泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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信者なき布教者

 またダメ出しをくらってしまった。しかも、きはむさん、被害妄想的な勘違いをしてるように見える。でも、布教者や僧侶よばわりは甘んじて受け入れよう(笑)。自分でもそんな風に見られてるんじゃないかと想像するから。
 僕が、「まず失う」ことを推奨し、自己犠牲を求め、阿片をまるで特効薬であるかのように装い、他人にも服用を勧める………なんて書かれちゃったけど、僕にそんなことってできるだろうか? 他者に実効的に何かを推奨したり、求めたり、勧めたりできるためには、僕に何らかの「強制力」=「権力」がなければならない。でなければ、僕の言うことなど相手にしないことだってできるだろう。どちらかと言えば、誰も僕の言うことなど本気で相手にしてないってのが、むしろ正当な評価じゃないだろうか? もし僕にできることがあるとすれば、他者に推奨したり、求めたりではなく、せいぜい「願う」ぐらいのことだろう。

 僕は「祭り」の実現=変革、という夢を抱いている。それへのアプローチは内田さんやきはむさんとは違うものだ(これについてはさんざん書いたし、話も噛み合ないからもういいだろう)。僕は、僕だったらこう考え、その考えに従ってこう生きる………という自分の生き方を提示する。それによって、みんなに僕の「祭り」を求める生き方をどう思うだろうかと問う。………僕がやってるのはこれだけだ。………僕の考えをわかってくれればうれしいし、共感してくれていっしょに「祭り」を追求してくれればなおうれしい。………「祭り」への意志とでもいったものが、大きく広がることが変革にもつながると思うからだ。

 しかし、前にも言った通り、僕は自分の考えを誰にも強制はできない。理解してほしいと願い、誘惑することしかできない。何かをしろとか、僕のように生きろ、と求めたり迫ったりできない。僕にできるのは理解されることを願いつつ、自分の生き方を人に示すことだけだ。自分だったらこう生きる、と。それが僕にとっての「交流」だ。………強制や操作ではなく。したがって僕は人に「自己犠牲」は求めない。心の中で願うことならあるかもしれないが。

 もし僕が、きはむさんのように社会や意識を「操作」する目的で、発言し行動するのだとすれば、話は別だ。「まず失う」ことを推奨し、まず自己犠牲が求められた上に、結果は保証されない。「祭り」が生む意識変革の行く末には資本主義の終焉が待っているがゆえに、資本主義を問題とする人々はすべからくこの「祭り」に参加することが望ましいとされる。……… と責められても仕方がないだろう。「操作」するとすれば、「操作」の結果に責任も持たなければならない。保証を求められもする。その「操作」に大勢の人が影響を被るからだ。そして「操作」する人は「強制力」=「権力」を持っているだろう。でないと実効的に操作はできないだろうから。しかし僕がやるべきなのは「操作」ではなく「交流」である。まず「交流」こそが第一の課題だと思うからだ。そのために必要なのは、(エリートの使命感から由来するような)結果への責任や保証ではなく、自分自身が「賭け」「闘争する」ことだ。人はそんな僕を見て、鼻で笑うなら笑えばいいし、共感するなら握手をする………それだけだ。今も、また将来的にも、人や社会を「操作」する権力は僕にはないだろう。そんなものには興味がないからだ。

 だから………明確な証左もなしに公言することは阿片を特効薬として勧めることに等しく、責められてしかるべきである………ってことにはならないだろう。僕には権力がないから強制もできず、それが仮に阿片だというのなら相手にしなければいいだけだからだ。
 もし、明確な証左のない自分の考えを示すことが、許されざるを得ない所業だと言うのなら、きっと責められてしかるべき、許されざるを得ないブロガーは腐るほどいるんじゃないだろうか。きっと世の中阿片だらけだろう。きはむさんのビジョンだって、明確な証左なんてあるとは思えないし。

 つまり、自分が語ってきたことは、自分の分析とビジョンに基づいて、自分はこう生きる、ということでしかない。他の人にもそう生きてもらえたらと願いつつそうするだけだ。

 それともうひとつ………僕は「まず失う」ことを推奨しないし、願いもしていない。「まず何かを失う」ことによって、将来的に何かを得る、なんてことは考えていない。あくまでも今この瞬間の「祭り」の実現について語っているのだ。つまり時間的なズレはない。
 たんてきに「祭り」は、支配的価値観からの解放であり、自己肯定のよろこびである。しかし同時的にそのよろこびは、ミクロな闘争によって、つまり、社会の承認をふりはらうかたちで支えられ、あがなわれているだろう、ということを言ってるわけだ。(前にも言った通り、前近代における共同体と「祭り」の関係と、近代におけるそれが変化した、ということを言いたくて僕は「犠牲」について語ったのだ。)
 目的という言い方をするなら、今この瞬間の「祭り」の実現が僕の「目的」だろう。しかしそれは未来時における変革のための「手段」にもなりうるものだ、というのが正しい。
 したがって僕の主張は、根拠薄弱であるか不明瞭である将来の「約束」を糧に、今の苦しみを耐え抜きましょう………というような、将来のための現在の犠牲を意味するものではない。きはむさんも自分で言ってるように、僕らは何かを得たぶん、何かを失っている。が、それは同時的にそうなのであって時間的ににズレてそうなのではない。むしろ僕は、きはむさんが、『こう批判している私も辛いのです。わかってくれ』ともらしていた言葉の中に、将来の「約束」を糧に、今の苦しみを耐え抜く、という時間的なズレを感じるのだ。

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誘惑

 内田さんの『サラリーマンの研究』を読んだとき、正直言うと僕はギクリとした。もちろん主張したいことはほとんど正反対であるにも関わらず、「自己を供物に捧げる」みたいなことを僕も書いたことがあったからだ。誰かにつっこまれるんじゃないだろうか………ちゃんと説明しておかなければと思ってはいたが、ようするに僕の古い記事などに目を通す人などいてくれるはずもなく、僕自身このことを忘れかけていた。きはむさんがようやくツッコミをいれてくれたので、いい機会だから説明しておこう。

 内田さんはあそこで、『サラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。』という不気味な搾取の正当化ともとれる発言を行っている。搾取されてこそ人間だというのだ。その議論を支えるために「供儀」の意味……『自己を供物として捧げることで共同体を維持する』ことが人間的なことである……について語られ、資本主義下における滅私奉公的な労働によって社会の承認を求めるサラリーマンの心性はこの「供儀」の現代的な表現だとされるのだ。

