泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags: 芸術  思想  岡本太郎  

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岡本太郎「曼陀羅頌」を読む3

ー3ー


岡本太郎 『子供の樹』


 ここまで私は岡本太郎がアバンギャルド芸術の終焉をどのように認識し、どのように乗り越えるべきだといっているのかを分析してきた。何よりそれが私自身の関心事だからである。しかし、そもそも岡本太郎がこのエッセイで語っているのは、表現論である。「曼陀羅頌」を読む、と題した以上、最後にこの問題についても私の立場から読み解いてみなければならないだろう。

 まず、このエッセイの結論、岡本太郎の迫力のある美しい文章を読んでもらおう。

 『秘密。つまりは秘密なのだろうか。
 秘密はあらわであってはならないし、あらわになるという危機を具有しなければならない。
 密教においては「秘仏」に象徴されるように、あらわにならないがゆえにこそ力である。この神秘力、呪力が芸術においても、実はその本質なのである。ところで、われわれが日常、社会に見る「美術」とはいったい何か。見せない作品なんて、まったく成り立たない。へでもない。見せるからこそ価値が現出する。当たり前だろう。
 しかし秘めなければならない契機があるのだ。それは何か、ということだ。見せる美術が、芸術であるためには。問題は決して平板ではない。 見せる、と同時に見せないという矛盾が、一つの表情の中に内包され、充実していなければならないのだ。ジレンマである。
 それをどう具現するか。社会的表現を打ち出しながら見せないというのは……。 つまり見せて見せないことである。それは一見パラドキシカルだが、芸術の極意だ。
 私が何度もいっていることだが、表現しようとするとき、いつでも二つの矛盾に引き裂かれる。たとえば絵を描き、彫刻し、文章を書き、喋る。そのとき私は自分の考え、感じ方を皆に伝え、通じさせようという、徹底的な情熱に貫かれている。その時私はひどく激越だ。自分を他の世界に押しつけようとする意志、それは一種の帝国主義といってもいい。その意志、情熱がなければ、芸術家としてゼロだ。自分こそ絶対であり、その絶対感によって世界をおおうーーー。
 という気配のない芸術なんて、私には考えられない。ところで、そのように単純ではないのである。それと同時に、私の中には絶対に己を知らしめたくない、受け入れられることを拒否する意志が激しく、同じ力をもって働くのである。
 己が他にまったく受け入れられたとすれば、とたんに己は他の中に解消してしまう。一部だけ理解されて、他が残る、ということはあり得ない。オール・オア・ナッシングだ。しかし芸術は、オールであると同時にまたナッシングだという、不思議である。
 受け入れられなければならない、と同時に絶対に受け入れさしてはいけないのだ。その矛盾した強力な意志が、それぞれの方向に働く。よく私が芸術は好かれてはいけない、と象徴的にいうのは、まったくその意味なのだ、いわゆる絵描きさんの絵は、あらわしっぱなしだ。分かって下さい、好いて下さい、ーーーその芸はなかなか細かいが。そしてそういうものに一般が溺れている。
 不潔の極みだ。優れた芸術は永遠にフレッシュな感動がある。それは永遠に己をわたさないからだ。その拒否、秘密がなければ、純粋ではあり得ない。秘密即純粋なのだ。つまりそれは見せていると同時に見せないことなのである。
 絶対の虚無に徹し、そこから有に転じようとする。卑しい修行、芸、生業ではなく、無条件の象徴的ジェスチュア。ただ、さし示すこと。
 激しい呪術を込めて、「これだ」と言わなければならない。それによって、猛烈なエネルギーがふき出し、そこに絵でも、音楽でも、哲学でも、宗教でもない、絶対の何かがあらわれるのである。
 いま私をとり巻き包んでいる色・形・音。その果てしない饒舌の、虚と実の重なりあった層。渾沌をとおして、ただ一つ、私の心の中に強烈な実感として浮かび上がってくるーーーそれは、ながながとさし示した一本の腕である。』


 いろいろな問題を展開できそうな含蓄のある文章だが、ここでは私自身の課題、「祭りのあと」の問題に引き付けて,簡単にコメントしておこう。
 エッセイのはじめでも「宗教も芸術も、まさしく秘密であることによってのみ、そのものであり得る。その強烈な充実がある。」と彼は述べている。表現しながら同時に秘める、という契機がなければ表現として充実していないというのである。見せると同時に見せない、受け入れるさせると同時に受け入れさせてはならない、そのような秘密なしには純粋ではあり得ない、と。
 ヘーゲルは承認を求める闘争が世界史の原動力だと見ていた。人間は自己を他者に承認させたい、自己を認めさせたいという欲望を持ち、その実現のために闘争するのである。岡本太郎は、「自分を他の世界へ押しつけようとする意志、………その意志、情熱がなければ、芸術家としてゼロだ。」といっているが、つまり芸術の表現も、自己を外部に承認させようとする行為なのである。
 だが、「認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志。それが本当の人間存在の弁証法ではないのか。」(岡本太郎『自伝抄』)と、岡本太郎は表現にはもう一つのモメント、すなわち「隠す」というモメントがあることをも強調しているわけだ。いったいどういうことだろう?

