泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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Category: 記憶の底から   Tags: 思想  思い出  

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仄暗い記憶の底から 9  東京コーヒー

 二十歳の頃、バイト先の友達に誘われ、『ニューフェイズ』という名の「登校拒否を考える会」に参加していたことがある。登校拒否の経験者が作った会合で、登校拒否をしていて苦しんでいる児童に居場所を作るという目的でスタートしたらしい。もっとも実際にはそのようには機能してはいなかった。会員は四人しかいなかったし、会報を作ったり、一緒に遊びに行ったりしているだけだった。とは言えそこでの経験は面白く、貴重なものだった。
 登校拒否は病である、と一般に考えられているが、この会の主張は、むしろ学校というのは経済成長のために役立つ人間を社会に送り出すための非人間的な装置であり、登校拒否とはそのような学校教育に対する拒絶反応なのだ、というものだった。つまり登校拒否を無意識的なシステムへの反抗として、ポジティヴなものとして捉えようというものだった。
 もちろん僕は登校拒否などしたことはない。しかし新しい芸術のあり方を模索していた僕は、直感的に彼らの小さな闘いにシンパシーを感じた。本当に人間的に、クリエイティヴに生きようとすれば、どうしても社会のシステムと衝突し、齟齬を来さざるを得ないのではないか? 僕らの現に生きているこの社会は、僕らが人間らしく生きるためにつくられているわけではないのだ、といった反システム的な闘争への方向性の中に芸術の新しい形態、新しいあり方を感じ取ったからだ。
 一人一人が創造的な生き方、生の新しい価値を打ち出して生きるべきだ、と僕は主張し、会のメンバーも共感してくれていた。『ニューフェイズ』という会も、創造的な新しい生の形を創出する会であるべきだ、と僕は考え、実際、会もそういう方向へ動き出したかに見えた。だが、やがてこの会は空中分解というか、自然消滅してしまった。問題は、会の目的と会の形態にズレが生じてしまうということだったと思う。
 一人一人が創造的に生きるための会であるのに、会によって組織されてしまうのはおかしいのではないか? 個性を強調していながら、組織のヒエラルキーに従属しなければならないというのは……、矛盾なのではないか。
 
 難しい問題だと思う。おこがましく聞こえるかもしれないが、この問題は、例えば芸術運動、シュルレアリスム、シチュアシオニスト、あるいはバタイユの組織したアセファルという秘密結社なども同じようにぶち当たった問題だったのではないだろうか? どうも二十歳の頃のあのときの僕らの経験、今思えば青臭さ満点の幼い闘いの経験は、それらヨーロッパの文化運動と同じ問題をはらんでいたのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 もうあらから二十年も過ぎてしまった。あのときの仲間は今どうしてるだろう? 元気でやってるだろうか?

Comments
 
登校拒否を一概に病と決めつけるのは確かにおかしい(あるいはケースによっては非常に危険)と自分も感じます。
登校拒否を(無意識な)システムへの反抗として捉える考え方は、現在では、臨床心理学なんかの分野でも言われていることのようですし、僕自身もそういう考えにシンパシーを覚える部分があります。
ただ、学校というものの捉え方としては僕の場合お書きになられていることとはあるいは寧ろ逆で、例えば「学校で勉強することで社会に出てからそのままためになることは殆どない」といったような意見を折に触れ耳にすることがありますが、経済成長を促す人材を育成するという意味に限定した場合でも、結局学校は今日まで機能してきていないのではないかという気もしています。
僕が思いますところ、なんというか、例えばイデオロギーというものはイデオロギーとして成立してしまうに至った時点で一人歩きを始めてしまうものなのではないかという気もしますし、人間にとって大事なのは、まずは一人一人の個の確立(非常に大雑把な言い方で恐縮です)なのであり、またシステムというものも、単にその外から、それありきの視点からのみ見て批判なりをするものではなく、自分自身も須く社会の構成員の一員なのであり、自分自身の自由なり権利なり表現なりを獲得して(人生を自分自身のものとして獲得して生きたいと望むのであれば)自分が社会の構成員の一人として果たすべき責任がどこにあるのかを知りそれを果たそうとする葛藤を一人一人が一人一人のテーマとして抱えていく必然が生まれるのではないかという気もしますし、それを具体的に行うということは何か社会的なテーマなりにやみくもに組みして云々というよりも、もっと生活に根ざした、あるいはもともと自分が生きてきたなかで関わってきた人との関係性(基本は親や家族との関係から始まるもののように思います)に自分なりの答えを出しながら一歩一歩よりナチュラルに歩んでいこうとすることではないかと思いもします。
それともうひとつ思ったのですが、現代芸術の一つの過ちは「新しさ」に捕らわれすぎたことではないかとも考えるのですが、その辺如何おもわれますでしょうか?
(まとまりがなく、長たらしいコメントでもうしわけありません)
 
 コメントありがとうございます。ゆっくりひとつずつ答えさせて下さい。
 現代芸術の一つの過ちは「新しさ」に捕われすぎたことではないか……。ウ〜ン。ここでおっしゃっている「過ち」がどのようなことを言っているのかわからないですが、僕は芸術においいて「新しさ」は絶対的な価値であると考えています。「過ち」があったとすれば、それは「目的と手段の混同」にあったのではないでしょうか。現代芸術は手段……、近代社会に祝祭性を導入するという目的のための一つの手段だったと僕は考えています。ところが芸術を、すなわち作品制作を(それこそイデオロギッシュに)「目的」として捉えてしまったところに、過ちがあったのではないでしょうか?
 これについて説明すると長くなってしまいそうです(笑)。もし時間がありましたらリンクしてある僕のホームページにお立ち寄り下さい。『祭りのあと』というエッセイでこの問題を長々と論じています。
 他のコメントにつきましてはまたゆっくり考えてからお答えしましょう。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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