 はたして本当に資本による労働者の搾取が「供儀」の意味合いを持つのかってことはおいておくとしても、僕が供儀(自己犠牲)について語ったのは全く別の文脈においてである。一言でいえば、資本主義社会において「祭り」を求めることは、社会の承認を放棄する=逸脱者になることを意味する、ってことを言いたかったのだ。この承認の放棄を代償にしてしか「祭り」はあがなわれないのではないか、と思うのである。逆に言うと逸脱者(ミクロな闘争)は資本主義社会では(前近代社会における)祝祭的な意味を持つ存在になるのではないか、というのが『祭りの戦士とは何か?』で言いたかったことだ。

 このように内田さんと僕の考えは180度別なものであるわけだが、なんで、古代メキシコの話など持ち出してきたのかといえば、やはり何かを獲得するためには何かを犠牲にする必要があるんじゃないかっていうことが激烈な形で表現されているのがアステカの文化だと思うからだ。共同体と「祭り」の関係は前近代の社会と、資本主義近代では全く違うものになってしまった(かつては「祭り」は共同体に構造的に組み込まれた非日常性であったが、資本主義のもとでは「祭り」は存在を許されない………がゆえに社会への反抗こそが非日常を担う)が、例えば「栄光」のような精神的価値であっても、やはり何かと引き換えに手にしているのではないかと思うわけだ。
 もちろん内田さんのような承認のための犠牲=資本主義社会への隷属、みたいな言い方は僕も大嫌いだ。僕の言ってる「祭り」の追求が、ある種の共同性の追求と理解できるのであれば、きはむさんの言ってることもわからないでもない。ただ、何度も言ってるようにこの犠牲は強制するものではない。ぶっちゃけ「祭り」なんてなくても生きていけるだろうし………。でも心の奥底ではみんな「祭り」を望んでいるのではないだろうか、だからこそ「祭り」の居場所がない資本主義に問題を感じるのではないかと想像するわけだ。そのためには自分自身で一歩踏み出す必要がある………社会の承認なんてものを振り捨てて。じっと待っていたり、システムをいじくったりしてるだけでは資本主義が倒れる(または資本主義の中に「祭り」が出現する)とは僕にはどうしても思えないのだ。好き嫌いは別にしても、やはり何かを手にしようとするなら、何かを失わなければならないのではないだろうか。何もかも与えられているなんてことがあるとは思えない。他の誰かに期待できないなら自分で自分を犠牲(実験台)にするしかない。それを普通「チャレンジ」とか「賭け」と呼ぶのだ。それがイヤならおとなしくしてればいいだけのことだ。
 そんな実感から僕はあの文章を書いた。それにただでさえ、祝祭とか逸脱なんて言い方はお気楽な戯れだと誤解されがちだしね。

 大仰な書き方であるのは僕も理解している。何故そのような書き方をするのかと言えば、まさに「誘惑」するためだ。共感してくれるにせよ、反発を感じるにせよ、食いついてくれる書き方をしたかった。それは成功するにせよ失敗に終わるにせよ、(きはむさんとも交わしたように)交流を求めてのことなのだ。
 自分のこうした主張が正しいものなのかわからない。が、少なくとも整合性はあると僕は思っているが………どうだろう?

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恋と革命

 どうやら僕のような考えもそれはそれでいいだろうってことで、お許しが出たようだ(笑)。……… そうそう、しんどいんなら変革なんてやんなきゃいいだけの話だ。食うに困ってるわけでもなく、誰に頼まれたわけでもなし………。そこを敢えて何かやろうとすれば、余計なものを背負い込むことになるってのは当たり前の話じゃないの? ま、きはむさんももう言うことがないってことだし、僕も同じことしか答えられないので、そろそろこの件に関しては店仕舞かなと思うが、とりあえず考えたことだけはエントリーしておく。

 osakaecoさん言っていた「設計図を持たない生き方」っていう言い方が面白いのでちょっと考えてみたい(きはむさんのとこに書き込まれていたコメントは消されてしまったようだが)。
 具体的なビジョンの欠如をきはむさんに指摘されて、僕はそれは出す必要がないのではなくて、安直には出せないのだという言い方をした。そのこと自体間違ってるつもりはないが、実際に僕自身のことを考えると、何もビジョンなんてないし、考えようともしていないのは事実で、ぶっちゃけ、きはむさんの言う通りなのだ。………が、それはやはり政治の欠如ではないということを「設計図を持たない」という言い方でosakaecoさんは表現してくれたのだと思う。

 意識の変革と社会の変革は手を取り合いながら進まなければならない、という問題があり、そういう目で例えば内田さんとか、『希望格差社会』を書いた人の社会の分析や提言を見てみると、資本主義社会の価値観をずいぶんと無条件に肯定して(資本主義に没入して)発言しているように見えた。これでは改革どころか改悪にしかならないだろうと思って、ちょっとケチをつけた。
 どうもこういうミクロな意識の問題をすっとばした改革の提言は少なくないと思うのだが、そのような改革が為そうとしているのは………社会を対象的に「操作」することだろう。確かに近代の政治とは社会の操作であった。それが社会主義であろうと、ファシズムであろうと、民主主義であろうと、結局は一部の知識人エリートによる上からの社会の操作こそが政治であったように思う。
 そのような「操作」のみでは社会の変革はなし得ないという認識から「分子革命」みたいなミクロの変革という全く別の形の「政治」が提案されているわけだ。

 だがこのような別種の「政治」に意識的に取り組む人はあまりいないのが現実で、だからこそ議会政治や具体的な政策を作ったり遂行したりするシステムや、そこで提案される「設計図」は結局は社会の「操作」以上のものにはならず、おそらく居心地の悪い今の社会を根本的に変革するには、どんな立派な政策を出したところで片手落ちだろうと思うのだ。
 このような政治における「操作」の突出を見るにつけ、僕はむしろ「操作」的な意味での政治から距離をとり、あえて意識の変革に通じるミクロの政治に自分の関心を絞り込んだ………という面は確かにある。
 資本主義的な価値観………学校や職場や家庭の日常を貫いている業績主義や消費のイデオロギーは非常に堅固で、メディアや教育機関などもむしろそれらのイデオロギーをより強化する方向に作動していることを考えると、このイデオロギーに縛られた意識の上にいかなる操作的改革が行われても虚しいだろう………緊急な課題はむしろミクロな闘争なのではないかと思うのだ。
 なるほど、それは「操作」の政治の視点からは「具体的なビジョンの欠如=思考停止/現状肯定=設計図をもたない」ってことになるだろうが、そうではないということをこれまで語ってきたわけだ。

