泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags: 思想  芸術  

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Q&A その1

 万年筆さんという方から掲示板に質問をいただきました。随分熱心に私の文章を読んでいただけたようで、とてもうれしく思います。万年筆さんの心意気に私も応えなければならないと思います。いくつか質問があるので、率直にひとつずつゆっくり答えてゆきましょう。まず………

 1、「作品」が商品として認識されてしまうと、その中身に込められた創作者の「心の祭り」の興奮は二度と受け手へ伝わらないのですか? 作品の形式が、資本主義に犯された人々の意識内で「商品」になり下がったとしても、作品が持つ力は、その形式を打ち破り、「祭りの心」を伝えられるのではないかと思います。そうでなければ、荒井さんがご自分の生を通して実行されても、「変わり者(という一種の商品的カテゴリー)」と認識されて終わってしまうのではないですか?作品の力を信じないのは、すでに絶望しているからだと感じざるを得ないのですが?

 万年筆さんは私の『祭りのあと』などのエッセイを読んでくれたようで、その中で主張している「作品の制作を拒否する」という私の考えに対して、「作品の力」をもっと肯定的に評価するべきだ、とおっしゃっているように思います。
 まず誤解を解いておかなければならないのは、私は決して「作品の力」を信じていないわけではないということです。誰でもそうでしょうが、私も若い頃からいろんな文学作品を読み、レコードやCDで音楽作品を聴き、美術館や画集(複製)なんかで美術作品に接することを通じて自己形成をしてきました。もちろんそれらの作品は商品だったわけですが、当然、私は作品の中身に込められたもの………創作者の思いなり興奮なりをそれらの商品を通して感じ取っていたわけです。
 したがって私は「作品の力」を過小評価するつもりはみじんもありません。この間、ブログに載せた記事を読んでいただいてもわかると思いますが、むしろ私自身は「作品」を作りたくてしょうがないんじゃないかとすら思っているほどです。後ほど説明しようと思ってますが、実はこの問題は非常にデリケートな難問だと思っています。

 したがって、「作品」が商品として認識されてしまうと、その中身に込められた創作者の「心の祭り」の興奮は二度と受け手へ伝わらない、なんてことはありません。私が言いたいのは、創作者の意識の問題です。創作者が芸術作品を商品としてつくろうと意識した瞬間に、その創作活動は「心の祭り」から労働へと変質する、ということです。創作者にとっては、作品をつくっている瞬間の高揚(万年筆さんのおっしゃっているところの「祭りの心」=エネルギーの放出/浪費)こそが問題であって、つくられた作品がその後、商品となろうが何になろうがお構いのないことでしょう。
 もっとも創作者も食わなければならない、という問題もあります。そのためにはつくった作品が商品になってもらわないと困ります。しかしながらその創作者が「本物」であるなら、創作活動はたんなる商品の生産を越えたものになっているはずです。万年筆さんはピカソに感動したと書かれてますが、ピカソが『アビニョンの娘たち』や『ゲルニカ』を商品の生産(労働)として描いた、なんて思わないですよね。それはまさに祭り=爆発的なエネルギーの放出だったのであり、創作の瞬間、ピカソの中には労働しているなんて意識はみじんもなかったのだと思います。
 つまり、資本主義に犯された人々の意識内で「商品」になり下がったとしても、作品が持つ力は、その形式を打ち破り、「祭りの心」を伝えられるのではないか、という問いには、「当然そうです。」と答えますが、芸術家自身が「商品」制作者に成り下がったとしたらもはやそれは芸術(祭り)ではない、結果つくられた作品も「心の祭り」の緊張や興奮を内に秘めたものとはなっていないのではないか、と私は思うわけです。

