泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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呪われた「外部」

 古い話題で恐縮だが、「外部」という言葉を使って内田樹氏の批判をしたときから私はこの手の誤解をうけていた。資本主義のシステムから降りたり逃げたりすることなど出来ない、現行システムに「外部」などないのだ、と。、、、いやいや、そんなことわかってますって。外部へ旅立つべきだ、みたいなこと私が一言でも書いたかって話だ。
 この通りすがりの人への返事でも書いたように「資本主義の支配的価値の外部を構想してみることで、資本主義への没入状態から一歩距離をとる」という思考のプロセスにおいて外部を語っているのであって、現実に外部が存在すると考えているわけではないのだ(外部は現実化すると同時に内部化する。したがって外部は到達することの出来ない「不可能なもの」である。しかし外部の力を借りずに現行社会の批判など出来るものだろうか)。まあ誤解されるのは、私の書き方が悪いせいでもあり、私自身の中に曖昧なところもあったのかもしれないと思うが。
 で、こちらの人もそういう誤解を持ち続けていたようだ。いいコメントもついているので、すでに誤解は解けていると期待したいが、このきはむさんのエントリーに描かれたaraikenの姿があまりにマヌケ面なのを見るにつけ、もう一度言わずにいられなくなってきてしまった。

 上でも述べたとおり、私は、非資本主義的な多様な価値を称揚することで、資本主義社会の「外部」が姿を現すと考えているわけではない。きはむさんの言葉を借りるなら「この世界の中(内部)でわれわれは何をすることができるのか」を考えるためにそういう思考の手続きをとっているにすぎない。まずは、私が外部へ到達することを考えている、との誤解を取払って欲しい。
 また、きはむさんは「支配的な価値からの逸脱を推奨する言説が、逸脱後の具体的なビジョンを準備できていることは少ない」と書いている。実際そうなのかは知らないが、私自身は当然そのようなビジョンが必要だと思っているし、社会の改良や修正が喫緊の課題であるというのも理解できる。(しかし、具体的なビジョンを考える作業は専門的な知識や時間が必要で、誰にでも出来ることではない。少なくとも私にその能力や時間があるとは思えない。その点やはりエキスパートに頼らざるを得ないんだろうなと思う。しかし問題を提議することは私にも出来る。何度か書いたことなので繰り返さないが、現行社会の中でその制度が持っている非人間的な問題点を、身をもって告発することこそが、一元的な価値への抵抗と支配的なコードからの逸脱を目指し、多様な価値と欲望を解放する者の役割である。そのような告発や問題提議があってこそ変革の具体的なビジョンも浮かび上がってくるのである。私は私の持っている条件の中で可能な選択をする。それはそれなりの覚悟さえあれば、大部分の人に可能な選択でもあるだろう。)
 では、私ときはむさんの考え方の大きな違いは何かといえば、私が、具体的な社会の変革と、オンリーワンの生き方=支配的な価値からの逸脱する行為を並行して行うべきものだとするのに対して、きはむさんは、逸脱や多様性の解放する行為を、(現行の内部においては)社会の変革のためにはむしろ邪魔なものだと見ているところにあると思われる。

 それゆえ、私はきはむさんに対して、終始逸脱や多様性の現在における(現行の内部における)その意義を強調し、擁護してきた。
 私にとってどうにも納得が行かず、意地悪に感じられるのは、きはむさんが価値の多様性や逸脱などを、邪魔で危険なものとして規定してゆくそのやり方だ。
 「外部」や価値の多様性といった言葉は、まず「居直り」という負の態度との結び付きがクローズアップされることにより、不穏で警戒すべきものの色合いに染め上げられる。さらにそれは内田樹の「学びから降りた者の自己肯定(=居直り)」が結果的に資本に収奪され、踊らされるというからくりを述べた世迷言(内田によるとこの居直りする輩が資本主義をヒートアップさせるらしいのだ)に接続され、そうした自己肯定は、むしろ現実の貧困を隠蔽し変革を阻害する反動要因であると結論される。

