泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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『解放された観客』という本でジャック・ランシエールがシチュアシオニスト批判をしていると、

こちらに書いてあったので読んでみた。ランシエールはアルチュセールの弟子だったが、5月革命を「革命ではない」と断罪する師と袂を分かった、民衆の自律的な運動を擁護する思想家だという。まさに私のような人間が読むべき本を書いてる人である。『解放された観客』という小文を読んでみると、実際にはシチュアシオニストなんて言葉は一言も出てきていなくて、ある種の演劇論批判と絡めてドゥボールの「受動的な観客」という言い方に潜む態度が批判の槍玉に挙げられている。
 ランシエールに批判されているのは、教化的、政治的な演劇、、、観客という態度(受動性)に変更を迫る演劇、、、具体的にはブレヒトとアルトーの演劇、演劇論である。なにが問題かというと演者と観客の非対称性=演者の観客に対する「卓越」と卓越を生み出すからくりである、と私は理解した。
 ランシエールには『無知な教師』という著作があって、教師(知識人)が生徒を無知なものとみなすことで(愚鈍化)、自らの教師(知識人)としての地位を確立するという(オリエンタリズムという言葉を思い出す)リアクションに基づく教育のあり方を批判し、知性の平等を探求しているのだが、同様のからくりが演劇の演者と観客の非対称な関係(演者の卓越)を作り出しているということのようだ。私に言わせるとこれは演劇というよりむしろ芸術の基本的なあり方である。
 つまり芸術家(表現の専門家)としての地位は、自分以外の人々を「観客」とみなすことと同時に生起する。本来すべての人にとって生きることは即表現であるはずだが、他者を観客(非創造的な存在=受動性)化することによって自らを創造的な演者(表現の専門家)に仕立て上げ「卓越」するのである。上下の格を問題にする「卓越」という権力に特有の振舞いは、歴史的に権力に囲われことで活動(奉仕)してきた芸術家たちが、権力の創りだすヒエラルキーの中でなにがしかの地位を得るという目的のために必要な条件でもあった。近代になってもこのような権力(ブルジョワ権力)と芸術家の関係は変化することなく、「卓越」こそが芸術家の条件であり目的であり続けている。ランシエールが言わんとするのはおそらくこうした「卓越」=愚鈍化ならぬ「観客」化のプロセスによっている演劇(芸術)は、(アルトーの残酷演劇を含む)ダダ以降の前衛演劇のように演者と観客の距離を取り払い観客という態度(受動性)に変更を迫るようなラジカルな試みにおいてすらコミュニケーションの平等とは程遠いのだ、ということなのかな、と思った。この手の演者(芸術家)は自ら観客に受動性の烙印を押した上で、その受動性を取り除こうとというマッチポンプ的な所業を行っているというわけだ。観客であることは決して受動性を意味するわけでないとランシエールは結論する。

観客であることは、能動性へと変えられなければならないような受動的な状態なのではない。それはわれわれにとって正常な状況なのである。われわれは、自分が見ているものを自分が見たもの、言ったこと、行ったこと、そして夢見たことに絶えず結びつける観客として学び、教え、行動し、そしてまた認識するのである。特権的な形式もなければ、特権的な出発点もない。いたるところに出発点、交差点、結節点があり、われわれが何か新しいことを学ぶことを可能にしてくれる。ただし、それが可能となるのは、第一に根源的な距離、第二に役割の分担、そして第三に領域間の境界を拒絶するという条件においてである。観客を役者に、無知な者を学識ある者に変える必要などない。無知な者のなかに働いている知、観客に固有な能動性〔活動〕を認めればよいのである。すべての観客はすでに自分が見ている物語の役者であり、すべての役者、すべての活動的人間は、自らが演じる物語の観客なのである。
『解放された観客』ジャック・ランシエール


 ただランシエールが具体的にどんな芸術・文化を評価しているのか、詳しいことがわからないので、ここではドゥボールの言葉の解釈についてだけ述べておくことにする。

スペクタクルを批判することと根源的本質を取り戻す演劇を探究することとの間に矛盾はない。
同上


 ランシエールはブレヒトやアルトーの演劇における演者と観客の分離を克服しようとする努力と、ドゥボールの『スペクタクルの社会』における分離=疎外(人間的本質の喪失)の批判とを重ね合わせるのである。これをドゥボールを中心として組織されたシチュアシオニストの活動の批判と理解すべきかどうかよくわからないが、仮にそうだとすると、ランシエールはドゥボールの「受動的な観客」という言葉を曲解していると考えざるをえない。
 すなわちランシエールは演劇論における演者( acter )と対面している観客( audience )と、『スペクタクルの社会』に登場する観客( spectator )を表面上の類似によって混同してしまっているのだ。

凝視される対象に対する観客の疎外は次のように言い表される。観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己れの姿を認めることを受け入れれば受け入れるほど、観客は自分の実存と自分の欲望がますます理解できなくなる。
『スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール


 ドゥボールの言う後者のスペクタクルを凝視する観客( spectator )は、権力の紡ぎだしたヴィジョン=価値のものさしを受け入れた(疎外された)人間のことであり、そのヴィジョンの中で他者に対して「卓越」しようともがく人間である。当然この中には芸術家も含まれている。芸術という文化の特徴は「卓越」にあって、権力と密接に絡み合っていることは上で述べた通りである。芸術家は他者を愚鈍化=観客( audience )化することによって自らを演者(表現の専門家)に仕立て上げ「卓越」し、権力のヴィジョン(スペクタクル)に参入する。ようするにランシエールが批判しているのは能動的な演者( acter )/受動的な観客( audience )への分離と、演者( acter )としてこの分離を解消しようとする前衛演劇の試みなのだが、ドゥボールが言っているのはこの能動的な演者( acter )たろうとすること自体がスペクタクルの凝視=受動性にあたるということなのだ。彼の主張によれば演者( acter )/受動的な観客( audience )という分離の解消は「生きる者( livers )」となることであって、芸術のプログラムではありえない。事実シチュアシオニストはつとに自分たちの活動が芸術ではないと主張していた。したがってスペクタクルを批判することと根源的本質を取り戻す演劇を探究することは、ランシエールの主張とは異なり正反対のことである。
 私はニーチェの言葉を作り替えて芸術をアポロン的文化(上下の格を前提として卓越を目指す垂直の文化)と呼び、ディオニュソス的文化(陶酔と融合を目指す水平の文化)と対立させて考えることを提唱している。シチュアシオニストの演者( acter )/受動的な観客( audience )という分離の解消とは、芸術というアポロン的な文化を脱してディオニュソス的な文化のあり方を模索することであり、「生きる者( livers )」であることはその実践である。ランシエールを読んでから検証しなければならないが、彼の言う観客の解放もディオニュソス的文化の方向を向いての発言ではないかと想像している。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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