泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 旅行・タイなど   Tags: 家族    

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インドネシア

 なぜかインドネシアに行ってきた。ま、僕自身が望んで行ったわけではなく、親の旅行のお供としてくっついて行っただけだ。金は親が出してくれるわけだし、すべてお膳立ての整ったツアー旅行なのでお気楽極楽な海外旅行である。10年ぐらい前にバックパックを背負ってスマトラを縦断したことがあるので、インドネシアの旅は初めてではない。が、今回はバリやジャワというまだ僕の行ったことがない著名な観光地をめぐる旅行なので、それなりに楽しみではあった。
 宿泊地はバリ島のブノアというところで、町からずいぶん離れたところにできたリゾートだった。インドネシア人の生活から浮いた空間という意味では、まさに非介入的な観光商品=スペクタクルの消費だよなこれ………と少々苦笑いだった。
 でも、そこは東南アジアのこと、リゾートを演じる表皮はスカスカで穴だらけ。薄皮をはげば結局そこにはインドネシア人の生活があるんだろうな、と思う。まあ、そんなことを思いつつも、ガイドに従って遺跡や寺院を見て回り、出された食事をたらふく食い、開いた時間は読書で過ごすというあたりまえの観光旅行だったが。

 以前、インドネシアの女性と結婚した人と出会って話を聞いたことがあるのだが、その人は「もうタイなんかダメだよ、みんなバイクに乗って気取っちゃって………スマトラはいいぞ! 人間もざっくばらんで、あなたなんかきっと気に入るはずだよ。」………とインドネシアについて言っていた。その後、実際スマトラに行ってみると異国情緒溢れる南国の風景にときめいたし、ボロい車が結構走っててワイルドな感じがした。人間もタイ人より明るくて、いい所だと思ったものだ。10年前のスマトラと比べるのは間違いかもしれないが、バリの道路はよく整備されているし、新しい日本車やオートバイもいっぱい走っていて、タイとそれほど変わらなかった。どこの国であろうと近代化は進み、人々の生活は変化してゆくものなのだ。

 それでもインドネシアは僕にとってワイルドな魅力を持った土地だ。日本と同様火山列島だけに、高低差のあるメリハリをもった風景が広がっている。味のある路地裏、薄暗い夜の市場、香料入りのタバコの匂いなどが何とも言えないノスタルジーだ………でも、もう一人旅などできないだろうなあ。あとは女房子供を連れて遊びに行ける日をちょっぴり夢見ている小市民な僕なのでした。

Category: 思想など   Tags: 思想  

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十字架にかけられる多様性 

 自分と異質な生き方や考え方に触れるという経験はいつも僕にとって驚きである。まるで、他の太陽系にある惑星にまったく地球上とは別の生命体が繁殖している風景を目の当たりにしたような気になってくる。このように自分を当惑させ不可解な思いにさせる未知の肌触りこそ、他者との出会いなのだと思う。
 きはむ氏mojimoji氏のやりとりで、なるほどなあ〜と思いながらも自己責任倫理、だとか規約、正義なんていう言葉が出てくるのを読んでいると、発言に共感するかどうかはともかくとして、自分と違うことを考えているのだという事実に感心してしまう。正義なんて言葉は僕にとってはウルトラマンの世界の話でしかなかったので、読みながら照れてしまうのだが……。
 とはいえ、やはりこの異質な肌触りが僕には非常に興味深いものであり、だからこそ対話をしてみたくもなるわけだ。きはむ氏とはずいぶんやり取りを重ねて、お互いの違いもはっきりしてもう言うこともないと思っていたのだが、mojimoji氏の書いたものを読んでいるうちに、きはむ氏の文章を解剖し、この観点からもう一度自分の考えを整理してみたいという欲求がおこってきた。人の尻馬に乗るようでアレなのだが ………。

