからない。
 だけど一体この会社はどんな業務をおこなっているんだろうか。どう見てもタニヤのカラオケスナックって感じだが………。ちなみに「超美人株式会社」と訳してみたけど、直訳すると「บริษัทสุดสวยไร้ทิ่ติ=文句のつけようのないほど最高に美しい会社」になる。
 お色気に惑わされて訳しては見たが、イマイチだったかなあ。

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タイの漫画3

 ムムッ! 何だか妙にセクシーな学校の先生の登場だぞ!

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"ก็คุณครูสั่งให้นักเรียนทุกคนทำตารางมา แล้วครูจะเขียนตารางสอนให้ไงคะ"
先生は生徒全員に「ターラーン」を作ってくるように命じた。つまり先生はターラーン(時間割)を書かせたかったのだが………。

นี่ไงคะ ตาราง
生徒:これがターラーンです。

ปะป๋าช่วย
生徒:パパが手伝ってくれました。

ครูหมายถึง ตารางเรียนต่างหาก นี่มันตะรางแล้ว... เอาไว้ขังเด็กดื้อๆ ซนๆ ก็ดี
先生:そうじゃなくて先生はターラーン(時間割)って言ったのに………これはタラーン(牢獄)じゃないの………いいわ、言うことを聞かない生徒を閉じ込めておくのに使いましょう。


ダジャレかよ! でもまあ先生の色気に免じて今日のところは大目に見てあげよう。それにしてもこの先生は学校よりもパッポンが似合いそうだ!

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タイの漫画2

 以下は全て『Domestic Violence in Thai Cartoon Books 』という英語のサイトから引っぱってきました。英語を読む気にならないので、内容はわかりませんが、ちょっといかめしそうな雰囲気が………。


"เชื่อรึยัง คุณผู้ชายกับคุณผู้หญิงบ้านนิ้ เขาไม่ค่อยจะไว้ใจกันนักหรอก..."
「ほらね、この家の旦那と奥さん、お互いを信用してないのよ………」


"เพื่อนเรามาแล้ว เมียอนุญาฅให้ออกนาได้แล้วสิ..." "ช่าย.."
「お、仲間が来たぞ。奥さんが出てくるのを許してくれたんだな……」「そうなんだ……」


"เฮ้ย...เพื่อนฝูง...ฉันไปไม่ได้จริงๆว่ะ...พอดีฅิดธุระ ต้องไปงานแต่งงานญาฅิ...ไม่โกหกหรอก..."
「やあ、みんな……オレは本当に行けないんだよ。ちょうど用事ができちゃってさ。親戚の結婚式に行かなきゃなんないんだ。……本当なんだって。」


 それにしても僕の目にはなぜか涙が………。

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タイの漫画1

 これからしばらく仕 事が忙しいので、時間のかかるエントリーはアップせずに、タイ語の勉強も兼ねてこんなことを………。
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"ดูสิ...เครื่องยังไม่ดับเลย...บอกแล้วรถยี่ห้อนี้ดี"
「見てよ………エンジンはまだ止まってないよ………ね、このメーカーの車はいいって言っただろ?」


"เป็นไง...จะพูดถึงเรื่องหย่าอีกมั้ย" "ไม่แล้วจ้ะ..."
「どう? まだ別れるなんて言う気かい?」「もう言いません……」 

