泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: ---

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

観客( audience )と観客( spectator )

 アーティストや批評家が自分や他人の仕事を「表現」とか「表現活動」とか言っているのを聞いてて、ずっと違和感を感じていた。だって単純に生きていることがそのまますべからく「表現活動」に他ならないじゃん、と思うから。沈黙や不器用さだって雄弁なコミュニケーションであるのに、コミュニケーションスキルが高いとか低いとか言ってるのと同じ浅はかさを感じるのだ。なのになぜ芸術活動をあえて「表現」なんて言い換えるのだろう?
 私が思うに、ある人が自分の活動を「表現」と規定することは、日常的な生から自分の活動を聖別し、権力に裏打ちされた公式文化の世界(芸術のマーケット、評論界、芸術大学、美術館や劇場などの箱物、なんとかビエンナーレなどの芸術展などからなるいわゆるアートワールド)にアクセスしていると宣言することではないだろうか。そのときはじめてその人はアーティストと言う名の「表現の専門家=演者( acter )」となるのだ。厳密に言えばアーティストのアイデンティティは、根源的な「生=表現」が、芸術の「表現活動」とそれ以外の「日常」へと分割するとともに生じている、ということになるだろう。また、この「表現活動」なるものがホンチャンの活動として浮上するとともに、それ以外の活動は「地」として背景に退き、弛緩した創造性なき領域(日常性)へと変貌させられるのである。またその分割は同時に自分の活動に触れる人々が一方向的、非対称的なコミュニケーション関係、すなわち「観客( audience )」であることを無意識的に要請する。
 誤解のないように言っておくが、表現活動以外の領域が創造性なき日常へと弛緩し、アーティスト(表現者)以外の人々が観客となり受動的な存在に変貌すると言っても、たとえば現実の一般大衆が非創造的な存在になってしまうわけではなくて、あくまでもそうみなしたいのはアートワールドに血液を供給し続ける「権力」であり、その公式文化のヒエラルキーの一角を占めたいと欲する(権力の創りだすプラットフォームに参入し、権力の視線に同一化した)アーティスト(表現者)の意識である。
 こうした芸術家を巡る関係性は、近代以前のヨーロッパの公式(高級)文化の特徴でもあった。芸術家は王侯貴族や教会の権力に奉仕し、それによってヒエラルキーの一角を占め、一般民衆から卓越する意識を持った。かつて支配階級の権力を誇示するものであった公式(高級)文化=芸術はブルジョワの時代になって長い時間をかけて編成し直され、大衆を疎外の中に繋ぎ止め体制を維持するための文化装置に姿を変えたが、芸術家は今でも資本という権力の視線を内面に取り込むことで、自らを創造的な表現者として大衆から卓越する意識を持つという点では変わっていない。芸術家は結局権力の侍女なのだ。
 アートワールドに参入するということは、権力の紡ぎだした支配的なイメージ(スペクタクル)を受け入れることにほかならない。ドゥボールの『スペクタクルの社会』に出てくる有名な断章に「観客( spectator )」という言葉が出てくる。このスペクタクルに見入る観客という概念は、疎外の極致を戯絵的に描き出したものであって、先ほどの「観客( audience )」とは意味が違うことに注意してほしい。

 凝視される対象に対する観客の疎外は次のように言い表される。観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己れの姿を認めることを受け入れれば受け入れるほど、観客は自分の実存と自分の欲望がますます理解できなくなる。


 逆説的に聞こえるだろうが、アーティスト(表現者)はまさにドゥボールの言う意味での「観客( spectator )」なのである。「観客( audience )」を持つ表現者「演者( acter )」であろうとすることは、生を貧しくし、自分の実存と自分の欲望がますます理解できなくしているのだ。