 お二人のエントリーで問題にされている新自由主義の自己責任倫理というのは、現行の社会が自らの論理を維持、再生産するうえで、人間を自らのゲームのルールに積極的にコミットさせ続ける必要があるわけだが、その方法として自由競争のフィールドでの甘いえさ(勝ち)と苦いえさ(負け)という格差を容認し、負け組に陥った人間に対しては勤勉さや自助努力が足りないという言い方で、悲惨な現状を招いたのはあなた自身に責任があるのですよ、というかたちでの自己受容を迫ってくる社会権力のあり方のことだ。逆に言えば、現行の支配的価値を受け入れず負け組に陥った者の困窮の責任を社会は負わない、ということでもある。
 きはむ氏は、(僕自身がそのいい見本である)多様性を称揚し、負け組のかかえる困難を自己肯定的に受け入れてしまう人たちの中に無駄に潔い自己責任倫理を見いだし、多様性を認めようという「オンリーワン」戦略はむしろ新自由主義の社会形態を支える働きをしてしまうのだ、と主張する。したがってきはむ氏はそのような自己責任を認めず、社会の問題は社会の問題として、個人の問題は個人の問題として、適切に区別して扱う必要があるし、もっと僕らはわがままになるべきだ、と述べる。
 それに対して、mojimoji氏の応答においては新自由主義のゲームのルールの下で社会から迫られている自己責任と、その文脈を離れたうえでの一般的な責任の問題とを混同してはいけない、と述べている。例えば責任を問題にするにしても後者では社会(ゲーム)のルールを変革するという選択肢があるが、前者にはそれはありえない、というわけだ。
 mojimoji氏は自己責任という言葉におけるふたつの観点をきはむ氏は混同しているのだ、と指摘していると僕は理解した。少なくとも僕にはきはむ氏の文章はそう読める。つまり社会の問題と個人の問題を区別するというより、むしろすべてを社会の問題として扱い、個人の問題すら新自由主義の自己責任倫理にひきつけて解釈し断罪してしまっていると。

 どのような社会に生きていようと、僕らは生まれた瞬間から死の射程圏内に入る。生き延びたいと願うかぎり僕らの生はリスク社会ならずともリスキーである。またあらゆる選択や決断の結果は自分に跳ね返ってくるわけで当然個人の選択の結果にはそれ相応の覚悟が必要である。その意味であらゆる選択の責任は自ら引き受けなければならない、と言える。
 確かにmojimoji氏の言う通り僕らはこの現行の社会に内属し、その中で自らの欲望も作られている。したがって自らの欲望に由来する選択を社会から離れてニュートラルに問題にすることはできないのかもしれない。しかし、きはむ氏のやっているようにあらゆる多様性の言説を新自由主義の下での自己責任倫理の文脈で断罪されてしまうとなると、あらゆる反体制的言説は無効になり僕らは沈黙を余儀なくされてしまう。他ならぬきはむ氏自身の言葉も、である。

 実際きはむ氏のやっていることはアプローチこそ違うが僕とさほど変わらないと思う。つまり現行以外の社会や人間のあり方(外部)を構想し、そこを基点に現行に異議を申し立てているわけであるから、きはむ氏の「私達はもっとわがままになってよい。無駄な潔さなどいらない。」という主張はそもそもが新自由主義が求めてくる価値に対抗的な外部の(多様な)価値の主張である。きはむ氏が意識的に自分の特異性を追求していないにしても……だ。
 さらにネット上で好き勝手な言葉を吐いているだけならいざ知らず、この明らかに現行の押しつけてくる価値観と不協和な主張を現実の社会の中で公言し、この信念を持ち続けて生きるとなれば、(実際にフォーマルな政治活動を行うことがなかったとしても)その発言の結果はきはむ氏自身に帰ってくるはずである。例えばこの主張を抱きながら、自己啓発とスキルアップに余念のない勤勉なサラリーマンやホリエモンのような起業家になれるとは思えない(不可能ではないだろうがそうしたければ余計なことなど言わないほうがいいだろう)。たぶんこのような反体制的言説を公言する時点でこのようなホリエモン的な成功=「勝ち組」への道はすでに放棄しているはずだ。(僕もそうだが)はじめからそのような成功には興味がないという言い方はあるだろうが、いずれにしろ「勝ち組」への可能性といういくつかの選択肢を放棄することと引き換えにしかこのような発言はなされ得ないのではないだろうか。僕はきはむ氏の生活や人生設計については知る由もないのであくまでも一般論に過ぎないわけだが、このようなある意味「負け組」への可能性を自らに引き寄せる潔い覚悟なくして反体制的な主張などできないと思う。つまり口ほどにもなくこの人は自分の身を投げ打って「賭け」ている、としか僕には思えないのだ。
 そして僕にはこれが立派な態度に思えるのだが、きはむ氏の言い方ではこのような無駄に潔い覚悟や多様な生き方の主張は新自由主義に資するものでしかないというのだから、きはむ氏自身の主張も無効になるのみならず、新自由主義の言説の安定を増さないためには沈黙するしかないだろう。仮にきはむ氏がその反体制的主張が原因で「負け組」に加わることになろうものなら、「もっとわがままになっていい」という彼の発言は、自らの苦しい現状を慰撫し、体制を補完するものにしかならないというわけだ。

