泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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アートワールドの正体

承前 佐々木健一 「芸術は終わったのか?」
 理論もなく美術史との関連もない作品やアクションは「芸術」とは言いません。それは「私的言語」にすぎません。ポップカルチャーとかサブカルチャーとかと違って「芸術」ってのは敷居が高い公式の文化なんですよ。何でもかんでもが芸術になるわけじゃないんです、、、「芸術」というゾンビはいまでも高級文化を気取っているのである。偉そうなこと言ってるけど「芸術」なんてとっくの昔に死んでいて、アートワールドとやらが「私的言語」だなんて蔑んでいる領域から「生きたもの」を盗んできてスカスカの骸骨に肉付けして生きた文化のような顔をしてるだけなのに。「何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう」だって? よく言うよ、盗人猛々しいにもほどがあるでしょ。

 何度も繰り返すが、ブルジョワジーが権力を手にするとともに「文化」の危機が始まった。なぜなら資本主義の精神は浪費や祝祭や陶酔などといった文化的事象を排除することによって立ち上がるもので、「文化」そのものを根こそぎにする性格を宿命的に持っている。民衆文化は資本主義の精神が浸透するに連れて変質し消失していったが、支配階級の文化であった「芸術」の方はそのあり方自体が矛盾に陥ってしまった。「文化」そのものを破壊する階級の「文化」とは一体なんだろう? したがって自壊してやせ衰えてゆくのが「芸術」の運命で、19世紀にはすでに心肺停止状態にあったといっていい。今日「文化」というものがあり得るとすれば資本主義の精神や疎外に抗うこと、つまり「文化」という言葉をシステムに抗して生きることと定義し直すべきだろう。
 19世紀後半、やせ衰えた「芸術」に憤った「芸術家」たちが、「芸術」の制度を舞台に伝統的な規範を逸脱した作品を発表し始めた。彼らアヴァンギャルドも自分たちの仕事を「芸術」として理解していたが、実際には資本主義の精神やその疎外に抗おうとしていた、と考えるべきだと思う。実は彼らは「芸術家」ではなかったのだ。セザンヌや抽象絵画のようにモダニズム流の解釈をされがちな営みも、資本制システムへの反抗、すなわち「文化」創出の試みであったと捉え直す必要がある。20世紀になって、特にシュルレアリスムにおいて自分たちの試みが資本制への抵抗であるという意識が明確になったのだが、彼らはシュルレアリスムを芸術と政治の融合だと考えたせいで結局「芸術」の方へ引き戻されてしまった。アヴァンギャルドは芸術ではない。それは「芸術」のような権力に組織され奉仕する文化ではなくて、より根源的で、システムの支配に抗する自律的な「生=文化(生きられる文化)」なのであって、彼らの活動は「芸術」の制度を流用し、「生きられる文化」の場へと組み替えてしまおうという野心によって突き動かされていた、と理解し直さなければならない。
 しかしこの野心的試みは、アヴァンギャルド自身の曖昧さゆえに、さらに、アートワールドによる横領によって、「芸術」に回収されてしまった。モダニズムによるアヴァンギャルド解釈は、「芸術」外に起源を持っている(生きられる)文化を奪い取って、あたかも「芸術」の内部展開(自己批判)によってアヴァンギャルド運動が生じてきたように錯覚させる造りになっている。つまりモダニズム理論によって、アヴァンギャルドの時代という文化史上において痛快な一時期を生み出した手柄を「芸術」が「生きられる文化」から横取りしてしまったのだ。
 古くはマネの『オランピア』がサロンでスキャンダルを引き起こした時、当時のアートワールドは「こんなものは芸術ではない」と拒否反応を起こしたのではなかったか。彼らは『オランピア』が「芸術」の外部からの闖入者だとよくわかっていて素直に反応したに過ぎなかった。まさにマネの作品は「私的言語」に過ぎないと看做され一笑に付されたのだ。後になってそうした闖入者の作品のほうが「私的言語」どころか衝撃的な「生きた」コミュニケーションだったと気付き始め、さらに「私的言語」だったはずのものが高額で取引されるのを横目で眺めつつ、アートワールドは悪巧みをしてモダニズムのイカサマ理論をでっち上げ、外部からの闖入者(アヴァンギャルド)の文化をヘーゲルの絶対精神よろしく「芸術」の自己展開によって生成してきたものに作り変えてしまったのだ。「私的言語」はいつのまにか「公的言語」に引き上げられたわけである。かくして「芸術」の亡骸は、奪いとった「生きられる文化」を身に纏ってゾンビとして蘇ったのだ。
 「アヴァンギャルド=生きられる文化」の生き肝を喰らい尽くした「芸術=アートワールド」は、詐欺と略奪のためにでっち上げたモダニズムやそのマイナーチェンジされた理論や言説に磨きをかけて文化の真実の地位に祭り上げ、その理論に沿った作品を生産することを始めた(戦後のネオアヴァンギャルド)。それは現在まで続いている。彼らが、今日の「芸術」において理論や美術史の知識を鑑賞者に要求する理由は、現代芸術の起源にこのような言葉巧みな詐欺行為があったことを教育によって隠蔽し正当化するためである。同時にアートワールドはその理論に則って「芸術」とそうでないものの境界に目を光らせ、それを決定している。彼らに認められないものは「芸術」ではないのだ。加えて彼らは「芸術」の表現活動のみが「文化」に値するものとして持ち上げ、それ以外の私たちのの日常を(「私的言語」なんて言い方からわかるように)ある種の非文化状態、創造性なき状態に貶めるのである。つまりアートワールドは私たちの生を「文化」/「日常」(表現活動/日常生活)の二項に分割し、「芸術家」を文化の専門家にするとともに、それ以外を受動的な観客の地位に置くのである。こうして私たちの日常の中に溢れ出すべき「生=文化(生きられる文化)」への通路を遮断し、私たちをスペクタクルのまどろみと疎外の中へ留め置こうとするのである。。
 これが「芸術=アートワールド」の正体である。芸術家を中心として美術館の学芸員、美術評論家、画商といった人達、さらに芸術学校やメディアなどの関係者も含めて、要するに芸術という文化産業で食ってる人たちを総称してアートワールドと呼ぶわけだろうが、要は他の産業の従事者同様、彼らはスペクタクルを維持し、ブルジョワシステムとその疎外の再生産の役を担うことで生活の糧を得ている。今も昔もアートワールドの住人たちは、権力に隷属し奉仕し、その限りで権力の紡ぎだしたヒエラルキーの中である地位を手に入れる(出世する)わけである。資本主義とその疎外に憤る私たちは、アートワールドというこの奇妙でナンセンスな集団をこそ一笑に付すべきなのだ。

