泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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デヴィッド・グレーバーがヴァネーゲムとシチュアシオニストについてこんなことを語っている。

 私は常にドゥボールよりもヴァネーゲムが好きでした。もしかすると個人的な好みかもしれません。ドゥボールは、彼の意図にも関わらず最終的には全体化の理論を目指す人だったのではないでしょうか。そして彼の政治的実践は険悪なものだったようです。ヴァネーゲムについては、彼を好きにならない方が難しい。彼は情熱家だったし、彼の書くものには読者を引きずり込んで行く魅力がある。ともかく私がヴァネーゲムとシチュアシオニストに惹かれるのは、他のアナーキストたちが惹かれるのと同じ理由からです。つまり彼らこそが、疎外についての究極的な理論家だったからです。私は68年以降のフランスの理論が捨ててしまった疎外論の伝統を投げないことが大切だと考えています。アナーキストたちはこの概念をあきらめません。前回のインタヴューでも言いましたが、アメリカでアカデミックな本屋に行くと、フランス理論のコーナーは、68年から82年の間に書かれた本で埋まっています。ですが、アナーキスト系のインフォショップへ行くと、フランス理論がないわけではありませんが、学者が読まないような68年以前に書かれたものの方が多いのです。ダ二エル・コーン=ベンディットがどこかで言っていましたが、彼やその他のパリ68年のスポークスマンたちは、彼らのアイデアを自分たちで創ったのではありません。それには主に3つの出所があります。カストリアディスらの〈社会圭義か野蛮か〉グループ、およびシチュアシオニスト、そして(私の記憶が正しければ)『黒と赤』というアナーキスト雑誌です。今でもこれらに関係のある本を置いているのは、インフォショップです。私はコネチカット州ハートフォードやカンザス州ローレンスの10代のパンク少年が、ヴァネーゲムの The Revolution of Everyday Life (「若者用処世術概念論」)を大切に抱えて読んでいるのを見ると、胸を打たれます。この本はほとんど半世紀前にフランスで書かれたものです。それがいまだに疎外されたアメリカ郊外の若者に訴えかけるのです。疎外は現実に存在している。ヴァネーゲムの本は、資本主義における疎外について、今まで書かれた本の中で最も説得力のあるものです。
 人びとが疎外を経験し続けているにもかかわらず、ほとんどの理論家はそれについて問題にしません。68年以降フランスでは、いわゆる「無用になったマルクス圭義の鞄」に対する幅広い拒絶が起こりました。人びとは革命を売り渡したフランス共産党に飽き飽きし、党の綱領をどこまで切り捨てようか競っていました。これは有効な浄化作用ではありましたが、この過程で疎外概念の全体が遺棄されてしまいました。ポスト構造主義的な批判の多くは次のように問います。「そもそも自然な社会関係がない限り、どうして資本主義における社会関係が不自然だと言えるのか?」「社会以前に人間的本質を前提にしない限り、どうして何かを非人間的と言えるのか?」「社会的に構築されたもの以外に、自己などというものがない以上、どうして本来的な自己のあり方を奪われたなどと言えるのか?」これらはすべて強力な批判です。これらを論駁するのは難しい。しかし繰り返すと、人生はわれわれの言説から生まれるのではありません。それらの議論がいくら正しくとも、人びとはやはり疎外を感じているのです。少なくとも多くの人びとは感じているでしょう。ですからヴァネーゲムがアメリカ中部の少年たちにいま読まれているのです。
 確かに今日の若い活動家の視点からすると、この本には多くの問題があります。一度私はこの本をラディカルな社会理論に関するクラスで読ませたことがありました。すると、そのクラスの学生たちはほとんどが同じ疑問を表明しはじめたのです。「彼はジェンダーについて、クィアについて、人種について何か考えていたのか?」。答えは否です。だから今日では誰もあのような本を書くことはできません。しかし妙なことに、この限界こそが力なのではないでしょうか? 逆に排除の構造のみについて微に入り細に入り語ることの問題は、そのことによって人びとが排除されたもとの領域がよい領域であると暗示してしまうことです。だから資本主義について、それが公平でないから────大多数の人びとが競争に敗れるから、あるいはある腫の人びとが常に敗れることになっているから────問違っている(それはもちろん正しい指摘なのですが)という所から議論を開始すると、もしみながゲームに勝つのなら、それでいいということになってしまうでしょう。問題はゲームそのものにあるのでなく、ゲームの組織化にあるというわけです。しかしヴァネーゲムの議論は違っています。それはわれわれがゲーム(資本主義的競争)に勝ったとしても、ゲーム(資本主義)自体が腐っている、ということです。その報酬さえもが非人間的な悪いゲームだと言ったわけです。これはどのような排除に関する議論よりも全面的な資本主義の否定です。われわれは、ある側面でこのような全面的な議論に回帰すべきだと思うのです。
 私にはポスト構造主義の疎外論批判への返答があります。この議論の裏には、奇妙に隠された実証主義が潜んでいるのです。「そもそも自然な社会関係がない限り、どうして資本主義における社会関係が不自然だと言えるのか?」という批判は、一体何を示唆しているのでしょうか。それは結局、統一された主体、社会全体、自然秩序などといったものは、幻想だと言っているわけです。それらは単にわれわれの想像がでっちあげる虚構でしかない、と。分かった、それはいい。しかしその何か悪いのか?人びとがこれまで常に想像の全体性なるものにこだわってきたことには理由があるのです。それこそ私か、過程、創造性、造ること、これらの先行性を主張する地点です。私にとっては、それこそが究極的な現実なのです。どのような創造性の形式であろうと、そこにはユートピア的な契機が含まれていなければなりません。われわれが構築しようとするものの像は、常に何らかの全体性の像にかかわっています。常に想像と現実の間には距離があるのです。そこにものを造ることの本質の大きな部分があります。人類史の中で、このことを大きな問題だと考えた人がほとんどいなかったのは奇妙なことです。ある一定の時と場所でこの距離を観察して、世界とは残酷な冗談であり、何一つ意味をなすことなどない、神はいなかった、と結論する人びとが現れたのです。私の考えでは、それは根本的な不平等な形式の帰結です。物質的なものであろうと社会的なものであろうと、根本的な不平等が生産過程自体に挿入された場合、それはわれわれが世界を創造する想像力の構造を破壊します。それこそわれわれが疎外として経験することです。疎外とは、根本的な不平等の社会的効果である想像力の構造の崩壊、その主観的な経験なのです。これはどちらかというと複雑な議論ですが────たとえばマリノフスキー記念講演や Direct Action : An Ethnography (『直接行動の民族誌』)など────私の最近の論考の多くは、それが実際にどのように機能しているか理解する知的道具を発展させようという試みなのです。



スペクタクル社会はマスメディアの発達がもたらしたみたいなイメージを持っている人が多いかもしれないが、むしろ疎外された人間関係の究極的あり方を表現するのがスペクタクルである、という説明のほうが的確だろう。この古臭い「疎外」という言葉が僕の中で重みを増し続けている。問題は人間や社会の本質云々ではなくて、この倒錯した世界が腹立たしく、つまらないという実感なんだ。件のヴァネーゲムの本、日本語で読めないものかなあ。

それにしてもドゥボールという人は評判が良くないね。「ドゥボールは、彼の意図にも関わらず最終的には全体化の理論を目指す人だったのではないでしょうか。そして彼の政治的実践は険悪なものだったようです。」、、、本当なの? もうこの世にはいないので確かめようもないが、実際どうだったんだろう。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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