Category: 亡霊退治   Tags: ---

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

 「受動的で、ただ端役的な「公衆」の役割は、

、、、おそらく段々と減じてゆくに違いない。他方で、「演者( acters )」と呼ぶことができず、言葉の新しい意味で「生きる者( livers )」と呼ばれる人々が務める役割は着々と増大してゆくに違いない。」とドゥボールがどこかで言っていたが、このスペクタクル社会における疎外された人間関係=演者/観客の二分法を乗り越える「生きる者( livers )」という発想が、バフチンのカーニヴァルにおける人間関係を述べる件=カーニヴァルは「演技者と観客との区別もない」パフォーマンスであり、誰もが、観客として見物などせず、「すべての者が積極的な参加者」として「カー二ヴァル劇に加わる」。「厳密にいうなら、カーニヴァルは、演ずるものでさえない。そのなかで生きるものだ」、、、にそっくりなことにびっくりしている。
 もちろん「芸術(アート)」はドゥボール(シチュアシオニスト)にとってスペクタクルであり疎外された人間の関係性­­­=演者/観客の二分法の典型である。巷に言われるシチュアシオニストはアーティスト集団であるとか、芸術と政治を統合しようとしていたとかいう言辞は全くの誤解なのであり、彼ら自身は自らのスペクタクル批判活動を「生きる者( livers )」として定義し、「芸術(アート)」とは異質なものであることを絶えず主張していた。
 この疎外の乗り越えすなわち資本主義の外部を形作る実践である「生きる者( livers )」とは、バフチンの言い方を借りるなら「カーニヴァルの生」だということになる。まさにシチュアシオニストは祭りの戦士なのだ。
 ところでヨゼフ・ボイスなどが「すべての人間は芸術家である」という言い方をしている。この言葉の背後には、現代人が疎外され創造性を失ってしまっているといるという認識があるのは間違いない。すべての人間がクリエイティヴィティを取り戻すべきだというのが彼の「社会彫刻」の理念なのだろう。
 ごもっともな主張であると思う反面、ボイスの仕事にはずっと疑問を抱いていた。 疎外の乗り越えを目指すボイスの主張とシチュアシオニストの活動には、一見共通性があるように思える。だがボイスが「芸術(アート)」を肯定しているのに対して、シチュアシオニストは正反対の立場をとっている。なにしろシチュアシオニストに言わせれば「芸術(アート)」は疎外された人間の関係性­­­=演者/観客の二分法とコミュニケーションの一方向性の典型であるというのだから。
 「すべての人間は芸術家である」という言い方は、演者/観客の二分法をそのままにしてコミュニケーションの一方向性を双方向性に変えたものだと言える。つまり演者/観客への分割を維持したままその立場を相互に交替可能にしたもの、演者であるとともに観客であるということだろう。
 結果ボイスは、「演者( acters )」で在り続けたし、カリスマ{スター)になってしまった。この点にボイスの戦略の間違い、疎外という事態への認識の甘さがあった。本当に彼が疎外を憂慮していたとすれば、自分自身の活動に苛立っていたはずだと僕は想像する。問題は、「芸術家(アーティスト)」であることではなくて、「生きる者( livers )」であることなのだ。

Category: 亡霊退治   Tags: ---

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

これはもはやアート(芸術)である。

 、、、なんて言い方がよくされるよね。このとき思い浮かべられているイメージが一般的、通俗的に了解されている「アート(芸術)」概念なんだろうと思う。
 たぶんそれは常人が日常的な生活を送っている分には成し得ない表現・制作活動であり、その表現・制作活動の中には並々ならぬ洗練された技術や、集中力、センス、大胆さや繊細さなどの感性や精神性や知性が宿っていて、それゆえにその表現・制作活動や表現の結実した作品は鑑賞する価値がある、、、ときには対価を支払ってまで礼拝する(消費する)価値を持っている、、、そのような作品やアクションを「アート(芸術)」と呼んでいるのだろう。
 金を払って前衛的なアートに接してみたものの、さっぱりわからなくて、なんじゃこりゃ、金返せ! いや、でも評論家は絶賛してたし、、きっと私には理解できないすごい価値があるのかもしれない、、、なんて思ったりする。が、ここではアートの価値がマネーという等価物で比較されることを問題にしたいわけではない。
 このような「アート(芸術)」の了解の内にちらついているのは、アートは常人による日常の活動より「お高い」文化活動であり、その「高さ」がアートを鑑賞する人にとって価値となっていること。また表現する側(アーティスト)も自分の表現・制作活動、作品が一般人の平均的な活動から上方へ距離をとっているほど価値があるし、同時にその距離感は自分自身のアーティストとしての存在意義を高めるものだと思っている。
 高級文化(ハイカルチャー)という言葉があるが、「アート(芸術)」のアイデンティティは基本的に民衆・大衆的なもの(低級文化=ロウカルチャー)から距離をとることで成り立っている面がある。これは「アート(芸術)」がヨーロッパの宮廷(王権・貴族)や教会などのエリート(権力者)の文化を起源にしたその末裔(成れの果て)であることによっている。
 権力者の文化は臣民に対して自らの力や正統性を誇示し、民衆を魅惑しひれ伏させるような一面を発展させた。そのために金に糸目をつけず、選りすぐられた芸術家・職人によって、規模の大きい手の込んだ文化的な洗練の極みが追求された。
 現在の「アートにはなにがしかの常人離れした技巧なり精神性なりが宿っていなければならない」という通俗的な了解には「アート(芸術)」の起源がエリート文化だという事実がこだまのように鳴り響いているのだ。
 このようなエリートの文化である「アート(芸術)」に対して、私たちは民衆・大衆の習俗や風俗や未開部族の生活全体をも文化と呼んでいる。例えばバフチンの言っている中世の「民衆文化」もそうだろう。季節ごとにに巡る来るカーニヴァルなどの祝祭、、、労働の規範が支配する日常からの開放、民衆の生命の爆発の時間、、、それはエリートの高級文化とは別の意味での富の蕩尽であり、そこには「アート(芸術)」のように洗練された形ではないが、彩りがあり歌があり踊りもあったはずである。
 ただしこの2つの文化の形態には大きな違いが存在する。バフチンの言葉を借りると、カーニヴァルは「演技者と観客との区別もない」パフォーマンスであり、誰もが、観客として見物などせず、「すべての者が積極的な参加者」として「カー二ヴァル劇に加わる」。「厳密にいうなら、カーニヴァルは、演ずるものでさえない。そのなかで生きるものだ」ということだ。一方、「アート(芸術)」にはこの演技者と観客との区別が明確に存在している。というのも先程述べたように権力が民衆に対峙するときの構えが、なにがしかの常人離れした技巧なり精神性を持った専門家(アクター=概して個人)が、観客に向かって表現活動を行うという表現形態の一方向性を生み出しているからである。
 つまり一口に文化と言っても、エリートの高級文化(バフチンは公式文化と呼ぶ)、、、コミュニケーションのあり方が表現の専門家(個人)/観客に分裂した「アート(芸術)」と、集団的な生そのものであるカーニヴァル的な民衆文化(非公式文化)の2つの全く異質な形態があったのだ、ということをまず押さえておこう。
(つづく)

