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夏のための
この美しい絵画に出合ったのは20代初めの頃、個展を開く画廊を物色するため銀座のギャラリー街をうろついていたときだ。その頃の僕の絵といえばコキタナイもので、友達にはゲロの絵だなんて言われていた。ポストモダンな時代の雰囲気がイヤで、ドロドロした人間臭い表現を求めていたからだ。
ところが、この中西夏之の絵画の美しさ、高雅さはどうだろう。なにか格の違う高貴さを感じた。こんな絵もありうるのだ…………そう思った。
その後、僕は作品を創らないという戦略を選んだ。しかし中西夏之は今も同じような、タブローを描き続けている。が、それは相変わらず美しく妖しい輝きを放ち続けている。もう60歳ぐらいになる人だというのに…………。
中西夏之の絵画は、僕の作品を創らないという戦略に疑問符を突きつける。自分の選択が間違ってるとは思ったことはない。しかし事態はそう単純ではない、ということを思い出させてくれる。
どうだろう。これは絵であって絵でないのではないだろうか?僕の脳裏に浮かんでくるのはタブローという平面の前で舞を舞っている中西夏之の姿なのだ。
この絵の感想です。
ぱっと見、「物凄くやばい感じ」がしました。侵された皮膚のクローズアップというか。芸術のことはよくわからないのですけど、荒井さんが言うように これは妖しくて高雅な感じがします。
鳥肌を連想するし、見てると鳥肌が立ちますね。