 ただ、きはむさんの誤解に対抗する形で、戦略とか目的とかいうことを強調してミクロの政治=意識の変革ってことを語ってきたわけだけど………意識の変革にしたってやはり他人の意識の「操作」であってはならないはずで………つまり意識の変革は、人を変えることを「目的」とした行動であってはならないはずだと思うわけだ。
 ミクロの政治とは、「自己の固有/特異性を可能性の果てまで追求すること」であるとしたが、同時にそれは「操作のための設計図」を持たずに社会に介入することであり、無目的的な社会との交流である、とも定義できる。したがって介入にあたっては、操作するもの/操作されるものといった分割に基づく対象的な人間関係をつくってはならない………つまり、(「操作」にはつきものの)「達成を目指す」ものであってはならないのだ。
 じゃあ、社会の変革なんて言ってるけど、本当のところお前はやる気があるのか? と言われてしまいそうだが………スタンスとしてはミクロ闘争=「自己の固有/特異性を可能性の果てまで追求すること」=無目的的な交流そのものが問題であり、その結果としてそれが社会の変革(夢の実現)につながるとすれば、それは大歓迎である、というかたちであるべきだと思う。
 ややこしくなってしまったがようするに、僕らは具体的な目標を持った活動を考えているが、それは「操作」という形では達成され得ないものであって、「設計図を持たない」という手段をとるべきだ、ということでありまた、具体的な目標の達成よりもむしろ「ミクロな闘争=交流」そのものをこそ目的にすべきだと言うことになる。

 前にも書いたことだが、肝心なのは結果(夢の実現)そのものよりも、自分が特異/固有性の追求という課題に「賭ける」、「挑戦する」ことそのものに意味があるということだ。
 例えば、ある美少女に恋をしたとして、当然ライバルが多いし、その子とつきあえる可能性はけっして高くないような状況で、やっぱり男としてはアタックしなければならない………で、相手にされるかわからないがあれこれ話しかけてみたり、口説いたり(つまり誘惑)してみたりするんだけど……結果、玉砕して他の男に持ってかれてしまった場合、一体その男の価値は、(その女と結ばれた、あるいは、結ばれなかったという)結果で判断されるのか、それともある女と心を通わせたいという欲望を抱いて、その欲望に殉じたことで判断されるのか、ってことだ。
 もちろん僕は後者で判断するべきだと思う。結果は失敗でも、苦い思いをなめながらも「賭け」に出たってことのほうで評価されるべきだと思う。たしかにつきあうことができて、セックスできればバンバンザイなんだろうけど、つきあってみたら案外退屈だった、なんてこともあったりで、恋の実体は結果よりチャレンジにあるんじゃないかって思うわけだ。
  恋と社会の変革をいっしょにするのは不謹慎に思えるかもしれないが、僕はむしろ同じように考えるべきで、実際の変革という結果より、チャレンジする意志が問題だと思っている。これはようするに「賭け」に特有の態度で、失敗しようとして賭けに出るやつなんていないわけで、それは極めて真剣で戦略的な試みなのだが、実は結果よりも「賭け」そのものの緊張感………すなわち自己の固有/特異性を追求する「試み」そのものの持つ緊張感………のほうが大事なのじゃないかと思うのだ。それに仮に社会を決定的なかたちで変革できたとして、それで歴史が終わってしまうわけじゃないだろうし、終局の状態などあり得ないわけだから結果そのものは問題だとは思えない。

 こう考えると目標を持った活動が、設計図なしで行われたり、達成を目的としないということはけっして両立しないわけじゃないと思う。 rorygallagherさんが言っていることについていうと、「目的があるからこそそれを達成できず脱落する人もいる」のではなくて、「結果にこだわるから脱落なんてものが生まれる」ってことじゃないだろうか。目的はあっていいし、その目的に「賭ける」わけだけど、目的が達成されなくてもそのことで人を評価しない、ということであれば脱落なんてことにはならないと思う。逆に「人間努力すれば……」と言う言い方で表現しているのが自分の人生の(結果にこだわる)「操作」であるとするなら、目標が達成できないことは即、失敗だということになってしまう。そこで発想を転換しなければ、「断念」なんていう業績主義のイデオロギーに絡めとられるだけだろう。
 つまりミクロ闘争っていうのは、そのように「操作」から「賭け」の精神へと発想を転換し、人々の意識が改革されることを願いながら(操作するのではなく)自分を「賭ける」ことなのだ。
 
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思考停止ではなくて

 「ミクロな権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きる」という終生の運動こそが「祭り」である、というaraikenさんの応答は、その裏面を解釈すれば、そういう終生の運動なのだから「祭りの後」の具体的な改革ビジョンなどを考えたり用意したりする必要は無いのだ、という思考停止の免罪符としても受け取れる。
これは人によっては、仲正に毒された、少し意地悪に過ぎる見方だと思われるかもしれない。


 ………ときはむさんは言ってるんだけど、具体的な改革のビジョンが不要だと思ってるんではなくて、当然考えるべきだけど、それはミクロな闘争と一つのものでなければ意味がない、と僕は言いたいのだ。というのも………

 「労働者」の意識が資本主義の「(自己)・再生産」構造に完全に囚われ、自らそのプロセスに参与している(=物象化)のだとすれば、一足飛びに「資本」の運動を越えた「プロレタリアート」になれるはずはない。”革命”を行ったつもりでも、資本主義的な生産体制を再編するだけに終わってしまう(=「計画」経済=スターリン主義)。労働者階級が、資本によって規定=定義されている限り、資本主義の「平面=計画 plan」から抜け出すことはできないのである。


 これは仲正さんが『左旋回』で書いてることだけど(185ページ)、人間の意識というものの重要性をすっ飛ばしては改革したところで、現状肯定どころか社会の改悪になりかねないので、安直には具体的なビジョンなど打ち出せないだろう、ってことです。だいたい仲正さんは、きはむさんのようにせっかちに具体的なビジョンを出すべきだとは言ってないんじゃないだろうか。ご本人はずいぶん短気な人のようだが、具体的なアクションには意外なほど消極的に見える。
 たとえば『なぜ「話」は通じないのか』という本の中で、仲正さんは竹田青嗣という人のポストモダン批判を俎上に載せている。

