泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

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パフォーマンスの現象学 plus+

 粉川哲夫氏の「パフォーマンスの現象学」(『メディアの牢獄』収録)という論考がなかなか面白い。「パフォーマンス」という言葉に私は「作品化されたアクション」という(どちらかといえば負の)イメージを抱いているのだが、粉川氏は全く異なる定義を「パフォーマンス」という言葉に与えている。

パフォーマンスという新しい概念は、観客――つまり自分は安全地帯にいて対象を冷静に凝視しているような観客――が存在しえないような世界のためのものなのである。言いかえれば、すべての人がみな行なう人であるような現実、これこそがパフォーマンスに対応する現実なのである。



 まるでシチュアシオニストのマニュフェストに書いてありそうな文章だ。たとえば、、、

状況とは、したがって、それを構築する者たちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの「公衆」の役割は、常に減少することになる一方で、もはや役者(acters)ではなく、言葉の新しい意味において「生きる者(livers)」と呼ばれる者の関与するところが増大する(『シチュアシオニスト・インターナショナルに向けて』)。



 つまり粉川氏は、シチュアシオニストが言うところの「状況の構築」=スペクタクルの本質である「非ー介入」の原理(専門的な表現者(acter)と受動的な観客への大衆の分離)を解体(脱構築)する実践のことをパフォーマンスという言葉で表現しているわけだ。そしてこのシチュアシオニスト的な実践が、戦前のアヴァンギャルド芸術(未来派、ダダ、シュルレアリスム)において戦略的に追求されていたことをその炯眼をもって明らかにしている。
 私はこの前、シチュアシオニストの活動(芸術の脱構築)をパフォーマンスアートのようなものと混同すべきだはない、ということを書いたわけだが、パフォーマンスという概念を粉川氏に従って定義するなら、シチュアシオニストのアクションをパフォーマンスという言葉で表現して差し支え無いだろう。それどころかシチュアシオニストはラディカルで純粋なパフォーマーである、と考えるべきだと私は思う。とにかく粉川氏の論考を読んでもらえば、戦前のアヴァンギャルドの潮流と戦後のシチュアシオニストの活動の間に本質的な連続性があることがよくわかると思う。例えば次のような言葉はシチュアシオニストの機関紙からの引用だと言っても通用しそうである。

「 重要なことは、俳優だけが変わるのでも、また観客だけが変えられるのでもなく、その場にいあわせる者がすべて能動的な自己変革者になるような場をつくり出すことである。」

「演技者はもはや観客を操作し、支配する者であることをやめ、また観客は演技者によってだまされ、扇動させられることをやめる。いまや、”演技者”の”役柄”や身ぶりは、”観客”にパラノイアや幻想を起こさせる装置ではなくて、”観客”がたとえつかのまであれ自分を変えるための媒介となるのであり、”演技者”の方も、”観客”の予想をはずれた反応によって自分を変えざるをえなくなるわけである。」



 フォーマルな芸術(アート)という制度は基本的に、スペクタキュリーな一方向的な情報の流れを原則としている。それゆえ美術館や劇場という芸術をめぐる大掛かりな表現の舞台装置も、粉川氏の指摘にあるように、そうした一方向的な「 ”演技者”と”観客”との持続した関係を予測して(すなわち非ー介入のスペクタクル的関係の再生産を意図して)構想され」ているわけである。厳密に考えれば観客から表現者へのフィードバックは不可能でないにしろ、情報の流れ方は非対称的である。
  ところがパフォーマティヴな実践が目指しているのは逆に、フィードバックそのものなのである。

 「まず何よりも ダダイストたちが初めに理解したことは、観客が劇場に入ることで芝居が始まるのではなく、観客の中に芝居をとらえに行かねばならないということであった。」

 

 ここには専門的表現者から観客への一方向的な情報の発信ー消費という芸術に特有の構造に楔を打ち込み、解体しようとする志向、すなわち「舞台と観客との間の新しい関係をつくることを求め、また俳優から観客への思想と行動の往復運動の可能性(=コミュニケーション)」を追求する姿勢が見て取れる。言い換えれば、芸術的な表現行為そのものは、自己(「同」)の拡張であるが、パフォーマティヴな実践が目指しているのは、それを越えた「他」との対面である、ともいえるだろう。

