泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags: 思想  芸術  

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口実

 それにしてもこれほど僕が文章を練るのに夢中になるとは思わなかった。不思議なことに書きたいことは次ぎから次へとわき上がってくる。アクセスカウンターを見ればわかるのだが、僕のサイトを訪れてくれるのは毎日10人ぐらいしかいない。多分来てくれているのは友達や知り合いなどの常連の人ぐらいだと思う。とはいってもアクセス数をのばすことが目的なのではない。ネット上で人気者になるなんてのはくだらないことだ。まあ正直なところ一生懸命練り上げた文章なのだから少しでも多くの人に読んでもらいたいという気持はある。だが読まれなくってもいっこうにかまわない。いまや文章を練るという行為は僕にとって体にたまったものを排泄するような、生理現象ですらあるからだ。書かずにはいられないのである。
 ある意味僕はこれまで表現すべきものを体に溜め込んできたと言える。作品表現を断つ、という戦略をずっととってきたからだ。それはいまだに継続している僕の芸術上の課題である。だが、僕もバカじゃないのでここにある矛盾に気がついていないわけではない。つまり、「こうして書いているこの文章は、『作品』ではないのか?」ということ………。自分の主張を自分の行為が裏切っているんじゃないのか、ということである。
 もちろん、サイトに発表している文章は商品にはなっていない。が、仮にこれらの文章を本にすることができたとして、それを書店に並べることができれば立派な商品になる。あり得ないことだが、その本が売れて僕の家計を潤してくれるのなら、こんなうれしいことはない!……だがまあ、どう考えても僕の練り上げている文章は商品化の前提となる、「作品」表現の条件をしっかりと満たしていることは間違いない。
 というか、実をいうと僕は絵にしろ文章にしろ「作品」という表現形式が大好きなのじゃないだろうか? 本当は「作品」をつくりたくてウズウズしてるのじゃないだろうか、という疑問が頭の中を駆け巡っている。「作品」をめぐるこの問題は、僕の活動の中心を占める大きなアポリアである。

 そんな僕自身の持っている疑問を解決する手がかりになる言葉をここに載せておこうと思う。『東京ミキサー計画』赤瀬川原平 著………ハイレッド・センター直接行動の記録………。ハイレッド・センターというと何かの研究所みたいだけど、60年代の前衛芸術のグループ、一種のハプニング集団ということになるだろうか。高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之の3人の頭の文字、高・赤・中を英訳したというふざけたネーミングだ。彼らの活動はとても面白いので一読をお勧めしたいが、ここでは内容には触れない。
 巻末に、『寂しげで冷ややかな浸透力ーフィクションとしてのハイレッド・センター』という題の3人による座談会が載せられている。重要だと思われる箇所を抜き出しておこう。

中西  ………高松がジャスパー・ジョーンズ論で、ジャスパー・ジョーンズがどういう思想で、どういう観念で仕事してるかどうでもいいけども、多分絵が描きたい一心に、『標的』なんていうものを発見するというようなことを言ったと思う。あれはいちばん塗りやすいわけだよ(笑)。やっぱりそれは方便でしょう。絵が描きたい、で方便のために方便をつくることによって、わざと塗ってる、わざと絵を描いてると。ハイレッド・センターの手法もそういうことに似てるんじゃないか、わざとやってる。結婚式に似せたようなことをやっても、なにも虚実の問題を扱ってるんじゃない、こっちが本当の結婚式でこっちが偽の結婚式で、虚と実のその境い目を見せるとかっていうんじゃなくて、なにか行動する、行動するためにはひとつの………。

高松  口実がいる。

中西  口実がたとえばルールであったり、あるいは言葉であったりというような、それを丹念にひとつずつ糞真面目にやってみることだよね。

赤瀬川 つまりディテールが欲しいんだよね。

高松  そう、ディテールがリアリティを持つわけだね。


 ちなみにジャスパー・ジョーンズの『標的』というのはこんな絵です↓。

 方便、口実………! これはドッキリするような見かたの反転であるが………そうなのかもしれない。いや、きっとそうだ。僕は今、文章が書きたいのだ。テクストという「作品」を編み上げたくてしかたがないのだ。そのための口実として「作品をつくらない」という思想をでっちあげたのに違いない。
 絵を描こうと思うとき、まずはじめにあるのは、ある画面を絵の具なり何なりで塗り込めたいという欲望である、と彼らハイレッド・センターの3人は。言いたいわけだ。そして、それを実現するためには口実が必要だ………と。アーティストが語る芸術論、思想といったものは絵を描き、作品をつくるための口実であり、方便なのだと。
 その感覚は中西夏之の絵を見てもわかるような気がするし、僕自身が毎日こうやってこねくり回しているところの文章………、語を組み合わせてできる有機的な言語空間を練り上げているときにも感じていることでもある。
 だけど、ただ、描きたいから描く、書きたいから書く、といった具合に、ただ「作品」をつくってるんじゃダメだ、ということだろうか。そこには口実が、納得のゆく形での、説得力のある口実がなくてはならないということか?
 たとえば『絵が描きたい一心に、『標的』なんていうものを発見する。』という言葉を僕に当てはめてみれば、『文章を書きたい一心で、「作品をつくらない=メディアとしての身体」という思想を発見した。』ということになる。とすれば(僕は自分の中に確かに感じていることなのだが)、もともと文章を書きたいという欲望があって、どうすればその欲望を実現できるかというその可能性に今まで心を砕き続けてきた………実は『文章(作品)はいかにして可能なのか?』ということが本当は問題なのであった、ということになるんじゃないだろうか。もっとも口実とはいってもペテンでも何でもいいというわけにはいかないだろうが。

 考えてみればシチュアシオニストだって、「作品をつくらない」という戦略をとっていながら、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』という会報を定期的に発行していたし(日本でも翻訳されて分厚い本6冊分もある)、中心人物のギー・ドゥボールも『スペクタクルの社会』をはじめとして数冊の本を出版している。それらの書物を作品でないとは誰も言えないはずだ。本当に状況の構築だけが問題ならダイレクトな行動に集中してもよかったはずだろう。
 が、はたして「ダイレクトな行動」って一体なんだろう? 僕たちが何らかの行動をするという欲望を持ったとすれば、それは常に何らかの形式(たとえば、絵を描くとか文章を書くとか、車に乗る、ゲームをする、野球をする、などなど)を媒介したものならざるを得ないのではないだろうか。
 問題なのは、「作品を目的としてつくるというスタンスを拒否する」ということではないだろうか? つまり「作品はいかにして可能なのか?」と問われれば、「作品は明確に手段に貶められていなければならない」ということではないだろうか。あくまでも僕らにとってのメインは「生きること」にあるのであって、「作品」をつくるために「生きている」のではない、というスタンスをとるべきだ、ということではないだろうか。そのような「作品」との距離感が必要なのであり、その距離感をつくるためには「口実」が必要だと………。

 僕の場合、「作品をつくらない」という思想を主張するという「口実」があってはじめて文章を書くという一種の作品活動(文章を書きたいという僕の内なる欲望の実現)が可能になった、ということだと思う。
 そういう「作品」との距離感がとれているかどうかが大事だったりする。もう少しゆっくり考えてみたいと思うが、そういった作品との距離感があることが世界と戯れる「祭りの戦士」の特長ではないかと思うのだ。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
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