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アートワールド


―現代アートが分かりません。
 それは現代アートにおいて、感性的に訴えかけるというファクターが決定的なものではなくなったからです。美術であれば見ればわかる、音楽なら聞けば分かるという言い方が昔は通用しましたが今では通用しません。例えば現代美術家マルセル・デュシャン(1887~1968)の「泉」はただの便器なのになぜ芸術なのか、作品を見ただけでは分からないでしょう。しかしそれが分かれば好き嫌い以前に納得する、これはこういうものなのだと納得できます。これは広義の美術史、理論史の見取り図のようなものが頭にあって、それに照らして納得することです。
 芸術家が実践するためには理論が必要です。例えば伝統的な富士山の絵を描いている人も絵画とはこういうものだという理論があり富士山を描いていて、同じく便器を出品する芸術家も理論を持っているわけです。その理論は理論書、論文の形で書かれていないかもしれないが、いずれも或る理論に則って作られています。その理論を全員が共有している場合には誰でも「見ればわかる」んですよ。しかしデュシャンのような人はその理論自体を変革しようとするわけだから、理論がどういう状態にあってどう変化しうるのか、変わろうとしているのかを認識していないと、なぜそのような作品が提示されたか理解できません。現代アートは理論を知らないと全く理解できないと思います。

―現代アートの展覧会を見ると、「何でもアートになる」という印象を受けます。
 何でもアートだというのは、その通りでもあり、その通りでもありません。既製品でもレディ・メイドとしてアートになるし、非常に無価値な物でも手で作りアートと称すれば桁違いの価値を持ちます。例えばアンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス」は商業用コンテナの外観を木製合板にそっくり写したもので、元の箱との外見上の違いを全く持ちません。とはいえこのペンを「これはアートです」と言って出品しても、そのように主張することは自由だけれども誰も見向きもしないでしょう。それがなぜアートなのかが問題です。

―誰かに認められることが重要なのですか。
 それは絶対重要です。「私的言語」という、たった1人が用いる自分しか理解できない、他の人とはコミュニケーションが取れない言語があります。芸術について私的芸術というのが成立するかと言えば、「やりたければどうぞ」ということになり、その個人の問題を超えることはありません。便器にせよウォーホルの「ブリロ・ボックス」にせよ、それは既にある種の多数決原理が働く共同体的な現象なのです。これらの場合には積極的に認める人がおり、理論的な確信を伴っています。例えば「ブリロ・ボックス」を作ることは、今まであった芸術とは違う考え方、つまり違う理論に則った芸術を作るということになります。鑑賞者側もやはり理論を立ててこれは芸術なのかどうかを論じないと評論になりません。理論なく描かれたものというのは文字通りの意味において認められないし、重要な影響力を持たないでしょう。

