泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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労働は本当にオーバーアチーブメントなのか?

 エントリーを書き進める時間がなかなか取れません。暇を見つけてちょっとずつ考え、書き進めていたのですが、気がついてみるとkawakitaさんのエントリーへの反応はずいぶん広がりを見せていて、もう僕の出る幕ではないようです。いつの間にか傍観者として皆さんの記事を追ってゆくだけの存在になってしまいました(笑)。

 そりゃ違う (生存適者日記 )
 贈与と労働 (猿虎日記)
 内田樹の言説の批判的検討 (「壁の中」から)

 kawakitaさんへの回答をしたためるはずだったのですが、僕なんかより頭の切れるこれらの人たちのエントリーが十二分に僕の言いたいことを代弁している……というか僕も読みながら逆に学ばせてもらってます。とくにkingさんのエントリーは僕の考えとかぶるところが多いようです。……が、議論をふっかけておいて何もしないというのもなんですので、遅まきながら僕なりにkawakitaさんの書いたものへの疑問を述べておきたいと思います。

 まず、kawakitaさんのエントリーを読んで、あれっ?と思ったのは労働の定義のところです。
 
労働・・・生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと。

 ………とあります。けど、価値を生み出すのは労働だと考えるのが普通です。とすればkawakitaさんによる労働の定義は、労働によって生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと………となってしまいます。定義されるべき概念があらかじめ前提として述語の中に挿入されてしまっています。例えばこれが資本主義社会における賃労働者の労働のあり方(交換関係)についての定義であるなら納得できます。しかしこれではどこまで行っても労働そのものの定義には到達しないでしょう。
 まあ、kawakitaさんは労働が常にオーバーアチーブメントだということを言いたいに過ぎないのかもしれません。しかし内田さんは労働=オーバーアチーブメントこそが人間を動物と分化させるメルクマールだという人類学的観点から労働を問題にしているのですから、まず労働の何が動物と人間の間を隔てているのかというところから定義してゆかなければならないはずです。ところがkawakitaさんの書いたものではこのへんが非常にあいまいで混乱しています。

 僕の慣れ親しんだ「労働」の定義は、こうでした。
 ………動物性においては、現在のこの瞬間に持っている欲求を何の保留もなく充足させてしまうところを、ある未来の時点において別の形でその成果を享受するために、現在の欲求の充足を保留しつつ行われる活動………とでもなるでしょうか。つまり「労働」は現在のこの瞬間を、未来に実現する目的のための手段にすることでもあります。このように現在を未来のための手段と見なすことは人間にしかできません………というかこの転回を通じて人間は人間になりました。したがって労働するのは人間だけです。
 これはkawakitaさんの言うところの自己充足の迂回……ということと基本的に一致します。自分の労働力をまず他者が必要とするものを作ることに向けられ、その対価としての賃金という貨幣を得て、他人が生産したものを消費する(=社会に参加する)……という時間のファクターを組み込んだプロセスも僕の「労働」の定義の枠内におさまりはします。
 しかしここからすべての「労働」はオーバーアチーブメントであるという結論が導きだせるのでしょうか。

 おそらくkawakitaさんが労働そのものを定義しようとしている部分で、時間も資源ですので、自分が自分のために使う労働時間を、他者の望むもののために使い、そこから得た貨幣を自分が望むもののために使う、というのはたとえ労働時間と貨幣の価値が等価だったとしても、時間が「オーバーアチーブメント」になる、とおっしゃっているのですが、現在の瞬間(時間)を未来時のための手段にすることは、時間を資源として消費し、その部分をオ−バーアチーブメントとしてカウントすることとは全く違うのではないでしょうか。「時間的な迂回を行う」ことは(人類学的な)労働の本質に関する規定として言われています。しかしkawakitaさんのやってるように、時間を資源として考えることは、生産物や労働力と同様に具体的な(交換可能な)価値として時間を問題にすることであって、全く別の事柄です。僕の見るところ、この二つを混同するところから「労働はすべてオーバーアチーブメントだ」という結論が導かれています。
 「時間」が労働の定義において問題にされているのは、労働は時間的な迂回を行っている(現在という瞬間を未来のための手段にしている)ということ、そしてもし時間的な迂回がなければ(瞬間的に欲求を充足してしまえば)それは労働ではない……ということに過ぎません。ところがkawakitaさんは、労働そのものの定義の中に「たとえ労働時間と貨幣の価値が等価だったとしても、時間が「オーバーアチーブメント」になる」といった具合に、「労働時間」とか、労働と交換されるであろう「貨幣の価値」や「時間」などの定義すべき概念を前もって滑り込ませてしまっているのです。そうすることでありもしないオーバーアチーブメントを捏造しているわけです。
 ようするに労働の定義からは、労働は常にオ−バーアチーブメントの非等価交換である、という結論は導けません。まずこの人類学的な知見とやらは大間違いです。労働とその対価は等価でも不等価(オーバーでもアンダーでも)でもあるうるし、性質の全く違う労働とその対価のどちらが大きいか比較できるかどうかも疑問です。同じ労働が社会や時代によって全く違った評価を受けることだってあるでしょう。少なくとも労働そのものが必ず、生み出した価値に対して、得られる対価が低いことであるといった前提は二つの「時間」の概念の混同による錯誤だと思います。