 
ポストモダニズムの中心思想をひとことで表現すれぱ、反規範主義、反形而上学と言うのが適切かもしれません。つまり「絶対的なもの」「規定的なもの」「権力的なもの」に対する徹底的な「否定性」ということです。この考えはたしかに資本主義とマルクス主義の両方に対して強い批判力を発揮することになります。(……)しかし、そのような重要た役割を果たしたものの、ポストモダニズムは、社会思想としては、はっきりした限界をもっていました。いまから考えると、この思想は、きわめて思弁的な性格を含んでいたことが分かります。それは高度資本主義社会の人間の微妙な閉塞感を表現するいわば"文学的"な思想であり(フランス思想だったのも頷けます)、現代社会とその制度的現実に対して「精神の内的自由」を対置する、徹底灼な「否定性」の、へーゲルの言葉では徹底的な「イロニー」(=アイロニズム)の態度の現代的な表現でした。規範と制度で凝り固まった愚かしい現実社会とその諸制度が人間を圧迫しているが、自分たちはあくまで否定性を貫いて内的な精神の自由(エスプリ)は確保したい、ここにポストモダニズム思想のややロマンティックな本性があると言えます。だからそれは、現実社会を改変してゆく新しい明確な展望を打ち出すという点では、明らかな弱点をもっていました。たとえぱ、一切を懐疑に付すポストモダニズムの否定精神は、その本性上、現実的な社会思想としてほとんど無効である、といった批判がハーバーマスなどから出され、一定の留保つきですが分析哲学のローティもこの意見に同意しています。脱構築の思想は、あらゆる制度や価値を相対化はするがその先の展望を示すことができないわけです。(竹田青嗣『現象学は〈思考の原理〉である』98〜101ページ)


 これに対して仲正さんは………

 ………更に言うと、「ポストモダニズムは、現実社会を改変してゆく新しい明確た展望を打ち出すことができない」というのも、全共闘世代の知識人のポストモダン批判の決まり文句であるが、これもあまり意味のある話ではたい。「展望を打ち出す」”だけ”でいいのなら、簡単である。(……)運動とか制度を作るための「展望」なら、単に「打ち出す」だけではなくて、ある程度現実化しなければしょうがないのだが、竹田青嗣自身が本を書いて社会構造に変化をもたらしたという話は聞いたことがない。ポストモダニストに現実変革力がないと言っていながら、自分でも変革できそうにないのだから、余計にたちが悪い、と私は思う。それとも、ドン・キホーテ的に叫んでいるだけでも十分に立派だと思っているのだろうか。全共闘世代の人たちは、「近代を越えるオールタナティヴを出せ!」と叫びたがるが、自分の言っていることの意味が分かってたいような気がする。「哲学」というものが、「思考の原理」であるとするならぱ、「最終的た答えのない状態を耐えて生きていくしかない」というポストモダン的な態度を選択することも、一つの哲学的な「展望」ではないだろうか。


 『左旋回』を読んでみると、仲正さんは意識の変革の重要性をよくわかっているし、マクロ的な意味での政治とは趣の異なる「脱構築」のような地味な作業の持っている高度な政治性をしっかりと理解していると思う。それだけにガタリのミクロ闘争(分子革命)についても肯定的に扱っていたのだろう(浅田彰のような亜流は厳しく批判しているが……)。
 それに、きはむさんに紹介してもらって読んだ『不自由論』だって、気短な自己決定を戒めるような内容だったし、最後のマルチチュードについて語ってるあたりでは、対抗的な運動をせっかちに押し進めようとする左翼の態度を批判している。実際仲正さん自身に具体的な展望があるかと言われれば、たぶんないだろうし、出す気もないのではないだろうか。でもそれは政治の欠如でも、思考停止でも、現状肯定でもなくて、そういうビジョンを出すことの困難さってことを言いたいのだと思う。
 もし、具体的なビジョンのようなものが浮かび上がってくるとしたら、マルチチュードについて仲正さんが言ってる「その場に何となく集まって相互にコミュニケーションしている内に、そこから新たな(権)力のあり方が想像されてくる……」とか「マルチチュードの内から、社会的イマジネーションによって構成的権力が具体的に動き出すまで待つ……」ような形でしかあり得ないんじゃないだろうか。ただ、それはボンヤリと待ってるんじゃなくて、徹底したミクロな闘争によって裏打ちされていなければならないってことだが……。少なくとも僕はそのようにイメージしている。
 きはむさんのせっかちな態度を見てると、やはり人や社会を動かすのは結局のところ制度的な権力だけだ、と考えてるようにしか思えない。ミクロ闘争の意義は認めるようなこと言ってるけど、あまりピンとこないってのが正直なところなんじゃないだろうか。だからこそ具体的なビジョンのなさが政治の欠如や現状肯定にしか見えないし、それに苛立つのじゃないだろうか。意識の変革の重要性がわかっているなら逆に具体的なビジョンなんてこと迂闊に口に出せなくなるんじゃないかと思う。だから、きはむさんが「今更ミクロ闘争だけではダメだ」なんて言ってるの聞くと、ミクロ闘争の何たるかも掴んでいないのに、なにが今更なんだろうって言いたくなっってしまうのだ。
 でも確かに僕自身のことを言うと、具体的なビジョンなんて何もないし、きはむさんの言う通り、出す必要なんかない……いや敢えて考えていない、ってのも事実だ。確かosakaecoさんがコメントしていたことだけど、「設計図を敢えて持たない」みたいなやり方があって、それがミクロ闘争の目的性と両立する………という方向に話を続けようとしたんだけど………長くなりそうだし、ちょっと仕事が忙しいので続きはまた来週にでも。スンマソン。

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スキゾ・キッズ

 きはむさんが言ってた仲正さんの『ポストモダンの左旋回』の第6章に目を通してみた。なるほどつまり、きはむさんはここでいうスキゾ・キッズのような存在を「逸脱」と見なしている、ってことだろうか。だとすればきはむさんが、再帰派はこのような逸脱に警鐘を鳴らしている……と、うるさく言っていた理由にも納得がいく。
 20年前にこの浅田彰の流行があったときには、僕はなんとなく胡散臭さを感じていたため、浅田の本はほとんど読んだことがなかった。このポスト構造主義思想の流行にまとわりついている「軽さ」が嫌いだった。(今思えば、それはポスト構造主義そのものに問題があるというより、日本への紹介のされ方が良くなかったってことになるんだろう。外国の文化を輸入するときにつきものの問題……つまり、上っ面のファッショナブルな面だけを紹介し、背後にある血なまぐさい矛盾や闘争の面を切り捨ててしまう……ってとこに原因があるようだ。)そのせいもあって、20年にわたって僕はドゥルーズとかデリダとかいった人たちの本を敬遠し続けたのだ。だが、今こうして改めて浅田の言葉を追ってみると、確かに僕が使ってきた言葉と意外なほど似ていて、「逸脱」という言葉でこのスキゾ・キッズと、僕自身の考え方もひとくくりにされてしまうのはわからないでもない。ただ、それは全く別物だ、と言わなければならない。そして当然、スキゾ・キッズの「逸脱」は批判されてしかるべきである………つまり(逸脱はいけないということではなく)そんなものは逸脱にはあたいしないと。