Category: Category: None   Tags: ---

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

デヴィッド・グレーバーがジョン・ホロウェイについてこんなことを語っている。

 ジョン・ホロウェイに関して私か評価しているのは、彼が弁証法の最も良い部分を掴み、使いこなしていることです。それは自己同一的な対象に見えるものは、ただ単にそれがそれらを通して存在する行為や過程から切り離された時にのみ知覚しうるという認識を軸にしています。
 西洋哲学は、ヘラクレイトスとパルメニデスの議論で開始されたと言われます。へラクレイトスは、われわれが自己同一的な対象とみなすものは、実は運動のパターンでしかないと主張しました。そこから「同じ川に二度入ることはできない」という有名な引用が出現します。そこで彼が言おうとしたのは、もちろんわれわれは同じ川に二度入ることはできる。だが、二度目は水が違うということです。川であるところのものは、その内容=水ではなく、流れのパターンだということです。恒常的な変化のパターンですね。だからわれわれが持つ、固定され自己同一的な川という観念は幻想であり、結局このことは、われわれにとっての本、山、椅子などへの知覚にも当てはまるわけです。パルメニデスは、反対の考え方をしました。論理が対象を現存するものとする以上、変化こそが幻想である、と。ここでのアイロニーは、現在ではわれわれはヘラクレイトスが正しいこと──固体に見えるものは、恒常的な運動状態にある分子によって構成されている──を知っていることです。しかしもしパルメニデスが議論に勝たなければ、実はヘラクレイトスが正しかったことさえも分からなかった。つまりギリシアの哲学者たちが、固定された自己同一的な物体が存在し、それは正確に測定可能であるように思考したからこそ、実験科学が発展することができたのです。さもなければば、事の仔細を研究する道具は発明されなかったでしょう。
 西洋哲学の伝統について面白いことは、その偉大な思想家のほとんどが、何らかの形でヘラクレイトスに回帰しようとしてきたことです。ここには興味深いパターンが観察されます。ヘラクレイトス自身は単なる貴族でした。誰にも分からない世界中の秘密の知に通じていると自認する反動家でした。だが彼の最も有名な学生で、原子論の創始者デモクリトスは、ギリシアの哲学行の中で、民主主義を評価したごく少数(私の知るかぎり3人)の内の1人でした。これと同じことが、ヘーゲルとマルクスの間で起こります。ヘーゲルは、政治的に極度に反動的でした。しかし彼がつくった弁証法は、彼個人の用法よりもはるかに強力なものになった。だからマルクスは博士論文で、デモクリトスについて書きました。しかしほとんど皆、ヘラクレイトス的な変化と過程の先行に回復せよと主張します。スピノザ主義、ハイデガー主義、ニーチェ主義、ドゥルーズ主義を名乗る多くの人びと、そしてほとんどの主要な哲学者たち……。この哲学、この存在論は、固定された形式に見えるものを、動態的な過程(あるいは「流体(フロー)」)と見るのでなく、これら2つの視点を対立させてしまいます。つまり資本(対)労働、国家(対)戦争機械……。実はそれらは、お互いに他ではありません。しかし彼らはそれらを全く別のものとしてとりだす。そこでホロウェイが重要になります。彼はそのあたりを微妙に修正しようとしています。たとえば彼のネグリ批判を見てみましょう。彼が指摘するところ、ネグリ的オートノミスト・マルクス主義は資本と労働を本質的に戦争状態にあるものと見ます。まずオートノミストたちは、この戦争におけるイニシアティヴは資本にあるのではないとします。それはいいでしょう。そこで歴史の動力である階級闘争において、資本は新しい革命的な要請と趨勢への反作用をなしている、と。これもいいです。しかしそこからあと、ホロウェイによると、ネグリはいまだに資本と労働をリングの上で殴り合う2人のボクサーのように想像している、と言います。それはいまだにそれらを2つの別個の実体とみなしている、と。ホロウェイの主張は、その認識では不十分だということです。今日真にラディカルな認識は「資本とは労働のことだ」と言い切ることなのです。資本はまったく自律的な存在ではなく、資本とは自己を誤認している労働でしかありません。それは自己を疎外され、外化されているものと認識している労働でしかないのです。それは本質的に自らに反目しているものから作り上げられた想像の全体性なのです。
