泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 日記・その他   Tags: タイ    

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南国で闘う祭りの戦士 そして/あるいは産業戦士

 また、タイに来てます。。。働いてます。今回は少々滞在が長くなる予定なのですが、ビザの取得のめどが立っていないので、いつまでいられるかわかりません。こればかりは会社の協力なしにはどうしようもないので。。。

 久々に固定給で仕事をしています。ありがたいのは日曜日がゆっくり休めることです。これで本を読む時間もできました。「<帝国>」をはじめ、読めずに放っておいた分厚い本を3冊ほど日本から持ってきたので、しばらくは読む本に困らないでしょう。

 せっかくタイに来てるので、タイ語をもう少し磨きたいという目論見があります。それと自分用のパソコンとフォトショップをあてがわれているので、いい機会だから少しいじってみようと思ってます。

 それもこれも長期滞在が可能であればの話です。まずは今月観光ビザを取りにタイを出国しなければなりません。目的地はラオスのビエンチャンに定めています。幸いなことにこれまでラオス入国に際して必要だったビザが、日本人に限りいらなくなったとのこと。。。無事タイの観光ビザが取れますように!

Category: 思想など   Tags: 思想  

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許されている……わけじゃない

 前回のエントリーに対してもらった質問の答えです。

 「資本」も「権力」も私は似たような意味で使っています。なぜなら「資本」の意志は「権力」となってわれわれの前に現れていると思うからです。……意志なんて書いちゃいましたがもちろん資本は主体とか人格ではなくて、あたかも意志を持っているかのように振る舞っているように感じられる、ということで擬人的に使っているのです。
 経済学で言うところの資本は、個別の企業なり法人なりの(利潤を生み出すための)生産設備と労働者のセットのことなのでしょうが、私は具体的な企業みたいな意味では使っていません。もちろんそれらの企業体は資本に違いないのですが、私は資本主義社会のエッセンスのような意味で「資本」という言葉を使っています。
 ヨーロッパの片隅に生まれた資本制生産様式は瞬く間に国家をブルジョワ化し、国境を越えて地球全体を覆い尽くしました。現在地球上の社会はすべて資本によって組織され、あらゆる制度、交通、メディア、商品、の中にまで(果てしなき利潤の追求という)資本の論理が貫いています。したがって資本の支配について考えるとき、もはや個別の企業などの一資本の問題としては捉えきれないので、漠然としていますが現行システムの特質を一言で表すのに、「資本」という言葉を使用しているわけです。

 「権力」という言葉についても同じことがいえます。ふつう「権力」といえば警察的な強制力を持った装置を思い浮かべますが、それは資本の論理同様、法律や社会制度の中に、またメディアや商品の中に、さらに労働者の意識の中に……他ならぬ自分自身の中にも遍在し、作動しています。(おそらくフーコーの言ってるミクロ権力とはこういうものだと思うのですが、読んだことないのでわかりません。)警察的な権力であればそれを行使する主体を特定することができるでしょうが、制度や意識の中に存在する資本の支配=権力の作動は匿名的なものではっきりとは特定できません。
 よく、「社会」や「世間」が認める/認めない、みたいな言葉の使い方がされますが、私の「権力」という言葉の使い方はそれと全く同じです。「世間」がある人を許さない……といった場合、世間という匿名的、集合的な存在が目に見えないプレッシャー(権力)をある人にかけているという状態だといっていいと思いますが、そういう言葉の使い方は珍しくはないと思います。