―しかし、たとえば動物が理論なく描いた絵も絵として認められているような気がします。
 評論とか判断というのは、誰がそう言っているのかが問題なわけです。例えば野球界の権威が動物の絵に対し発言しても素人が言うのと同じです。それぞれの領域において、有意義なことを語ると社会に認識された人の発言が重きを為します。単純な多数決や1人1票というわけではありません。
 哲学者アーサー・ダントーは、何が芸術であるかはアートワールドが決めると言いました。アートワールドというのは芸術の世界が運営される基礎、そうした暗黙の理論に基づいて運営されている世界です。そこの住人達とは芸術に関わるありとあらゆる人々で、その外縁は非常にぼやけていますが美術館の学芸員、美術評論家、芸術家、画商といった人達を含むのは間違いないでしょう。彼らは自分たちが則り了解している「芸術とはなにか」という概念を持っており、何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう。ダントーは同時に、アートワールドは歴史的に変化するということを非常に重視しています。例えば「ブリロ・ボックス」は100年前に作られなかっただろうし、作られても受け入れられなかったに違いありません。「アートはアートワールドが決める」という定義は全くのトートロジーです。けれども形式論理学のテーゼを検証しているわけではないので、そうとしか言えないと彼は考えたのでしょう。
佐々木健一 「芸術は終わったのか?」




 理論もなく美術史との関連もない作品やアクションは「芸術」とは言いません。それは「私的言語」にすぎません。ポップカルチャーとかサブカルチャーとかと違って「芸術」ってのは敷居が高い公式の文化なんですよ。何でもかんでもが芸術になるわけじゃないんです、、、「芸術」というゾンビはいまでも高級文化を気取っているのである。偉そうなこと言ってるけど「芸術」なんてとっくの昔に死んでいて、アートワールドとやらが「私的言語」だなんて蔑んでいる領域から「生きたもの」を盗んできてスカスカの骸骨に肉付けして生きた文化のような顔をしてるだけなのに。「何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう」だって? よく言うよ、盗人猛々しいにもほどがあるでしょ。(つづく

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カイヨワが描き出している祭りの光景、、、

 いわゆる原始文明においては、平常時と祭りとの対照は今よりずっと際立っていた。祭りは数週間、時には数カ月間も続き、途中に時々4、5日の中休みがあるだけであった。それに必要な大量の食糧や富を蓄えるためには数年を要することがしばしばで、そうして蓄えられたものは、この時とばかりに飲み食いされ、消費されてしまうばかりか、何の理由もなくただ単に破壊され、無駄使いされてしまう。というのも、行き過ぎの一形態である破壊と浪費とは、祭りにおける当然の権利としてその本質に含まれているからである。こうした祭りはたいてい、熱狂と痛飲乱舞の様相を呈しながら、夜を徹しての凄まじい喧騒の内に幕を閉じるものである。拍子をとって打ち鳴らされる最も素朴な打楽器に合わせ、騒音はリズムに、騒動は踊りに変えられる。実際にこうした踊りを見た人の話によると、ひしめきあった人の群れは、地面を足で踏み鳴らしながら波打つように動き、中央に立てられた柱をとり巻く踊りの輪が、ある時はゆっくり、ある時は速くというように、不規則な動きでその周りを回ってゆくのだという。人々の興奮はありとあらゆる形で発現され、それがまた一層興奮の度合を高める。うるさいほどガチャガチャと楯にぶつかり合う槍の音、喉音によってはっきりと強弱をつけて歌われる歌、踊る人々の混然たる様と身体の激しい揺動。どんな表現手段であれ、興奮は表現されたことによってさらに興奮を呼び、次第次第にその激しさを増してゆく。そこから自然に暴力も生まれてくる。時おり乱闘が発生する。しかし喧嘩の当事者たちは引き離され、たくましい男たちの腕によって胴上げされ、喧嘩の興奮の鎮まるまで御輿のように揺すられる。そんな事があっても輪舞は一向に中断される様子もない。また、幾組もの男女のカップルが突然踊りの輪を抜け出し、付近の叢林の中に姿を消す。しかし、愛の交わりを終えて戻って来た彼らは、再び踊りの渦にのみこまれる。このようにして踊りは朝までえんえんと続いてゆく。
カイヨワ『祭りの理論』