 この手の混乱がkawakitaさんの文章のあちこちに見受けられます。「自分が自分のために使う労働時間」とか、「自分の必要を満たすために労働力がすべて自家消費がなされない(=結果的にオーバーアチーブメントが発生する)」と述べてらっしゃいますが、kawakitaさんの定義ではこのように時間的な迂回を経ずに自己充足してしまうことはそもそも「労働」ではない(=動物的である)はずですが、どういうわけか人間の労働として語られているのです。……ということはやっぱり等価交換も労働でありうるとkawakitaさんもどこかで考えてらっしゃるのではないでしょうか。
 ここでなされているのは、「動物性における欲求ー充足の関係が等価であるということ」と「人間の労働によって生み出した価値に対して、等価の対価を得ること」が等価であるという相似だけによって同一視されることです。この同一視の手続きによってkawakitaさん(内田さん)は、資源の自家消費(等価交換)を非人間的(動物的)なものだと断罪しているわけです。なにしろ「人間的」であるとは「自己の資源のすべてを自家消費しないこと」であるというのですから。

 したがってkawakitaさんが三つほど例としてあげている「自家消費」のやり方についての記述も奇妙な文章になってしまっています。
 まず完全な自給自足ですが、「自分で自分に労働力を使用すれば」構造的にオーバーアチーブメントではないのでkawakitaさんの定義上、労働していないことになるはずですが、自給自足の人の活動を「労働力」なんて言葉を使って説明しています。はたして自給自足の生活者は労働する人間なんでしょうか?それとも労働しない非人間(動物?)なんでしょうか?
 次の例での社会主義の破綻を読み解く内田さんの説明はかなり独創的なものです。一元的で中央集権的な官僚体制に社会主義社会の非人間性の原因を求めるのが一般的ですが、内田さんは社会主義における労働が、労働力の「自家消費」に限りなく近づいたために……つまり資本による搾取をなくそうとしたために非人間的な体制になったのではないかと解釈するのです(こんな説はちょっと聞いたことがありません)。しかしさっきも言った通り、等価交換に近づけば近づくほど非人間的である、というのは等価交換と動物性のすり替えによる錯誤であって、まったくのデタラメです。自らの労働力を自家消費しようと、働き以上の対価を得ようと、人間は労働しているわけで、その限りで人間的であるわけです。このような独創的で社会主義の実情に何ら触れることのない妄想的説明が出現するのは、逆にすべての労働はオーバーアチーブメントであり、その限りで人間的であるというインチキな原則を立ててしまったせいです。
 また最後の「働かない若者」についての内田さんの戯れ言も同様のメカニズムによっています。まずオーバーチーブメントであることが人間的なのだという定義があるせいで、「働かない若者」をどう理解したらいいかわからなくなっているのです。労働0=対価0の等価状態は定義上、非人間(動物)であるはずだが、まさか現実に存在する若者たちを「お前らは人間ではない」とは見なせないので、やっぱり何か労働しているはずだと……「不快という貨幣」を蓄積しているのだ……という神話をでっち上げざるを得なくなってしまっているのです。誤った原則をフォローするために積み上げられたトンチンカンな説明……。
 現実に労働しているかどうかはともかく、あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、合理的に思考しうることは、動物にはできないきわめて人間的なことです。それは現在の瞬間を手段としてとらえ、自らの活動の結果を計算するという「時間的な迂回」なしにはできないことだからです。人類学的に動物と人間の間に分割線を入れるなら労働を可能にするこの「時間的な迂回」の能力をメルクマールにした方がより適切ではないかと思います。少なくともオーバーアチーブメントの非等価交換状態にある労働にその指標を求めてしまうのは誤りだと言わざるを得ないでしょう。

