泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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アバレンジャー


やっとこさタイからカメラが送られてきたよ。

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欲望の政治の系譜

 Arisanさんのブログで「欲望の断念」という言葉を久々に目にしました。この「断念」を求める言葉を某ブログで読んだとき、怒りにも似た感情をおぼえたものですが、僕が聞く耳を持たないせいなのか(笑)相変わらずこの言葉については一体何のことやら……と思わずにいられません。が…実は、ふざけるな!と思っていながら、もっともらしく「断念」なんて言葉を語られると、自分の考えに自信のない僕は(汗)疑心暗鬼に陥ってしまって、Arisanさんのエントリーを読んで「ウン、やっぱりそうだよなー」とホッと胸をなで下ろしている始末です。

 ラカンの(ものと思われる)用語については僕は全く知らないので、Arisanさんの文を読むのに文脈から言葉の意味を想像しながら読んでみました。よくわからないところもあり、完全な理解とはいかないまでも(かなり強引に自分に引きつけて読んでしまっているかも…)僕にとって大筋において共感すべき内容のエントリーであり、興味深い言葉がちりばめられているのでちょっと自分の思索の素材にさせてもらって、僕の視点から「欲望」を掲げる運動について語ってみようみようと思います。

 Arisanさんの文章には「当事者(マイノリティー)」という言葉が出てきますが、よく耳にするこの言葉とどのようにつきあったらいいのか僕はずっとわかりませんでした。というのも、地球上に同じ条件、同じ環境に生まれてくる人間など一人もいないわけで、すべての人間は可能性としてはマイノリティーでありうるはずだからです。つまり、Arisanさんがおっしゃってるように、僕は「自分一個の当事者性」(実存的な切実さ)以外に当事者性というものが存在するのか、と単純に思ってきたわけです。
 とはいえ現実に当事者と呼ばれる社会的排除の対象になる人が生まれるのは、マジョリティというものが厳然と存在しているからに他なりません。支配的な価値観(メジャー)が社会や人の意識の中を貫いているからこそ、周縁部に位置するマイナーな存在がクローズアップされてくる……。
 ということはマジョリティがなくなれば同時にマイノリティ問題も消滅すると論理的には考えられます。……まあ、実際にはマジョリティ/マイノリティを消滅させるなんてことは不可能なことだと思うのですが、少なくとも支配的価値観の虚構性を暴露し、相対化することでマジョリティとマイノリティの境界線をズラしてゆくことはできると思うし、ズラし続けることがそもそも「運動」の意味だと僕は思います。
 このように社会運動におけるいわゆる個人の欲望の肯定とは、メジャーな価値に対抗的な、個人のマイナーな価値の主張だと考えることができると思います。つまり特異でマイナーな価値感を現実の社会の中に押し広げることによって、マイノリティを生み出す支配的な価値の専制に疑問符を叩きつけることです。ここでは個々の運動主体は自らマイノリイティであることを決意し、自分の生の当事者性を徹底的に追及することになるでしょう。
 
 一方、そのようないわば個人の欲望(意識)を重視する運動の形とは別に、従来の(Arisanさんの言うところの「理念」や「組織の原理」によって機能する)社会運動(政治)の形があります。「組織の原理」が問題となっていることからもわかる通り、こちらの運動形態は統一的な活動の目的をもち、実効的に目的の実現を目指すタイプの運動で、運動主体は目的(理念)実現のための手段として自らを理解していると思います。

 たぶんこの目的的な運動形態の方が欲望を掲げる運動よりも、たとえばいま現在排除の対象になっている「当事者(マイノリティー)」の生々しい苦境に対して的確な支援を行うことができるという意味では、はるかに行動的といえるでしょう。
 それに対して欲望を掲げる運動はバラバラで一見ほとんど無力な活動に見えるはずです。単なるお遊びに過ぎないと言われるかもしれない。それだけに従来の運動の側から(Arisanさんの言葉を借りれば)「もっと大人になれよ」=「欲望を断念せよ」という物言いも生まれてくるというわけでしょう。