 このパラドキシカルな心理のメカニズム、これは至高な、あるいは戦闘的な精神の特徴なのではないかと私は思う。例えば、ニーチェはこんなこと語っている。

 『すべて深いものは仮面を愛する。もっとも深いものは形体や比喩に対して憎悪すら持っている。「逆」こそは、それを着て神の羞恥が歩くべき、まさしき仮装ではないか?』(『善悪の彼岸』)

 深いもの、高貴な精神は自らの存在を隠すための仮面を愛する。それのみならず、「逆」の姿、つまり正反対の姿であろうとする、とニーチェは言うのだ。深い苦悩を持つものが、陽気な笑顔を振りまく。鋭い知性で行動しているものが、バカを装う。何度も死線をくぐり抜けてきた勇気ある男は、危険なことなどなにも知らないようなのんきな顔をしている。
 この逆説に満ちたエスプリはいったい何に由来するのだろう?
 高貴な精神のプライドがそうさせるのだと私は思う。それは安易に理解されてしまうことの拒否なのだ。仮面をつけることで他者はあなたを誤解し、過小評価するだろう。それによって、あなたと外部の距離、差異はより広がる。理解されるということは、他者との差異をなくすことである。理解され、受け入れられる……居心地は良いが、それはぬるま湯でのまどろみではないか?高貴な精神であれば、逆に差異を強調する方向に動くのではないだろうか?誤解され、過小評価されたあなたは、新たな承認を求める闘争へと赴かなければならないだろう。つまり差異は緊張を生み、緊張が新たな闘争を、そしてドラマを生む。引き絞られた弓が遠くまで矢を放つように、大きな緊張はより激しく危険なドラマを生み出すのだ。仮面をかぶったことによって、苦悩するものはより深い孤独を知り、知性あるものはより深く人間を理解できる機会を得る。勇気あるものは周囲が新しい危険の種を持ち込んでくるだろう。
 つまり、ニーチェのいうところの深いものが自らを隠す行為とは、自分自身をより困難な状況に追い込み、それによって世界に緊張をもたらそうという至高な精神特有の行為である。

 表現する、自らを承認させる行為に、隠す、認めさせない、受け入れさせないというというモメントが同時に影のようについてまわるわけは、表現する精神が至高であらからなのだ。自己を承認させようという根源的な情熱、だが至高な精神はそれだけでなくそこから逃げるような動きを同時に伴っている。それによって表現者は自らを試練にかける。常に戦闘体制にあるべく自らを追いつめるために。
 私たちの身の回りには、いわゆる「表現行為」があふれかえっている。様々なメディアが運んでくる色、形、音、言葉……。岡本太郎が言わんとしているのは、それらが本当に芸術であるためには「見せる、と同時に見せないという矛盾が、一つの表情の中に内包され、充実していなければならない」のであり、それはつまり表現を行う精神が至高でなければならないということなのだ。「優れた芸術は永遠にフレッシュな感動がある。それは永遠に己をわたさないからだ。その拒否、秘密がなければ、純粋ではあり得ない。」というわけだ。表現がフレッシュであるのは「隠す」モメントすなわち秘密がなければならない。秘密があるということは、表現者が自らを危険に追い込むという戦闘的な精神を持っているということである。「常に闘いのなかにあること=その精神がフレッシュであること」なのだ。その姿勢こそ、何度もいっているように、至高な、祭りの精神なのである。
 深い精神を理解できる者は、少なくとも同じ程度の深さを備えていなければならない。アバンギャルド芸術を理解できるということは、その底に流れる祭りの精神をも見抜ける者、すなわちアバンギャルド同様に闘いの精神を持つものでなければならないのである。おそらく戦後のモダンアートのアーティストたちがダダ・シュルレアリスムの本質を見抜けなかったのは、彼ら自身そのような至高な生き方というものを理解できていなかったからだろう。当然の帰結として彼らの作品は、秘密というモメントを欠いた空虚なものとなってしまったのだ。


岡本太郎


 エッセイの終わりの文章はまるで私のために書いてくれたかのようにすら思えた。

 「絶対の虚無に徹し、そこから有に転じようとする。卑しい修行、芸、生業ではなく、無条件の象徴的ジェスチュア。ただ、さし示すこと。」

 この岡本太郎の言葉は、作品を作ることを拒否し、直接的なアクションへと表現を絞り込んでいったシチュアシオニストの試みを、そして他ならぬ私自身の試みのことを指して言っているように思えてならない。

 「激しい呪術を込めて、「これだ」と言わなければならない。それによって、猛烈なエネルギーがふき出し、そこに絵でも、音楽でも、哲学でも、宗教でもない、絶対の何かがあらわれるのである。」

 「絵でも、音楽でも、哲学でも、宗教でもない、絶対の何か」……、そう、それこそ私がいっているところの、アバンギャルド芸術にとってかわるべき「新しい祭り」なのだ。

 「いま私をとり巻き包んでいる色・形・音。その果てしない饒舌の、虚と実の重なりあった層。渾沌をとおして、ただ一つ、私の心の中に強烈な実感として浮かび上がってくるーーーそれは、ながながとさし示した一本の腕である。」

 この言葉の意味が理解できるだろうか?この言葉を理解できるあなたは、どこにいようと、会ったことがなかろうと、間違いなく私たちの同志なのである。


岡本太郎 『若い時計台』





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荒井賢 (Ken Arai)

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