 はじめにも触れましたが、「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」は、資本主義社会における賃労働者の労働のあり方(交換関係)の説明としては正しいと思いますが、どうも内田さんはこの説明を労働の本質にまで拡張させてしまっています。そこに内田さんの思考が現体制の追認・擁護のイデオロギーとして働くことを許す仕掛けが潜んでいます。kingさんもおっしゃっていますが、労働=オーバーアチーブメントの非等価交換を人間の本質に祭り上げると、オーバーアチーブメントの状態にない労働や人間を非人間的な存在と吊るし上げ(排除し)、賃金以上に働く資本主義システムに従属する存在こそ人間に値すると言いうるわけですから。
 僕は内田さんがどのような意図でこういった奇怪な発言を繰り返すのかわかりませんが、これでは仮に現行の社会システムを批判しているつもりでいるとしても、全く正反対の(sivadさんの言い方を借りれば)効用を持って社会に流通してしまうでしょう。何度も言い続けてきましたが、そのような言説を素直(=内田さんの発言の意図を正確に汲み取る)に受け取ってしまってはいけないと思うのです。
 僕の想像では、内田さんの精神の中には資本主義社会の規範が強固に内面化していて、だからこそ概念の混乱などものともせずに、資本主義的な労働の形態をそのまま労働そのものの規定にまで拡張してしまっても不自然に感じないのでしょう。そしてそれだけにその規範を背く存在が苛立たしく「不快」に思えてならないのだろうと思っています。

 とりあえず以上がkawakitaさんのエントリーを読んでおかしいなと思ったところです。ま、正直僕も内田さんなんて興味もないしどうでもいいのです。ただネオリベラルな思想がどのような形で僕らを罠にかけてきているのか、非常にわかりやすい例を示してくれているのかもしれません。みなさんも思考のトレーニングのつもりで内田さんの言葉に挑んでみたらいかがでしょう?

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資本主義社会における贈与とは反抗することである

 不快という貨幣 (内田樹の研究室)

 やはり働かない若者がお気に召さないのだとしか思えません。もう内田先生のブログは自分のRSSリーダーからはずして久しいのですが、やはりどこかから目に入ってきてしまうんですね。で、最近忙しいこともあって、少しネットから距離を置こうというとしているにもかかわらず、こーゆー文章を目にすると古い刀傷が疼くというか、やはり僕が一つ釘を刺しておかないといけないのじゃないかという使命感にかられてしまいます(笑)。
 ま、冗談はともかく……セクハラ・アカハラの増加の原因は若者のコミュニケーション不全にあるだとか、学びから逃走する者が資本主義を暴走させるだとか、気にくわない奴を吊るし上げる排除の思考が得意な内田先生は今回、なぜ若者が学びや労働から逃避するのかという問題に一つの仮説で答えています。

私の仮説は、「労働から逃走する」若者たちは、大量の「不快の債権者」としてその債務の履行を待ち焦がれているというものである。 彼ら彼女らは幼児期から貯めに貯め込んだ膨大な額の「苦役貯金」を持っている。 それは彼らの幼児期の刷り込みによれば、紛れもなく「労働したことの記号」なのである。 ときどき預金残高が知りたくなる。 そういうときは、とりあえず「彼らの存在がもたらす不快に耐える人々」の数を数えてみる。 彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。


 彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのであるって、オイオイ……(諸君! いくらなんでもこんなこと言わしておいていいのかね!?)。もうこの書き方からしてすでに働かない若者が不快であること、債務の履行を待つことすらできない、こらえ性のないとんでもない存在なのだという先生自身の決めつけを披露しているようなものです。結局「労働から逃走する」のは若者がなっとらんからだ、っていう仮説のようです。

 内田先生は「不快という貨幣」なんてことを大発見のように語っていますが、そもそも子供にとって家庭でのしつけ、学校での教育、習い事などは基本的に社会の型にはめ込むための不快な強制であり、労苦です。先生のようにねちっこい書き方をしなくても、当然ながら(すべてがそうだとは言いませんが……)「学び」とは労働なわけです。どんな時代にしろ子供たちがこの労苦に耐えていられるのは、いつの日にかこの労苦が何らかの形で報われるのだろうと期待しているからに他なりません。つらい労働は、その成果を享受するために行われるのだし、だからこそ耐えることができるのです。脅されてでもいない限りふつう誰もそのような労苦を積極的に引き受けたりしないと思います。そういう意味では唯一労働しうる動物である人間は、現代の子供や若者に限らずとも合理的な「等価交換」の原理によって動いています。
 それにしても、なんでこんなあたりまえのことをわざわざ内田先生はねちっこく書くのだろう? 合理的な交換がなんで責められるんだろう? ……とずっと不思議に思ってきました。