 「エディプス神話」を解体することで、資本主義の安定の蝶番を無効にし、従来の左翼的な闘争(労働運動)から逃走へと抵抗の形を変え、権力を奪取するのではなく、資本主義自体を多様化する、という戦略は、とてもよくわかる。というか僕の思考にそっくりだ。が、実はこの思考が力を持つためには、それが日常生活における徹底的なミクロ闘争(ミクロ的な社会への介入)によって裏打ちされている必要があるのだ。でないと、その「逃走」とか「戯れ」みたいな戦術は、単なる「逃げ」であり「おたわむれ」に過ぎなくなってしまう。実際、スキゾ・キッズっていうのはそういう人たちだったのだろう(よく知らないから……たぶん)。
 取り違えが起こらないように、もう一度説明しておくが、祝祭とか逸脱みたいなことを僕は語っているのだが、それは自分が実際にお祭り騒ぎをやらかしたり、逸脱的に無節操で軽薄な生き方をすることを意味するのではなく(そういうやり方もあっていいのだが)、社会全体から見てみるならば、祝祭的、逸脱的な意味合いを持つだろう生き方について語っているのだ。つまり資本主義が生産を中心的な価値としている以上、それに逆らう反抗的な生き方は、非生産的で、逸脱的なものと受け止められるだろうということだ。
 したがって、逸脱の戦略はスキゾ・キッズのような「軽い」ものじゃなくて、別な意味での覚悟を要求するものだと言える。日常生活の中を貫徹する資本主義的権力とのミクロ闘争………なんて言うと大げさなんだけど、ようするに反資本主義的な価値観を持って生きることは、世間(学校とか職場など)、家族、友達などが普通持っている価値観と対立することになったりして、その結果、後ろ指をさされたり、嫌われたり、嘲笑われたり、変人扱いされたり、無視されたりする…………という可能性を持つもので、それは社会の側から「異物」や「逸脱者」(マイノリティ)、究極的には犯罪者という烙印を押されることにつながりかねない立場なのだけれど、そういう覚悟を持ち、そういう運命を引き受け(自らを実験台にして)生きるということなのだ。悲壮である必要はないかもしれないけど、けっして逸脱を気取った軽いノリで生きることにはならないと思うのだ。

 だからスキゾ・キッズみたいな偽の逸脱と僕の考えてる逸脱を混同してほしくはない。偽の逸脱(偽の多様性)は批判されなければならない………が、内田さんみたく「逸脱を防ぐ」というやり方ではなく、「どうせやるならちゃんと逸脱しろ!」と言わなければならない。というのも「逸脱を防ぐ」というやり方は体制側の人が多様性を抑圧するための口実になってしまうからだ。
 むしろこの仲正さんの文章を読んだかぎりでは、僕の考えてることはほとんどガタリの「分子革命」と同じだと思う。長くなるが、面白いので仲正さん(およびガタリ)の文を引用しておく。
 
ここでガタリは、偽りのノマディズム(遊牧民主義)と、"実在的ノマディズム(真のノマディズム)"という二項対立的な分類をかなり"意図的"に行っている。偽りのノマディズムというのとリは、資本主義の統合の論理から「逃げる」と称しながら、実際には、資本主義的な生産・消費システムに依拠し、流されているだけのライフ・スタイルである。端的に言えば、浅田を追いかけている「スキゾ・キッズ」のような生き方である。これに対して、インディアンやアボリジニをモデルにした「実在的ノマディズム」は、都市の論理に縛られることに実体的に抵抗し、「欲望の機械」のコントロールを打ち砕いて、ノマド的な生き方を再獲得しようとする。「われわれ」の欲望を吸収しながらグローバルに属領を拡張していく資本主義的な「客観的都市」に対して、実在的な遊牧民たちの目指す「主観的都市」は、われわれの「欲望」を「漏出」させながら、「脱属領化」するコミュニケーションのネットワークを生み出していく。無論、それは、「われわれ」の欲望に決まった行路をつけてしまって、より大きな枠(メディア化された資本主義)の内に取り込んでしまう「スキゾ・キッズ」的なコミュニケーションではない。ガタリはさらに、そうした「実在的なノマディズム」の精神に基づく、政治的な変革のプログラムをも提起しようとしている。いわゆる「分子革命」である。

『これらの未来展望はすべて正真正銘の社会的な実験によって導かれないかぎり意味をもたないものであろう。現在のマスメディアにおいて生じているような、還元主義や画一主義で〈主観的都市〉を貧弱にする方向ではなくて、個人的・集合的な主観性が豊富化するような方向にむかうということである。そのためにも、新しい都市づくりや旧市街の刷新、あるいは〈荒廃した産業地域〉の再転換などをはかるときに、そうした大きな社会的実験にかかわる契約をかわしながら計画をすすめることを私は提唱したい。家庭生活や近所づきあい、教育、文化、スポーツ、子どもの世話、老齢者や病人の介護といったもの、ありうべき新たな様式を具体的に検討するためにである。/実際、生活を変え、新たな活動スタイルや新たな社会的価値をつくりだす手段は、もうわれわれの手に届くところにある。欠けているのはそうした変化を引き受けようという政治的な欲望と意志だけである。(……)われわれは、人々のものの見方や考え力の変化に通じるであろうこうした<分子革命>を企てる前に、グローバルな政治革命を期待すべきなのであろうか? われわれはここで二重にからまった円環をそれは、前にしている。一方では、社会、政治、経済は人々のものの見方や考え方の変化がなければ進展することができず、他方では、人々のものの見方や考え方は社会全体に変化が生じないかぎり変わることがないという状況である。われわれが提唱する大規模な社会的実験はこのような矛盾から脱出するための一手段となるだろう。新しい住まい方の実験が成功すれば、広範な変化への意志に大動きな影響を与えることができるだろう。』(ガタリ『フェリックス・ガタリの思想圏』)

