泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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反教育(反権力)についてのメモ

 反教育(反権力)は、現在における実践(学校的なものに内在する垂直的な権力の作用に対して、水平的な交流を対置すること)としてしかありえない。それは現在の瞬間において問題の回答を与えようとするものであって、将来における教育制度(権力装置)の構想とは、似たもののようでありながら、全く異質な活動である。反教育の実践の傍ら、将来の教育制度を構想することは可能だが、同時的にそれらを追求することはできない。もちろん将来の社会のあり方を構想することは必要であり、その試みは最大限尊重されねばならない。が、ラディカル(反教育)が選択するのは、(将来のある時点においてではなく)いまここで、現行の教育(権力)に対する不服従を、自分自身の生を実験台にして貫くことにある。これは何にもまして現在の生を意義あるものならしめたいという要請に基づいているが、結果的にある効果を未来に対して持つことになるだろう。つまり私たちは、先達が過去の限られた環境の中で自らの生を意義あるものにしようと闘争する姿から抵抗の精神や智慧を学び自己形成してきた。また未来の世代においては彼らなりの新たな闘争が生まれてくるだろう。私たちはそれら受け継いできた精神や智慧を、現在における抵抗の物語という形で更新し未来へ贈り届けるのだ。将来における(教育)制度の構築だけが来たるべき世代へのプレゼントではない。つまり、このような(反教育の)実践は当然、他者への応答=責任として為されるものでもある。しかし、いまこの瞬間を意義あるものへと彩ることに価値をおかない人にとって、反教育の実践は端的に無価値な錯誤であって、未来(他者)への責任の欠如としか映らないだろう。したがって、こういう人たちとの議論はいつまでたっても平行線を辿るだけに終わってしまう。

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ラディカルとは何か

 ちょっとわけあって、mojimojiさんと常野さんの一連の古い議論を読ませてもらいました。
 mojimojiさんのと、常野さんのこれ、など。
これは常野さんの学校廃棄論に対して、学校の廃棄後の具体的な構想=対案がないことをmojimojiさんが批判するという内容のものです。ザッと読んだ印象ではmojimojiさんの主張のブレのなさが際立っていて説得的に感じたのですが、どうも何かすっきりしない。それはmojimojiさんがラディカルをずいぶん過少評価しているのが面白くないのと(私もラディカルの端くれのつもりなので)、猿虎さんも言っているように、どうもお二人の話がかみ合ってない感じが最後まで抜けなかったからでしょう。そこで、何がどうかみ合っていないのかを足りない頭で思案してみました。

 コメント欄などで反学校派の人たちの反感を買っているようですが、mojimojiさんによる学校=教育の定義は秀逸なもので、生まれてきた子供をはじめて社会に迎えるにあたっての強制的、暴力的な性格は、未来の社会において教育の現場からもなくならないだろうということですが、私もその通りだと思います。
 で、mojimojiさんは、学校廃棄論における廃棄後の構想について常野さんに問いかけるのですが、常野さんはその対案を提出することを拒否します。それをmojimojiさんは未来に対する責任を放棄するものだとして批判しますが、常野さんは対案がないことの理由を問題設定や出発点の違いに求めます。しかしそれをmojimojiさんは、言葉で何と言ったところで存在のレベルで対案が存在していないのであれば、ラディカルさを装った無責任でしかないと突っぱねます。最後は

念を押しておきますが、それはモジモジの問題設定においてそうであって、という言い逃れはできません。常野さんの言う「教育のない世界」にも、人は具体的な状況を生きているんです。その具体的な状況を否定形で表現してオシマイにすることは、「そこを生きる人が実際にどうなのかは問題ではない」と述べたに等しいです。「職務に忠実であることが問題であり、その人たちがアウシュヴィッツに送られたのかどこに行ったのかは私の関知することではありません」というわけです。