 次に、「作品の力」を認めないなら、私自身が自分の生を通して「祭りの生」を実行しても、「変わり者」と認識されて終わってしまうのではないか、という問いかけ。………これは私のように自意識過剰な人間にとってはつらい事態ではあります(笑)。が、考えていただきたいのです。一人の創作者がそもそも何のために作品をつくり、何を求めて自分を主張するのか、ということを。金儲けや成功のためではないし、スターになりたいからでもない。やはりそれは他者とのコミュニケーションを求めてのことではないでしょうか。
 もちろん作品という媒体(メディア)はコミュニケーションのための手段として用いられるはずです。作品媒体を用いることで創作者の意志は、身体的な時間や空間の限界を越えることができる………その結果、地球の裏側にある、百年…いや、千年以上昔の芸術が今も私たちの心を揺さぶることができるというわけです。(万年筆さんのおっしゃる「作品の力」というのは媒体が持っているこの可能性のことだと思います。) しかしながら芸術表現というものはあくまでも手段である、というところを押さえておきたいと思います。作品メディアを利用しない表現はいくらでもある得るわけで、むしろ日常的なダイレクトな表現のほうが、コミュニケーションの方法としては自然なものにも思えます。とにかく問題なのはあれこれの手段なのではなく、コミュニケーションへの欲求なのだということです。
 そもそも「祭り」というものはコミュニケーションではないですか。生産の秩序の中で私たちは役割であり、道具であり、といった具合に個我に分裂していますが、祭りの興奮の中でそのような個我の限界は打ち破られる。むしろ新しい芸術家(これを私は半ば冗談ではありますが『祭りの戦士』と呼びたいと思う)の課題というのは、そのような祭り(コミュニケーション)の場を組織することにあるのではないかと思うのです。
 そのための手段として作品表現を用いる、ということであればそれは理にかなっていると言っていいでしょう。

 またこんな考え方をしてみたらどうでしょうか。………ひとつの生というものは時空とそれを満たす物質の中を流星のように駆け抜ける精神の旅路である、と。ひとつの精神は生まれたときから死ぬまで周囲の物質に働きかけ、破壊し、形を変え、移動する、といったことを繰り返していると言えます。(たとえば芸術作品をつくることもそのような働きかけのひとつです。)ある精神がこの世界をくぐり抜けあとには物質の上に何らかの軌跡や痕跡といったものが残るはずです。その精神が「祭りの心」をもち、「祭り」の場を組織するという課題をもちつつ生きた場合、その精神が物質の中に残した痕跡には、なんらかの「祭りの心」が残響のようにして残っているかもしれない。結果的にその痕跡を「作品」として理解する、ということは他の人たちの自由です。
 いってみれば「作品」というものは足跡のように「祭りの戦士」が駆け抜けたあとにできた痕跡だと私は考えたい。それを「商品」として売ろうが、美術館に収蔵しようが知ったこっちゃないというわけです。

 問題なのは、ある人が「祭りの精神」の持ち主であるかどうかということであって、「作品」というものは「祭り」の手段であり、また結果でしかないということです。私は「作品の力」を否定するつもりは毛頭ありませんが、「作品」を目的としないということ………すなわち「祭り」を組織するということ、に軸足を移すべきだ、と考えているわけです。
 私は「祭り」が「作品」となることは、商品化の前提だと思っています。そして商品化することで「作品」は流通し、資本主義のシステムに回収されてゆく……。いっそ、この流れを断ち切ってしまったらどうだろう。虚の部分に賭けてみるべきではないだろうか。作品形式をとらない自己表現に特化してみたらどうだろう。………あと付けではありますが、20代前半の頃そんなことを漠然と考えはじめていました。当時の私は、銀座の小さな画廊を借りて作品展を開いたのをきっかけに「芸術を日常生活の中に解消する」という宣言をしました。(まあ誰も相手にしてはくれませんでしたが。)
 実をいうとこのような「作品の制作を拒否する」と言う問題意識は、私だけのものではなく、シチュアシオニストというヨーロッパの左翼的なグループが50年代からすでに主張していました。彼らは「これからの美は作品の美ではなく、状況の美となるであろう」という意味のことを主張して活動を「状況の構築」へと特化させてゆきました。これは間違いなく私が考えていた「祭りの場」を組織する、ということと重なります。もっともシチュアシオニストの存在を知ったのは私が作品展を開いてから10年近くも後のことでしたが………。(私のこのサイトのミッションのひとつはシチュアシオニストの研究にあてられています。が、まだほとんど手を付けていません。)
 とにかく、万年筆さんがおっしゃったように、「作品の制作を断つ」という戦略は、自分自身を「変わり者」と認識されて終わってしまう、という事態に陥れる危険を間違いなくもっているものです。………ですが、はっきり言ってしまうと「変わり者」でも何でも構わないじゃないか、と思っています。上でも書きましたが、「成功」なんてことに何の意味があるだろう、問題なのは「祭り」を自分の日常の中にどれだけぶち込めるか、ということじゃないですか。シチュアシオニストはこう言ってます。「われわれは日常生活をワクワクするものにしたいのだ」と。偉そうなこと書いて、あなたのこれまでの人生がそんな素晴らしいものだったのか? と突っ込まれてしまいそうですが、まあ、口ほどにもなく地味なものでしたが、退屈したことはない、と答えておきましょう(笑)。

 この続きは次の質問に答えるという形で後日アップする予定です。それでは。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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