 ここからはっきり分かるように、ガタリの「分子革命」は、必ずしもマルクス主義が目指しているようなグローバルな「政治革命」を直接的に意味するわけではないものの、パラノ資本主義的な「都市生活」を、個人(分子)のレベルから変えていく社会的実験を通して、社会全体を統御する政治のレベルにも変化を起こそうとしていることが分かる。言わば、パラノ・ドライブからはみ出してしまうような人たち、”ポリス外の人たち”を「ノモス」的に含んだ遊牧民的なライフ・スタイルを実践することを通して、「客観的都市」に集中している「われわれ」の「欲望」を脱属領化していく戦略である。
 こうしたガタリの………ある意味で………”壮大”なプロジェクトは、「欲望」の方向を多様化させていく点では、浅田の「スキゾ・キッズの冒険」と似ているようにも見えるが、変革へ明確な「意志」をもって、資本主義的な「客観的都市」に対して遊牧民的な攻撃を仕掛けるという側面からみれば、180度異なっていると言っていい。『スキゾ・キッズ」であればたとえ「脱属領化」のためであれ、何らかの”目標”を持った「意思」を表明することを拒否するだろう。すくなくともばんねんのガタリは、浅田のスキゾ・キッズのイメージからかなり”逸脱”して、「ポリス(政治)」を崩していくためのノマド的な「(反)政治」を標榜していたのである。

 この不可解な言葉使いにはいつも悩まされるが、それでもガタリの言葉は僕にはピンと来るのだ。「個人(分子)のレベルから(生活や意識を)変えていく社会的実験を通して、社会全体を統御する政治のレベルにも変化を起こそう」ってのはまさに僕の考えと一致する。つまりこのような社会への実験的介入こそが、資本主義社会にとって許しがたい「逸脱」と受け取られるだろうということなのだ。で、僕が考えるに、こういう具体的な「目標」を持った活動をすることと、それが何らかの「達成(結果)を求めない」ということは両立することだと思う。それと、きはむさんがしきりに気にしている、こういったミクロ闘争の現実的な効果、みたいなことについても言いたいことがあるが、まあそのへんは日を改めて説明してみたい。長くなっってしまうので、今日のところはとりあえず『左旋回』の一部を読んだ感想でした。

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<帝国>

 来週いっぱい忙しい日が続きそうだが、今日仕事の打ち合わせの帰りに池袋の本屋でネグリ&ハートの<帝国>を買った。5千円を超える本を買ったのは何年ぶり? ………なんだけど、やはりこれは読んどかなきゃならないよなってわけで………決意の表れってわけです。それにしても読まなきゃならない本がたまってて、いっこうに進まない。仕事が終わって、ベッドに寝転がって読み始めると1ページも読むとウトウトしはじめるありさま。時間欲しいよなあ、ブー!

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補足

 ちょうどいい、きはむさんの言葉があったのでちょっと補足しておく。

『積極的自由ではなく消極的自由を、権力の奪取よりも脱権力、逸脱の自由をこそ求める。それはわかる。でも今更それじゃダメだ。悪いけど、現状認識が甘い。逸脱とか祝祭とかシステムに風穴とか何かそんなんのダメさを、改めて近いうちにまとめときたいなと思うけれど、とりあえず今日は、たぶんその「逸脱の自由」とやらは許されますよ、とだけ言っておく。これからのシステムはそういう逸脱をどんどん許容していく方向に行くだろう。逸脱したい?、ああ、どうぞご自由に。ま、そのかわり逸脱した先に何にも無いですし、逸脱者まとめて圧し潰されるだけですけどねーっ、てなもん。そういう現状認識があるから、逸脱的なものを防いでいこう、社会に包摂させよう、コミットさせよう、という方向の戦略を立てる人がいるのだから。こう批判している私も辛いのです。わかってくれ。』

 逸脱するものに対する、きはむさんの冷ややかさはちょっと気になるところだが、それ以前に僕がこれを読んでおかしいな、と思うところは、「逸脱の自由」を認めると言いながら、現実的には逸脱的なものを防いでいこう、っていう発想だ。これが内田さんとか、再帰派の考えるところだってことなんだろうが、これはあってはならないと僕は思うのだ。もっともらしく聞こえるけど、これじゃあ未来の解放のために現在の抑圧を正当化することでしかないと思う。将来に認められるのであれば、いまこの瞬間にすでに認められていないとウソだと思う。で、何度も書くわけだけど、脱権力とか逸脱ってのは社会の外部へ出ることではないし、しっかりと社会に包摂され、コミットしているんであって………ただ政治へのアプローチの仕方が違うだけなのだ。そのへんのところが、きはむさんとか再帰派の方々はわかってないんじゃないだろうか。近代を選び直すって言うのがどういう意味合いで言われているのかわからないけど、どうもきはむさんの文を読むかぎりでは、近代政治の枠組み(議会制民主主義など)をはずれる政治のアプローチ(ミクロな政治)を無視、または黙殺する(それによって逸脱者から社会をを浄化する)ことを意味してるんじゃないかと思いたくもなってくる。だから、きはむさんは「これからのシステムはそういう逸脱をどんどん許容していく方向に行くだろう」っていうんだけど、僕は全く反対の見込みをこの戦略から導きだしてしまう。つまり未来における逸脱の自由の名の下に、現実的な逸脱行為の抑圧、弾圧がおこなわれる、という見込みだ。きっと資本主義システムにとって実に都合のいい戦略として重宝されるんじゃないだろうか。だいたい冗談にも「批判している私もつらいのです。わかってくれ。」なんて言わなきゃならない時点で、早々にこの戦略を見限っちまったほうがいいと思うんだけど、どうだろう。

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終わりなき祭り、果てなき逸脱

 きはむさんがまたあらためて疑問を投げかけてくれた。かなりつっこんで僕の書いたものを読みこみ真剣な考察の対象にしてくれていることは、お互いの立場は違うとはいえ、僕には逆にちょっとくすぐったい。
 きはむさんの読みは概ね的確だと思われ、引用しているDJ WATERR(誰?)とかドゥルーズ・ガタリ関連の文章と僕の考えの親和性についても間違いないと思う。ただ、白状すると僕自身はドゥルーズも最近流行のネグリも実際にはほとんど読んだことがない。間接的に影響を受けたり、断片的な発言を聞きかじっているため似た考えを持っていると勝手に想像しているのであって、僕と例えばドゥルーズを一緒くたにして「祝祭・逸脱派」にまとめてしまうと、ドゥルーズなんかに詳しい人たちが怒ってしまうかもしれない(笑)。だから、きはむさんは「祝祭・逸脱派」というくくりで問題にしたいようだが、不勉強者の僕には「祝祭・逸脱派」の資格できはむさんに答えることはできないと思う。また、宮台さんや「再帰・統合派」についてもしかり。だから、ここでは僕個人が、きはむさんの文章を読んで思うところを答えることでご容赦願いたい。

