泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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交流仮面

 普段「戦士」だとか何だとかって大仰なことを書いてるけど、どちらかといえば僕自身は「脱力系」のつもりだ。……というか脱力した感覚が好きだ。東南アジアフリークはみんなそうだと思うが、かの地の魅力は「脱力感」以外の何ものでもない。人生なんか難しいこと考えずに楽しく過ごしてゆけばいいのさ、肩の力を抜いていこうよ……何かに向けて緊張していた身体中のネジを緩めて自分を解放してしまうことほどの快感がこの世にあるだろうか? 東南アジアに行くと僕らを脱力させる空気があって、それがモワッとした熱気とともに体にしみ込んで来るのだ。成田空港に帰ってくると税関の職員を見てまず思う……何のためにそんなに肩に力を入れてるんだ?

 とはいえ僕自身は日々緊張感を持って結構必死に生きてるつもりである。にもかかわらずそんな僕を「相変わらずマイペースですね」とか、「プライドがない」だとか言う友達がいたり、かつて通ってた会社の社長には「君はたれ流しだ!」などとよく説教された。(シュルレアリスムのオートマティスムって要するにたれ流すことだと思う。)よほど僕ってユルユルに見えるらしい……。
 しかしである。まだまだ僕など生硬なのだ。もっと徹底して自分の精神のこりをほぐさなければならないと思う。あらゆる紋切り型の規範を解体し、融通無碍であることの中にこそ僕らがまだ目にしたこともない新鮮な緊張があるはずだ……。誤解してはならない。「脱力」の中には鋭い「緊張」が秘められている。

 たとえばデュシャンの芸術は脱力の極致だ。しかし展覧会場に展示された小便器やモナリザに描き加えられたヒゲのようなふざけた冗談の背後には、きらめく知性と戦闘的な反抗精神がピッタリと張り付いている。そのような知性と緊張があってこそ脱力した表情を打ち出せるのである。……デュシャンのような飄々とした風情と、その底にある知性とのギャップが僕は大好きだった。
 そのほか、古いところでは『ものぐさ精神分析』の岸田秀や、最近では『だめ連』なんてのがあったが、これらも脱力系と言っていいだろう。僕は彼らにけっこう影響を受けていると思う。しかし極めつけの脱力作用を僕にもたらしたものが何かと言えば、(だめ連とも関連するが)「労働の拒否」という言葉(戦略)だった。しかもそれは一部のラジカルなマルクス主義から出てきた発想だったので僕は少なからぬ衝撃を受けた。怠惰であることが解放の戦略であり得るとは………! なぜなら僕はマルクス主義ってシリアスなものだとばかり思い込んでいたからだ。
 確か「労働の拒否」という言葉に僕が初めて触れた、小倉利丸の『搾取される身体性』という本はきわめてシリアスなマルクス思想の分析である。しかしこれを読んで僕の中に広がったのは新しい脱力の地平とでもいうものだった。毎日忙しく働く友達を尻目に、東南アジアの安宿で南京虫に血を吸われながら怠惰にボケーッと本を読んで過ごしていた日々を、思いもよらぬ形でマルクスや運動系の人々が肯定してくれたような気がした。お前のやってることはきわめて人間的なのだ……もっと自信を持ってお前の道を歩みなさい……と言ってくれてるような気がして、この本の読後感は、ほとんど「痛快な」脱力感だった。

 脱力的状態というのは、単に力が抜けた状態を言うのではなくて、それまで自分が縛りつけられ、世間がとらわれ続けている規範から解放されてこそ可能になる。それは規範の虚構性を見抜く知性と、規範には隷属しない闘争心(規範への反抗)によって裏打ちされていなければならない。知性と闘争心に貫かれながらも、あえてそれを見せずに隠してしまう………これが「脱力」の戦略だ。いってみれば生き方における「両手ぶらり戦法」である。わざとガードを外し、自分を隙だらけにして、他者を油断させる。何をこいつは余裕こいてるんだと、相手がその誘いに乗っかってパンチを繰り出してくればしめたもので、クロスカウンターをお見舞いしてやろう! というわけである。
 鈍い奴には「脱力」が緊張感のないユルユルな人間(バカ)にしか見えないだろう。しかしそれは高度に戦略的な反抗のスタイルであり、腕試しの方法であり、歓待の技法であり、仮面である。だから『だめ連』は全然「だめ」じゃないのだ。たぶん社会の規範への挑戦の気概を持って自分の力を試したいと思っている人、そしてその腕試しを楽しみたい人は、自然とこういう「脱力」の戦略を選んでいるのではないだろうか。「脱力」の余裕が示すもの、それは前向きな「強さ」なのである。

