泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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民衆文化と芸術

 では、バフチンは「カーニヴァル」をどのようなものと想定し、その”歴史”をどう思い描いているか、この点をまず見定めておくことにする。
 バフチンはまず「カー二ヴァル型の多様な祭り・儀式・行動方式すべて一括」して「カーニヴァル」と呼ぶと断る。この意味でのカーニヴァルは「演技者と観客との区別もない」パフォーマンスであり、誰もが、観客として見物などせず、「すべての者が積極的な参加者」として「カー二ヴァル劇に加わる」。「厳密にいうなら、カーニヴァルは、演ずるものでさえない。そのなかで生きるものだ」。
「日常の軌道をはずれ」「ある程度〈あべこべ〉で〈裏返しにさわた〉力-ニヴァル的な生を、生きるものだ」という。 『バフチン』北岡誠司より


 思うところあってバフチンのカーニヴァル論を調べている。これなんか読んでいるとシチュアシオニストの実践を連想してしまう。いやダダイズムなどアヴァンギャルドの運動の中にすでにこのカーニヴァル感覚があった。
 「芸術」は「文化」という概念に含まれるが、カーニヴァルに代表される民衆文化のように「芸術」とは言えない「文化」も存在する。今日の「芸術(アート)」とはヨーロッパの支配階級=権力(宮廷、教会)の文化=エリート文化に起源をもっている。いわゆるハイ・カルチャー(高級文化)として民衆的なものとの距離感が「芸術」という文化の特徴である。それは民衆を魅惑し、威圧し、ひれ伏させる。そのため「芸術」には惜しげもない富と民衆文化にはない高度な技術や熟練が費やされ、特殊な技術を持つ専門家(=芸術家)が招集されて制作=表現活動が行われた。
 ブルジョワの時代になった今日でも「芸術」にはエリート文化の性格が変形しつつも残存している。高尚で近寄りがたい雰囲気、芸術家という表現の専門家による作品の前で私たちは観客となってアート礼拝を行うのだ。芸術家はかつてのように職人技術を極めるよりも、キリスト教の神に代わって登場した資本という神に奉仕する「新しさ」という捉えがたい価値を求めるようにはなったものの、「芸術」特有のコミュニケーションの一方向性は基本的に変わっていない。
 ところでアヴァンギャルドは通常「芸術」の一分野のように考えられているが、むしろそれとはタイプの違う民衆文化=カーニヴァルの文化の末裔(ないしは再生)なのだ。しかしここんところが非常に混乱しており、アヴァンギャルドたち自身も自らの活動を「芸術」として理解し、グリーンバーグのような評論家たちもそうした混乱に加担している。アヴァンギャルドが「芸術」ではなく「カーニヴァル」であることを明確に理解していたのはシチュアシオニストだけである。彼らは自分たちの活動と「芸術」との違いに注意を促し続けていた。だが残念なことにこの「芸術」と「アヴァンギャルド」をめぐる混乱、取り違えは21世紀になっても続いている。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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