 きはむさんが言ってるのは、ただ「祭り」だ「逸脱」だ、って言ってるだけじゃだめで、それに変わる具体的な代替案がなければそんな議論は不毛じゃないかと、「祝祭」だなんて言いいだす気持ちはわかるけど、内田さんや宮台さんを含む「再帰・統合派」たちは、そういう「祝祭・逸脱派」のメリット、デメリットを押さえた上でそれを乗り越えた議論をしているのであって、僕が噛み付いてるようなやり方は意味ないですよ、ってことを言いたいんだと思うんだけど………。
 きはむさん自身や「再帰・統合派」が、それではどういう具体的な代替案を持ってるのか、僕は全く知らないので、僕にできるのはきはむさんが「祝祭、逸脱」の戦略にたいして抱いている誤解を指摘することだ。

 どうも祝祭的な逸脱行為というものが、きはむさんにとっては政治の欠如でしかないようで、本来祭りの後に来るべき具体的な変革こそが真摯な政治である……そう考えているふしがある。真面目で実践的な、きはむさんの抱くのビジョンに対して、祝祭や逸脱なんてものは無力かつ無意味なお遊びにすぎないってことのようだ。
 だが、「祝祭・逸脱派」の主張というのは、そのような祝祭的な逸脱行為が具体的なな政治的変革(わからないけど、具体的な制度や政策の変更のようなこと=マクロな政治の必要性を、きはむさんは考えているとしよう)に劣らず必要なミクロの政治なのであり、そのようなミクロの政治を日常生活の中で戦略的に行っていこう、ということなのだ。逆にもし「再帰・統合派」の方々や、きはむさんが具体的なビジョンによって構想されるマクロな変革さえあれば事足りる思っているとしたら、それでは片手落ちだと僕は考える。

 ドゥルーズやガタリなんかも含め「祝祭・逸脱派」のやってることは(たぶん)、自分の生を実験台にして、日常生活の中に侵入しているミクロな資本主義的権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きよう、ってことだ。そしてそのような全く別の形の生を提示することで、資本主義的に組織され、それによって資本主義自体を支える役割を担ってしまっている人々の欲望の変形を触発し、変革の筋道を探ろうってことだろう。
 なぜそのような戦略が選ばれなければならないのかと言えば、例えば社会主義国家は、平等な搾取なき社会を目指して行われたドラスティックな変革だったわけだが、国民や彼らを指導する党の意識の中に古くさいブルジョワ的、伝統的な「排除」の構造を維持したままであったため、現実の社会主義は惨憺たる結末を迎えてしまった。つまり、いくら制度に大手術を施したところで、それを支える人間の意識(欲望)が変革されていなければ、制度はうまく機能しないどころか、抑圧的に働きかねない。つまりマクロな政治的変革は、ミクロな意識の変革にささえられていないと意味がない、という認識が、きはむさんのいうところのポストモダン系左翼、「祝祭・逸脱派」の問題意識だということになるだろう。
 何度も書いてきたことだけど、資本主義社会に生きてるわれわれの意識が、業績主義イデオロギーや消費社会のコマーシャリズムに没入しているかぎり、システムだけをいじくっっても、逆にダメだろうってことだ。
 だから、祝祭的な逸脱した生を営む人たちに、変革のビジョンが欠如してるってのは全くの誤解で、逸脱的な生は明確なビジョンに従って営まれているのだ。ただ、具体的変革を求めるマクロな政治とアプローチの仕方が違うにすぎない。

 それに、きはむさんの文を読んでると、祝祭や逸脱が一過性のドンチャン騒ぎみたいに描かれてるけど、それもひどい勘違いで、資本主義システムに反抗することは、システムの側から見ると逸脱であり、異物化であり、前近代の社会において「祭り」が担っていた役割を果たすものになるだろう………つまり、逸脱なんていっても実際に彼らがおこなっているのは、(遊び呆けてるわけではなくて)目的的に遂行される闘争なんだけど、資本主義が生産を価値としている以上、それに根本的なやり方で逆らうことは結果的に非生産的で無目的な生と言う意味合いを持つ活動になるだろう、ってことです。「祭りだ!祭りだ!」って書いてきたからリオのカーニバルみたいなの想像してしまうんだろうけど(ただ、実際にはいろんなやり方があるわけで、怠惰な生活のスタイルをとってみたり、そういったお祭り的な瞬間や空間を演出するってのも、もちろん「あり」だと思う)、問題なのはそういった活動が反資本主義的なロジックを根底に持っているかであって、少なくとも僕は、資本主義社会を牛耳っている生産の論理に反抗する存在や生き方を、象徴的に「祭り」という言い方で表現したかったわけだ。
 だから問題なのは上にも書いた通り、自分の生を実験台にして、日常生活の中に侵入しているミクロな権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きるということであって(基本的には孤独な営みだ)、それは自分の命が尽きるまで、終わることのない「祭り=政治」(まつりごと)なわけです。

 だからといって、マクロ政治的変革の必要がないと思ってるわけではなくて、明らかに抑圧的な制度は当然変えるべきだ。だが、ある制度が抑圧的であることが世の中に認知されるためには、そもそも抑圧の現場でのミクロな異議申し立ての積み重ねがなくてはならなかったはずだろう。つまり「祝祭・逸脱派」の戦略はそういう抵抗の運動を引き起こし、増幅させるという面を持ってるわけで、しっかりと具体的な変革に向けられた活動だってことをおわかりいただけるんじゃないだろうか。
 それだけに、そのようなミクロな闘争をすっとばして行われる政策立案みたいなものはあってはならないだろうし、僕らは常にマクロな意味での政治に向き合うのと同じぐらいの関心を持って、日常生活に侵入している資本主義の権力作用や排除に注意を払い続ける必要があると思うのだ。それこそ、両親がそろそろ結婚しろとうるさいとか、彼女がブランド品に目がないとか、学校の先生がオレを不良だと思い込んでて、変な目で見てる、とかいう日常的なレベルに、まず政治を感じるべきだと………。
 そんなわけだから、僕はたまたまWeb上に見つけた内田さんの「排除」丸出しの文章に、噛み付いてみたってわけで、それは愚痴でも八つ当たりなんてものでもなくて、僕なりのミクロの闘争だったのだ。確かに内田さんは痛くも痒くもないんだろうが、僕は全く無意味なことだったとは思っていない。
 だって内田さんの文章は、多様性をうたったマクロな提言を、自らのミクロな「排除」の上でおこなってたわけで、そのヘッポコさは社会主義どころかもう北朝鮮のチェチェ思想並みですから。申し訳ないけど、内田さんのあの「おじさん的思考」が「祝祭・逸脱派」の欠陥を踏まえた上での二次的な議論だなんて言うとしたら、片腹が痛いのはこっちのほうですよ。それだけに、そんな内田さんが目の前で犯している「排除」をスルーし、そんなことには興味がないなんて言い切って、その背後にある問題意識の埋め込みだなんてものにすっ飛んでいってしまえる、きはむさんの政治的、人間的なセンスを逆に僕は疑いたくなってしまいます。