 もうひとつ、私たちは許されているじゃないか、という問題ですが………もちろんシステムに反抗的な発言をした程度で警察権力によって収監されたり、殺されたりしてしまうことはないでしょうが(そういう極端な例もあるかと思いますが……)、それは私たちが許されているということとは違うと思います。
 ネオリベラリズムという形態の権力は、格差社会として私たちの前に姿を現しています。それは労働者に自らを市場において常に付加価値やフレキシビリティの高い労働力に高めておく努力を暗に強制するシステムだといえます。その努力を怠るなら労働市場における競争から脱落し、負け組への転落の可能性が待っているぞ、と私たちはさりげなく脅迫を受けているのです。
 つまり「資本」が私たちに求めているのは、資本の都合に自らを合わせてくれる労働力であれ、ということです。その規範に従えず、自らの労働力の価値を高め、マネジメントできる能力がないものや、規範に背くもの(逸脱)は、負け組の運命が罰として待っている………突き詰めれば野宿者の路上での死の運命が待っているわけで、システムの周辺には緩やかな懲罰空間が広がっていると考えることもできるでしょう。………というか、そもそもさりげない脅迫を受けている時点で、私たちの存在が単純に許され、認められているわけじゃないことは明らかだと思います。
 確かに、がさつでタイトな規律社会………独裁的な社会主義国家みたいなものを想像しますが………と比べると、私たちははるかに許されているかに思えますが、規範からの逸脱への管理は、労働者を内面から管理するより巧妙な形態に変貌しただけで、逸脱の自由はある意味困難にすらなっているのかもしれません。その変貌の由来が、大坂さんが言うようにコストの問題のせいなのか、それとも管理技術の進展によるものなのか……私は知りませんが。

Category: 思想など   Tags: 思想  

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「逸脱」と「逸脱もどき」

 また、大坂さんが、きはむさんのとこで私への援護射撃をしてくれたようです。久しぶりのこのお題………今でもけっこう議論の成り行きに注目してくれてる人もいるようですし、相変わらず私には奇怪な思考にしか見えないきはむさんの論なのですが、明らかな誤解もあるようなので、その辺り整理してみたいと思います。
 
 私たちの議論における対立の原因を、きはむさんは現状認識の違いにあると考えているようですが、私はまず、「逸脱」という言葉で意味するものの違いに原因があると感じました。実際、きはむさんが、岡本裕一朗氏に託して言っていること………自由な選択と多様性が尊重されながら人間が単一化(モノ化)していく………という現状認識は私も共有するところです。
 つまり私が言いたいのは、この市場における自己決定や選択の多様性に解消され(つまり資本に回収され)てしまった「多様」や「逸脱」とやらは、もはや多様でも逸脱でもないということなんです。むしろ(例えば岡本氏や、きはむさんのしているような)私たちを管理しようとするこのような資本主義権力の巧妙な戦略をあばきだし分析する言説活動………そういうものこそが、私が考えている(権力にとって許しがたい、不届き千万な)「逸脱」行為だということなのです。このような、システムの外部に基点をおいて私たち自身の生きる条件を批判的に分析し、それとは別の社会や人間のあり方を構想することは、それ自体一つの反体制的かつ逸脱的なアクションでなくして何でしょうか。だから私にはきはむさんが熱心にブログに書き綴っていることが逸脱行為にしか見えないし、その意味できはむさんは立派に逸脱者だと思うんです。
 それに、きはむさんは「現代社会は逸脱を許すシステムに向かっている」との現状認識を示していますが、全くそんなことはないと私は思います。なるほど岡本裕一朗氏は画一的でタイトな規律社会から、多様性を許容するソフトな管理社会への移行が現在社会の深層で進行していることだと述べていました。しかしそれが管理である以上、その社会で許されているのは「多様」でも「逸脱」でもないと考えるべきでしょう。権力はその「逸脱」が脱色され、無力化し、回収されてしまっていると認識しているからこそその存在を許しているわけで、それは形骸化した逸脱もどきにすぎません。形態こそ変わったとはいえ、単一化した権力の支配そのものは何も変わっていないというのが岡本氏の認識でしょう。                  
 岡本裕一朗氏はこう語っています。

 管理社会において自由が可能になるのは、管理が消滅するからではない。むしろ、管理社会の深層に光を当て、人々に隠された管理社会の構造を顕在化することによって、「管理社会における自由」が可能になるのだ。「必然を思惟する」こと………管理構造を洞察すること………が、「自由になることを意味している」。したがって、管理からの「逃避」ではなく、隠蔽された管理の解読こそが、何よりも必要なのだ。(『ポストモダンの思想的根拠』206ページ)

