泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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旅のお供に


さて、タイへの出発が迫ってきた。こないだインドネシアに行ったとき、時計代わりにPHSの端末を持って行ったのだが、盗難にあったのか、紛失したのか……なくなってしまった。それで今回、国際ローミングが可能なフルブラウザ付きの新しい端末に買い替えてタイに持って行ってみる。どういうわけだか台湾とタイでのみPHSもローミングができるのだ。

ところで、ウィルコムになってからPHSは元気だ。音声定額のプランが出て加入者ものびているらしい。古くからのユーザーとしてはちょっと嬉しかったりする。いずれ消えてしまうのかと思ってただけに………。それにしても僕が一営利企業の業績回復を喜んでるとは………サッカーに熱くなってるのと同様………おかしなものだな!

Category: 思想など   Tags: 思想  

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祭りの戦士は前線に立ち続ける

 ぐるぐると考えを巡らせるだけで、自分でもはっきり答えが出ないでいたのだが、やっぱり……すべての問題が解決されてしまった完全に自由な社会……完全な制度……つまりユートピアみたいなもの……なんてどこにもないし、これからも実現することはないよなあ……という考えに戻ってきてしまう。このところ多様性みたいなこと考えてるから、多様性を認める社会なんてものを頭の中に想い描いたりするし、どのようにそういった社会が実現するのかという道筋を考えてみたりもする。……しかし、どうも虚しくなってくるのは、そのような社会が制度として実現するとは自分でも思ってないからなのだ。というのも、多様性や自由や幸福みたいなものは、社会や制度によって与えられるものだとは僕には思えないからなのだ。結局そういった精神的な価値は社会から自分たちの力で闘いとられなければならないものなんじゃないかと思っている。

 現在の社会のように妙なプレッシャーをかけられることなく、そのままでみんなが食って行ける社会の実現……というのはかなり現実的な、ひょっとすると遠からず出現してもおかしくない具体的な変革の課題として僕らの前にある。そのための努力はあらゆるやり方でするべきだろう。が、仮にそのような社会が実現したとしても、そこが自由な空間であるのかと言えば……やはり違うと思う。
 制度というものは、よかれと思って作られた瞬間に抑圧的な面を現し始める。逆に言うと人間の欲望は常に制度をはみ出すものなのであって、制度によって掬いきれない部分を常態として持っていると言っていい。だからどうしても、決定的なかたちで革命的な社会システムを作ってやれば自由や多様性があふれ出してくる………といった夢の状況が僕には描けないでいるのだ。きっといつだって社会の現実は僕らの前に否定すべきものとして現れて来ざるを得ない。元も子もないみたいだが、多様で自由な、抑圧や管理のない、権力なき社会……そんなものどこまで行っても現れちゃ来ないんだ………というところから考え始めるべきではないのだろうか。

 しかし夢の目的地がないとなると、僕らの生はひたすら抑圧的な制度に抵抗し、告発し、見直し、変え続けるといういわゆる永久革命のようなものでしかなくなるだろう。どこまで行っても終局的な状況にたどりつけないとなると、何のために闘うのだ? 何のために変革するのか?……確たる結果を得ることがないとなるとその闘いは徒労ではないのか、という疑問が出てくる。
 それに多様性や自由が闘って勝ち取るべきものであるなら、むしろ社会は抑圧的であったほうがいいのではないか………抑圧や管理がなくなってしまったら勝ち取るべき自由もなくなってしまうわけだから。となると、現状の管理社会のままでいいじゃないか、そもそも社会を変革する必要もないということになり現状維持こそが求められる……と批判もしたくなってくるだろう。というか僕自身がそんなふうな疑問にとりつかれていたので、これはどうしたものかとぐるぐる考えを巡らせていたというわけだ。