という厳しい言葉でしめくくられ、常野さんはそれに対して切り返す道を失ったのか、いったん休戦、という感じで議論は終わっています。
 いかんせんだいぶ昔のエントリーなので、その後この議論に何らかの進展があったのかもしれませんが、私は知らないので、もし話に決着がついているというのなら、以下の文章のことは「何をイマサラ」と笑ってもらいたいと思うのですが、さて。。。
 ではいったい何が二人の議論がかみ合っていないような印象を抱かせるのか、、、私の見るところでは、両者が「学校の廃棄」という言葉で意味するものが実は全く違っているところにその原因があります。

  mojimojiさんによる「学校」の定義を受け入れるなら、学校(的なもの)のない世界はありえないことになりますが、常野さんの主張は「学校の廃棄」です。これでは矛盾してしまうので、、mojimojiさんは当然、「学校の廃棄」を「現行の学校の廃棄」と理解しているはずであり、廃棄の後にも何らかの(現行のものよりマシなはずの)「学校=暴力」は存在しなければならないと考えているでしょう。しかしながら、常野さんは「学校の廃棄」という言葉で、学校(教育)そのものの廃棄を語っているようなのです。常野さんが、mojimojiさんによる学校の定義そのものを疑問視している様子はないようなので、この定義を受け入れていると考えていいと思いますが、だとすれば「学校(教育)そのものを廃棄する」ことは定義上不可能なはずであり、そんなことを主張できるのは狂人のみです。かといって、それを「現行の学校の廃棄」に限定すると、上述のように無責任なヤツだとmojimojiさんに怒られてしまいます。それで結局、その無責任は悪意によるものではなく、常野さんが、言語と存在の区別もできていない錯誤によるのだろうとまで推測されることになるわけです。
 私も常野さんは勘違いをしていると思っています。しかしそれはまったく別の部分の話です。つまり、常野さんの言っている「学校の廃棄」という概念は、(mojimojiさんが解しているように)時間軸上の未来におけるある時点に「存在」するだろう出来事を意味しているわけではなく、現在の瞬間における「学校的なもの(学校のエートス)」への不服従のことを指しているのです。まずいのは、常野さん自身がこれを未来における出来事であると勘違いし、混同してしまっていることです。要は問題設定が違うはずのmojimojiさんの土俵に片足を乗せて常野さんもうっかり相撲をとってしまっているから、奇妙な噛み合わなさ感が生まれてしまっているのです。
 
 たとえばネグリは「コミュニズムとは個人的かつ集団的な特異/固有性を解放する試みである。」と言っていますが、ここでのコミュニズムという言葉は未来のある時点の社会のことではなく、現在のこの瞬間における解放について予示的に語っているわけですが、同様にして常野さんの「学校の廃棄」も今この瞬間の課題として提出されていると考えるべきです。
 おそらく常野さんの考える「学校のエートス」とは、学校という場に(規律、管理、選別)などとして作用している垂直的な資本主義的権力(暴力)、また社会全体が学校化している現状に引き付けて言えば、個人に内面化した権力(暴力)のことだと思われますが、そのような権力を廃棄すると言うとき、将来のある時点で権力なき教育が実現するということではなくて(それは定義上あり得ないでしょう)、現在の瞬間の中に水平的な交流の空間(オルタナティヴな人間関係)を出現(介入)させることであるはずです。おそらく68年5月や、イタリアのアウトノミアタイプの祝祭性を指向するラディカルな社会運動こそ、常野さんが「学校の廃棄」という言葉に託しているものでしょう。たとえそれがつかの間でちっぽけな空間であったとしても(というかつかの間でしかあり得ないでしょうが)、そのような空間を(未来にではなく)現在という瞬間の中に「存在」させようと意志することを考えているはずです。要するに「学校の廃棄」という言葉でお二人が意味しようとしていることは、このように全く別の事柄なのです。