 僕がこのマンガを見て笑えないのは、マンガ自体が「つまらない」からだけではないわけで………。

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体臭

 僕は毎日シャワーを浴びる。しかもなるべく早い時間に浴びないと気持ちが悪くて仕事に集中できない。サッパリして仕事をしたいのだ。………でも以前はそんなことなかった。仕事へ出かける前にシャワーを浴びたことなんて一度もなかったし、会社に泊まり込んで仕事することもあったけど、当然そのとき風呂なんか入らなかった。若い頃、女子高生の間で「朝シャン」なんて習慣が出現した。僕はボンヤリ、強迫的な清潔観念のなせる業だな、なんて思っていた。考えてみるとあの頃は2〜3日風呂に入らなくても全然平気だったように思う。
 そんな僕を変えてしまったのはタイだった。タイ人は毎日水浴びをする。気候が気候だから(タイに限らず)南国では基本的に当然の習慣なんだろう。僕もタイを旅行中、町をぶらついたあとホテルやゲストハウスの部屋に帰るとすぐシャワーを浴びて汗を流す。水が火照った体から体温をうばってゆくのがわかる。体を拭いて扇風機をつけ、ベッドに横になるのは何とも快適だった。寒い冬の日に銭湯から出て来たとき体がポカポカしているのとは逆に、水浴びは体を冷やしてくれるのだ。タイ人がしょっちゅう水浴びをする理由がわかるような気がした。
 が、彼らの水浴びはそれ以上の意味を持っている………彼らは体臭が鼻につくことをかなり極端に嫌がっていて、いつも臭いのしない、あるいは石けんの香りのする体であろうとしているように思うのだ。
 僕自身はどっちかといえば不潔でも気にならないタイプなので、服も着たきりスズメだったりするのだが、タイ人の女房にはこれが許せないらしく何かにつけて「臭い(เหม็น=メン)」とうるさい。で、どうも本なんかで読むかぎり、これはタイ人一般の感受性らしいのだ。

 タイ人はわりと柔軟に外国人を受け入れる。しかしもちろん、差別がないというわけではない。自分たちより格下とおぼしき国の人たち………周辺のインドシナ諸国の人たち、あるいはインド人など………に対してはずいぶん冷ややかだ。
 タイ北部なんかを旅行していると色鮮やかな服を着た山岳民族に出会うことがある。彼らも平地民であるタイ人にとって差別の対象になっているようだ。全てというわけじゃないんだろうけど、彼らは「臭い」からだ。
 南国とはいえ山の上はやはり気温が低く、山岳民族にとっては水浴びは一般的な習慣ではないのかもしれない。僕はタイ人が山岳民族を見てあからさまに顔をしかめ、手を鼻の前でパタパタさせて「臭い」と苦笑しているのを見たことがある。大げさにいえばタイ人にとって「臭い」ことは罪なのだ。

 タイ人は「におい」という面に関しては、潔癖性だと思う。思い出してみてもこいつは「臭い」というタイ人に出会ったことはない。住んでるところがどんなにみすぼらしくても、水浴びと洗濯だけは欠かしてないのではないだろうか。彼ら、水場では炊事、洗濯、水浴び、子供のオシリを洗うことまで一緒くたにやっている。まあ、ミソもクソも一緒ってやつだ。清潔なキッチンになれた日本人から見ると、目を覆いたくなる人もいるかもしれない。しかしタイ人自身はこざっぱりしている。
 タイのトイレはにおわない。昔の日本のトイレは臭かった………ボットン便所だったから。公衆便所なんて耐えられないものだった記憶がある。しかしタイのトイレは、水浸しだけど(必ずプールやバケツがあって水がたまっていて、排泄後にオシリとともに水洗いして全てを流してしまう)けっして臭くはない。
 きっと、タイ人にとって「臭さ」は、文化と野蛮をわけるスティグマなのだ。臭いやつは「穢れ」ているのであり「人間じゃねえ!」のである。