 このように考えてしまうのにはたぶん二つの原因がある。一つは、まだどこかで自由で抑圧なきユートピアの可能性を信じているということだ。信じているからこそ「抑圧や管理がなくなってしまったら、勝ち取るべき自由もなくなってしまう」などという仮定をしてしまうのだ。そんな状態はありはしない。当然ながら理不尽な制度は変えるべきだ。インチキを告発し、公正な条件を作ることが間違っているとは思えない。それでも人間の欲望は常に予想を越えた全く新しい容貌で制度をはみ出してくるだろう。………そういう前提からはじめれば、現状を維持するまでもなく制度が逆に僕らの手かせ足かせになるのは必然であり、常に僕らは何が自分たちを縛っているのかを見抜き、それを乗り越えることを強いられるのだ。
 そしてもう一つ、そのような闘いの連続がシーシュポスの神話のごとき徒労に思えるのも、やはり終局的なユートピアを想定しているからというのと、闘争の状態を何か人間の上にのしかかる負荷である、と単純に考えてしまうことにあるように思う。むしろ何も負荷のかからない状態は退屈で耐え難いものですらあるかもしれない。人間はあまりにも満たされ退屈であれば、自分で自分を試練に投げ込み自ら重荷を背負いすらする。人にもより程度にもよるだろうがそれは単純に荷を背負うことが「おもしろい」からだろう。少なくとも僕の実感ではそうだ。だって、ただ自分の利益を考え生存に配慮するだけであればやる必要もないことに人はみな首をつっこんでいるじゃないか。
 もっとも望みもしない重荷を押しつけられたり、本来望まぬ重荷であるはずのものを自発的に喜んで背負いこむようになってしまう、というのは問題である。現在の社会で僕らが競争に積極的に参加してしまうのは、煽られ、脅されているからだけではなく、何かを背負い込みたいという欲望によるところも大きいだろう。働いていないと不安になったり、何をやっていいかわからなくなってしまうワーカーホーリックが少なくないが、それは負荷なき状態を僕らは望んでるわけではないからではないだろうか。だからこそ僕らは自分で何を本当に欲望しているかを見抜かなければならない。

 まずきっぱり楽観的なユートピアの可能性を捨てよう。多様性や自由は社会制度によって与えられるものではなくて闘いとらなければならないことを改めて自分に言い聞かせよう。僕らの目の前にあるのはいつでも抑圧であり、管理であり、権力の空間なのであって、社会は巧妙に僕らを支配してくるに違いないということを……。そしてそのような支配を見抜くために僕らは自らの知性と本能を磨き続けなければならないってことを。
 僕が自らに望むのは、社会と欲望のズレを告発するために常に前線に立ち続けるということだ。それは自らの身体を拡声器として、社会と欲望のぶつかりや軋み合いによって発生する不協和音を発信することだと言ってもいい。そのような不協和音が社会に鳴り響かなければ、どこに変革するべき部分があるのかすらわからないだろう。その不協和音によって社会が僕らを管理し、支配し続けている事実を明るみに出したい。そのために僕は自分の特異な欲望と生命を肯定する。で、きっとその肯定は社会の側からは常に「逸脱」と映るだろう。そして逸脱者にはおそらく何らかの「生きづらさ」がシッペ返しとして社会からプレゼントされるはずである。そのありがたいプレゼントを受け取りつつ、ギリギリのところで生き延びてみせる。社会の管理や支配を見抜くためにはそれだけの覚悟を引き受ける戦士が必要なのだ。そして自分の生命が許す限り遠くまで進撃しよう。それが祭りの戦士のスリリングな使命である。自由や多様性はユートピアにではなく、そのような前線にのみ存在すると僕は信じる。
 たとえば上山和樹さんがこんなことを書いている。

 何度でも繰り返し言うべきだ。 「社会を変えてゆく」必要はあるし、そのためにできることもしたい。しかし、それは僕やあなたのために「間に合わない」かもしれない。 どんな社会でも、「全員を救う」ことはできない。 生き延びるためには――生き延びなければ活動もできない――、既存社会のルールのままで自分を専門特化し、「勝ち残る」必要がある、少なくともそういう要因を無視して生き延びられると夢想するのは、命取りだと思う。 生き延びるための努力と、環境を改善するための努力は、並行する必要がある。



 もっともだと思う。自分が生き延びるために現行の社会は大いに利用してしまえばいい。しかし戦士であるために僕はもう一歩前に出たいと思う。たぶん間違いなく「間に合わない」し、社会が「全員を救う」ことなどできるはずもない。が、「間に合うことなど期待しないし、社会に救われたいとは思わない」………戦士たらんとすればこう言わなければならない。

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生命をかけるに値するものなど一つもない!?