 ようするにきはむ氏のようにあらゆる責任を新自由主義の自己責任倫理に還元してしまうことは、新自由主義のルールに背くすべての人間の多様性……反体制的言説の無効化に導くのみである。現体制下でのあらゆる多様性(逸脱)は現状肯定を意味するとすれば、変革の観点からは多様であることは許されないことになる。この社会では多様であることは叶わぬ夢であり、変革後の社会においてはじめてそれは可能だというのだ。その結果、変革はあらゆる人間の質を捨象し脱色した数の政治でもって実現されなければならない……多様な逸脱者たちはフォーマルな近代政治の枠組みの中に再帰、統合されなければならないという結論に誘導されるというわけだ。………が、当然ながらきはむ氏本人も特異な質を備えた生身の人間であり、透明人間や神のように人間社会を超越した存在でもないだろうから、その(特異な)反体制的主張も断罪されざるを得ないことになってしまう。
 だからまあ、こういった言い方にたいした意味はないと考えるべきだろう。やはり僕らは基本的に自分が選択したことに対する責任を引き受けざるを得ないのだ。現在の社会が単一の支配的価値を僕らに押しつけて来ていて、その価値を積極的に受け入れないものの生存については関知しないという方針を打ち出している以上、反体制的な主張をする者は厳しいしっぺ返しを覚悟しなければならない。が、そのような厳しい生き方を選択することで負う責任と、自由競争のフィールドを生き抜くにあたって求められる自己マネジメントにおける責任とは意味が違うのである。つまり、システムに反抗する個人の負うリスクや責任は、システムに従属した(自由競争のルールに則った)……いわゆる「強い自己」とか「強い個人」がひきうけるリスクや責任とは別物である。前者の責任ある生き方においては後者と違って、例えば弱くあること、怠惰であること、(きはむ氏の言ってる意味で)わがままであること……といった多様なあり方を選択することに向かって開かれているだろうから。
 きはむ氏がやっていることは、このような現実的な多様な価値を選びとる可能性を、すべて自由競争における自己責任倫理に引きつけて解釈することで、つぶしてしまうことである。つまりきはむ氏の多様性を否定する言説はこの2つの文脈の混同から導き出されているのであって、多様な価値を新自由主義の下で称揚することが、逆に新自由主義を資している、という主張は背理である。

