泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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バンコク炎上 2010

 ここしばらくそれなりの関心を持って眺めてきたタイの混乱だが、アビシット首相の事態収束の宣言も出され、バンコクにはいつもの日常が戻ってきた。赤服デモ隊のバンコク中心部の占拠が引き起こす混乱によって、タイの経済界(富裕層)の利害を代弁する現政権には強い圧力がかかり、軍を大規模に投入したデモ隊の強制排除が実施された。その結果、死者は100人近くにのぼり、その十倍以上の負傷者が出た。街のインフラの破壊を含め、近年のタイにおいてはまれに見る惨事となった。衝突内部には赤服タカ派幹部の狙撃による死亡など、ダーティな面が露出しているが、いまだ真実は明らかになっていない。おそらくデモの幹部や暴徒化した一部のデモ隊は、身柄を拘束、現権力の監視下に置かれ、それなりの裁きを受けることになるんだろう。赤服側も勝算があって(勝てば官軍だったはず)賭けに出たのだろうが、劇的なปฎิวัฅิ(パティワット=タクシンの復権?)には結びつかなかった。とはいえ、タイ社会の問題(巨大な貧富の差)を内外に向けて可視化し(日本でも連日報道されただろう)、現政権に解散総選挙の実施、貧富の格差の解消など、政策の転換を迫った点では一定の意味があったと思われる。


 ところで僕自身が赤服の闘争をどう考えているのかといえば、基本的に僕は左派として、女房やその兄弟たちも含まれている貧困層の側に立っている。が、今回の赤服デモはずっと醒めた目で見ていた。まず、貧困層の人たちの、タクシンLOVEには少々ゲンナリである(女房のせいでもあるが)。問題なのは貧困層の利害がタクシンの名前とガッツリ結びついていてしまって、他の選択肢がないことなんだと思う。

 タクシン元首相については御存知の通り評価が分かれるところで、その強権、金権体質(汚職、親族の重要な政治ポストへの配置、報道の統制、アメリカの顔色をうかがったとされる悪名高い麻薬一掃作戦や南部イスラム問題への強攻策など)にもかかわらず、主に北部、東北部の貧農に肩入れした再分配政策は画期的であり、それまで政治の蚊帳の外に置かれてきた、タイの人口の半分を占める貧困層のハートをゲットすることになった。
 この農村優遇策そのものはバラマキだと評価されもするが、悪いことでもなんでもないと思う。ただ、これらがタクシン氏の純粋な社会的公正への意志のようなものから発したものであるかどうかは、彼の権力や金への執着から推し量ると、やはり疑問符がつかざるをえない。こう言うと赤服派の人は否定するのだろうが、富裕層の中でも新興の勢力であったタクシンが、自らの権力の基盤固めに貧困層の支持をバラマキによってとりつけたという、ポピュリズムの側面が強いことは否めないと思う。
 今回の赤服デモも、富裕層内部の権力争いに、貧困層が動員されているだけではないのか?という疑惑が生じてくる。 もっとも現実は複雑であり、デモ参加者個々の動機も多様であるだろう。だからまあ「貧困層がタクシン及びタクシン派幹部たちに扇動され、危険な賭けにつり出され、利用された」という言葉ですべてが言い尽くされてしまうとは思わないものの、どれだけタクシン元首相たちに「民主主義」や「貧困解消」への関心があったのかは、正直疑問である。タクシン氏は海外の滞在先からいまも「全世界は民主主義を要求する者達に同情的であり、決して意気消沈するべきでは無い」というメッセージをタイの貧困層へ向けて発し続けているが、文字通りにこの言葉を受け取る気にはなれない。

 軍による弾圧が人命の甚大な被害をもたらしたためか、赤服派のみならず、タクシン元首相の政治を再評価する論調が目立つが、やはり僕はタクシン氏自身は食わせ物だと思っているし、たぶん権力の座に返り咲くことももうないだろうと思う。かといって一方のアビシット政権もクーデターと、その後に行われた(民主的な)選挙結果を支配層がまぜっかえして成立した胡散臭い体制である。赤服が要求していた解散総選挙を実施すると、おそらくはこれまで通り数では圧倒する貧困層の票を得て、タクシン派の政権が誕生する可能性が強いと言われている。そのため現政権はデモ隊に対して強硬な排除に乗り出すことも、赤服の要求を飲むこともできず、ジリジリと危うい均衡の中で動いてきたのではないかと想像する。進むも地獄、下がるも地獄であり、文字通り身動きがとれないまま、現在に至っている。

