泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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ブルデューの分厚い本を読む機会がこの先あるかどうかわからないが、

「芸術作品との出会いというのは、普通人々がそこに見たがるようなあの稲妻の一撃といった側面などまったくもってはいない」(「ディスタンクシオン」Ⅰ(La Distinction Ⅰ) 序文

あるものを「美しい」と感じる気持ち、実はその背後に自己を卓越させようとする隠された意図がある。序文においてブルデューは、芸術に対する「純粋」な視線が実は、社会における弁別の指標となっていることを述べている。俗人には「理解できない」芸術を「楽しむ」ことのできる人々は、洗練された、無私無欲の、上品な人であるという優越性を社会の中で獲得することができる。芸術の純粋性こそが、その卓越化の作用を支えているのである。



 「美」を階層の優越の問題に翻訳してしまえるとするブルデューの説にはちょっとびっくりした。なるほど権力の秩序の永続を謳うものである「芸術」のスペクタクルとしての性格を喝破していると言えなくもないが、むしろ左派の知識人は「芸術」、特に「前衛芸術」と呼ばれるものにある種の希望や可能性を感じとっているのが一般的だろう。
 例えば小田部胤久という美学者は、現象学者による「非人間的芸術(=わからない芸術、つまりモダニズム・前衛芸術のこと)」の肯定的評価について書いている。

作品が形態の内に確立されてそれ自体の内により孤独に立てば立つほど、そして作品が人間へのあらゆる連関をより純粋に解消するように見えれば見えるほど、ますます単純な仕方で、そのような作品が存在するという衝撃が開けたところに歩み、そしてますます本質的な仕方で、途方もないもの(das Ungeheure)が打ち開かれ、これまで安心できると思われてきたもの(das bisher geheuer Scheinende)が打ち倒される。『芸術作品の根源』(マルチン・ハイデガー)


 小田部氏がわかりやすく解説してくれているので、詳細はこちらを読んでいただきたいが、ざっくり言うと、居心地のよい自明的な日常の秩序への没入を、ある種の芸術作品は揺さぶるということである。同様にメルロ=ポンティのセザンヌ論に出てくる

「わたしたちが生きているのは、人間が築き上げた事物の環境であり、私たちは道具に囲まれ、家、街路、都市のうちに生きている。そして多くの場合、わたしたちはこれらを人間の活動を通じてしか見ないのであり、これが人間の行動が作用する場所となるのである。わたしたちは、これらすべてが必然的に存在するものであり、揺るがすことのできないものだと考えることに慣れている。セザンヌの絵は、この習慣を宙吊りにして、人間が立っている非人間的な自然の土台をあらわにする。セザンヌが描く人物が見慣れない印象を与え、人間とは異なる種の生き物が見た人物のように見えるのはそのためである。」(メルロ=ポンティ『セザンヌの疑惑』)


という言葉も、日常的秩序の自明性を揺さぶるものとしての「芸術」について語っていると理解できる、といわけである。
 小田部氏が述べているのはハイデガーとメルロ=ポンティについてであるが、レヴィナスもモダニズム・前衛芸術を念頭に置いて

「事物がそれ自体でしか価値をもたない断片、塊、立体、平面や三角形――それらの間にはいかなる移行もない――として、地平なき空間から引き離され、われわれに向かって投じられる」

「現代の絵画において事物は、眼差しが1つのパースペクティヴとして獲得する普遍的な秩序における要素として、重要なのではない。ひび割れがあらゆることころで宇宙の連続性に亀裂を生じさせている。個別的なものが存在の裸形の中で浮き出てくる」

「……絵画は形態の存在の即自態そのもの、対象ではなく、名でもないあるものがある ilya という絶対的な事実――それは名付け難く,詩によってしか現れない――を実現する」(レヴィナス『実存から実存者へ』)


などと語っており、「芸術」が日常的秩序の自明性に亀裂を入れるものだという認識を示している。また、現象学者だけではなく、アドルノの芸術の批判力について語る言葉、、、

「芸術作品は表現によって自らを社会の傷痕として露わにする。…芸術作品における社会批判的な部分とはそれが痛みを感じる(wehtun)ところにある。つまり、歴史に規定されている表現によって社会状態の虚偽が明るみに出されているところにあるのだ。」(アドルノ『美学理論』)


 傷口、裂傷としての「芸術」はバタイユの語るところでもある。さらに岡本太郎の「なんだこれは!」に至るまで、それぞれ念頭に置く芸術家も違うし、芸術論のニュアンスも異なるのだが、異口同音に「わからない芸術(=前衛芸術)」は、決して「心地よいもの」ではなく「痛い」ものですらあるが、それ故に日常の自明性に亀裂を入れる衝撃力を持つものだとされ、そこに「芸術」の特異な意義を認めているのである。こうした左寄りの知識人が権力に裏打ちされた日常に穿たれた亀裂に可能性や希望を抱くのは、まあ当然といえば当然である。だが、どちらかと言えば左翼的関心で読まれているだろうブルデューは、その限りではないようなのだ。「美」を階層の優越の問題に還元し切ってしまうなんて、この人は文化というものにときめいたことはないのだろうか。
 とはいえブルデューが分析した通りに、「芸術」は現行システムのヒエラルキーと疎外を再生産するために働き、権力の秩序の永続をう謳うスペクタクルであるという役割を、いにしえから全うし続けているのは事実である。だから左派であるなら「芸術」に希望や可能性を抱くのは本来間違っているはずなのだ。ここんとこに左派の混乱がある。やれ反体制的な芸術と体制迎合的な芸術があるとか、芸術はそもそも自由で創造的なものだが惰性化し形骸化すると権力の道具になってしまうとか、いろんな理由で汚されてしまうが、「芸術」そのものは無垢なものだとして擁護するのが大好きなのだ。だが本当は左派にとってアートはクロ、真っクロなのだ。
 ただ私は「芸術」がつまらないとか、「芸術」の名がついているものはすべてダメだとか言いたいのではない。実際には「芸術」の名で流通しているものの中には、「芸術」でないものが流れ込んでいる。いや、「芸術」でない何かが流れ込んでいなければ、「芸術」は空虚なものでしかないのだ。上で述べた左派たちが「芸術」に希望や可能性を持った理由は、古典ではなく19世紀後半からのアヴァンギャルド(前衛)の時代を見聞きしたり経験したことに基づいているのは間違いがないが、いわゆる前衛芸術とは明らかに「芸術」ではない起源を持っているのだ。
 左派の面々が異口同音に前衛芸術の中に見て取っている、秩序に開いた亀裂、傷口というあり方は、明らかに権力の秩序を自己賛美するスペクタクルである「芸術」(=公式文化・卓越の文化・アポロン的文化)とは反対の性格を持っている。秩序の崩壊、反転という特性は、「芸術」ではなくむしろ民衆の祝祭(=非公式文化・生きられる陶酔の文化・ディオニュソス的文化)の非日常的空間ものである。
 カーニヴァルのような祝祭の時期、高貴なもの、高い価値を持つものは貶められ、普段禁忌され、排除されていたものが祭りの中心に担ぎだされる。前衛芸術と言われるムーブメントは、「芸術」運動なのではない。公式文化である芸術(アートワールド)の中に侵入した「祭り」(=非公式文化)のことである。実は「芸術」ではないもう一つの文化、生きられる陶酔の文化が、スクウォッターが都市の隙間に侵入しスラムの空間を増殖させるように、芸術(アートワールド)の場を転用しつつ増殖し、開花させたものだったのだ。
 それだけに前衛芸術といわれる作品の中には、カーニヴァル的な文化の特徴(価値・ヒエラルキーの反転)を見て取ることができるだろう。マネは女神やニンフの麗しい裸体であふれるサロンに、古典絵画の構図を流用しながら娼婦の裸体を生々しく描いた。ピカソはそれまで野蛮とされていた黒人文化の生と文化の関係に啓示を受けて、とんでもない絵を作り上げた。また、いろんな理論武装をして偽装してはいるが、モンドリアンやカンディンスキーやマレーヴィチの幾何学的な抽象絵画はぶっちゃけ「冗談」の領域に属する。デュシャンの「小便器」は言わずもがなである。全てこれらはカーニヴァルに興を添えるために面白おかしく、意地悪く、伝統的な「芸術」をパロったもので、素っ頓狂な衣装で仮装して踊り狂っているようなものなのである。
 要するに左派の論者たちが難しい顔をしながら、前衛芸術にブルジョワ社会の中に開いた秩序の裂け目を垣間見たのも、前衛芸術の正体がこうした「祭り」だったことにあるわけだ。ところがまずアヴァンギャルド自身が、自らの活動を「芸術」という卓越の文化として意識し、実際にはもう1つの、非公式的な生きられる陶酔の文化を実践している自覚がなかった。そのため芸術の磁場に引き戻されて、最終的にブルジョワ権力の秩序とその疎外の永続を謳うスペクタクルの片棒を担ぐことになってしまった。さらに左派の知識人たちもアヴァンギャルドが秩序に亀裂を入れる実践を行っていることを見抜きながら、それを「芸術」ではないもう1つの文化の形態であることに気が付かなかった。これほどに私たちにとって、文化=「芸術」という等式が成り立ってしまうほど、私たちは疎外され、生きられる文化を見失ってしまっているということなのか。
 さらにはアートワールドというアノニムな権力集団が芸術批評や美学やらのモダニズム系の理論装置を駆使し、アヴァンギャルドによって乗っ取られようとしている伝統的な「芸術」場を、芸術の自己批判(問い質し)、メタ芸術的実践みたいな繰り言を並べ立てて、芸術外の文化実践の果実を横領して「芸術」の近代的な展開へと改造し、19世紀後半から100年に渡るアヴァンギャルドの時代を回収してしまったのである。かくしてアカデミズムの中で窒息しかけていた公式文化のスペクタクルは、新たな形でゾンビのごとく蘇り、21世紀になってもその腐臭を撒き散らし続けているのである。
 まあ、以上のことは何度も書いてきたので繰り返さないが、前衛絵画を楽しむためには、前衛絵画を楽しむに足るだけの教養が無ければならないとブルデューが言うときの教養とはこのモダニズム理論のイカサマ言説なのである。卓越した文化資本の持ち主だけが前衛絵画を楽しむことができるというのだが、この文化消費における「卓越化」、すなわち「何が真の文化であるか」を争点として闘われる象徴闘争というのは典型的なスペクタクルの「観客」の隷属的態度で、卓越しようとすればするほどスペクタクル社会の疎外の中に没入してゆくだけである。むしろアヴァンギャルドの面白さを知るには文化資本なんてものではなく、「観客」的態度を脱して「生きる」ことが必要でだろう。文化とは生きられるものであり、「生きる」から「芸術」というスペクタクルに忍び込んだもう一つの文化の姿もはっきりと見えてくる。だぶんブルデューに足りないのは「生」でありそうした「生きられる文化」への視線なのだ。

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卓越化(ディスタンクシオン)

「芸術作品との出会いというのは、普通人々がそこに見たがるようなあの稲妻の一撃といった側面などまったくもってはいない」(「ディスタンクシオン」Ⅰ(La Distinction Ⅰ) 序文

あるものを「美しい」と感じる気持ち、実はその背後に自己を卓越させようとする隠された意図がある。序文においてブルデューは、芸術に対する「純粋」な視線が実は、社会における弁別の指標となっていることを述べている。俗人には「理解できない」芸術を「楽しむ」ことのできる人々は、洗練された、無私無欲の、上品な人であるという優越性を社会の中で獲得することができる。芸術の純粋性こそが、その卓越化の作用を支えているのである。


こういうのってようするに文化の「消費」の分析であり、文化的実践が、芸術家(演者)と鑑賞者(観客) へと分離した(疎外された)状況の微に入り細に入った分析なのだ。誤解かもしれないけど、社会学者って、階層ごとの身振りの違いとか、消費行動の変化とか、疎外された社会の細かな襞を描き出すのだけど、読んでてなるほどとは思うが、それってやってて面白いのだろうか。ひょっとしてその詳細な研究は真理の領域で「卓越」したいという欲求に基づいているんじゃないかと訝ってしまう。「美」や「真理」を生産する芸術家や学者は、その活動によって一般人を観客(受動)化、愚鈍化させ自らを卓越させる。自分を卓越させたいと思う時点で、それが文化の生産の領域であれ消費の領域であれ、疎外を受け入れシステムの物差しに隷属している。問題は疎外からの、隷属からの自律じゃないの? つまり芸術家(演者)と鑑賞者(観客) へと分離していない、「生きられる文化」を愉快に実践することだろうと思うのだが。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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