 図書館で小泉義之氏の『弔いの哲学』という本を手に取ってパラパラとめくっていると、ビックリするようなフレーズがいくつか目に飛び込んできた。


  • <よい>という価値は第一義的に<生きている>に与えられるからには、生命をかけるに値するものなど一つもないし、生命を失わせる理由など一つもないと言い切るべきだ。
     
  • ただ生きることをおとしめる傾向は、ヘーゲルやアレントの労働論にもいちじるしい。ヘーゲルは『精神現象学』において奴隷は死を恐れるからこそ主人に隷従して労働すると書いたし、アレントも『人間の条件』において、生死を賭けるものをもたない奴隷だけが、生きることだけに汲々ととして労働すると書いた。二人は生命をかける高貴な主人や英雄に比して、労働者は自己の生存のことしか考えない臆病者だと言いたいのである。そしてそのような労働者は、いかなる政治性も公共性も担わないルンペン・プロレタリアートであると言いたいのである。

  • アドルノは生存者を恐怖せしめる。お前は死ぬはずだったのに生きていると脅すのだ。



 えっ? 何だって? ……と思ってしまった。今まで僕が考えてきたことと反対のことを言われてしまってドギマギしてしまった。なにしろ僕は「賭ける」ことを主張してきたし、そのとき自分の生命を何らかの形で危険にさらすことになるだろう、と考えてきたわけだから。アレントやアドルノたちといっしょに僕自身も激しい口調で断罪されている……そう感じた。ヘーゲルもアレントもアドルノも僕はほとんど読んだことがないのだが、どちらかと言えば自分の考えをフォローしてくれる思想の持ち主だと想像していたのに、ここでは悪者になってしまっている。

 ちょっと調べてみると障害者や延命医療について発言されてる方のようなので、その文脈から「ただ生きていることが<よい>」という主張が行われているのだと思う。が、その主張を拡大して「生命をかけるに値するものなど一つもない」というところまでもって行ってしまえるのだろうか? 僕自身、死にたいと思ったことなどないし、生命を犠牲にするべきだなどと人に押しつけたりできるはずもない。確かに、自己犠牲的なテロの続発や、戦争で国のために命を捧げよ、とかいったいかがわしい迷妄を断ち切る意味でこういう言われ方がされるのは理解できるが、生命を犠牲にするだけの価値は全く存在しない、というのは僕にはちょっと想像できない。
 まず、小泉氏のこの大御所思想家たちをザクザクと斬りまくっている鉄槌のような激しい言葉は、単に生きることを肯定するところから出てきているというより、向こう見ずで命知らずな戦士の言葉のように見える。書物でこのような主張をしたところで生命に危険が及ぶようなことはないかもしれないが、仮に<生きている>ことに一義的な価値があるという主張を、命がけで行わなければならない状況に陥った場合、小泉氏はどうするのだろう? 沈黙し、転向すればよいと言い切り、それで納得できるのだろうか? そうだというのなら僕には何も言えないが……。
 また、ヘーゲルはともかく産業社会を批判する意味合いで提出されている(と思われる)アレントらの労働論をただ生きていることを貶める言説だと解釈するのはイジワルすぎないだろうか。あくまでも生産労働が中心的な価値に祭り上げられている現実に対して、それを超える人間性を訴えているわけで、労働とそれによって維持される生命が無意味だなどと言いたいわけではないだろう。むしろ生産の歯車に組み込まれることのない障害者の身体を無価値なものと貶めるのは、産業社会の価値観のほうだろう。
 アドルノについては本当に知らないので何も言えないのだが「誰かの生と誰かの死は断絶している」という小泉氏の主張はなんだか不自然な割り切りだ。前回のエントリーでも書いたが、死者(歴史)はいつも自分とともにあって、それに負い目を感じるというのはごく普通の実感ではないだろうか? もちろん誰にどんな負い目や義理を感じるかというのは問題であって、アウシュビッツに限らず、聞きたくもない政治家たちの靖国論議を思えば、断絶してくれてたほうが正直ありがたいような気もするが……。