 余談ではあるが、タイ人にとって観光客は複雑な気持ちにさせる存在である。特に白人観光客はそうだ。白人にしてもいろんな国から来てるわけで、一概にはいえないのだが、「臭い」奴が多いのである。「ファラン(白人)は臭い」とタイ人はよく言っている。明らかにタイ人にとって白人は格上なのだが、彼らの体臭は困りものだと感じているように見える。
 今でこそ公衆電話から気楽に国際電話がかけられるようになったタイであるが、僕が初めて行った頃は、郵便局の本局に行って書類に電話番号を書き込み、局内に設置されている電話ボックスにはいって国際電話をかけていた。
 ある日、日本に電話しようと郵便局に行くと、先客があってそいつが終わるまで待ってろ、と言う。金髪で巻き毛のイケメン白人が電話ボックスに入っていた。ほどなく通話が終わって僕が電話ボックスに入ると、ムワッと白人の体臭がこもっていた。何だ?あいつはシャワーを浴びてないのか?
 津波で有名になったスマトラ島をツーリストバスにのって縦断したことがあるのだが、日本人観光客なんか全然いなくて、乗客は僕以外全部白人だった。バスは途中の温泉地で休憩した。インドネシア人のバスガイドが「温泉に無料で入れるからどうぞ!」というアナウンスをしていたので、僕はタオルを持って温泉にダッシュしたのだが、驚いたことに白人は」誰一人として温泉につかるものはいなかった。温泉は個室になってるので裸を見せる必要もないし、何かにつけ積極的にエンジョイしようとする欧米人のメンタリティからは想像もつかない事態だった。………どうも彼らは風呂があまり好きじゃないらしい………。僕一人サッパリとしてホクホクしながら再びバスに乗った。
 近代的な衛生観念は欧米からやって来たものだ。それだけに白人は衛生的で清潔だ、と僕らは考える。が、衛生観念と日常的な「穢れ」の意識の間には明らかにズレがある。体臭がきついことは不衛生とは言い切れないが、「穢れ」た人間だと感じてしまうことはある。きっとタイ人にとって白人は格上(衛生的)ではありながら、ちょっと野蛮な人たちってことになるのじゃないだろうか。

 おかしなことにタイ人の影響を受けて水浴びが習慣化した僕は、体が火照っていたり、汗でべとついていたり、においがするような状況に我慢がならなくなってきた。もはや「朝シャン」は自らの習慣となり、三日も風呂に入らないなんてことは、許すべからざることになってしまった。僕はタイ化したのである。
 ところで、僕は家の近くの河原を毎日ジョギングしている。橋があってその下に暮らすホームレスがいて、ビニールシートでテントのような住居を作っている。ジョギングの度にその前を通るのだが、ラジオの音がしたり、薪割りをしてたり、来客もあったりで、けっこう普通に暮らしているように見える。僕は素通りするだけなのだが、心の奥底にそういう秘密基地みたいな住居に住んでみたいノスタルジックな欲求があり、何十年ものローンを組んで買わなければならない商品化された清潔で快適な住居への違和感もあったりで、ちょっと他人に思えないというか、僕自身が橋の下の粗末な小屋に住むという可能性に思いを巡らすこともある。考えてみれば女房の兄弟なんてバンコクでこれと大して変わりないバラックに住んでるし、僕もそこに寝泊まりをしているじゃないか。
 最近、浮浪者、ホームレスなどの都市下層民を政策的に排除しようとするネオリベラリズム的な動きがあって、当然僕もそのような排除はあってはならない、と思っている。……それにはまず、僕自身が彼らに対面したときに、同じ人間として向き合えることが前提条件だ。
 しかし、である。彼らは臭くないであろうか、という恐怖にもにた感情が自分の中にチラリと顔をのぞかせる。浮浪者狩りをする少年たちはみな、「臭い」存在が許せない、と語ると言う。同じような感受性が自分の中にも、とくにシャワーを毎日欠かせなくなって以来、強まっているような気がする。若い頃と比べるとそう感じるのだ。

 ホスピタリティなんてことを僕はよく書くのだ。しかしこの課題が生半可なものでないことは、想像に難くない。このような自らの感受性に逆らうことを、ホスピタリティは自分自身に要求する。においの問題なんては実に些細な一例である。ホスピタリティも徹底的に追及するならそれこそ「死にまで至る」危険なものになる。多様性を追求する困難はこんなところに、身体化した現象として現れるのだ。そして自分が耐えられるかぎり、習慣化し、制度化/惰性化した感受性にあえて逆らってみることが、とりあえずは多様性を肯定する道だと思っている。

 参考:臭いから始まる下からのファシズム (NWatch ver.4さん)

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SUNAMI

『ซับน้ำตาอันดามัน 』  แอ๊ด คาราบาว

『アンダマンの涙を拭いて』 by エート・カラバオ




ไม่เคยคิด ไม่เคยฝัน ไม่ทันตั้งตัว
考えたこともなかった 夢にも見なかった どうすることもできなかった 
ท้องฟ้ามืดมัว แผ่นดินเลื่อนลั่นสั่นไหว
大空はかき曇り 大地は揺れ動いた 
ไม่เคยพบ ไม่เคยเห็น ไม่เคยสนใจ  
経験したこともなく 目撃したこともなく 気に留めたこともなかった
ซูนามิ คืออะไร รู้จักแต่ซาซิมิ
ツナミって何だ? 知ってるのはサシミだけだ

มันมาดั่งมัจจุราช ทุ่มโถมโทรมใส่ชายหาด
奴は死神のごとくやって来て 浜辺を滅茶苦茶に打ち壊していった
มันกวาดทุกสิ่งพินาศ ซูนามิ
奴は全てを荒廃へと帰したのだ ……ツナミよ

ไม่เคยนึก ไม่เคยนับ สรรพศพมากมาย
思いもよらなかった こんなにたくさんの亡骸を数えたことなどなかった
แผ่นดินร่ำไห้ แผ่นน้ำใยเลือดเย็น
大地は泣き続ける 美しい海は冷酷だと
ไม่ว่าใคร ไม่ว่าชาติไหน ไม่มีข้อยกเว้น
誰も思い至らなかった どこの国であろうと例外なんてないんだってことに
ธรรมชาติถือกฎเกณฑ์ มนุษย์เทียบเท่าเม็ดทราย
自然の掟にとっては 人間なんて砂粒同然なのだ
มันมาดั่งมัจจุราช มันโถมทุ่มใส่ชายหาด
奴は死神のごとくやって来て 浜辺を滅茶苦茶に打ち壊していった
มันกวาดทุกสิ่งพินาศ ซูนามิ
奴は全てを荒廃へと帰したのだ ……ツナミよ

อันดามัน สวรรค์บนโลกวิไลซ์ ต้องวิปโยคครั้งยิ่งใหญ่
アンダマン…… 地上の美しい楽園は激しく嘆き悲しむ
นี่คือชะตากรรม
これが運命なのかと
อันดามัน สวรรค์ไม่ทันเตรียมกาย
アンダマン…… 楽園はこのままでは元の姿に戻れない
ไหลไปเถอะธารน้ำใจ ซับน้ำตาอันดามัน
もう振り返るのはよそう アンダマンの涙を拭いて
โอ๊ย……..โอย ซูนามิ
おお ツナミよ


 もう、インド洋大津波も半年も前の出来事になってしまいましたが、タイのカラバオさんが歌う『SUNAMI』の歌を紹介しましょう。(タイ語には日本語の「ツ」にあたる音価がありません。したがってタイ人の発音する「ツナミ」は「スナミ」としかわれわれには聞こえません。)日本でもラジオで流されていましたが、Web上に歌を聴けるサイトがあったので、ついでに歌詞も訳してみました。多少アヤシイ訳ではありますが……。間違いがわかる人がいたら教えてください!

 それにしてもこんなことに3時間以上もかけてしまった! 仕事が進まない………ムキーッ!!

トラックバック  原曲収録アルバムの収益は津波被災者に寄付されます。 白石昇日々の記録といいつ..

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อาบน้ำหรือยัง

สวัดคีดรับ
タイ語入力テスト………文字化けしてない?

