泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags: 思想  芸術  

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Q&A その2

 引き続き万年筆さんの質問に答えていきましょう。

 2、「祭り」がその地位を社会の中で回復し、資本主義的理知的労働/生産が取り除かれたとき、「祭り」はその浄化作用を失わずに「祭り」として存在し続けられるのですか? 毎日祭りだと正直飽きませんか? 祭りが社会システムの一部に組み込まれていたという遥か昔、祭りの散財する期間ではない、それ以外の期間、人々の暮らしは、現在の資本主義が与えてくれているような安定、を保持出来ていたのですか? 私は「祭り」の至高性に賛成ですが、資本主義的日常の保障も無視は出来ません。そして常に「祭り」であるような世界を好む気になれません。

 ………ということですが、私の書いたエッセイをよく読んでいただければわかると思いますが、私は確かに「祭り」がその地位を社会の中で回復すべきだ、とは言っていますが、資本主義的理知的労働/生産が取り除かれなければならない、とは言っていません。私たちは労働せずには生きてゆけないことは動かしようのない真実でしょう。おそらく万年筆さんがお読みになったであろう、カイヨワの『祭りの理論』にもありますが、「祭り」とは浪費と破壊の時間です。現実問題として、労働がなくなり浪費と破壊が続くような世界はありえないでしょう。「祭り」の毎日に飽きるとか飽きないとかの問題ではなく、そのような世界で私たちが生きてゆくことはできないと思います。
 誤解しないでいただきたいのですが、私は労働のない社会を夢見ているのではありません。そうではなくて私が願っているのは、社会が近代化(資本主義化)する以前には存在していた浪費の価値と権利を、近代社会に取り戻したい、ということです。したがって、常に「祭り」であるような世界を好む気になれませんという万年筆さんの指摘はまったくの的外れであることはまず言っておかなければなりません。(おそらく「祭り」は瞬間的なものでしょう。『一時的自律ゾーン』(ハキム・ベイ)という言葉がありますが、これは私の考えている「新しい祭り」と重なるような気がしてなりません。)もう一度私が問題にしていることを整理しておきます。

 近代化以前の社会においては、むしろ浪費は中心的な価値として社会の上に君臨していました。民衆は「祭り」の日のために働いていた………。さらに王侯や貴族、僧侶、などの存在、王宮や寺院などのモニュメンタルな建築、美術など、生産された富は惜しげもなくこのような非生産的な価値に向けて浪費されていたのです。
 しかし、ブルジョワジーが権力を持ち、社会が産業化するとともに、浪費に変わって生産が中心的な価値として登場してきます。ブルジョワジーは伝統的な身分制度を打ち壊したわけですが、それとともにシステムに組み込まれていた浪費の価値を断罪することになります。その結果、伝統的な祭りや、王権や宗教など浪費のシンボルは、私たちの近代社会においてはすっかり形骸化し戯画と化しています。

 つまり、近代社会はデモクラシーを獲得しましたが、それ以前の社会が保持していた、日常/祭り、の二項対立のうちの日常の秩序、すなわち生産労働の価値が全面化するという事態をも招いたというわけです。私たち近代人の上には生産の価値が君臨し、教育などを通じて生産の価値(勤勉な労働倫理)は私たち一人一人に内面化するに至っています。
 カイヨワも労働の秩序が支配する日常というものに関して『毎日仕事に明け暮れる、規則的で平穏な生活。禁止の体系の枠に組み込まれ、万事が慎重さそのものの生活。「静して動さず」の格言が世の秩序を維持しているこうした生活…………』と述べていますが、労働の秩序の規則的で平穏な退屈さが私たち近代人の生活全体を覆い尽くしてしまったということです。

 万年筆さんもきっとそうだと思うのですが、みんなが毛嫌いし、社会派のロック歌手なんかが告発しようとする「レールの敷かれた人生」の退屈さというのは、産業社会の生産的な秩序特有のものなのです。誰もが納得していない………。心の中に漠然と、あるいはピリピリと………働くための生、生産のための道具になってしまっている自分から脱出するための出口を求めているのではないでしょうか。
 産業社会のシステム、生産の秩序の外部への突破口。それはもうかつての「祭り」の形態(近代以前の浪費の制度)にたよることでは発見できない………。おそらくは、まったく新しい形態の「祭り」をシステムへの反抗という形で闘いとらねばならないのだと思うのです。
 ようするに私が『祭りのあと』というエッセイで言いたかったのは、この生産の秩序の外部への新しい道筋を見いだし、進んでゆくことが、新しい「祭り」の形になるだろうということ、そしてアバンギャルド芸術はまさにその新しい「祭り」の形であった、ということです。

 「祭り」(浪費)の価値を肯定する社会の実現というものはひとつの夢なのかもしれません。(共産主義の目指すところは、ここにあるのじゃないかと私はやや強引に解釈しています。)ですが、出来上がった社会はひとつの体制でしかないわけで、それは結局抑圧的に働き出すのだろうと思わざるを得ません。
 退屈で、勤勉の倫理をおしつけてくる私たちの近代社会を活性化しようと願うならば、もはや伝統的な形態としては失われてしまっている生産の秩序の外部への新たな突破口をうがつために闘わなければならない。そしてその闘いそのものが新しい「祭り」なのだと………、圧倒的に巨大化した生産の社会に少しでも多くの「祭り」をぶち込むこと………、私たち一人一人が「祭り」の輝きをまとうこと………。それはシステムに隷属的にではなく、自律的に生きることなのだと思います。
 ………でもそう考えてみると、近代資本主義社会というものは、私たち一人一人に新しい「祭り」の可能性を提供してくれたんじゃないかとすら思えてしまいますが(笑)。

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