                    

 おそらく、きはむさんがイメージしている「多様」や「逸脱」は、すでに消費社会に回収されてしまっている「オレ様」だとか「スキゾ・キッズ」みたいなものじゃないかと思います。が、それは既に形骸化してしまった逸脱もどきに過ぎず、当然ながら私にとっても批判の対象です。
 そうではなく、私が「逸脱」という言葉で表現したいのは、「自由」になること………ここでの岡本氏のように権力の巧妙な支配の戦略を抉り出すアクションであり、(きはむさんもそれを行おうとしているのです)、それが本当に管理や支配の急所を突いているなら、そのような高度に逸脱的なアクションを権力は何一つ認めないはずです。おそらく社会は今でも、そしてこれからも「逸脱」を認めることはないでしょう。認めないからこそそれは社会によって「逸脱」と捉えられるのです。
 もちろんそのようなギリギリの努力から闘いとられたアクションや言葉も、時間とともにいずれ資本に回収されてしまうのでしょう。………例えば、岡本氏の言葉も出版社の利益に還元され、御用学者に都合良く剽窃され、知的なモードとして流通、消費されてゆくだろうといった具合にです。………しかしそれは反権力的な「逸脱」行為そのものが、資本主義の一元性に解消、単一化しているということとは違うはずです。資本の中に飲み込まれてしまわないために、社会を新たに捉え返す反権力的なアクションはその都度、この瞬間に新たにやりなおさなければならない(逸脱し続けなければならない)………私はそのような瞬間のなかにしか多様性(「自由」あるいは「外部」といってもいいでしょう)はありえないのだ、と考えています。

 そんなわけで、私がどうしても理解に苦しむのは、きはむさんはが自らの逸脱性を棚に上げながら「多様」や「逸脱」はダメだダメだといっていることなのです。しかもきはむさんは、ずいぶん熱心に勉強し、社会の現状を批判的に分析しているように見受けられます。このパッションがどこからくるのか知る由もありませんが、(想像なのですが)基本的には管理社会の構造を暴き出す作業(=逸脱)に面白さを感じているからではないのでしょうか? (たぶん)自分では「逸脱」を楽しんでさえいるのに、他の人の逸脱は、新自由主義を強化する反動だなんて言っているのです。そんなこと言うんなら、きはむさんも沈黙すべきだと思う………私の立場からするとそう言いたくなってしまいす。
 確かにきはむさんの思考の筋道を辿ってゆくと、「多様」や「逸脱」はいけないような気すらしてきます。しかし私が思うに、岡本裕一朗氏やきはむさんにような現状認識を有効なものにするためには、単純に「多様」や「逸脱」がダメ、「自己責任」がダメ、という言い方が必要なのではなく、今日の消費社会の市場でこれらの(かつて「自由」や人間の解放と結びついていたはずの)言葉が現在どんな役割で使われ資本主義の権力に奉仕しているかをはっきりさせること………つまり「責任」という言葉同様、「多様」や「逸脱」という言葉に関しても、二通りの使い方………資本主義、消費社会の市場のルールの内部におけるそれと、そのルールそのものを乗り越えるために社会を分析しようという立場を表現しようとしているそれとは、はっきり腑分けするべきだと思うのです。これを前者の文脈のみで断罪されてしまうと、(前にも書きましたが)岡本氏やきはむさん自身の管理社会の巧妙な戦略を告発する「逸脱」的な言葉も、モノ化した、無効な(あるいは反動的な)言葉でしかない……ということになり、そうなると私たちはもう何も発言できなくなってしまうからです。つまり現行の社会の中で、私たちは黙って管理に身を任せて生きるべきだというのでしょうか? それともきはむさんの反体制的(逸脱的な)な言葉だけは、この社会の内部において「多様」であることを逃れうる特権的な位置にあるとでも言うのでしょうか。幽霊か透明人間、あるいは神のごとき存在であればそれも可能でしょうが………。

02 2007 « »
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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