 ホロウェイの近刊本は「資本主義をつくるのをやめる」と題されることになっています。それこそ、弁証法的な視点をまともに押し進めた場合の論理的な結論です。なぜ資本主義が存在するのか? われわれが集合的にそれを毎日作っているからだ。自分たちの行動の現実的な意味を理解しえないのは、われわれ自身の無力だ、と。マルクスが指摘したように、われわれは自分たちの創造的な過程を統制しえないため、われわれ自身の行いが、疎外された形でわれわれに戻ってきています。ホロウェイの視点が重要なのは、われわれは結局資本主義を破壊する必要はないということを示しているからです。われわれがしなければならないことは、単にそれを生産するのをやめることなのです。ですからホロウェイは、悟性( understanding )の仕事は、革命の仕事に限りなく近く、またその必要不可欠な部分である、と主張しています。そこで実践の問題、つまり行動と悟性の統一の問題が出てきます。それは行動するために正しい分析が必要であるということを意味するだけでなく、もし正しい行動をしていなければ、正しい分析を得ることはできないということも意味します。ともかくわれわれの行動は、分析から出てくるものではありません。それが、彼によると、「はじめにありき」という「叫び( scream )」(聖ヨハネの「言葉」でなく)の意味です。それは何かが根底的に間違っているという、ほとんど身体的な感性から来るものであり、それがわれわれを行動に向かわせ、それがさらに分析に向かわせるわけです。
 しかしホロウェイの分析には問題もあります。彼は詩人のようです。彼の思考は、もしかすると論理的に完璧な意味をなすはずのものではないのかもしれません。たとえば、論理的には「叫び」の前に何かがなければならないでしょう。われわれに正義について何らかの積極的な認識がなければ、何事かを不正義とみなすこともありえないからです。さらに彼には、弁証法を厳格にとことん突き詰めるという妙な美徳があり、それがほとんど道理を超えてしまっています。何らかの論理をとことん突き詰めるというのはいい。偉大な思想家は多かれ少なかれそれをやっています。しかしその挙げ句に、妙なことを言い出すのです。たとえばヘラクレイトスの視点を強調した挙げ句に、あらゆる自己同一的な対象は、資本主義の産物だとまで言います。そうすると、資本主義は言語と同じくらい古い、なぜなら名詞のない言語はないのだから、ということになってしまいます。私はそのことを彼に指摘しました。彼の答えは「そうだ、そして動詞のみによって構成されている言語を考案しようとしている人びともいる」ということでした。しかしもし資本主義を乗り超えるためにそんな言語が必要だというのであれば、それはあまりの迂回ではないでしょうか。技術的な問題としては、彼はちょうどルカーチのように、物象化( objectification )とフェティシズムを同じものとして捉え、これら双方を廃棄することが可能だと考えています。すると「価値」というのは単純に悪いものになってしまいます。私か思うには、価値形態、想像の全体性、あるいはフェティシズムさえも、人間の創造性の必要不可欠な側面なのです。問題は、この過程がわれわれを統制しないようにすることでしょう。



私達が今資本主義を作ってしまっている。。。というホロウェイの言葉が僕にはピンとくる。2冊訳されている彼の本は自分で書いたみたいだと思った。しかしこのホロウェイの思考は弁証法を突き詰めたらものだという。そうなのか~。弁証法ってのも最近流行らない概念だが、、、つか、弁証法って何?ッて言われると説明できない。物象化とか疎外とかマルクス主義の批判理論の概念をもっとがっちりおさえておきたい。
02 2015 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 65
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 116
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS