泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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現代芸術という問題を考える前に、、、

 、、、まず芸術とは何を意味しているのか考えてみましょう。様々なものが芸術と呼ばれています。私たちの前には芸術という膨大な資料体の蓄積があります。
 芸術と呼ばれるものたちの間に、何か共通の特性はあるでしょうか? それらは、何らかの本質によって結ばれているでしょうか?
 ラスコーの壁画と、モナリザと、織部の茶碗と、デュシャンの便器と、村上隆のフィギュアのあいだに、いったいいかなる共通点があるのでしょうか?
 それはたんに、芸術とは広く多義的な概念である、といったことではありません。そんな気楽な話ではない。
 テレビのグルメ番組でレポーターが「これはもう、料理というより芸術の域に達してます。」などと誉める。なぜこれが、誉めたことになるのか? 料理人は、そんなわけの分からんもんと一緒にせんといてくれ!と、なぜ怒らないのですか?
 芸術というのは、自明な概念ではない。それ一種の、「上から目線」なんです。問題は、この目線の主体は何か、誰が芸術をオーソライズしているのかということです。そして、どうすればそれを奪取できるか?について考えること。
 芸術をオーソライズしているのは、もちろん芸術学の教授ではありません。かつては、アカデミーや文化的な軌範が大きな権威を持っていました。
 しかし現代では、国家と、国家を絡めとるグローバル資本主義の容赦のない運動を抜きにしては、芸術について考えることは出来ない
 芸術、美的なものによる支配は、政治や教育による支配よりも身体の深くまで浸透します。私たちは、自らがコミットしている芸術活動や領域について悪く言われることに耐えられません。
新幹線の車中からTwitterでおこなわれた美学者吉岡洋氏による同志社大学「現代芸術論」講義と反応



 このツイートによる講義の問いかけに対して吉岡氏がどんな答えを用意しているのか知らないが、面白いので私なりに反応してみたい。
 「これはもう、料理というより芸術の域に達してます。」という言い方から、「芸術」においては「卓越」が問題になっていることがわかる。料理人は自分の料理の出来が「卓越」したものであることを指摘されたわけで、当然怒るわけないだろう。「芸術」という文化においては「芸術家」はまず能動的な表現者(創造者・生産者)として、文化を消費するだけの受動的な一般人=観客に対して「卓越」する。また他の芸術家達との競争、自分の仕事がより価値のあるものであることを示す競争の中で、さらなる「卓越」の極みを目指す。
 またこうした「卓越」の追求は「個人」という単位による活動を前提としている。コラボレーション(共同作業)という言葉をよく聞くが、これは「個人」の集合による活動と考えるべきで、「個人」の枠を越えるものではない。したがって「芸術」においては(レオナルド・ダ・ヴィンチとかベートーベンとかドストエフスキーとかいった)個人の名前が一つの焦点としてクローズアップされる。
 「卓越」は、自分以外の誰か(他者)の評価(承認)を必要とする。市場における商品のように命がけのジャンプによって表現行為は「芸術」となる。自称「芸術家」は承認されていない以上、「卓越」しているとはいるとは言えないし、その表現行為はモノローグにすぎず「芸術」とは看做されない。つまり「芸術家」本人以外に「芸術」と「芸術」でないもの(モノローグ)の間の境界線を引く視線、まさに芸術をオーソライズしている視線が存在しているということである。
 「表現行為=作品」は、普通の商品のように「売れる」ことだけでは「承認」されたことにはならない。例えば、大衆によく売れる「作品」をキッチュとか文化産業と呼び、真性の「芸術」、真の「卓越」と区別し、売れることを芸術失格のスティグマと見做す人すらいる。つまり表現活動は、一般的な商品の市場で売れる、売れないという形の承認とは別に、ある権威ある視線に認められないと「芸術」になれないのである。これは19世紀後半以降のモダンアートに特有の現象であるが、資本主義システムの中に一般的な商品の市場とは異なる独特の場、「アートワールド」が形成され、そこにエントリーし、その権威ある視線に承認されることで、ある表現行為が「卓越」したもの、すなわち「芸術」になるのだ。つまり「上から目線」、芸術をオーソライズしている視線の正体はこの「アートワールド」だということになる。