 たしかに居直りという言葉に値するネオコンやバカ左翼といった論者は存在するのだろう。だかそのような安易な態度は、多様な価値や外部を強調することから必然的に導き出されるわけではない。例えばきはむさんが例にあげる「人間であるだけで不可侵の自然権を持つなんてことは単なる決まりであって嘘なんだから、黒人に人権を認めないように決まりをつくりかえてもいいだろう」などという主張は、よほど稚拙な推論を駆使しなければ出来ない。批判されるべきはそのような稚拙な論者の論理であって、こういう論者の存在を理由に外部や多様な価値を危険視し、居直りという負の態度の由来を、そこにもってきてしまうのはおかしい。きはむさんだってこの「外部」の思考モデルに基づいて現行社会をラジカルに批判しているはずだ。ずいぶんと「外部」の世話になっているのに、それを警戒すべきだなんて言うのはあまりにも恩知らずではないか。

 それに「外部」への志向や多様な価値の称揚が、現状の肯定や反動へつながるというもっともらしい理屈もよく考えると妙なのだ。
 きはむさんの言ってることを整理すると、いくら「外部」を志向し、ラジカルな変革を唱えようとも、結局それを唱える本人も現行社会の内部に生きなければならない以上、当人の活動は現行社会内部での選択に還元されてしまう。つまりは現行内での自己決定や選択に自由を見るリベラルな自己責任論者の生き方と何が違うのか? それは結果的に格差社会を温存するわけで、身をもって現状肯定しているだけじゃないか、ということになるだろう。
 私たちが、みなとりあえず現行の内部に生きざるを得ず、その秩序にしたがって生活してゆかなければならないのは当然のことだ。その意味ではオンリーワン主義者のみならず、すべての人がこの社会で選択し自己決定して生きざるを得ない。しかし内部に生きているという理由によって、現状の追認や肯定というレッテルを貼られしまうのであれば、すべての人は現状肯定者であろう。きはむさんのように変革のビジョンを準備し、社会の改良や修正という喫緊の課題に取り組むことすら、(改良だって外部に立脚して行えるわけではないから)現行内部での決定と選択に還元され、現状維持呼ばわりされかねない。
 つまりこの言い方から結論できるのは、資本主義社会に生きる以上すべての人の活動は市場での自己決定や選択行動として解釈されうる、ということであって、とりたててオンリーワンだけを現状維持だと規定する論拠にはならないだろう。

 この理屈は、内田樹の「学びから逃走する若者=居直り」が資本主義に踊らされ、収奪されることでシステムを下支えし、さらに資本主義がヒートアップしているというインチキなストーリーによって補強される。
 居直る若者を諸悪の根源に仕立て上げる内田の言い草は本当にひどいものだ(まず収奪するものこそ問題にすべきなのに!)。実際には競争を勝ち抜いて大企業に就職出来た人だって搾取は受けるだろうし、受験競争を勝ち抜くために教育産業にずいぶん金をつぎ込んだかもしれない。就職してからでも同僚との激しい競争に巻き込まれているとすれば、それはやはり資本主義をヒートアップさせている、といいうるだろう。成功した実業家にでもなれば、搾取はされないといえるかもしれないが、資本の意志を体現するものとして積極的にシステムを支えることになるだろう。また成功者は可処分所得も多いだろうから、消費の面からも資本主義をヒートアップさせるかもしれない。なのに槍玉に挙げられるのは「学びから逃走する若者=居直り」だけなのである。

 つまり先の自己決定や選択云々と同様、この理屈から引き出せるのは、私たちは資本主義社会の内部に生きている限り、この社会に加担し、最終的には利用されるだろう、ということに過ぎない(マルクスの書物も資本を潤す)。資本主義社会とはそういうものなのであり、それが廃棄されない限り、私たちはみなこの社会で踊らざるを得ないのだ。居直る若者(多様な価値を称揚するオンリーワン)だけが収奪されたり踊らされたりしているわけではない。収奪されることや社会への加担をを責められるとしたら、私たちはどうやって生きていくというのだろう。内田の説はこのように「資本主義のヒートアップ=現行社会の居心地の悪さ」をとりたてて「学びから逃走する若者(=居直り)」のせいにしているわけであるが、このような理屈は言いがかりの部類に属すると解するべきだろう。

 さらに、きはむさんは「業績主義的価値観や生産主義的価値観における「負け」も別の価値観から見れば「勝ち」だと語ることは、意識の持ちようによって現実にある貧困や窮状を不可視化しようとする、一種の精神論/根性論である」と、オンリーワン主義の意識が、経済的・社会的格差を温存し、現状維持や反動にすらつながると結論する。
 勘違いしないで欲しいのは、自分の手元の現実がよいものだと強弁することがオンリーワンの目的ではないということだ。現行社会に不満があり、それに対する異議を身をもって唱えることがオンリーワン戦略の一つの目的であるのだが、そのような生き方の結果、意識と現実の齟齬が(困窮というかたちで)広がったとするならば、それは異議申し立てを激しく先鋭にしこそすれ、不可視になどするはずがないのである。不満があり、憤りもある。しかし私たちは今とりあえずこの不満だらけの社会で生きて行かざるを得ないから意識の中でだけ「勝ち」を主張せざるをえないのだ。たとえ現実にはマイナーな存在であるからといって、そのことを隠蔽する理由などどこにもないのである。

 決定的な誤りは、はじめに多様性(外部)が居直りとイコールで結び付けられてしまったことであろう。つまりきはむさんは、現行を批判する上で誰もが使っているはずの「外部」の思考の手続きを、その手続きを行使した上で出てきた(正当ならざる、それゆえ批判されるべき)ひとつの実践の態度に過ぎないもの=居直りと重ね合わせてしまった。こうなるともう、きはむさんによる批判は、多様な人間のあり方、すべてのラジカルな社会運動や(きはむさん自身も含めた)変革の試みをも全否定するところに行き着くしかなかったのである。
 多様性を尊重すると言っておきながら、それを理論的に潰すやり口は内田樹とそっくりだ。まあ、たんなる保守おじさんに過ぎない内田と、明確に社会を変えることを主張しているきはむさんを同一視することは出来ないにしても、このようなカテゴリーミステイクを犯しながら平然と一本とったつもりになれるというのは、多様な価値を称揚するオンリーワン(おそらくは自律的な価値の創造を強調する社会運動なども)が、きはむさんの目にはひどく疎ましいものとして立ち現れているからだろうことは想像がつく。本当は、自分の気に食わないものに対して、悪い魔法使いのごとく、呪いをかけてしまいたいだけなんじゃないのか、とも思う。

 だが、もうこれで呪いは解けただろう。多様な価値の追求が危険であるとか、現状肯定に直結するなどという物言いは、でっち上げである。そう結論しなければならない。
 ただし、私はオンリーワン万々歳だと言いたいわけではない。多様な価値を称揚するオンリーワン主義者が批判される文脈はもちろん存在する。実際、オンリーワンが現行社会を結果的に支えるだけでなく、より積極的に現行を肯定する太鼓持ちの役割へと堕落する危険性は高い。それどころかネオコン的居直りのような凶悪なものに変質する可能性だってあるだろう。そうならないためにも私たちは現在身の回りで何が行われているのかをしっかり見抜けなければならない。自らの特異な欲望を肯定し、生命を燃焼させることは、ギリギリの厳しい認識を要求する。居直りなんていう安易な態度のもとには生命の燃焼もまたありえないのである。
 きはむさんはもっと楽に生きていける社会を目指していると言っている、またそれはワガママの許される社会だとも。その主張には共感する。が、とりあえず今この現行社会の中でワガママに生きれば、おそらく楽は出来ないだろう。明日にでもこの社会がひっくり返らない限り、ワガママにはつけが回ってくる社会で生きるしかない。だが私はそのつけを払っても、今ワガママしたいのだ。そんな社会を変えるため、また何よりも、今この瞬間に生命を燃焼するために。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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