 このような酒に酔っての乱痴気騒ぎであり、暴力や性的放縦であり、破廉恥で無秩序、インモラルですらある祭りの営みを、私たちは「文化」と呼ぶ。同様に主(権力)によって組織された高級文化である「芸術」も当然「文化」である。だが今日私たちは「文化」という言葉からほとんど「芸術」しか連想できないのではないだろうか。
 ルネッサンスの絵画工房では有名な絵描きが貴族や教会(権力)から発注を受けて洗練され手の込んだ絵画作品を時間と労力をつぎ込んで描き上げていた。若い弟子たちは彼を手伝いながら経験を積み指導を受けて自分の腕を磨き、その技術を受け継いでゆく。こうした職人芸によって営まれる「芸術」作品の制作は「労働」と呼ばれるにふさわしい。このような極めて真面目な努力の積み重ねによって作られるものであるから「芸術」には価値が生まれるのだし、「芸術」を含めた「文化」とはそうした労力(労働)の集積なのだ、と考えるのが私たちの常識的な感覚なのであって、破廉恥な乱交パーティを大規模にしたようなもの(祭り)を基礎にして「文化」を考える人はあまりいないだろう。
 しかし私は「芸術」を含めたすべての「文化」の根源に、労働とは反対の祭り(ディオニュソス的な陶酔と破壊のエモーション)を認めるべきだと思うのである。なるほど修練を積んだ技術を惜しげも無く注ぎ込んだ芸術作品がどれほど素晴らしいとしても、その中にディオニュソス的なエモーションが宿っていなければ、私たちは「芸術」に心底打たれたりすることはないのではないだろうか。なるほどこの芸術家は主(権力)に奉仕し労働するのであるが、芸術家に仕事を依頼する主の途方もない富とエモーションが芸術家の労働を貫いているため、「芸術」は祭りのような「生きられる文化」とは別な形でディオニュソス的なエモーションが噴出する場になるのだろう。つまり主の文化、「芸術」だって祭りの破廉恥さと深いところで繋がっているいるのだ。
 なのに今日の「文化」表象からは、民衆(持たざる者たち)の祭りに見られる破廉恥な「生きられる文化」のあり方はすっかり見失われ、研鑽と努力によって卓越を目指す、主のための隷属的労働である「芸術」(ダ・ヴィンチやミケランジェロ)のみが前面に張り出している。さらに今日では「文化」を輸出し売り物にすることを官民挙げて取り組む時代になってしまった。あきらかに「文化」活動は労働になってしまったのだ。
 その原因は、こうした古代や中世的な権力をブルジョワジーが奪い取って以来、資本主義の精神が徐々に人類社会に浸透したことにある。吝嗇で冷徹な資本主義の精神は陶酔や破壊、浪費を排除することによって立ち上がるものだから、祭り=ディオニュソス的なものはナンセンスなものとしか理解されない。つまり資本主義の拡大と勝利は「文化」の死を意味するのである。
 かくして民衆の文化(祭り)は衰退してゆき、ポップカルチャー(大衆文化・文化産業)へと変質し、消費の領域に取り込まれていった。しかし同時にそれは主の文化「芸術」にとっても死への道であった。ディオニュソス的なエモーションを失った「芸術」は、透明で純粋な職人的技術に限りなく還元され、やせ衰えてゆくしかない。結果「芸術」には権力(現行システム)を自己肯定するスペクタクル=文化装置という役割のみが残された。最近「芸術の終焉」なんてことを言う人がいるが、ブルジョワ社会の成立とともに「芸術」はとっくに死んでいるのであって、腐臭を放つゾンビ(スペクタクル)として私たちの周りを徘徊しているに過ぎないのである。
 そんなわけで私たちの知る「文化」は事実上「労働」でしかなく、破壊と陶酔の荒々しく破廉恥なエモーションは「文化」という概念からは排除されているのである。カイヨワは「祭り」を生命の絶頂だとしていたが、今日の「文化」にめくるめく絶頂感やわくわくするような面白さを取り戻したいなら、破廉恥な「生きられる文化」を再発見しなければならない。私たちを資本主義の疎外の中に留め置くために配備された腐った「文化」=ゾンビどもを、「生きる」ことで退治しなければならないのだ。