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コミュニケーション・スキル2

 「そもそも対人関係・コミュニケーションを「能力」としてとらえるなと言いたいのです。「能力」「○○力」ととらえた瞬間に単純な物差しでの競争が始まるからです。」

 「筆者は現代の職業に直結することだけを「現代社会を乗り切ってゆく」基準にするのは問題だと考える(教育でも就労支援でも、政府の若年支援はこうした長年の考えから脱却すべきではないか)。また、現代のビジネスや恋愛で言われている「対人能力」とやらの実態は、他者と対話しながら相互変化するのではなく、他者を自己の領域に巻き込みやりこめる傲慢さであることが多い。また周囲の「空気」「ノリ」を過剰に読んで合わせようとする神経戦である事も多い。それらが「能力」という数値やハウツーになっているに過ぎず、「コミュニケーション」とは言えないだろう。そのため筆者は「対人能力」と「コミュニケーション」を分けて考えたい。」
目に映る21世紀さん)

 なるほど、と思った。以前、僕は「コミュニケーション能力(スキル)」っていう言い方が面白くないと書いたことがあった。この言い方では「コミュニケーション」は処世術………つまりサバイバルの技術ってことになる。でも、僕にとって「コミュニケーション」って言葉から思い出されるのは、バタイユの言うところの「コミュニカシオン(交流)」であり、それは無目的なエネルギーの消尽にあたるのであって、サバイバル=生き延びる(個体の生存)を目的にするようなものとは思えなかったのだ。
 どうやら「コミュニケーション能力」という言い方のもつ「イヤ〜な感じ」は、個人を競争状態におくことでシステムに従属させようとする新自由主義的な文脈から発せられた言葉であるというところに原因がある、というのは間違いなさそうだ。「対人能力」を総動員してサバイバル競争に参加すべきだ!………社会学者が「コミュニケーション能力」と言うとき、みんな「やる気」を持って働かないと競争に敗れ去って落ちぶれてしまうんだぜ、と暗に脅しているのである。………放っておいてはくれないのである。「やる気」のない奴が増えれば資本主義社会は順調に回転しなくなってしまう。だから「格差」を云々して不安を煽るのだ。
 「コミュニケーション」を処世術的な「対人能力」なんてものに矮小化する傾向には抵抗しなければならない。「コミュニケーション」はサバイバルへと収斂することのない、非生産的な活動であるはずだ。むしろ一見無意味でバカバカしくネガティブに評価されがちな事態の中にこそ僕は「コミュニケーション」を見いだす。
 不登校とか「ひきこもり」が素晴らしいなんて言う気はサラサラないのだが、彼らのやってることは間違いなく、ちょっと凄みのある「コミュニケーション」以外のなんであろうか。それは「コミュニケーション」の「失調」ではなく、「コミュニケーション能力」の「欠如」でもない。つまりこれらの欠如態によるもの言いの背後にあるのは、ある種のイデオロギー(価値判断)を強引に押し付けてくる権力作用なのである。………こういうまやかしの言葉たちには災いあれ!

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雨音はシチュアシオニストの調べ

 うっとーしい雨が降る中、皆様いかがお過ごしでしょうか? こういうときは黙ってシチュアシオニスト本を読もう! 
 「スペクタクルの社会」なんて言葉は最近あちこちで聞けるようになったが、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』を読む人は少ないと思う。最近翻訳された、分厚い本で6冊分もあるシチュアシオニストの機関誌だ。内容は、はっきりいって50年近くも前の活動の記録・論文であるにもかかわらず、今現在にも通用する、いきいきとした思想の宝箱のようなものだ。下手な哲学書や社会学の本なんかよりずーっと面白い。
 せっかく読書会をやってるのだからこれを読まずに何を読む! って感じで勝手に読み始めてしまった。こんな機会でもないとじっくりとこれらの記事にふれるチャンスはないのではないかと思ったので………。マイペースでやってゆこうかと思っとります。(左の『オンライン読書会』のバナーを押せば、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』のページにジャンプします。)

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グチってます?