 内田樹の研究室「不快という貨幣」は単純な「俗流若者論」か? (Kawakita on the Web)

 その疑問はKawakitaさんのエントリーを読んでやっと解決しました。つまり人間は「贈与」するものだ……と内田先生は言いたかったようです。等価な交換を超えて自らの労働の産物の一部を、さらに究極的には自らの生命そのものを社会に差し出してこそ人間的だ……という思想が背後に潜んでいて、その地点に立ってビジネスライクで功利的な働かない若者たち……すなわち贈与することを忘れた若者たちを断罪するという構図だったのです。   

 Kawakitaさんが今村さんたちの文章を引用して言いたいことはよくわかります。なるほど前近代の社会は高貴な蕩尽(非生産的な価値)を中心に組織されていたのですが、近代資本主義社会の誕生とともにそれは後景へと退いて生産が前面に押し出されてきます。「贈与」体制の失墜も「交換」の全面化もそのような社会の変化に呼応したものでしょう。
 しかし内田先生の言葉をその文脈で理解するのは間違いだと思います。内田先生の「贈与」の概念はひどく混乱したもので、その結果おそらく今村さんやKawakitaさんが意図することのない滅私奉公のすすめへと転換してしまっているのです。だからやはり内田先生の言葉には絶対賛成してはならないと思います。
 以前僕の書いたエントリーにGilさんがコメント欄で的確に内田先生の概念の混乱について説明してくれたことがあります。

 まず、前にも言いましたが、内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。 もちろん、現実には労働者はつねに資本家によって「搾取」されているのであり、労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎません。しかし、これと「贈与」における<等価交換の不在>は根本的に異なります(例えば、詐欺にあって「金を騙し取られる」ことと「自発的な寄付」がまったく異なるように)。

内田氏は、この根本的に間違った認識から出発して、「日本のサラリーマンの減私奉公は贈与行為である」という、たわけた議論を引き出しているわけです。 しかし、サラリーマン=労働者の行為が徹底的に功利主義と有用性の原理、そして市場における交換原理の上に成り立っていることを忘れてはなりません。労働者が「搾取」され、「騙し取られている」状況は、徹底して吝嗇な「資本の論理」に裏付けられています。 一方、古代社会における自発的な「贈与」ないし「供犠」は、「功利性」や「有用性」の否定である限りにおいて、祝祭的・宗教的な意味を担っていました。それらの社会においてすでに、「贈与」は「労働」とは対極にあるものとして位置付けられていたわけです。

もちろん、それらの社会でも、「供犠」や「贈与」は、神々や共同体の繁栄を祈る目的でなされていたことは確かです。 しかし、これは現代のサラリーマンが、巨大な機械の歯車のように<奴隷的・道具的>な存在であることを自ら受け入れ、時に死にいたるまで働きとおす、ということとは全く別の事柄です。


 もう何も付け加える必要のない見事な解説だと思います。つまり内田先生はこの誤った「贈与」に関する人類学もどきの奇怪な妄想で働かない若者を非人間的だと吊るし上げてるわけです。これでは「人間は働き、搾取されるべきなんだ!」という資本主義システムの追認・強化の主張にしかなりません。資本主義の誕生こそが「贈与」を衰退させ、「交換」を前面に押し出してきたはずであるのに…です。
 実際に働かない若者が最近増えているのか、またどのような理由で彼らが働かない・働けないのか、僕は詳しく知りませんが、内田先生のしているようなインチキな仮説でなくても説明は可能でしょう。中野昌宏さんも似たような分析なさっていますが、働かない若者の増加はかつてのフォーディズム=福祉社会においてライフスタイルはある程度安定したもの(逆にいえば硬直的、画一的)だったのが、ポスト・フォーディズム社会では多様化したために起こった変化だと考ることができるのではないでしょうか。つまり、かつてはみんなと同じように真面目に学校のカリキュラムをこなし、勤勉に働いていればそれなりにやっていけるのだという通念が社会の中にあったのですが、それがくずれて必ずしも真面目に学んでいれば、あるいはコツコツと勤勉に働いていれば、食うには困らないだろうという将来の見込みが立てづらくなっているんじゃないでしょうか。ようするに学びや労働の労苦が報われないという可能性が増大していると考えれば、わざわざ苦役を耐え続けることがバカバカしく思えるのも納得できます。
 むしろ支配の言語として多様性が語られ、同質であるよりも個性や独創性が社会の側から労働者の価値として若者に求められるようになっていることを考えると、むしろ誰彼とは違う自分を追い求め、通常のライフスタイルを逸脱したような生き方のほうが自らの(商品)価値を高めるし、カッコいいんだという判断が若者たちの中に広がりはじめているのかもしれません。
 僕は社会学者ではないので自分の仮説の正しさを証明する気はありませんが、このような社会権力のあり方の変動に若者の変化の原因を求めた方がよっぽどスッキリ説明できるような気がします。排除の思考は論理の混乱などものともしません。自分の偏見や先入観をあらゆる道具を用いて正当化し、誰かを吊るし上げることで、社会そのものが持つ問題から目をそらさせてしまいます。今まで何度も書いてきた通り、僕の想像では、学ばないそして働かない若者の存在が苛立たしくて仕方がない、というモチーフが先生の中にあって、それがこのような混乱した論理を用いた妄想となって爆発するのです。ですから僕は内田先生の言葉の中には他者(若者)を理解し、自分自身や自分のよって立つ現行システムを疑ってみようという知的な誠実さをひとかけらも感じることができません。