 つまりこれは伝統的にタイの政治を仕切ってきたタイの富裕層にとって、貧しい農民層の存在は無視できない状況になっているということ意味している。今まで、存在していたにもかかわらずろくに関心を払ったことのない田舎の貧農や都市下層民たちが、否応なしに富裕層の視野の中に入り込んできたのだ。おそらくこれからも当面、政治権力につく人物は富裕層の中から出てくるのだろうが、権力の獲得のためには貧困層の合意を取り付ける努力が必要になり、富裕層が自分たちの内部だけで権力を奪いあったり、弄んだりすることはもうできなくなったわけである。
 これまでもタイには流血の政治抗争は何度かあったが、あくまでも富裕層内部の権力争いに過ぎなかった。タクシン元首相について言えば、はからずも富裕層VS貧困層という新しい対立構造をタイ政治に導入するきっかけを作ってしまったところに、その革新があった、と考えておくのが良いのかもしれない。

 それにしても問題なのは、ここまで現政権の正当性が乏しいものであるとすると、今後もタイ政局の混乱は続くだろうということだ。そんな中アビシット政権は、国民和解へのロードマップなるものを発表している。なんでも、社会的不平等や格差の解消がひとつの課題となっていて、相続税や固定資産税の導入を検討すると公言しているとのことだ。僕は知らなかったのだが、タイには相続税や固定資産税がないらしいのである。つまり、タイの税制は累進的ではなく、既得の経済格差を維持、ないしは拡大するような形態になっているわけだ。話によると、これまでも相続税や固定資産税の導入は検討されたことがあるようだが、富裕層の強固な反対にあって、計画はすべて流れてきたらしい。

 こんな新聞記事が出ている。

 、、、、これに対し、都心部の住人であるバンコクのエリート層は嫌悪感をあらわにした。最大のビジネス街シーロム通り入り口で、タイヤと竹で築いたUDD のバリケードに対峙(たいじ)した地元市民グループは、UDDの人々に向かって「クワーイ(水牛)!」と叫び挑発し続けた。「学のない田舎者」「間抜け」 といったあざけりの意味だ。この国を支配してきた都市エリートは、地方の貧しい農民をそう呼び、「彼ら(農民)はカネ次第で誰にでも投票する。選挙権を与 える必要はない」と言い切る人すらいる。(「タイ首都占拠の元首相派排除」西尾英之 毎日新聞

 昔からバンコクの金持ちにとって地方の農民、ことにイサーンの住人は野卑な異民族としてもっぱら軽蔑の対象であった。さらに今後、市場経済の浸透につれて、農村部の貧困層の一部はいわゆるアンダークラスとして、「怠惰」であるとか(その都市への流入の増大が)社会不安の元凶であるかのように表象されるようになってゆくのだと想像される。なるほど彼らは「学のない田舎者」であり、「カネ次第で誰にでも投票する」人たちであるのもその通りだろう。そしてアンダークラスを排除する原理はお馴染みの自己責任論へと収斂されて、「お前たちが貧しく学がないのは、お前たちが馬鹿だからだ」というトートロジーに行き着くのだろう。
 しかし、貧者には「学」に接する機会などなかったわけだし、選挙やら民主主義がなんであるかを知る機会も剥奪されている。都市の富裕層が知的に高いレベルにあることができるのは、それなりの教育を受ける機会を持ち、農村では享受することができない富や文化資本にアクセスすることができる幸運によるものである。こうした富裕層はその幸運が、格安の労働力を提供している貧困層を富裕層が利用することによってもたらされていること、社会制度も格差を温存し、富裕層を利するようにしかできていないこと、すなわち自分たちがアドバンテージを持っていること、しかもそのアドバンテージは貧困層を踏み台にして得ているということを見ようともせず犠牲者非難に至りがちである。