 そのような運動を「学校の廃棄」という言葉で表現するのは無理があるような気もしますが、常野さんの活動(ネットラジオに出演したり東工大へ闖入したりという)や書いたものを見る限り、私にはそう考えてるとしか解釈できません。。。そうであればこそ、問題設定や出発点の違いという言葉で言おうとしていたことも理解できるし、「学校の廃棄」の後における対案への無関心も説明できるというものです。つまり、権力(暴力)的な制度を将来において改良し、再建する試みには冷ややかにならざるを得ない、、、現在において水平的な人間関係を構築するという方向性を純粋に推し進めるならば、そのような対案の構想には拒否感すら働くでしょう。
 したがって、対案(未来の制度の構想)に関して、このような立場に立つものが、責任を放棄している、という批判はとりあえず的を射ていると言えるでしょう。この立場に立つもの(以後、このような立場を「ラディカル」と表記することにしましょう)は、未来の構想(九九や漢字)を他の人たち(例えばmojimojiさんのような人)に丸投げするしかないのかもしれません。
 
 しかしちょっと考えていただきたいのは、現在の瞬間を意義あるものたらしめようとするラディカルさは、未来に対する責任の放棄でしかないのか、ということです。たとえばmojimojiさんはこう書いています。

アナーキズムをはじめとして、何かを廃棄するという思想は、その廃棄するというラディカルさゆえにではなく、そこに何かを作るヒントがあるからこそ価値がある

と。すくなくとも対案の構想に対して(ラディカルな)「学校の廃棄」という思想が、ヒントを与えるという形で貢献していることはmojimojiさんも認めているわけです。
 確かにラディカルな言説は、過激だが実現性に乏しいという印象を与えます。しかし、それはラディカルな言説が未来の設計よりは、むしろ現在の抵抗の戦略に関わっているからでしょう。しかしその過激さは、社会の設計などへの新しい視点を含んでいることが多い。たとえば上述の68年5月やアウトノミアなどの経験は、後々さまざまな考察を促し、(反動勢力が利用すると言うことを含めて)いまだに現在の社会運動や改革の重要な参照項となっています。
 つまりラディカルは問題を提起するのです。むしろラディカルな問題提起がまず未来の変革へのパースペクティヴを切り開くのではないでしょうか? その意味でラディカルは必要不可欠な契機であるともいえます。

 ラディカルであるということは、自らの生を実験台にして、社会に対する異議を申し立てる選択をするということに他なりません。mojimojiさんは

ビジョンをもたないラディカルなだけのラディカルさは、初撃の新鮮さ、つまりは、お祭りで終わる。

とネガティヴな言い方をしていますが、問題提起としての初撃の新鮮さ、「祭り」に賭けるというのも、来るべき世代を考慮に入れたポジティヴな選択であり、mojimojiさんが言っているのとは別種の責任を引き受ける事だと思うのです。
 かような視点に立てば、常野さんのたどっている道は(上述の混同こそ犯しているにせよ)何ら間違ってはいないということがわかると思います。 mojimojiさんが常野さんに対して下している診断、「対案を出せ」論法と相似しているとか、言語と存在(するもの)を混同することから来る錯覚だとかは、むしろmojimojiさんのラディカルに対する無理解から帰結した誤診だと思われます。猿虎さん

Category: 日記・その他   Tags: Thai  

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やっぱり、、、

インキンだったみたい。

 股間が痒くて仕事に集中できなくなってきたうえ、日本から持ってきたかゆみ止めも底をついてしまったので、会社の近くの薬局へ。かゆみ止めがほしいのですが、と薬局のおばさんに尋ねると、液状の塗り薬を出してきたので、クリームの薬があるかどうか聞いてみた。すると、どこが痒いの? と聞いてきたので、チンチンかいかいのゼスチャーをしてみた。おばさんは、ああ、と言ってチューブ入りの薬を出してきた。代金50バーツ。あとで能書きのタイ語を解読してみると、カビ菌によるかゆみ、炎症などと書いてある。これってつまり白癬菌? 塗ってみたら効果てきめんで、一日で不快感から解放された。めでたしめでたし。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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