 ちょっと、きはむさんの新自由主義についての分析を引かせてもらうけど……

『新自由主義と個的社会の性格を兼ね備えたメタ・ユートピアは、民間活力の重視や個人の多様な権利・価値の承認によって、表面上は著しく自由で快適な世界をもたらすであろう。
しかし、その「自由」は、それこそオーウェル=フーコー的権力によって、監視・管理を受け、丁寧に整備・配慮された果実である。ここで過去の福祉国家時代と異なるのは、その管理権力は表面上の自由の背後に隠れたそれこそ「メタ」の存在として不可視化されてしまう。まさしくパノプティコンである。ここではメタ・ユートピアの基盤をなす価値、基底的価値に賛同しない者はそもそも排除されてしまうであろうことも重要である。』


 ここで、きはむさんが言いたいことはわかる。で、このような新自由主義の現状を「祝祭・逸脱派」は理解できていないってきはむさんは言うんだけど、読めば読むほど、ここに示されている思考の形態は内田さんの思考そのものじゃないかって思えてしまう。
 つまり、表面上の多様性(内田さんは相互承認に基づく、取り替えのきかない役割の多様性なんて言ってた)を、根源的な排除が支えている………学びから逃走する若者ってのは間違いなく資本主義の基底的価値に賛同しない者なのであり、内田さんはここで明らかに勤勉でない存在、怠惰、無為、享楽といった非生産的価値を排除しているわけだ。
 「祝祭・逸脱派」の戦略っていうのは、(きはむさんはそう考えてるみたいだけど)この内田チックなメタ・ユートピアの表面上の自由や多様性の中で戯れることではなくて、隠されている根源的な排除を暴きだすことにある。つまり偽りの多様性や表面的な自由にとらわれた人々の意識を覚醒させ、欲望の形を変えるために、排除されている「外部」の価値(非生産的価値)を「内部」へ引き込むことなのであり(くれぐれも言っておくけど、これは脱社会的だとか、社会の「外部」に出るなんてことではありません。「外部」の視点を利用した「内部」的な活動です。)、だからこそ僕も内田さんのこの排除を大いに問題視するわけだ。

 きはむさんのことだから、こういった「意識の覚醒」みたいな戦略が効果を持つのか示されなければならない、なんていうかもしれないけど、そりゃ、やってみなければわからないですよ。何だか「祝祭・逸脱派」の道の先には暗澹たる未来が待ち受けてるみたいなこと書いてるけど、それを言ったら、きはむさんや「再帰・統合派」の描く具体的なビジョンだってどんな結果が出るかわかりゃしないと思うし………。はっきり言えるのは少なくとも僕の場合は、実際そのように逸脱的に生きる人と交わって自分の欲望を作り変えた、そしてそのような人たちは世の中に少なからずいるらしい、ってことぐらいだ。ま、きはむさんによれば僕こそが新自由主義のバックパサーであるらしいので、欲望を作り替えたと思い込んでるだけなのかもしれないけど(笑)。
 それに、また負け惜しみだとか敗北宣言だと言われてしまうのを恐れずに繰り返すけど、この「祝祭・逸脱派」の変革の戦略自体、僕にはスッキリと筋の通ったものに思えるが、むしろ大切なのは、社会の変革という目的そのものよりも、この戦略においては具体的な社会の変革というプログラムと、自己の特異性/固有性の追求との間に矛盾がないということだ。つまり多様性はすでに闘争の中に、つまり現在のこの瞬間の中に現れている、ということだ。
 それだけに、具体的な変革という結果がついて来ようがくるまいが、この人の試みが失敗だったとか、無意味であったということにはならない。逆にたとえ制度を変革するという結果を出したとしても、制度そのものはすぐに古び、新たな排除を生み出すかもしれない。そういう意味では、スタティックな理想の社会なんてないわけだろう。じゃあ、自由や多様性の息づく共同性なんてどこにあるんだ、ってことになるけど、結局それって(未来のある時点に出現するのではなくて)挑戦し、闘争し、他者と交流するその瞬間や状況の中に、現れてくるものでしかないのではないだろうか。
 だから、僕はこの戦略の価値を結果で判断するのではなく、闘争への意志において………ベタな言い方で申し訳ないが、試み、挑戦する意志で判断するべきだと思っている。こういう言い方をシステム側に足場をおいてる人は、居直りだとか、自足だとかって鼻で笑うんだろうけどね。どうぞご勝手に!

 ただし、きはむさんも言ってる通り、この戦略を選択したことによる結果は保証されようもない、何があっても誰にもにも文句は言えない。つまりこの道を選ぶということは、自分を賭け(実験)に投げ込むということであり、危険への覚悟を要求するものだ。だから、人にこの戦略を無理強いすることはできない。僕にできるのは「誘惑」することぐらいだろうか………。こっちの水は、甘くないけど、ゾッとするほどおもしろいよ、といった具合に。無理矢理教え込んだり、力ずくで説得したりなんてできないと思うのだ。誘惑し、説明する、あとは人々にそれぞれ判断してもらう他はない。基本的には、個々の勇気ある決断に期待する以外に自由や変革への道などあり得ないと思うからだ。
 ふと思ったのだけれど、きはむさんや「再帰・統合派」の人たちって、政治を社会学の延長上にある極めて真面目な実践と考えてるのじゃないだろうか。いや、真面目が悪いってことじゃないのだけど、僕にとって、そしてたぶん「祝祭・逸脱派」の人にとって、政治は博打なんだと思う。自分の生を掛け金にした博打…………つまり、「祝祭・逸脱派」の主張を乱暴にまとめると、自由や多様性は危険な博打を打たずしてつかみ取ることはできない、ってことになると思う。
 どうだろう? 少しは誤解が解けたことを期待しているが………それともひょっとしてさらに疑惑を深めてしまっただろうか? (補足あり)

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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