 しかし僕は、きはむ氏のこの奇怪な多様性や逸脱に無効を宣言する言説が、新自由主義を分析することによって結論されたものだとは思っていない。それは別の起源をもっていると想像する。……つまり、きはむ氏には強い統合への意志があり、それが多様性や逸脱に負の属性を纏わせていて、混乱した論理の力をかりてでもとにかく無効にしなければならないものとして視界の中に浮かび上がらせているのだ。おそらくそのようなならず者どもにクギをさしておきたい、という願望がきはむ氏の論を背後で支える動機だと思う。
 きはむ氏の逸脱への冷ややかさ(というより敵視だろう)はびっくりするくらい内田樹氏のそれと似ている。さんざん書いてきたように内田氏は学びから逃走する者(=現行社会のゲームのルールを降りるもの)を露骨な表現で誹謗し、まるで彼らの存在が新自由主義的な資本主義(競争)のヒートアップとそれによる階層化や社会不安の原因であるように事態を捏造している。実際には社会が競争を煽るシステムを採用しているのが原因であるのにもかかわらず、まさにそれを個人の責任に帰すというまやかしを行っている………逸脱するやつが過剰に搾取されることで資本主義が暴走するのだ、お前らが困った事態の原因なのだ、というのだ。
 きはむ氏の主張は逆に、逸脱するやつがいるから新自由主義が確固たるものになり変革が遠のくのだ、ということになるだろう。多様性(逸脱)を称揚する者やその言説が事態を悪化させている原因であるかのようにことさら吊るし上げられる。ごまかされてはいけない。勝ち組になろうが負け組になろうが、ゲームのルールを積極的に受け入れているかぎり僕らはみな現行社会を支えている。むしろ問題にされなければならないのは新自由主義の自由競争のルールに囲い込まれ、没入してしまっている人々の「意識」のほうであろう。
 もちろんひとひねりフェイクを入れながら現行の追認を行っている内田氏と、明確に体制を批判しているきはむ氏とでは向いている方向は正反対である。しかし事態を捏造することで多様や逸脱を否定し、一つの価値観、一つの権力への統合を志向している点では同じだと言える。だから僕とは違いその点できはむ氏は内田氏を評価し得たということだろう。

 統合を要請するのは操作する権力である。何らかの目的や秩序にむけて社会や人間を動かそうとするとき(あるいは動かそうと考えるとき)、その人は権力の視点に立つ。と同時に社会や人間は権力によって操作される対象と化す。そのとき権力の遂行への意志を持った人にとって、その遂行を妨げる存在はつねに苛立たしい負の存在として社会の周縁に陽炎のように浮かび上がってくるのだ。つまり一つの目的一つの秩序へ向けた社会や人間の統合と、そこから逸脱する存在の排除は同時的に発生する。何やら不穏で珍奇で享楽的なならず者たちの存在が、権力の視線にとってはうざくて仕方ないのである。すべての不吉さ、よからぬ事態の元凶は彼ら逸脱者たちに帰せられる。新自由主義の権力の下で、よく社会の問題を個人の問題にすり替える議論(お説教)がなされるが(例えば『希望格差社会』)、ようするにそこにはつねに統合を求める権力への意志(社会や人間を上から対象的・操作的に眺める視線)が働いているのだ。きはむ氏の混乱した論を背後から正当化しているのは、おそらくこのような社会を操作し動かしたい欲望……つまり権力への志向なのではないだろうか。

 まず操作ありき、という権力の視点からは多様性の称揚みたいなことが単純に政治の欠如に見えるはずだ。だからきはむ氏も多様な価値を称揚することが、現行社会という建築物(制度)への具体的な批判に向かうのを防ぐと言ってるのだろうが、僕はこれには疑問をもっている。こないだも書いたことだが、権力的に行われる操作の政治によってなされるのは、別種の、権力によって統治される社会を再生産することだけだろう。このへんはこれから詳細に考える課題にしたいのだが、まず権力的な上下の関係ではなく、横の関係(交流)を社会の中に広げつつ、その中から新しい社会制度を構想するという手続きが必要だと思うのだ。
 社会という建築物は「意識」によってその屋台骨を支えられ強固なものになっている。制度と意識はお互いに支え合う関係にあり、意識の問題を捨象した数による権力的な操作の政治によって作られる制度から自由や多様性があふれてくるとはどうしても思えない(社会主義の失敗の根本的な原因は意識の問題の欠如にある)。むしろ僕は多様性や逸脱を消し込まなければならないほどの統合によって行われる政治には、何か全体主義のにおいすら感じてしまうのだ。