 セクハラ、アカハラの多発の原因はたぶん社会の価値観の変動にある。例えば大学の先生の権威は昔に比べて遥かに低下していると思われる。かつては大学教授にたてつくなんてそうそうできることじゃなかったような気がする。が、今では教育というサービスを提供する労働者という地位にまで権威は低下しつつある。
 そのためかつては表面化しなかった先生の横暴がカジュアルに告発の対象になるようになった、ってことではないだろうか。先生の権威が低下したとはいえ、学校の中では、教師と学生は、上下の権力関係にあり続けている。したがって先生は現実に持っている権力と引き換えに、アカハラ教師として吊るし上げられる可能性も構造的に持たざるを得ない。

 内田先生自身はそのような告発を受けていないようだし、あったとしても言いがかりじみた告発も少なくないような気がする。それは内田先生が横暴な人間ではないことを示しているわけだろうし、ご苦労なことだとも思う。でもこれじゃあ、そのような不愉快な現実に対する不満の神話的説明であり、結局はグチじゃないですか? とこのエントリーを読んで思った。

 つまり、今日のセクハラ、アカハラの多発の原因を「コミュニケーション能力の失調」なんていう説明に求めだすのはどうだろう、ってことだ。 結局、またまた「バカ」が多くなったせいだ、っていう内田先生お得意の論法になってしまう。またコミュニケーションのできない「バカ」を悪者に仕立てることで、自分をイノセントにしてしまうのだ。先生自身はコミュニケーション能力に何も問題がなく全てをお見通しである、ってことにして………。
 言葉は無限の誤解の可能性に開かれている………その通りだ。先生だって、私だって誤解されるだけでなく、誤解することもある。というか正確に理解されることはありえない、つまり誤解は常態なのだ。だからコミュニケーションとは絶えざる問いかけであり、確認であり、抗議であり、和解であり、自分を疑うことでなければならない。絶対にしてはならないことは、誤解の原因を「コミュニケーション失調症候群」なんていう怪しげなもののせいにして説明してしまうことだ。これは神経症のような人間関係の病の原因を器質的な障害に求めることと似ている。これではコミュニケーションの放棄ではないか?

 笑ってしまうのは、どうやら内田先生は学生とコミュニケーションしているとき、「暖かい波動」や「優しい波動」を身体的なレベルで発信なさっていると、ご自分で意識されているらしいことだ。ベイトソンは読んでないけど、たしかダブルバインドのメタコミュニケーションに関してこんな話が出てきたのを覚えている。

 内田先生が実際にこのエントリーで書いてるようなトラブルや誤解を被っているのか私は知らない。でもこんなグチにも似た文章を雑誌に発表しようとしてるってことは、少なくとも誤解される兆候が多分にあると感じているに違いない。
 そうだとしたら、私は内田先生とは全く違った事態の解釈をしたくなる。誰もコミュニケーションに失調をきたしてなどいないと。

 まず、セクハラ、アカハラの多発の原因を内田先生の交流の相手である(例えば)学生たちの「失調」に求めてしまった時点で、すでに学生たちを軽蔑するとともに、自分を浄化(正当化)してしまっている。したがって学生たちとの交流において内田先生の身体的レベルでのコミュニケーションは、内田さんの意図をよそに「軽蔑的で冷ややかな波動」を発信してしまっていると考えたほうが自然ではないのだろうか。(だって意図的に発せられるものだとしたら、それは「言語」と同じレベルのコミュニケーションになっちゃうんじゃないの?)それを学生は敏感に察知して、何らかのアカハラ的抗議へと導かれているのであって、複数の解釈可能性の中から自分にとって最も不快な解釈を選択しているのではなく、適切に先生自身も気づいていない真実の解釈をやってのけているのではないだろうか。
 なんか、自分だけはコミュニケーションの失調などありえない………みたいな書きっぷりを見ていると、こんな解釈をしたくなってしまうのだ。もちろんこれは私の想像にすぎないし、間違いかもしれない。そしてこんなことを書くと、先生に「あなたみたいな人が量産されるだろう」なんて言われてしまうんだろうけど………。