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アート系トーク番組 art air

 若手知識人が流麗な話芸を披露する場である「文化系トークラジオlife」というラジオ番組があって、タイにいた頃ポッドキャストでよく聞いていた。おそらくそれに影響を受け、もじった形なんだろうが「アート系トーク番組 art air」なるインターネット配信番組がある。モダンアートの歴史から最近の芸術論、展覧会の紹介、現代思想の解説など多岐にわたる内容を、関西弁の軽いノリで講義するという内容だ。私がセザンヌ漫画を描いたのも、要はこういうことをやりたかったからで、すごいなあと感心するのだが、いかんせん「芸術(art)」の番組であって、システムのイデオロギー装置であるアートワールドがいかなるものなのか、これをみれば良く分かる、という内容なのだ。細かい指摘などする気はないが、こういうのを観て「頑張ってるな」とかゆめゆめ思ってはいけない。モダニズム流のアヴァンギャルド理解は「生きられる文化」の簒奪であり犯罪であり、モダンアートは「文化」のゾンビだと私は繰り返し述べているが、まさにここに描き出されているものがゾンビの肖像である。

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最近、文化論みたいのをやってるが、なんでかというと、

ひとつには芸術(高級文化)/文化産業・キッチュ(低級文化)みたいな二項対立で文化について考えるのは不毛だと言いたいからだ。そもそもが商品であり資本の論理で割り切れてしまう文化産業から逃れているのが芸術という領域だということで、この手の論者(例えばアドルノ)は芸術の純粋性を持ち上げると同時に、文化産業(ポップカルチャーなど)を蔑む傾向にある。実際には芸術という制度(アートワールド)が資本制システム(権力)の自己肯定装置として働いている以上、芸術だってクロなのだし、この対立そのものがニセモノなのである。
 こうした混乱の原因はアヴァンギャルド(前衛)の理解の仕方にある。私の見る限りほとんどの芸術家や知識人はアヴァンギャルドを芸術という領域の内部で展開した(自己批判的な)運動だと考えているようだが、実はこれ、芸術という領域の外部から侵入した「生きられる文化」が芸術の制度をブリコラージュ的に転用しつつ大暴れしたものだった、と理解すべきものなのだ。つまりこの過激で痛快な運動が近代のある時期に花開くことができたのは、芸術外の(カーニヴァル的な)エモーションによっていたのもかかわらず、まるで芸術のお手柄によるものであるかのように解釈してしまったことが味噌のつき始めなのだ。モダニズム流のアヴァンギャルド解釈はその典型だろう。グリーンバーグはアヴァンギャルドをまさに芸術の自己批判だと言ってなかっただろうか? モダニズムの言説とは、はっきり言って横領であり偽造であって訴追されるべき犯罪行為である。いいかげんアヴァンギャルドのきらびやかな成果は返すべきところに返してあげなければならない。アドルノがすべきだったのは、文化産業をこき下ろすことではなく、文化そのものを発見することだった。アヴァンギャルドが芸術ではなくて、芸術の外部の(そして芸術をも下から支えていた)「生きられる文化」であることを見抜くことだったのだ。
 ほんとうの意味での文化の敵は資本主義のメンタリティなのだ。吝嗇かつ冷徹に蓄積のみを追求するブルジョワ精神は、浪費や祝祭や陶酔などといった文化的事象を排除することによって立ち上がるものだから、文化そのものを根こそぎにする性格を宿命的に持っている。ブルジョワジーが権力を持つにいたる以前の民衆文化は、資本主義のメンタリティに侵され消費の領域へと解体されていった。同時に支配階級の文化である「芸術」も、王権や宗教の衰退とともに中身を失った戯絵と化してゆく。芸術には権力を自己肯定するという役割だけが残され、資本制のイデオロギー装置へと純化されていった。
 資本主義近代という私たちの時代は、文化そのものにとって危機の時代なのだ。文化産業やキッチュに対してオレこそが本物だみたいな発想は無意味である。敵は文化からの疎外を促し続けている資本主義のメンタリティであって、これと闘うこと、、、「生きられる文化」は今日、資本から「生」を奪回することでしか生み出すことができない。アヴァンギャルドの実践の意味は、芸術の自己批判なんてものではなくて、資本制下の疎外から「生」を奪回する試みだったのだ。実際にはアヴァンギャルドたちも自分たちの試みを「芸術」の枠内で考えていて、そのために試みそのものを見失ってしまうことにもなったが、アヴァンギャルドの心を打つ面白さはモダニズム流の解釈では何ひとつ説明されないだろう。
 フーコーが『マネの絵画』という講演でマネのモダニズム流の分析を披露しているが、結局これも「芸術」に花を持たせる分析になってしまっている。「オランピア」や「草上の昼食」の衝撃は、「芸術」というシステムのイデオロギー装置(アカデミズム)の中に亀裂を入れて侵入してきた生々しい「生」の形象が引き起こしたのであって、画面の平面化とか遠近法の消滅とかはどちらかと言うと瑣末なことに過ぎず、問題とすべきはマネの「生」でなければならない。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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