 ただ、アヴァンギャルドの潮流とシチュアシオニストの活動の間に本質的な連続性があるにしても、その間には大きな違いが横たわっていることも事実だ。

 まず、シチュアシオニストの活動の舞台は、都市空間であり、日常生活の中であって、はなから美術館や画廊、劇場というスペクタクル装置とはあまり縁がなかったし、むしろ(とくに初期には)演技者と観客への分離の解体を誘発するような舞台そのものを構築することに関心を持ち、逆に「非ー介入」の関係を強化、再生産する体制側の都市計画については厳しく批判し続けていた。

 そして(こちらの方が重要だが)シチュアシオニストにとってはあくまでも無形である(演者と観客への分離が解消した)「状況」の構築が最大の関心事であり、「作品」の制作を目的としていなかった。もっともアヴァンギャルドたちが「作品」を目的に活動していたのかどうかは綿密な検討を要するが、結果的には彼らの試みたパフォーマティヴな実践の可能性は、作品=商品(美術市場)の中に回収されてしまったことは確かだ。
 パフォーマンスが惹起する異化効果は、激しい感情的反応を引き起こし、システムを根本的に問い直す力を秘めている(粉川氏によると「人間と物とを疎外からつかのま解放する」)ために、体制にとっていかがわしいものであり危険でもあったが、それは結局、作品ないしは前衛アーティストとしての名前に特別なバリュー(差異)を付加する一エピソードとして解釈しなおされ、気を抜かれていったわけである。
 基本的に戦後の前衛芸術は、体制によるこうした懐柔=回収の平面の上を推移し、現在に至っている。パイオニアの称号を戦前の大家に持って行かれてしまったシュルレアリスム以降のアーティストたちは、「ピカソやデュシャンにもうすべてやり尽くされてしまった」とボヤきながら、シケモクを探して灰皿をかき回す人のように、あるいは血眼で川底を漁る砂金採りのように、自分の作品に付加価値を加味する「差異」を必死に探すのである。アーティストは自分の生まれ育った条件、嗜好や経験などあらゆるものから特異な価値を搾り出すとともに、パフォーマティヴな実践に活路を求める。それによって掴みとった「偶然性」や「他性」がアーティストの作品を差異化し商品価値を高めてくれるからだ。しかし、こうなってくるとパフォーマンスは、企業の企画会議におけるブレインストーミングと全く同じ意義を持つものとなり、戦前のアヴァンギャルドが意図した疎外=スペクタクルの解体(脱構築)という課題から大きく脱線し、差異化によってドライブする資本主義の点火プラグのようなものに成り下がってしまうのだ。

 ま、てなことはともかく、シチュアシオニストが「作品」をではなく、「状況」の構築を指向していたということは、(演者と観客への分離が解消した)パフォーマティヴな瞬間そのものを作り出すこと、すなわち「他」と対面すること自体が目的であり、前衛芸術のように手段としてそれを求めていたわけではないということである。アンドレ・ブルトンはかつて芸術(シュルレアリスム)について「芸術においては、生命の危険を冒さずには、いかなる偉大な探検も企てえない、また芸術家は誰しも、たった一人で金羊毛を探しに再び出かけねばならない」と語っていた。確かにその通りだと思うが、ブルトンの言う探検は、やはりどこか金羊毛を捕えて危険な旅から戻ってくることを前提にしている(探検は手段である)ようなニュアンスを感じてしまう。
 レヴィナスは弁証法の「正ー反ー合」の論理を批判していた。すなわち「反」という「他」との対面の契機が、弁証法においては、「正」が展開し「合」に至りつくためのエピソード(手段)に貶められ、したがってヘーゲル弁証法は「同」による「他」の回収、「同」の貫徹=権力の哲学である、ということだった(と思う)。
 いずれにしろ、前衛芸術はパフォーマティヴなものを手段化してしまい、戦前のアヴァンギャルドが意図していた疎外の批判、脱構築という契機を衰滅させてしまった。それに対してシチュアシオニストたちは、よりラディカルに「非ー介入」の原理の脱構築の方向に運動を推し進め、パフォーマンスの持っているポテンシャルを、回収装置と化してゆく前衛芸術の潮流から救いだす転轍機の役割を果たしたのである。「作品」を作ることを自らに禁じ、無形の「状況」の構築のみを指向するシチュアシオニストは、粉川氏の定義に従えば、むしろ純粋な「パフォーマー」以外の何者でもない。
 きっとこのパフォーマーは、企てた探検の中で対面した「他」の影響により、引き続き新たな探検が開始されるので、探検からもどることもなく、したがって何も持ち帰ることなく、ひたすら「他」に出会うことを求め続ける秘境の旅の中に生きることになるだろう。それゆえシチュアシオニストの解する弁証法は、レヴィナスに批判された通俗的なそれとは異なる容貌を見せているだろう。弁証法とは「他」との対面における「驚き」であり、またその(予想を裏切られたことによる)敗北の「苦さ」を味わいながらもう一度立ち上がり歩き始めることだ、ということになるだろう。

 ただ粉川哲夫氏の論考を読んでて気になるのは、その素晴らしい炯眼にもかかわらず、あくまでもパフォーマンスを芸術の枠の中でしか考えていないように見えることだ。粉川氏はギルバート&ジョージやトム・マリオーニといった戦後のパフォーマンス・アーティストを紹介しながら、パフォーマンス が、現代のオーラル文化であり、フォーマルな芸術文化に素材や活力を提供する下部構造的な役割を持つことを指摘したり、人間と物とを疎外からつかのま解放する力をパフォーマンスの中に見いだしたりしているわけだが、それらは結局パフォーマンスが大文字の芸術の手段として役にたったり、芸術という枠の中で効果を発揮しているという実例の紹介でしかない。
 たしか粉川氏は、いち早くイタリアのアウトノミスタの運動を日本に紹介した人だ。アウトノミア運動の特徴の一つは旧来の政治形態に特有の、専門的な政治家、運動家(acters)と受動的な公衆への分離の解消(=自律)にあったはずで、これは紛う方なく疎外の克服を意図したパフォーマティヴな実践だったはずである。なのになぜそちらへの繋がりについては語られず、パフォーマンス・アートなんだろう? パフォーマンスの可能性は、もはや「シケモク・出がらし」でしかないアートの命脈を保たせるためのカンフル剤の役目に縮減されてはならない。すでにシチュアシオニストによって転轍されたレールの延長線上に、68年5月の爆発やアウトノミアなどのパフォーマティヴな民衆の運動が盛り上がっていたはずなのに。。。それともこれは時代の限界だと考えるべきだろうか?(『メディアの牢獄』の出版は1982年、、、30年前!)
 実は僕はパフォーマンス・アートにほとんど親しんでなくて、ギルバート&ジョージもトム・マリオーニも知らないのだが、それが正当なパフォーマンスであったとしてもアートである以上(パフォーマンス・アートにおいてはミニマムに縮減されているとはいえ)、表現者と観客(粉川氏はパフォーマーと立会人と言い替えているが)との分離のスタンス(=芸術の舞台装置)をスタート地点に据えなければならない。その事自体がいけないわけではないだろうが、解体するためにもう一度芸術の手続きを巻き戻して使うような不毛な反復がはたして必要なのだろうか? パフォーマンスの意義を鮮明に描き出している粉川氏が、何でいちいちアートの受動的な観客に立ち戻らなければならないんだろう? 疎外の克服のために芸術の手続き(=舞台装置)が必要ないことは、アウトノミスタのより生活的な抵抗の実践を見れば一目瞭然だと思う。どうも私たちには「観客」になる態度が染み付いてしまっているのか、知識人の中には口ほどにもなく芸術の「観客」になってしまっている人が多いように思うのだ。
 資本主義社会における疎外=スペクタクルの解体(脱構築)を実践するということは、自ら「生きる者(livers)」(=すべての人がみな行なう人)であろうとすることを意味する。「生きる者(livers)」であろうとすることが、シチュアシオニストに専門的な表現者(=芸術家、acter)であることを放棄させ、距離をとらせている。しかし当然だがそれは同時に自ら受動的な「観客」であることをも拒否させるはずである。まあ、実際には私たちは疎外=スペクタクルにどっぷり浸かって生きているわけだから、拒否しきれるはずもないし、面白い芸術に出会う可能性もないわけじゃないだろうが、芸術を鑑賞することに一抹の不快感や憤りという斥力を感じずにはいられない、というのが「生きる者(livers)」の生理だと私は思っている。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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