内田先生こちらのコメント欄に登場! 私のところにも是非!………でも悪いけど先生が賢いとはお世辞にも言えないな。

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何でも自己決定の限界

 仲正昌樹氏の『不自由論』という本を読んだ。「何でも自己決定」の限界……というサブタイトルがついている。軽々しく自己決定って口にするけど、そんな単純な問題じゃないぜ、というテーマで書かれた本だ。
 今まで40年以上も生きてきたわけで、当然自分に関して何らかの決定を下して生きてきたはずなのだが、「自己決定」ということを自分自身で問題にしたことなどないし、それで困ったこともないように思う。だから仲正さんの書いてることにフムフムと頷きながらも何のためにこんなことを問題にしているのかがよくわからない、というのが第一印象。
 面白かったのは、仲正さんのちょっとひねくれたキャラクターと、はじめのほうに出てきたハンナ・アーレントの政治哲学についての議論だった。ギリシャのポリスでの政治活動に人間的な活動の起源を見て取るという風変わりな政治哲学にちょっと面白さを感じた。………アーレントを読んでみたい。
 で、最後にまたまた登場の「マルチチュード」である。「マルチチュード」が何であるのかを仲正さんは………『“何となく”変化を求めている人々の非常に緩い集まりである。その中には、特定のグループが丸ごと入っているかもしれないし、全く自分一人で勝手にやってきた人もいるだろうし、グループとグループの間を渡り歩いている人もいるかもしれない。いろんな人間が集まって、その都度の出会いに応じて、「自己」をめぐる新たな関係性を想像する。そうやって新たに生まれた関係性が、さらに複合的にネットワーク化されていくことによって、”自己”は何となく変容し続けるわけである。』……と書いている。で、仲正さんは「マルチチュード」という考え方が、従来の左翼的「主体」思想から卒業するためのいい契機になるのではないかと、可能性を感じてるようである。
 だけどたぶん僕はもう感覚的に「マルチチュード」が何であるかわかってると思う。仲正さんの言うこともわかるし、それだけに左翼的「主体」思想なんてものとは僕は無縁なのであって、仲正さんが長々と書いてきた「自己決定」の限界、という話題についても「いまさら……」って思ったっていうことだったのじゃないだろうか?

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確信を得る

 的場昭弘氏の『マルクスだったらこう考える』を一気に読み終えた。派手さや華麗さはなく、地味で平易な語り口ではあるが、思いのほかラジカルかつシンプルな思想が展開されている、といった印象だ。こういう本は好感が持てるし、ありがたい。
 国境を越えたグローバルな活動と、他者の排除という資本の二面の特性から、世界資本主義の現状をスッキリ説明してくれている。したがって資本への対抗の戦略も「多様な人間のあり方を追求する=他者の排除をしない」という実にシンプルなものだ。これは僕が内田樹氏の批判の中で再三にわたって繰り返して語ってきたことである。
 また資本主義の乗り越えのビジョンとしての「賃金はみんなのもの」という発想は、つまりワークシェアリングとかベーシック・インカムなどの構想へとつながっていくものだと思えた。ようするに僕にとってバラバラだった諸問題を的場氏の本がわかりやすく一本化してくれたように思う。
 僕の昔からの考えを支持してくれているようにも思えるし、マルクスや構造主義以降の現代思想を的場氏の示してくれた方向性に沿って読み込んでいける、という確信を得た。………ちょっぴり感動。
 的場氏は、「マルクスだって結構やるじゃん」ということを知ってもらいたい、なんて「あとがき」に書いている。もちろんここに述べられているのはマルクス自身の考えではないのだが、なかなかどうして僕はイカしたマルクス像を垣間見たような気がした。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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