 ところでこの欲望を掲げる運動が歴史の表舞台に登場してきたのは、「冷戦」の終結、「大きな物語」の終焉にかかわっているとArisanさんはおっしゃっています。……ザックリと言えば、党(党派)の組織の規則や、理念の共有によって形成された社会主義という実験=運動の失敗が「欲望の政治」が浮上してきた最大の原因だということになるでしょう。
 以前に書いたことですので詳しく述べませんが、上意下達の党組織によって展開された運動はタテの権力構造を再生産してしまいます。結局新しく作られた社会には新しい中心(メジャー)が形成され、同時に排除される存在(マイナー)も作り出されてしまったわけです。(それに対して「欲望」を掲げる運動が指向するのは、「権力」ではなく「交流」という新しいヨコの人間関係の構築です。いわば個々人が多方向にそれぞれ「当事者性」を追求しつつ共生するという関係になるでしょう。)
 社会主義社会の破綻が目に見えて明らかになったのはつい最近のことですが、第二次世界大戦以前、ソ連でスターリンが権力を握っていた頃すでに事実上この実験の行方は見えていたと言えるわけで、そのような従来の運動形態に対して「欲望」を掲げる運動は当時から存在していてました。
 いろいろな先駆者が考えられるでしょうが、僕はシュルレアリストたちこそがはじめて「欲望の政治」を具体的、衝撃的な形で開始したと思っています。ブルトンは『「世界を変革する」とマルクスは言った。「人生を変える」とランボーは言った。これらふたつのスローガンはわれわれにとってひとつのものになる。』と宣言していますが、この言葉はArisanさんの文章の中に出てくる「自分のための行動と、他人のための活動とは重なっている」という言葉と全く同じ意味だと思います。
 シュルレアリスムはオートマティスムという技法をもちいて、理性の検閲を受けないまま無意識の欲望を解放しようと考えました。つまり従来のフォーマルな組織中心の政治運動を特徴づける目的性に対し、自動性(偶然性)を重視して結果や目的の達成を目指さない運動の方向(=新たな人間関係の構築)を示したわけです。
 ブルトンらシュルレアリストの主要なメンバーは共産党員だったのですが、党の側からは終始冷ややかな扱いを受けていたようです。共産党の側からすれば結果や達成を目指さない運動なんてお話にならないわけで、このような反応は当然と言えるでしょう。後年のサルトルによるシュルレアリスム批判にみられる「思春期の文学」とか「寄生主義」などという言葉が示しているのは、まさに「もっと大人になれよ」という従来の目的的な運動の側からの批判だと考えられます。何のことはない、すでに戦前においてArisanさんの指摘している、今日の社会運動の困難や混乱は始まっていたわけです。

 シュルレアリスムそのものは、ブルトンの権力志向、結局は芸術運動の枠を超えていなかった……など、運動としては批判されるべき点が多かったのですが、明らかに「欲望の政治」の端緒であることは間違いないと思います。そしてこの運動の方向性は、シュルレアリストと対立していたバタイユたちの秘密結社、さらに戦後にシュルレアリスムの乗り越えを標榜して登場してくるシチュアシオニストたちに引き継がれてゆきます。
 が、いずれにせよ彼らはごく少数のインテリのグループであったり、アンダーグラウンドに展開した目立たぬ運動でした。おそらくこれら「欲望の政治」が社会の表面にまで噴出してくるのは、やはり68年5月以降ということになるのではないでしょうか。また、68年世代の思想家……ドゥルーズ=ガタリから最近話題のネグリまでこの「欲望の政治」の系譜は一つの力強い流れとなってずっと切れ目なく続いている……僕はそのように感じています。

 僕自身はほとんど社会運動には関わったことはありませんので、今現在の運動主体たちがどのような困難や混乱の中にあるのか全くわかりません。若い頃、前衛芸術家を気取っていた(シュルレアリスム的な問題意識を持っていた)僕としては、むしろ現代の社会運動に「欲望」や「当事者性(マイノリティ)」の問題が浮上してくるのは当然だと考えていたし、それが何らかの混乱であるとは考えていませんでした。というのも実験的な芸術家が自らの生を賭けて追求していたものは、実存の「当事者性=特異性」に他ならないからです。それだけに「欲望の断念」ってのは一体どういうことなんだろう……と首を傾げてしまうわけです。

 ところで、「他者」という言葉を使うとすれば、自分以外のすべての存在は「他者」でしょう。しかしそれが社会問題として取り上げられるのは、僕たちがある価値観を共有する共同体の一部分として存在し、またその共同体はいわゆる第三項の排除によって成立しているためです。つまりその排除された項が「他者」と呼ばれているわけです。
 最初に述べたように僕たちは自分の生まれの条件を選ぶことはできません。仮に僕がマイノリティを排除していることで成り立っている共同体(マジョリティ)に生まれついた場合、僕はマイノリティ側の人たちで自然な交流ができなくなってしまうのか……差別され抑圧されたマイノリティを特別扱いせずに理解し共感し合える立場というのはあるんだろうか……このことを僕は登校拒否の友人を持って以来考え続けてきました。
 とりあえずArisanさんのエントリーに触発されて得ることのできた回答を示すとすれば……結局すべての存在は可能性としてはマイノリティなのだから、個々人がそれぞれおのれの特異な当事者性を生きることで現実的にマイノリティになるとき、共同体のしがらみを超えて、排除された少数者とダイレクトに連帯する地盤に立てるはずだ、ということになるでしょうか。
 先進国の金持ちに生まれる人、ハンサムや美人に生まれる人、また、貧国のスラムに生まれる人、差別される少数民族に生まれる人、肉体的なハンデを背負って生まれる人、………偶然の運命が自分の環境を決めるわけですが、とにかく僕らは自分の生まれを呪ったり、ましてやそこにあぐらをかいたりしていたって仕方がありません。僕らにできるのは自分の生まれた環境や条件をマイナス面もひっくるめて最大限に活用し、可能な限り自らの生の「当事者(マイノリティ)」たること、すなわち自らの特異な欲望を徹底的に肯定することだと思います。それが「欲望の政治」の闘争の意味なのであって、その闘争の中にあるとき、あらゆる時代のあらゆる場所のマイノリティたちと、血の奥底深くで共振することができるのだと思います。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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