泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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ホーム&アウェイ

 この檜垣の論に従えば,現前の形而上学/同一性の政治学の乗り越えのために,デリダとドゥルーズは2つの異なるベクトルを生ききった2人だということになる。この2つのベクトルは,共に簡単にまとめあげられるようなものではないだろうが,そこに真摯に学ぶべきものがあることだけは間違いない。これは,私たちが生きている現実に立ち向かうときに抱えこまらざるをえない,挑戦的思考の2様相なのではないかと,私にも思われる。
 そうであるが,ここで檜垣の論を引いた理由は,すなわち私自身のケガレ論の再解釈の提示を通じてここで示したかったことは,デリダ的なものからドゥルーズ的なものへと思考様式の重心を移していくことが,ストリートの内在的理解には不可避であろうということである。というのは,デリダ的な見方がホーム権力の思考方法を根底から覆すというよりは原エクリチュールという空虚の存在(到達不可能性)を支えにした脱構築によって差異の場所をずらし続ける逃走的抵抗の形になっているのに対して,ドゥルーズ的な見方はもっとストレートに思考方法の転換によって形而上学の窮状を乗り越えようとしている革新性があり,例外化された「ストリート」の生を描き出す視点転換がそこに見て取れるからである。もっとはっきり言うならば,デリダ的見方では,すなわち主張される「〈外〉の侵入」という見方には,「〈内〉中心主義」の視点が実はへばりついていて,その意図に反して支配イデオロギーと共犯的になってしまって,それを遅延させることはできても根本的には相対化できないことになる(ネグリらのデリダ批判はこの点に触れている(ネグリ/ハート2003; 2005))。逆に,一見脳天気にも見えるドゥルーズの主張「溢れ出す〈内〉」は,その外見に反してきわめてラディカルな支配イデオロギーの逸脱ないし思想的凌駕になっている点が,注目されるのである。
『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論 関根康正



レヴィナスはデリダに似たタイプの思想家と言われていて、僕もあの他者論にシビレた口だが、ここで言われている「〈内〉中心主義」をそこに感じ続けている。レヴィナスという人はマジョリティとして社会の権力の中心の近くから発信を行なっていたんじゃないか。アウェイで生きざるを得ない人、またアウェイで生きることを望みすらする人がいて、自らが社会や共同体の〈外〉であるという感覚を抱いている人にとって、レヴィナスの言葉は少々上から目線なものに聞こえなくもない。実際には人間誰もホームとアウェイの両面に生きているわけだから、どのようなアウェイに生きるマイノリティにとっても、レヴィナス的な〈自〉の問い質しは有効だとは言えるが、ユダヤ人というレヴィナスの出自のわりにはアウェイ感覚に鈍感ではないかと訝しく思っている。この「〈内〉中心主義」はつまり「学=アカデミズム」につきまとう視線の問題で、民衆や運動の立場からはドゥルーズ流の言葉がピンとくるということだろうか。
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荒井賢 (Ken Arai)

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