泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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テオティワカン

 ルネ・ジラールの『身代りの山羊』の第5章は「テオティワカン」と題されている。ここでジラールはアステカの神話について語っている。僕はこの間、ジラールの供儀論はリアクションによる秩序の形成のメカニズムを解明しただけに過ぎないのではないか、と疑問を述べておいた。どうやらそれに近い批判を誰かに受けているらしく、その批判への反批判として「テオティワカン」というテクストが書かれたらしい。
 ジラールをまだよく読んでいないので、間違いがあるかもしれないが、民族の神話の中にその民族の秩序形成における排除(スケープゴートの生贄)の構造がなんらかの形で反映されている、と彼は考えているようだ。しかしアステカの神話はスケープゴートの生贄というより、自己犠牲の様相が強いので、これはジラールの言うところの供儀のメカニズムには該当しないのではないか? という批判があったようだ。僕もこの間、アステカ人んの自己毀損(自己犠牲)という面を捕らえ、これを肯定的に評価すべきだと述べたところだ。したがって、このテクストを読めば、ジラールの立場は明確にわかると思った。

 かいつまんで言うと、ジラールはアステカの自己犠牲の神話は、よく読んでみれば自己犠牲ではなく強制された身代わりの殺害の物語として理解できると、また、アステカの生贄の社会を肯定的に評価しようとする民族学者の態度は、恣意的なものなのではないかと反批判するのである。
 ここで言う自己犠牲の神話とは、アステカの太陽と月の創造神話である。太陽を天に輝かせるためには犠牲が必要だった。2人の神が選ばれ、燃えさかる火の中へ飛び込めといわれた。ひとりは尻込みして飛び込むことができなかったが、もうひとりの神は思いきりよく火の中へ飛び込み、自分の身を焦がしたのである。それを見ていた先ほどのもうひとりの神もあわてて後を追って火の中に飛び込んだ。すると最初に勇気を持って飛び込んだ神は眩しいほど輝く太陽として地平線上に姿を現した。もうひとりの躊躇した神はというと、弱々しく光る月となって姿を現した、というのである。(ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』にこの神話が詳しく載っている。また岡本太郎の『美の呪力』にもまったく同じ神話が引用されている。)
 これを自己を犠牲にする勇気を称える神話と解するのか、身代りの生贄の物語と解釈するのかは微妙なところだ。それは解釈なのであって、どちらともとりうるのだ。が、とにかくジラールはこれを身代わりの生贄の神話と解釈するべきだと、つまり、魔女狩りやスターリニズムの粛正と同様に、生贄の殺害による秩序形成のメカニズムを見るべきだと主張している。
 さらに彼は民族学者は未開の習俗や神話にたいして肩入れしすぎではないのかと不満すらもらしている。西洋の文化が生んだ魔女狩りなどの現象を病理として批判するのに、なぜ同じ生贄の習俗をもつアステカの社会を特別視するのか、というわけだ。

 残念ながら、この短いテクストだけからジラールの考えを吟味するのは不可能である。しかし僕とジラールの考えに大きな差があることははっきりとわかった。問題は自己犠牲をどう評価するのか、つまり身代わりの殺害というメカニズムですべてが語り尽くされるのかどうか、ということである。
 前にも言った通り、もしジラールの言う通りだとすると、なんらかの共同体の秩序の中に属する僕らは、それだけ血塗られた生贄の殺害というドラマの共犯者であるということになる。僕らはそのような罪深い生存でしかありえないのか。ジラールはその辺どう考えているのか、もっときっちり彼の本を読んでみる必要があるようだ。
 
 勘なのだが、ジラールをたたき台(失礼!)にすることで、アクションとしての供儀論を展開できると思うのだ。ジラールはおそらく近代的(キリスト教的)な価値観にとらわれすぎているのではないだろうか。彼の考えの根本的なモチーフとして、個人の生存(生き延び)に至高の価値をおいていること、また個人をアトムとしてとらえ、そこから共同体を形成するメカニズムを画策していること(これは近代的な社会の構成である)。このことは民族共同体がその成員である個人より中心的価値であった近代以前の共同体においてジラールの語るメカニズムが解釈装置として機能するのか? という疑問につながる。
 ジラールは触れていないが、アステカ人は確かに異民族の捕虜を身代わりの生贄に捧げるのであるが、その捕虜の獲得のためにアステカ人の男たちは数多く戦場に倒れたのである。個人を中心としてとして考えれば身代わりが殺害されているようにも見えるが、民族共同体全体を考えれば、アステカ戦士の死はアステカ族の自己毀損(犠牲)の行為として理解できるだろう。民族の宇宙の栄光がすべてであり、そのためには個人の生命などなにものでもなかったアルカイックな社会の事情を考慮する尖鋭な知性を、やはりジラールは欠いているのではないだろうか。近代的な「生き延び」の原理を越えでていないところにアステカ神話のこのような解釈が生まれた原因があるのではないだろうか? というのが僕の見込みなのであるが…………それはこれから検証したいと思う。

 何のためにこんなことを考えているのかといえば、自分が罪深い共犯者的な存在でしかありえないというのが何とも許せないからだ。もしジラールが僕の考えている通りの思考を展開しているのなら、彼はきっとそのような罪深い身代わりの山羊の殺害による共同体の秩序の形成ではない、もっと別の人間社会にあり方のイメージを提出できていないはずである。たとえばアウトノミアの運動が提出していたような共同体のイメージを………。さてどうなんだろうか。

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荒井賢 (Ken Arai)

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