 もっとも、小泉氏は年季の入った哲学者であり、パラパラと本を眺めただけの僕が言ってることなど織り込み済みでもっと高度な議論を展開しているのかもしれないので、あとはもっとちゃんと読んで自分の考えを整理してからということにしたいが、いずれにしろ障害者の生や延命医療への問題意識は僕には全く欠けていたもので、ここには何か考えなければならないことがあるような気がした。
 たとえばこちらで言われていることが「ただ生きていることが<よい>」という考えのスタート地点なのだと思う。これは芸術とは全く異質な思考のスタート地点だ。なにしろ芸術はただ生きることを超えたところから始まるものだと思うだからだ。このx0000000000さんのエントリーの最後にある『ただそれでも、ただ生きること以上をなし得る者にとっては、「他者に対する責任」があると思う。』という言葉を読んで、やっと救われたような気がした。
 

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後期印象派に学ぶ

 20世紀美術の歴史は印象派から始まる。だが、本当に新しい芸術の端緒はむしろ後期印象派だろう。芸術家のキャラが立ってきて人間臭い作品が出現し始める。セザンヌ、ゴーギャン(ゴーギャンは普通印象派とは扱われていないが、同時代人という意味で…)、ゴッホ………彼らこそがそれまでのアルチザン的な美術の枠を乗り越え新しい意味合いの芸術を作り上げたのだ。伝統的な美の規範を外れる「逸脱」の芸術が開始された……と同時に彼らの生もまた市民(ブルジョワ)社会の規範からの「逸脱」に値するものだった。それだけに市民的感性の中にある人たちは、後期印象派の時代から1世紀を経た今でもセザンヌ以降の美術がわからないともらすことになる。

 
 セザンヌは革命児である。ルネッサンス以降の西洋美術の美学を粉砕した人だ。が、技術上の革新について語らないとなると、セザンヌにはあんまりパッとしない生涯だけが残る。エミール・ゾラという自然主義文学の巨匠と子供の頃からの親友だったが、スターダムにのし上がったゾラと比べて前代未聞の美を追求していたセザンヌの絵は誰にも相手にされることはなく、仲の良かったゾラからも見放され喧嘩をし絶交するに至る。人見知りで、何か憤懣やるかたないものを内面に抱え、女にももてず、絵も売れない……。今日でいうところの典型的な「負け組」の人生だ。
 それでも孤独の中で自分の美学を追究できたのは、亡くなったセザンヌの父親が成功した金融業者だったので、一生食うに困らないほどの遺産がセザンヌのもとに転がり込んできたからだった。セザンヌはいわば穀潰しとして生きていたということになる。商品と認められないものを制作し続けていただけならば、ほとんどニートだったと言えるかもしれない。


 行動的なゴーギャンの人生は波瀾万丈だった。船乗りや証券マンを職業にしていた彼は金融恐慌をきっかけに絵で生活することを考える。しかし革新的なゴーギャンの絵はやはり売り物にはならなかった。やがて西洋の文明に嫌気がさした彼は妻子を捨て仏領タヒチに脱出を試みる。現地人の若い女性と生活を共にしていたが苦しい生活の中、タヒチで永遠の眠りについた。いわばゴーギャンはヒッピーのはしりみたいな人生を送っていたわけだ。当然ではあるがゴーギャンの時代からしてすでに近代化の波はタヒチのような辺境にも訪れていたわけであり、原始的な自然の生活を求めるゴーギャンの夢ははじめから満たされるはずもなかったのであるが……。