 一方、「脱力」的戦略を常日頃用いている人が、ときに対称的な「シリアス」な方法で自己主張することがある。大真面目な顔でもって愚直なほどストレートで明快な正攻法で自己を表現するのだ。あまりにもド真ん中に直球を放り込んでくる様は、周りの人をしてやっぱりこいつはどうかしてるんじゃないんかと思わせることすらある。だが、この正攻法も実はストレートにすべてをさらけ出しているわけではなく、何かを隠した仮面だと考えるべきだ。
 おそらくこのような正攻法で対決しようとしている相手は知的レベルのそこそこ高い人だと思う。というか実際には高くなくても、世間でそのように評価されている人だろう。インテリ気取りの人はとかく難しく深刻な顔をしがちで、その表現方法も手の込んだ晦渋なものであることが多い。ときにそれは見かけ倒しのはりぼてであったりする。厳めしい表情で周囲を脅しつけて自分の知性の中途半端さによる不安から身を守るのである。このような人たちの隠れ蓑に対してあえて素手で、素っ裸で真っ正面から挑むのが「シリアス」の戦法だ。(シリアスと言っても、ただの真面目ではなくてド・シリアスでなければいけない。真面目であることは大切だと思うし真面目な取り組みには胸を打たれる。しかしちょっと芝居がかった大真面目な顔の下にニカッと笑ってペロッと舌を出した顔が潜んでいてこそ本物だ。)
 これもまた「脱力」とは別の意味で周囲を油断させる面を持っている。ようするに単純さ、単細胞さというのはナメられるのだ。したがって「脱力」同様「シリアス」戦法もガードを外し、他者の侵入に対する敷居を低くして、自分を無防備なさらし者にするテクニックだといえる。それは他者との「交流」を呼び込む「誘惑」であり、「挑発」であり、「釣り」なのである。一本気な単細胞生物の内部にはふてぶてしい精神が隠れているはずだ。単純であることもまた知性と「強さ」なくしてはかなわないのだ。

 重い鎧やバリケードで武装せずに常に無防備でいること……これは「交流(コミュニケーション)」を求める人のスキルである……というよりほとんど生理だと思う(スキルという言い方はやはり嫌いだ)。放っておけば人は自分の世界の中にまどろもうとする。ま、それはそれで心地よいものかもしれないが、本当に眠り込んでしまったらそれでおしまいだ。だからこそ自分の殻を打ち破る、他者との「交流」が必要なのだ。「脱力」の戦略にしろ「シリアス」な戦略にしろ、「交流」へと自分を追い込むために用いられる仮面であって、この「交流仮面」の存在を感じる人の言葉、作品、行動こそが僕には面白く感じられる。


 ところで『だめ連』ってホームページがあったはずだよなあ、と思って検索したらこんなのが引っかかってきた。一応同じ業界に籍を置いているのだけど、宮崎さんにはさっぱり親しみがわかない(ほかに親しみのわく人がいるわけではないけどさ……)。この「神隠し」って映画は見てないのだが、多分この大物のこんなところに反発を感じてるのかもしれない。そういえば宮崎アニメの主人公たちって「できる」奴らばっかだよな……。まあ、僕は間違いなく「だめ連」側だからね……。

Category: 日記・その他   Tags: 家族  

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子育てに奮闘する祭りの戦士

 トラバやコメントへのレスが遅れて申し訳ありません。仕事が忙しい上にガキの面倒を見るという負担がのしかかってきており、なかなか考える時間が取れません。ちょっと時間をください。

 僕は全然知らなかったのですが、幼稚園って11月の始めに願書の受付をして、いっぱいになり次第締め切っちゃうんですね。来年になってからボチボチ探せばいいと思ってたら、もうどこもいっぱいだよなんて人に言われて慌ててガキの行く幼稚園を探し始めました。幸運にもすぐ近くの幼稚園に滑り込みセーフ! 男はこういう子育て関連の情報を何も知らないんですよね。おまけに女房は外国人なので当然知らないし……。これからも苦労しそうですが面白い経験にもなりそうです。
 そんなわけで祭りの戦士は生命を肯定するために磨き上げられた剣をたずさえ、炎の装飾を施した甲冑に身を包んで、ガキの手を引き幼稚園の門を叩きました。感じのいい女の園長先生と話をして園内を案内してもらいました。そして入園の手続きを終えてやっとホッとした次第です。
 それにしても保育士さんたち……若くてきれいだったなあ。僕も園児になりた〜い。祭りの戦士なんかやめて、祭りの園児だあ!

Category: 思想など   Tags: ---

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コミュニケーション・スキル3

 以前、僕の「コミュニケーション・スキル2」というエントリーが難しいとチャマさんの頭を悩ませてしまったようですので、トラックバックをいただいたのをいい機会としてもう一度スッキリこの問題を整理してみたいと思います。基本的には新しい要素は何も加わっていません。同じようなことを感じてる人はいっぱいいるわけですし、今回はただ自分自身の頭の中を整理するためだけにちょっと書いてみます。

 つまりこういうことでどうでしょうか?
一言でいって、僕は生きることそのものがコミュニケーションだと思っているわけです。したがってチャマさんがおっしゃってるような、何気なく生き延びるために行ってることも当然立派なコミュニケーションだし、死の匂いのするような激情もコミュニケーションなのであって、その意味でやはりチャマさんのおっしゃってることと、僕の考えてることはそれほど違うとは思えません。
 むしろ僕が問題にしたいのは、そのような自然に行ってるコミュニケーションを「スキル(技術・能力)」として考えること……だと言っていいでしょう。いつのころからか「コミュニケーション・スキル」なんて言い方が世の中に広まってきましたが、それはなぜなのかということです。