 だが、それ以前に僕がどうしてもきはむ氏の考えに不服なのは、今この瞬間に人間の多様なあり方が許されない、というその発想なのだ。僕らはそもそもが多様な個人であり、現実的にも多様でありうるはずだ。しかし現行の社会は僕らに単一な価値に従属せよと迫って来ている。従わない者はどうなっても知らないよ、と公然と脅しをかけながらそうしている。(だからこそそんな社会は変えちまえ、と思うわけだ。)しかも一見生き方の多様性や選択の自由を認めるような巧妙さをもって、である。けれども、もちろん現行が自らを維持・再生産するためには、何もかもを許すはずがないのであって、そのような外部の価値をもつ者を厳しく排除しようとするだろう。
 残念なことに、現在の社会において多様な価値を認め、特異な存在であろうとすれば、そのようなかたちで社会と対立を余儀なくされる。反体制的であるということは、その対立の結果の不利益を被る覚悟なしにはできない。(繰り返すが、この覚悟と、現行が認める自由競争の枠の中で問われている覚悟=自己責任は混同すべきではない。)
 で、僕の見るところ、きはむ氏自身もこの覚悟を引き受けて発言している。だが、それは「無駄な」潔さなどではけっしてなくて、意味のあることなはずだ。きはむ氏はこの覚悟と引き換えに自らの特異性を受け取っている。そしてそれを面白くも感じているのではないだろうか。何も得ていない、とは思えない。でなければ自分の不利益にもなりかねない反体制的発言などするはずがないと思うからだ。少なくとも僕にとって自らの特異性は、不利益を被っても獲得すべき第一のものである。
 にもかかわらず、きはむ氏が多様性や特異性を現在のこの瞬間において否定すべきものと考えているのは、権力的な統合への志向があるからだ。そのような権力による操作の政治は、あらゆる人間の今現在の多様性や瞬間の特異な価値を踏みにじり、実現するかどうかもわからない未来のために現在を手段として隷属させざるを得ない。単一な価値への従属を迫る社会など変えてしまえばいい………そう思う。しかしそれが別種の単一(モノトーン)の権力によって追求されるのでは意味がない。まず、今この瞬間の特異な価値を、それぞれの人がそれぞれのかたちで、パッチワークのようなアナーキーな彩りとともに追求し、意識とともに制度を変えるという道を模索すべきだと僕は思う。

Category: 日記・その他   Tags: 韓国  

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사랑이라는것이알고있는데...


 여러분,안녕하십니가?  저는축제의귀공자,아라이겐이라고합니다. 오늘은사랑하는예진과함께..おっと、すいません。祭りの貴公子、ken様です。きょうは愛する妻と出会った頃のお話をしましょう。




 秋の終わりの肌寒い日……私たちは近くの公園に出かけ散歩を楽しみました。そのあと彼女は初めて私の部屋に遊びにきてくれたのです。


 愛くるしい彼女が果物をむいてくれるのを見つめていると、私の心の中に切ない衝動がいかんともしがたくあふれ出してきました。そして……


     아아아...!


 さてみなさん、次回はいよいよ私たち二人がくんずほぐれつして…………!!!
「祭りの戦士」エログ化計画絶賛進行中です。お楽しみに!