 ゴッホの悲劇はご存知の通りである。自己犠牲的な情熱で民衆のために牧師として生きようとしていた彼が、挫折の結果選んだのは画家の道だった。印象派やとりわけ日本の浮世絵の影響を受け原色のタッチが激情のままのたうち回る独特のスタイルを確立してゆく。キチガイの描いた絵だと言われるほどの彼の絵に買い手がつくはずもなく、ゴッホの生活も貧困との闘いであった。セザンヌと違ってゴッホの生活は画商を営む弟の献身的な援助によって成り立っていた。つまりゴッホはパラサイトだったのだ。ゴッホの狂気や自殺の原因は今となっては想像するしかないわけであるが、自分の芸術がまるで認められないということに加えて、もともと人のために自分を犠牲に捧げようとしていた人だっただけに、弟におんぶにだっこ状態であった自分の存在のお荷物さ加減に絶望していたことだけは間違いないだろう。

 しかし見事に後期印象派のスターたちは苦い人生を歩んだものだと思わざるを得ない。ニートやパラサイト、ヒッピーだったのであり、まさしく「逸脱者」であり「負け組」だったのだ。たとえば印象派のマネやモネ、それからもっと時代が下ったピカソやマチスにも、ゴッホたちほどの逼迫した悲劇性は見られない。ピカソやマチスの晩年はむしろ成功者というべきだろう。つまり時代と芸術の理想の間にもっとも大きなズレが生じていたのがゴッホたちの時代だったということだ。それ以降の前衛芸術は時代(資本)に追いつかれ、むしろ回収されないためにいかに時代から逃走するかということが芸術のテーマになってゆく。ゴッホたちの場合は、生きてる間に彼らの絵は認められれることはなく、当然商品にもなり得なかった。ところが死後になって彼らの作品は特異な価値をもつ作品として理解され高額な商品へと変貌した。しかし、ピカソやシュルレアリストたちの活動は、彼らが生きているうちからその衝撃的な作品は反発を受けながらも商品として受け入れられていった。さらに、今現在アーティストと呼ばれる人たちは、ほぼすべて資本に飲み込まれてはじめから文化商品の生産者としてスタートを切っている、というのが正解であろう。ここであげた後期印象派の3人は開拓者だったのだ。広大な自由は恐ろしいほどの孤独やひもじさとセットになっていた。そこを疑惑と不安に苛まれつつも敢えて突き進んだことが彼らの偉大なところだった。

 それにしても何が彼らを芸術に駆り立てたのだろう。「美」や「特異性」なんていうけど、それは自分の安定した生活を犠牲にしてまで追求すべきものなんだろうか? 誰だってひもじい思いなどしたいなんて思っちゃいないはずなのに。ここには最近流行りの自己責任なんて言葉で語られるルールを超えたものが予感される。たぶん人は単に社会における安定や成功だけを求めているのではないはずだ。それこそ何か「正義」(市場における公正みたいなこととはとは別の意味で)のようなものを自分の生を犠牲にしてまで求めることがある、としか思えない(もちろんなんでもかんでも自分を犠牲にすりゃいいってもんではないだろうが)。でないと、彼ら前衛芸術家たちは倒錯者と呼ばれるほかはないであろう。実際そのように考えている人はけっして少なくないと思うが……。
 僕らはこの世界に負い目がある……とあえて考えてみる。人類の歴史に、過去に生きた人々の為したことや作り上げられたものに僕らは支えられることで今日がある。芸術に限ってみても過去の人々が作り上げた色や形、音やドラマを僕らは歓びとともに享受している。そこで享受したものを僕らは返済しなければならないと思っているのではないだろうか。過去の時代に繰り広げられたもの以上の彩りで今のこの時代を満たさなければならない、そうしなければ僕らの負い目は払拭できない……と思っているのでなかったらどうして芸術家たちがドンキホーテのように闇の中へ突撃してゆかなければならなかったのか僕には理解できないのである。
 芸術だけではなく、真理を求める情熱、社会正義を求める情熱の根底にも僕はまったく同じもの……現在を彩ることで人類の過去への負い目を清算し、未来へ向かって贈与するという運動……を見い出す。たぶんマルセル・モースのいわゆる贈与の経済は今も僕らの中に生き続けているのだ。
 ところがそのような僕らの中の贈与の経済は現実の資本主義の経済の中で齟齬をきたしギーギーと不協和音を奏でている。社会に対する怒り、憤りとはたぶんこの耳をつんざく不協和音のことである。そして社会のウソを告発し、異議申し立てを行おうとするとき、後期印象派の画家たちのように自分自身の社会での成功や日々の安逸を失ってしまうことがあるかもしれない。それは不可避なことだ。そのような危険を引き受ける覚悟がなくては世界に対する負い目を僕らは払拭できない、と僕は思う。大げさに聞こえるかもしれないが、市場経済のゲームの中での競争におけるリスクやら自己責任やらという小賢しくチンケな覚悟、資本主義社会からむりやり押しつけられた覚悟みたいなものとはっきり区別するため、僕はこれくらい誇大妄想的に自分たちの活動の意味を捕まえてみるべきだと思っている。