 このような無神経なエゴイズムはもう許されない、ということを赤服の蜂起は(たとえそれがタクシンの名で歪められていても)富裕層に突きつけている。学と力を持つ富裕層が為すべきことは「クワーイには選挙権などいらない」などと嘲ることではない。少なくとも国民の和解と民主主義を本当に欲するなら、税制を改革し、それを財源に農村や都市貧困層の医療、社会福祉、そして教育を手厚くし、より豊かに生きられるような「機会」をすべてのタイ国民に対してまず創りだされねばならないだろう。そうしないとまたあの四角い顔をしたポピュリズムの妖怪が、バンコクの街を徘徊することを許し、血の雨を降らせることになってしまうかもしれないのだ。
 アビシット首相の手は、血まみれになってしまった。その責任も追求され始めている。このような状況のもと現政権がどこまで生き延びることができるのか、はなはだ怪しいものではあるが、なんとしてもこうした貧者との関係改善のためのメッセージを具体化し(富裕層の反発は必至だといわれる)このタイ国民の和解への計画を実現して欲しい。それが今回の衝突で死んだ人たちへの弔いなのだと思う。

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プラティープ先生

 密かに尊敬するプラティープ先生もタクシン派だったとは、、、思うんだけど、貧困解消とタクシンの名前はもういい加減切り離すべきだろう。

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強制排除から一夜開けて

 こ、これは、、、。わたしの今いるところから数キロ先の出来事です。これも

 セントラルワールド(伊勢丹の入っているビル)の死 その1 その2 その3 伊勢丹の店舗のほうは大きな被害はなかったようです

 昨日は夜間外出禁止令が出されてため、いつもより早く会社を出てアパートに向かった。バスの窓から黒い煙に霞むバンコク中心部のビル群が見えた。どことなく9・11を彷彿とさせる白日夢のような光景だった。しかし道路は渋滞もなく、いつもこうならいいのにと思うほど早くアパートにたどり着いた。セブンイレブンでパンを買おうと思ったら、客がいっぱい並んでいた。どうしたんだこりゃ? と訝ったが、あとで外出禁止への対策で食料を買い込んでいるんだと気がついた。部屋でテレビをつけてもニュースをやっていない。特別番組と称する事態とは何の関係もない番組が流されている。暴徒に襲われた3チャンネルは放送が停止していた。20時をまわっても上のガキと女房が帰ってこないので、下のガキを連れて外に出てみると、ほんとに街から人が消えていた。でもそれほどタイトに規制が行われているわけでもなく、ラートプラオ通りもバスはまったく見かけなかったが時たま車やバイクが走っていた。まるで田舎の夜の街のように静かで、先程のセブンイレブンも店を閉めていた。義理の姉だけが道端で屋台を開いていたが、これ問題ないのだろうか? 客たちもいつもと変わらず、酒を飲んでいた。

 いずれにしろ、一山越えたんだろうなんだな、という感触があった。



今回の一件で血塗られた手を持つに至ったイケメン王子、アビシット首相。僕と同い年。権力者とは因果な商売だ。国家権力だけが合法的に人を殺すことができる、という言葉を噛みしめたい。この画像の言葉から女性にも人気があることが想像できるる。羨ましいほどいい男だが、イケメンに目がない女房もこの人だけは許せないらしいのだ。そういうもんですかねえ。。。

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夜間外出禁止令

 ですってよ、奥さん。やーねえ、こんなの生まれて初めてよ。

 朝、ノコノコ会社に出てくると、いきなり、会社の前の通りが軍によって封鎖されていた。兵士に「あそこが会社なんだけど、入っていいんですか?」と聞くと、有刺鉄線を避けて中に入る道を教えてくれた。高速道路のガード下にタイ人の野宿者のたまり場があって、その脇をそっと抜けて、会社へ。誰も来ていないオフィスでネットのニュースを見て強制排除が始まったことを知る。しかし、このあたりはまったく静か。デモ隊幹部が投降し、事態は鎮圧、と思われたが、あちこちで放火や爆発が起きて、しばらく混乱が続きそう。で、20時以降夜間外出禁止だとか。ま、取り急ぎ今日は帰ることにします。

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女房がさあ、、、

 、、、僕の前でテレビで放映されてるアビシット首相を口汚く罵ってるんだよ。「お前のいうことは信じられない」「何人殺せば気が済むんだ!」「このチ○コ野郎!」云々と。ホント、これが不愉快でさあ。誰に言ってんの? 僕に? まあそのとおりだと思うけどね。いや、僕はアビシット支持者ではないし、タクシンが貧しい農民に対してとった政策はバラマキと言われようとも(ディテールについてはよく知らないけど)悪くないと思ってる。しかしあのタクシンさんはどう見てもポピュリズムの政治家で、貧困層を利用している人であるのも確か。アンタのはさあ、暮らし向きの悪さの不満を現首相に擦り付けてるだけじゃん。貧しいイサーンの農民の年収は平均3万バーツぐらいらしいけど、アンタ、それ以上の金額をトランプ賭博とかバカラで、たった一晩のうちにすっ飛ばしたりすることをやめないじゃん。それじゃあ暮らし向きなんかよくなるわけないっしょ。アンタの口の悪いの聞いてるとさ、へヤングソース焼きそばみたいな顔の元首相より、さわやかイケメンでお坊ちゃまキャラのアビシットさんの方に同情してきちゃうんだよ。

 、、、って思ってきたけど、そんな馬鹿女も貧困によって創りだされてる面があるんだよなあ、と同情的に思うようになってきた今日この頃。ある意味犠牲者なんだよね。ホントの敵はそんな貧困を生み出し続けている資本主義だ! お、きれいに落ちたぞ。

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ตาย นับสิบ เจ็บกว่า100

 非常に暑い日が続いています。普段冷房のきいた仕事場で過ごしているのでわからないのですが、昨日、夕方5時に会社を出ると灼熱の夕陽の直撃を受け、たちまち汗が噴出しました。いや暑い暑い。おまけにバンコク中心部が軍によって封鎖されているので大渋滞。10キロ程度の距離なのに2時間近くかかりました。女房から電話が入り「パティワットしてるから(危ないから)早く帰ってこい!」とのこと。パティワットねえ、、、辞書を見れば「革命」という意味が載ってる筈だが、タイで頻繁に起こるクーデターもパティワットと言うそうで、しかし、クーデターでもないだろ、これ。とはいえ昨日は16人の死者と100人以上のケガ人が出ています。今日も引き続き銃撃戦がつづいているようで、とくにプラトゥーナムからアヌサワリへ続くラチャプラロップあたりまで戦線が伸びているらしく、キナ臭さが増しています。
 今日は会社も休みになったらしく、タイ人のスタッフは誰も来ていませんが、ノコノコ出てきた私一人、手持ちの仕事をやっています。会社から数百メートル離れたところで道路を封鎖しているようで、兵士こそ配置されていますが、このあたりは静かなものです。仕事が一段落したら私も帰りますです。

 こういうの見るとほのぼのというか、ドキドキする(僕もデモに参加したくなっちゃう)んですが、実際、道路を占拠している赤服軍団の中には女子供がけっこう含まれている(盾にしている)らしく、ひとつ間違えれば大変な惨劇になりかねません。とにかく早く治まって欲しいものです。ちなみにタイトルは「10人を数える死者、100人を超えるケガ人」です。

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สไนเปอร์ เด็ดหัว เสธ.แดง

 スナイパーがセートデーンのヘッドを摘む
 バンコク中心部を占拠している赤服軍団内部で強硬派「セートデーン」の幹部が狙撃されたという(現時点では意識不明の重体)報道。夕べから軍がバンコク中心部を封鎖していて、またキナ臭いな空気が流れ始めています。後頭部を弾丸が貫いた、、、(おそらく現政府が、ということになるのでしょうが?)どう考えてもこれはウザい「ヘッドを摘む」ことを狙ったものでしょう((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル・・・。仕事場は中心部から1キロ以上離れてますので平穏ですが、タイ人のスタッフは始業時間になってもまだ誰も来ていません。

 <追記> 夕方16時にはみんな帰っちゃいました。鉄道関係がストップしてしまったので、私もバスで帰ります。

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スーパーフラット

 恥ずかしながら村上隆という名前を知ったのはつい最近のことだ。それほど美術シーンへの興味が薄れてしまったってことだが、まあそれは僕自身のプログラムでもあるのでよしとする。ちょっと調べてみると、この村上さんという人が活動的かつ芸達者で、ビジネスの才能を持った頭のいい人だということはよくわかった。日本というものを意識した戦略的なコンセプトで作られた作品が、びっくりするような額で海外に売れている、というのは大したものだと思うし、少々痛快でもある。



 だが村上隆にとってのアートとはあからさまに商品であり、そのスーパーフラットなる戦略とは美術市場における海外の美術との差異化によるマーケティングの戦略である。ここまで臆面も無く「売る」ということを目的にするアーティストというと、小室哲哉とかつんくみたいな音楽プロデューサーなんかを彷彿とさせるが、映像や音楽など高度に商業化されているメディアならともかく、日本画出身のファインアートの領域でこうした戦略を取っているところが珍しい(たいていの美術家においては、「美の追求」みたいなテーマの背後に金の問題は退いている)。とはいえ村上隆の語っていることを聞くと、個人的な成功や金銭欲によってではなく、伝統的な美術教育への批判や、日本文化の世界への発信(日本美術の地位の向上)というシリアスな動機が彼の旺盛な活動を支えているらしいことがわかる。

 しかし問題はその── 「文化」の発信──について、である。ここで言われている、文化の発信は、いわゆる文化的コンテンツを売ることだ、と理解して間違いないだろう。逆に言うと売れなければ文化は発信されたことにはならない。確かにマーケットに乗らなければ作品もアーティストの名前も、誰にも知られることはないわけだし、「売れる」ということは実に分かりやすい承認の方法だといえる。たとえば資本主義社会においては、ほとんどの人が自らの労働力を「商品」として、マーケット(市場)が評価したそれぞれの価格で売らなければ生きて行けない。「命がけの跳躍」を果たし、値段がついて初めてその人は社会に(一人前だと)承認される、という面があり、またその価格の高低によって社会がその人間に対してどのような評価を与えているかがわかる、というわけだ。、、、しかし「文化」を単にそうした売り物(値札の付いたコンテンツ)の集積として理解することに僕はずっと拒否感を持ってきた。

 ところでいつから芸術作品をコンテンツなんていう経済やマーケティングの用語で呼ぶようになったのか? なるほどセザンヌやゴッホの絵画もコンテンツに違いない(しかも高額の)。彼ら、19世紀末のコンテンツ制作者が創り出した独創的なコンテンツは不幸にも彼らの生前には正当に評価されなかったが、後年その価値が認められるに至った、と。またそのノリで言えば、アヴァンギャルド(前衛芸術家)はさしずめ、独創的でとんがった、魅力的な商品を生産し続けてきたコンテンツ産業のイノベーターといったところになるんだろう。

 しかし僕が前衛芸術家たちに見てきたものであり、今も胸を打たれるのは、自らの創りだした作品が売れようと売れまいと、自らの美意識なり欲望なりにブレることなく忠実であり続けたことだ。いや、むしろ市場で値段がつかなければ(売れなければ)価値がない、という(資本主義的権力の)一元的な評価軸に対して抵抗し、意義を唱え続けてきたのが前衛芸術の歴史ではなかったのか? 前衛芸術が現在高価なコンテンツになって流通しているということが意味しているのは、それがすでに資本によって咀嚼され回収されてしまっている、という事実でしかないことを知るべきである。何億円だかで取引される芸術作品に僕らが見ているのは、前衛たちの闘いの悲痛で惨めな残骸でしかない。

 そんなこと言っても僕らはこの社会において食っていかなければならない。だからこそ人は作品を、また大部分の人は自らの労働力を売らなければならない。その通りである。かといってそのような価格の高低が人間の評価を決めてしまうわけではないし、価格がつかない人はその活動や存在そのものが無価値である、なんてことはありえない。、、、ありえないはずだが、とにかくそのような評価軸は支配的なものとして、いま現実に僕らの生きている社会を貫いているのである。

 そのことに対して僕らは憤りを覚えてきたわけだし、現代の前衛は支配的価値とは別の(オルタナティヴな)評価軸を、この社会の中において体現して生きるべきだと考えてきた。「文化」と称されるものは、このような抵抗の生そのものなのであって、コンテンツの集積のようなことと混同されてはならない。日本の「文化」を世界に発信したいというのであれば、コンテンツを「売り」、市場に流通させることによってではなく、資本主義権力に対する抵抗を日本に充満させることを考えるべきだろう。別の言い方をすると、市場という土俵(最近はプラットフォームなんて言うんだよな)の上で勝負して勝つことが「文化」の価値を高めるのではなくて、勝負の行われている土俵そのものに疑義を呈し揺さぶりをかけることを問題にしなければならない。つまり資本が押し付けてきている市場の一元的な評価軸を脱構築する前衛の実践をこそ「文化」の名で呼ばなければならないということだ。

そのような抵抗が結果的に何らかのコンテンツに結晶することはあり得るだろうが、市場を意識したコンテンツの制作そのものは目的ではない。それどころかシチュアシオニストの実践のように、コンテンツ的には「無」であることを積極的に選択することだってありうるだろう。シチュアシオニストの教えの一つは、「文化」をになう前衛であるためには、売るべきモノ(コンテンツ)などなくったっていっこうに構わない、ということだ。コンテンツが何らかの表現の媒体であるにしても、それ以前に僕らの身体そのものだって立派な表現であり表現のメディアなのだから。

 経済の中心が世界的に製造業から情報産業へとシフトしてゆく中、国策として(アニメなど)日本の文化コンテンツを世界に売り込み、クリエーターを養成してゆこうという取り組みがあり、また地方自治体なども自ら文化都市を名乗って、文化の発信地にしたいという思惑が生まれてきている。それは資本の要請を受けての行政権力の事業である(行政が目標とするところはまさに村上隆がやってきたことだろう)。そこでいわれている、産業としての、商品としての「文化」というのは、抵抗としてシステムの外部を指し示してきた「文化」を脱臭することで脱構築の実践を撹乱し、システムが僕らをより深く眠り込ませ、システム自身を再生産させるために観させる「夢」、すなわち「スペクタクル」のことである。アートは現代におけるスペクタクルの典型であるが、僕はいままでそのようなスペクタクル化したアーティストを「亡霊」と呼んできた。
 
 言うまでもなく村上隆は典型的な「亡霊」である。書いてきたとおり彼の「日本文化の発信」という使命はニセの課題である(それに接続した日本の美術教育の批判もしかり)。しかも彼には才能があり、作品も実によく出来ている。そしてよくできたスペクタクルは危険である。フランシス・ベーコンの場合もそうだったが、まんまと釣られた批評家が意味ありげな批評言語を弄して彼らの仕事を持ち上げ、スペクタクルを絢爛と加速させる(批評としてはこちらのがまとも。というかこれは東浩紀批判か。)。それは、あたかもここに注目すべき「文化」が、21世紀の新しい「祝祭」が生まれているかのように錯覚させるのだ。なるほど若手に表現の場を与え育成する彼の努力は、村上個人の成功を超えた評価すべき活動のように見える、が、それはスペクタクルの発信でしかないところが口惜しい(亡霊の手から若者を救い出せ!)。

 繰返すが、村上隆は「亡霊」である。しかし彼の新しさは「亡霊」の外観をほとんど剥ぎとってしまっているところにある。過去の「亡霊」は少なくとも経済を超えたアートの独自の意義みたいなものを信じて(あるいは信じるふりをして)いたはずだ。村上はそうしたウェットで古風なアートの外観を事実上ほとんど捨て去り、あっけらかんとコンテンツ産業の論理を自らの活動において剥き出しにしてしまった。そのそしてはぎ取られたアート外観の奥には「資本」の骨格が透けて見えている。アヴァンギャルドたちが闘いの標的としてきたものを、「亡霊」たちはその骨格としているのが常である。そうだ、村上隆は冷たい腐肉を剥ぎとった骸骨、ホラーマンである(アズマンという盟友がいるらしい)。しかしどうだろう、このホラーマンの創りだす吹っ切れたコンテンツの前では、古き「亡霊」たちのウェットなコンテンツや活動が色褪せて見えてしまう。おそらくアントレプレナー(骸骨)的なカラッとした外観こそが今の時代にマッチし、人々に受けているんだろう。

ホラーマン

 結論。そう、村上は新しい! 死神のごとく、スーパーフラットという巨大な鎌を振り回し、ドルの札束を刈り取るホラーマン、ポストモダンにおける「亡霊」の進化形、それが村上隆である。
 


Category: 思想など   Tags: 思想    

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『権力を取らずに世界を変える』

 、、、ジョン・ホロウェイ著 を2回ほど通読した。これは何? 僕が書いただっけ?

Category: 旅行・タイなど   Tags: Thai  

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賄賂

 タイに働きに来たばかりの頃で、ちょっと記憶があやふやなんだけど、タイの選挙のキャンペーンの映像が当時テレビで流されていた。それは「賄賂を受け取らないようにしましょう」というメッセージの映像だった。確か画面の手前に高額紙幣を差し出す手が映っていて(僕の記憶の捏造かもしれない)、それをタイ人有権者たちが毅然として受け取らない、という構図だった。タイ語が聞き取れなかったので正確にはわからないが、おそらくCMの登場人物たちは「そんなものはいらない、自分の意志で投票するんだ!」とでも口々に言っていたのだろうと思う。印象的だったのは天秤棒を担いだ行商のおばさんが「そんな不潔なものを寄こさないでおくれ」と言わんばかりに賄賂を拒絶して立ち去ってゆく姿だ。なかなか気合の入った名演だった。
 しかし実際のところどうなんだろう、と思っていたが、やっぱりだよ(面白いブログ!)。ま、あまりにも賄賂が溢れているからこそこんなキャンペーンも出てくるわけなんだろが、、、

「それでは、公正な行政が行えない」などと思われるかも知れないが、そもそも公正な政治や行政などが存在しないのは、タイに長くいれば、自然と分かることである。


 あ痛たたた、、、もちろんこれはタイだけじゃなくって「南」の諸国一般にそうだろうし、日本だってかなり怪しいとこだろう。ただ報道を見るときにタイの政治はこうした根っこをもって動いているということだけはしっかり把握しておくべきだろう。

Category: 日記・その他   Tags: 音楽  

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自意識のない、、、

 文化系トークラジオLifeで鈴木謙介さんが、最近「いきものがかり」の楽曲にはまっていることを告白していた(あれ? オレと同じじゃん(* ̄∇ ̄)ノ)。いきものがかりの歌には自意識というものを感じないが、たまにはこういうモノも聞きたくなる、ということらしい。たとえばコルトレーンの自意識過剰な重たいサックスなんかを普段聴いてるような人が、軽めのフュージョンのサックスの音の情感に意外にもしびれてしまった、みたいなところかなと思うが、それこそ文化系の、サブカルチャーに詳しい人が、ベタなポップスにはまってしまったことを言い訳がましく分析的にカミングアウトしているあたりがいかにも、である。もちろん自分のことも含めてなのだが、「文化系」ってのは、世の中広しといえども、こんなレアなもの(芸術や思想)を愛好し、理解しているのはオレだけだ、というあたりにプライドを持とうとするものだ。だけどそんな自分の中にストレートにベタなポップス(スペクタクル)にはまれる、ベタな一面を発見してビックリしちゃうんだよね。僕の場合もボーカルの吉岡聖恵さんの気の強そうな眼とか、ちょっと潰れた鼻、大きな口などに萌えているというだけじゃなくって、歌に歌われているような自分が経験することのなかったベタな体験にどこか憧れがあるということなんだろうな。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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