Category: アート・建築・デザイン   Tags: 音楽  

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Victor Jara


 今日仕事の帰りに寄った新宿のタワーレコードで2〜3年ぶりに音楽CDを買った。ビクトル・ハラのベスト版だ。若い頃、唯一はまった音楽がフォルクローレだった。アンデスのノスタルジックな音楽は日本人には親しみやすいからファンも多いし僕も好きだった。個人的には『コンドルは飛んでゆく』のような暗いペルーの音楽よりもボリビアのエネルギッシュな音が好きで、聞くたびに乾燥した高原地帯の深い青空の下で音が輪を描いて踊っているように思えたし、石ころが転がる大地を風が渡り、その中で生きる人間の孤独な運命のようなものを感じて心にしみた。あれからいろんな音楽を聴いては来たがどれもこれも自分の肌になじまない。最近JAZZなんか聴くようになって、エレクトリック・マイルスやフリージャズに突入したコルトレーンなんかをBGMにして仕事してたりするのだけど、すごい音だなと思いながらもどこかで違和感を感じているのは、僕の音楽の故郷が南米にあるからなのだ。
 せっせと六本木にあるWAVEというレコード店で輸入版のフォルクローレを漁っていたが、いつのまにかチリの『ヌエバ・カンシオン(新しい歌)』という政治色の強いものを聴くようになっていった。ビクトル・ハラは『新しい歌』の運動のリーダー的存在だった。チリはペルーやボリビアのようにインディオやメスティソの色彩は強くなくて、スペイン系がほとんどを占めている。そのため音楽的にはアンデスのフォルクローレとは毛色が違って、独特の陰影を感じさせる不思議な音だった。ハラの声は優しくのびやかで、マッチョな印象のあるラテン系の男とは思えない。スペイン語の歌詞も彼の歌を聴くと暖かくて人間的な響きをもって僕の体内にしみ込んでくる。しかしまたその優しさの中には不屈の意志が脈打っている。
 ご存知の通り、チリは平和的に社会主義政権が生まれた国で、『新しい歌』の運動はこのアジェンデ政権の成立と崩壊と運命を共にしている。この政権を支持し続けたコミュニストのハラはアメリカの支援を受けたピノチェットのクーデターのとき、多くのコミュニストとともに捕えられ、監禁されたうえ虐殺された。死の直前に発表されたいくつかの曲には死の予感ともとれる言葉が垣間見られ、作り上げてきた歴史が壊されて行くのを感じて発する静かな悲鳴のようにも聞こえ胸を打つ。
 じつは押し入れの中には当時のビクトル・ハラやビオレッタ・パラ、インティ・イリマニ、キラパジュンなんていうチリのフォルクローレのコレクションが眠っているのだが、全部LPレコードで当時のステレオも壊れて聴こうにも聴けない状態にある。ふと、タワーレコードで見つけたビクトル・ハラのCDが懐かしくてちょっと買ってしまったというわけだ。実際に聴いてみるとうれしいことに初めて聴く曲もいくつか入っていた。昔夢中になった曲を聴いてると当時の安アパートの一室で寒い日にコタツにもぐって同じ曲を聴いてたことなんかをを思い出してしまうよ。

Category: 日記・その他   Tags: 韓国  ブログ  

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祭りの貴公子より引っ越しのご挨拶


 みなさんこんにちは。祭りの貴公子araikenです。ブログの引っ越しもほぼ終了しました。何だか前のデザインとたいして変わらないものに落ち着いてしまいましたが、まあいいや………。改良された点といえば、コメントの機能が少々アップしたってことぐらいかな。
 ところでこのサイトは普段硬派な話題ばかりなので、少しだけ私のプライベートを紹介してみましょう。



 先日、愛する妻と海へ出かけました。ついこの間まで海水浴客で賑わっていた海岸も秋の気配です。ちょっと冷たい潮風が仕事の疲れを癒してくれました。おっとスンマソン………熱いツーショットを見せびらかしてしまいましたね。………妬かない妬かない!


 でも、ときには落ち込んでヤケザケを浴びることだってあるんですよ。ま、貴公子にも人間臭い一面があるってことですかね。ソクラテスやプラトンも、またニーチェやサルトルも、みんな悩んで大きくなったって言いますから、苦い経験だって人生にとっては大きな成長剤なのです。……がんばれよ、俺!


 そんなわけでこれからも寒い冬には雪を溶かす太陽のようにあたたかい眼差しを、そして暑い夏には涼風のようなさわやかな笑顔をたずさえ前に進んで行こうと思っておりますので、今後ともヨロシクお願いいたします。バイバイ!

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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