 

Category: 日記・その他   Tags: マンガ  

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南の島の哲学者


 フリードリッヒ・ニーチャはハンマーで哲学する。

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オヤジウイルス

 オヤジネタついでに書いときますと……。

 この西尾っていうオッサン………ブイブイ言わしてくれちゃってるよなあ……。ご存知でしょうがそもそもこの人ドイツ文学やってた人で、ニーチェの研究なんかやってたんですね。僕が初めて読んだ哲学書はショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』なんだけど、西尾幹二訳だったですね。それからニーチェの『悲劇の誕生』や『この人を見よ』もこの人の訳で読みました。その昔テレビで労働鎖国論みたいなのしゃべってるの聞いて「あれあれえ?」って思ったものですが、なんかもうどうしゃったんですか?って感じですよねここまで来ると……。あまりにもあんまりなんで誰も相手にしてないと思うんですが、何しろ昔この人の書いたものをずいぶん読んだわけですから、オヤジウイルスにすでに感染してるんじゃないかって心配です。ちなみに似たようなことを主張されてるユング派の林なんちゃらって人のものも読んだ記憶があるんすよねえ。若い頃僕、ユングなんて読んでたからさあ……。ユングのいわゆる元型の一つに老賢者(オールドワイズマン)ってのがあったけど、お前、老愚者なんじゃないの? って思っちゃうよ。

 病院で抗体検査してもらったほうがいいかしら? 今は異変はないみたいだけど、潜伏期間が終わって発症………なんてことになったら怖いし……。みなさん、もし僕がおかしなこと言い始めたら………そのときは不幸にもオヤジウイルスに感染してたんだと思ってください。

Category: 日記・その他   Tags: 思想  

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戦士の休息………なんつって。

 実は、夏頃から感じ始めていたのだけど、ブログの更新への意欲が急速に鈍ってきた。ブログのタイトルを『祭りの戦士』に変えて、戦闘的に自分から仕掛けてゆく場にしようと思ったのは今年の正月のこと。大それたことを考えていたわけではないが、世の中に、そして何より自分自身に活を入れたいというのがこのブログの目的の一つだった。とりあえずその成果はあったと思う。こんなに多くのことを考えた1年間はこれまでなかった。
 ところが、どうしたことか近頃そんな情熱が急に失速し、醒めてきてしまったのだ。疲れたわけでも牙が抜けてしまったわけでもないのだが……。その証拠に新しい問題意識で本を読めている。読む本読む本、みな面白い。どうも僕には栄養が足りてないのかスポンジのように何でも吸収してしまっているような感じで……だ。ニーチェじゃないけど、今はひなたぼっこするアザラシのように太陽光線を体中に浴びていたい……そんなことを思う。
 今月末に女房子供が日本に帰ってくるので(結構しんどいのよ、これが……)、そのへんを意識してる面もあるのかもしれないが、ちょっとしばらく更新のペースが変わりそうな予感あり……である。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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