 コミュニケーションを「技術」と捉えることが何を意味するのかと言うと、生きてる以上誰もが瞬間瞬間当然行っているはずのことの中に一つの尺度を持ち込み、「コミュニケーション技術」が卓越した人、ほどほどの人、欠落した人、といった具合に他人との比較によって能力的な格差をつけることができるようになるということです。つまり、社会生活上の人間関係で起こってきたイレギュラー(例えば不登校)をコミュニケーション技術および能力の欠如や欠陥として、つまり何らかの個人的でネガティブな「病気」と見なすことを可能にします。(チャマさんもよくわかってらっしゃるとおり)不登校の例でいうと、布団にもぐり込んで石地蔵状態になっている子供は、明らかにコミュニケーションを試みています。自分で自分の気持ちをうまく説明できない子供が体全体でメッセージを発してるわけですね。
 ところがコミュニケーション・スキルを云々する社会学者や心理学者なんかは、これを子供の性格上の欠陥、正常な集団生活を送る(コミュニケーション)能力の欠如として捉えてしまいます。そうすることで、僕らが聞き耳を立てなければならぬ小さな叫びを……この社会には何か問題があるのだというミクロな告発を叩き潰しつつ、君は病気なのだと断罪するわけです。おまけに、そのような子供に育ててしまった親の子育て能力にも問題がある……といった具合に両親にまでプレッシャーをかけることも可能になってくるわけです。

 さらにコミュニケーションを「スキル」として格差、序列をつけることで、僕たちはより有利に生きるための競争状態に投げ込まれ、煽り立てられるという可能性が出てきます。つまりそのような価値の尺度=物差しを僕らは積極的に受け入れ、内面化し、その物差しに則った競争に自発的に従属するわけです。おそらくここで社会学者の果たしている役割は、学者という権威をもってして、そのような価値の尺度を高みから僕たちに押しつけてくること……現在の社会がよって立つ物差しに箔を付けることだと言っていいでしょう。

 このような社会学者などがある種の人間関係の問題を、個人の欠陥(コミュニケーション能力の欠如)や病気に由来すると見なすとき、そこには何らかの正常/病気の境界線を引く、人間についての判断が含まれています。つまりある正常な人間像があって、そこから外れる人間を欠陥や病気と見なす視点が含まれています。
 要するにこれらの社会学者が前提にしているのは、人間はとにかく社会に適応すべきであり、それができない者は欠陥品なのだ……という現在の社会体制の太鼓持ち的な発想です。彼らは「システムの価値観に従属しない存在」=「社会に適応できず、周囲との適切なコミュニケーションをとれない、あるいは、とらない人間」を「病気」として扱い、人間失格の烙印を押し、あなたもシステムに従わないと欠陥品として扱われますよとやんわりと脅し、システムのよって立つ物差しへの積極的なコミットメントを煽るわけです。しっかりと社会について来ないとつらい人生が待ってるぜ……ってわけです。この「スキル(技術・能力)」という発想は、最近よくいわれる「自己責任」とか「自己決定」などの言葉が僕らに押しつけてくるプレッシャーと共通のものだと思います。一言でいってコミュニケーション・スキルという発想は、自発的な社会への服従を促すものであるとともに、「社会には逆らうなよ」という脅迫をオブラートに包んでいる概念装置だと言っていいかもしれません。

 繰り返し言いたいのですが、生きることは即コミュニケーションです。ギクリとするような異様な行動や反応をする存在を目の当たりにして困惑するにしろ、僕らはそれを積極的なメッセージとして理解しようとするべきです。少なくとも社会学者や心理学者であればそうしなければならない。なのにそれを理解しようともせずに、コミュニケーション・スキルなんていう概念を現実と学問の間に差し挟んで、社会問題を個人の能力の欠陥や病気に還元してしまうとすれば、それは学者の仕事というよりそもそものはじめから現行体制をヨイショするものでしかありません。いつだったかチャマさんのブログに出てきた箱庭療法のカウンセラーの話と全く同じですよね。コミュニケーション・スキルだなんて言いながら、コミュニケーションのセンスが全く感じられないのは、笑いたくても笑えない話です。今まで僕は内田樹さんの書いたものに散々ケチをつけてきましたが、なぜかと言えばこの人の中に典型的なシステムの太鼓持ちを見るからなんです。ちょっと前にもこの人は「コミュニケーション失調症候群」なんて言葉を発明して最近の学生には欠陥があるみたいなことを書いてたんですよね。これは「コミュニケーション・スキル」という言葉でなされているのと全く同様な事態の捏造です。コミュニケーション能力に欠陥がある人ってのは、むしろこういう人たちだと思うのですがね(笑)。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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