 ま、内田先生のことはともかく、何らかの形で「贈与」(非生産的な価値)を現行社会の中に取り戻したい、というKawakitaさんの想いは痛いほどわかります。おそらく僕たちの毎日の生活に広がる虚しさ、味気なさは、功利的な価値観の全面化によるものだというのは間違いありません。確かに私たちは功利性や計算を超えたもの(非生産的な価値)を求めているはずなのです。
 しかしそのとき内田先生のような言い方で「贈与」を云々したのでは、資本主義の吝嗇な規範を強化し、かえって贈与の精神を潰すことにしかなりません。内田先生の最悪のエントリーの一つ「サラリーマンの研究」の中でサラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。なんてことを堂々とおっしゃっていて、資本に搾取されてこそ人間なのだと言うのですから。
 勘違いしちゃあいけません。功利的な資本の論理が中心から生活の隅々にまで貫徹している現代社会において贈与的であることは資本主義が僕たちに求める規範とは明確に対立するはずです。贈与を意味する行為や事件は、僕たちの日常の中では異様な理解しがたいハプニングとして立ち現れるしかないのです。したがって贈与行為は内田先生が誤解しているように、何らかの犠牲を差し出すことで承認=アイデンティティを得ることではなく、資本主義社会に認められない=反抗するという形をとることになるはずです。「高貴な蕩尽」がこの社会の中で可能であるとすれば、資本主義の規範への反抗こそがそれにあたります。したがってあなたがこの社会の中に贈与の精神をよみがえらせたいと願うのなら、誰に求められるでもなく自発的に、また見返り(承認)を求めることなく、他ならぬあなた自身の生をシステムへの反抗へと捧げる必要があるでしょう。
 資本主義の規範は僕たちに働け!勤勉であれ!とあらゆる機会を通じて迫ってきています。例えば「働かない」こと、「怠惰である」ことはこの規範に真っ向から対立するものです。とすれば内田先生が「病」であると断定する「労働から逃走する若者たち」の中に資本主義の規範への反抗(=贈与)のモメントを見いだすことだってできるはずです……たとえ働かない若者の姿が異様で理解しがたいものに見えたとしても……いやそう見えるからこそです。(まあ、そう考えてみると内田先生の彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのであるという言葉は反抗に対するシステム側の反応を楽しんでいる反抗者の生理を語っているようで、あながち的外れではないかもしれません(笑)。)
 したがって僕はKawakitaさんの余裕や無駄(のように思えるもの)が果たしてきた機能が再認識されず、(「交換」的)合理性に駆逐されつつあり生活全般にそれが拡大してきていることを危惧されている(ように読める)内田先生の今回のエントリーは、対象は若者だけなわけがなくこの社会全体を示しているという意味で単純な「俗流若者論」には見えないという言葉には断固反対したいと思います。余裕や無駄が「交換」的合理性に駆逐されつつあると危惧するのであれば、まるで社会のクズ(無駄なもの)のようなものと見なされている「働かない若者」をここまで貶めることはできないと思うからです。確かに内田先生のエントリーは単純な「俗流若者論」ではないかもしれませんが、エセ人類学を駆使して読者を混乱させるイヤラシイ「俗流若者論」だと言っていいと思います。

 おっ、こちらに同志がいる……マンセー!。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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