 自動車産業が自動車を核として、スポーツ産業が、野球やサッカーを核として、原子力村が原子力発電を核として、産・官・学を巻き込んで一大スペクタクルを作り上げているように、「アートワールド」も芸術家、画商、美術館、劇場、マスメディア、芸術評論、学校教育、芸術大学、さらに国家や行政機関などの様々な利害が絡み合いながら「芸術」というスペクタクル(疎外)の核を形作り維持するとともに、このスペクタクルの威光にによってこれら「アートワールド」を支える人々の生活を維持しているのである。
 吉岡氏は、芸術をオーソライズしているのは、もちろん芸術学の教授ではありませんと言っているが、芸術学や美学といったアカデミズムも当然「アートワールド」の一角を占め、芸術のオーソライズに加担しているはずである。
 吉岡氏の意図は、何が「芸術」であるのかを決定している力(上から目線)を、(上ではない)自分たちが奪取すべきだ、というところにあるようだ。つまり「芸術」をなにがしかのエリート、エスタブリッシュメント、グローバル資本主義の権力といったものから、われわれの手に奪い取るべきだ、と言っているようにみえる。
 だが取り戻すべきは「卓越」の文化であるところの「芸術」ではなく、「生きられる文化」である。これはバフチンによる中世、ルネサンスの研究における、支配階級の文化である「芸術=公式文化」に対する、(カーニヴァルに代表される)「民衆文化=非公式文化」のことである。同じ「文化」という言葉が使われてはいるが、この非公式文化の性格は「芸術」と大きく異なっている。専門の表現者と観客へと分離し、前者によって演じられる支配階級の文化である「芸術」と異なり、カーニヴァルにおける 生のように全ての民衆によって直接「生きられる」ことを特徴とする。
 押さえておかねばならないことは、個人を単位とした活動である「卓越」の文化である「芸術」は、支配階級(権力)に組織された文化であり、現行の秩序を肯定し賛美するスペクタクルであるということだ。「芸術」は、権力が己の力の威光と永続を「下=民衆」に対して示すという「卓越」の欲求に貫かれている。また、支配階級のお眼鏡にかなって(承認されて)徴用された芸術家たちも、権力の紡ぎ出しているヒエラルキーのなかで卓越した経済的、精神的地位を得ている。その意味で「芸術」は上下方向(垂直)のステイタスの闘争という性格を持っている。
 それに対して祝祭(カーニヴァル)の空間の特徴は、支配的な秩序の崩壊、反転であり、ヒエラルキーに基づいた個人のステイタスの「卓越」は無効になるところにある。バフチンに先立ってニーチェは、「公式文化/非公式文化」という2つの文化の区別を、「アポロン的文化/ディオニュソス的文化」という概念で示していた。彼は(垂直的な)秩序の美であるアポロン的文化に対して、ディオニュソス的文化の特徴を個人の枠を越えた陶酔の美と特徴づけた。ディオニュソス的祝祭においては、個人間の境界が失われ、陶酔(水平)的な交流が広がり、個を前提にした上下方向(垂直)のステイタスは意味を失効する。
 こうした「生きられる文化」が「芸術」というグローバル資本主義のスペクタクルの突出によって見えなくなってしまっていることが、今日的な問題である。瞬間の中に消えてゆくカーニヴァル的な陶酔は、永続を志向する(石や金属など劣化しにくい素材の使用や、文化財の保存のテクノロジーや努力によった)権力の文化のように(芸術という膨大な資料体の蓄積)は。われわれの目に止まらず、さらに伝統的な祝祭自体が衰退し消滅しようとしている。とりわけ、19世紀後半から100年にわたって「生きられる文化」が「アートワールド」を乗っ取って展開したアヴァンギャルド運動を、「アートワールド」はモダニズム言説を駆使して横領し、「芸術(スペクタクル)」の威光を高めるために利用することに成功したため、「生きられる文化」の可能性、面白さは隠蔽され「芸術」だけが「文化」のような顔をしているのだ。
 「芸術、美的なものによる支配は、政治や教育による支配よりも身体の深くまで浸透します。」と吉岡氏は言っているが、私たちは、根源的な「生=表現(生きられる文化)」を表現者と観客に分離(疎外)させる「芸術(スペクタクル)」の身体の深くまで浸透する支配のもとで、創造しているつもりがシステムを賛美する太鼓持ちへと陥っている芸術家か、芸術家の創り出したスペクタクルを受動的に受け取るだけの観客、という「生からの疎外」のどちらかの形を選択することを迫られているのである。だから、文化という言葉の意味を噛み締め、生を豊かに彩りたいと思うのであれば、私たちの為すべきは、グローバル資本主義から「芸術」を奪取することではなく、「生きられる文化」を取り戻し=疎外から自律し、「芸術(スペクタクル)」そのものから脱出することでなければならない。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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