泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
1
2
3
4
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
03


十字架にかけられる多様性 

 自分と異質な生き方や考え方に触れるという経験はいつも僕にとって驚きである。まるで、他の太陽系にある惑星にまったく地球上とは別の生命体が繁殖している風景を目の当たりにしたような気になってくる。このように自分を当惑させ不可解な思いにさせる未知の肌触りこそ、他者との出会いなのだと思う。
 きはむ氏mojimoji氏のやりとりで、なるほどなあ〜と思いながらも自己責任倫理、だとか規約、正義なんていう言葉が出てくるのを読んでいると、発言に共感するかどうかはともかくとして、自分と違うことを考えているのだという事実に感心してしまう。正義なんて言葉は僕にとってはウルトラマンの世界の話でしかなかったので、読みながら照れてしまうのだが……。
 とはいえ、やはりこの異質な肌触りが僕には非常に興味深いものであり、だからこそ対話をしてみたくもなるわけだ。きはむ氏とはずいぶんやり取りを重ねて、お互いの違いもはっきりしてもう言うこともないと思っていたのだが、mojimoji氏の書いたものを読んでいるうちに、きはむ氏の文章を解剖し、この観点からもう一度自分の考えを整理してみたいという欲求がおこってきた。人の尻馬に乗るようでアレなのだが ………。

 お二人のエントリーで問題にされている新自由主義の自己責任倫理というのは、現行の社会が自らの論理を維持、再生産するうえで、人間を自らのゲームのルールに積極的にコミットさせ続ける必要があるわけだが、その方法として自由競争のフィールドでの甘いえさ(勝ち)と苦いえさ(負け)という格差を容認し、負け組に陥った人間に対しては勤勉さや自助努力が足りないという言い方で、悲惨な現状を招いたのはあなた自身に責任があるのですよ、というかたちでの自己受容を迫ってくる社会権力のあり方のことだ。逆に言えば、現行の支配的価値を受け入れず負け組に陥った者の困窮の責任を社会は負わない、ということでもある。
 きはむ氏は、(僕自身がそのいい見本である)多様性を称揚し、負け組のかかえる困難を自己肯定的に受け入れてしまう人たちの中に無駄に潔い自己責任倫理を見いだし、多様性を認めようという「オンリーワン」戦略はむしろ新自由主義の社会形態を支える働きをしてしまうのだ、と主張する。したがってきはむ氏はそのような自己責任を認めず、社会の問題は社会の問題として、個人の問題は個人の問題として、適切に区別して扱う必要があるし、もっと僕らはわがままになるべきだ、と述べる。
 それに対して、mojimoji氏の応答においては新自由主義のゲームのルールの下で社会から迫られている自己責任と、その文脈を離れたうえでの一般的な責任の問題とを混同してはいけない、と述べている。例えば責任を問題にするにしても後者では社会(ゲーム)のルールを変革するという選択肢があるが、前者にはそれはありえない、というわけだ。
 mojimoji氏は自己責任という言葉におけるふたつの観点をきはむ氏は混同しているのだ、と指摘していると僕は理解した。少なくとも僕にはきはむ氏の文章はそう読める。つまり社会の問題と個人の問題を区別するというより、むしろすべてを社会の問題として扱い、個人の問題すら新自由主義の自己責任倫理にひきつけて解釈し断罪してしまっていると。

 どのような社会に生きていようと、僕らは生まれた瞬間から死の射程圏内に入る。生き延びたいと願うかぎり僕らの生はリスク社会ならずともリスキーである。またあらゆる選択や決断の結果は自分に跳ね返ってくるわけで当然個人の選択の結果にはそれ相応の覚悟が必要である。その意味であらゆる選択の責任は自ら引き受けなければならない、と言える。
 確かにmojimoji氏の言う通り僕らはこの現行の社会に内属し、その中で自らの欲望も作られている。したがって自らの欲望に由来する選択を社会から離れてニュートラルに問題にすることはできないのかもしれない。しかし、きはむ氏のやっているようにあらゆる多様性の言説を新自由主義の下での自己責任倫理の文脈で断罪されてしまうとなると、あらゆる反体制的言説は無効になり僕らは沈黙を余儀なくされてしまう。他ならぬきはむ氏自身の言葉も、である。

 実際きはむ氏のやっていることはアプローチこそ違うが僕とさほど変わらないと思う。つまり現行以外の社会や人間のあり方(外部)を構想し、そこを基点に現行に異議を申し立てているわけであるから、きはむ氏の「私達はもっとわがままになってよい。無駄な潔さなどいらない。」という主張はそもそもが新自由主義が求めてくる価値に対抗的な外部の(多様な)価値の主張である。きはむ氏が意識的に自分の特異性を追求していないにしても……だ。
 さらにネット上で好き勝手な言葉を吐いているだけならいざ知らず、この明らかに現行の押しつけてくる価値観と不協和な主張を現実の社会の中で公言し、この信念を持ち続けて生きるとなれば、(実際にフォーマルな政治活動を行うことがなかったとしても)その発言の結果はきはむ氏自身に帰ってくるはずである。例えばこの主張を抱きながら、自己啓発とスキルアップに余念のない勤勉なサラリーマンやホリエモンのような起業家になれるとは思えない(不可能ではないだろうがそうしたければ余計なことなど言わないほうがいいだろう)。たぶんこのような反体制的言説を公言する時点でこのようなホリエモン的な成功=「勝ち組」への道はすでに放棄しているはずだ。(僕もそうだが)はじめからそのような成功には興味がないという言い方はあるだろうが、いずれにしろ「勝ち組」への可能性といういくつかの選択肢を放棄することと引き換えにしかこのような発言はなされ得ないのではないだろうか。僕はきはむ氏の生活や人生設計については知る由もないのであくまでも一般論に過ぎないわけだが、このようなある意味「負け組」への可能性を自らに引き寄せる潔い覚悟なくして反体制的な主張などできないと思う。つまり口ほどにもなくこの人は自分の身を投げ打って「賭け」ている、としか僕には思えないのだ。
 そして僕にはこれが立派な態度に思えるのだが、きはむ氏の言い方ではこのような無駄に潔い覚悟や多様な生き方の主張は新自由主義に資するものでしかないというのだから、きはむ氏自身の主張も無効になるのみならず、新自由主義の言説の安定を増さないためには沈黙するしかないだろう。仮にきはむ氏がその反体制的主張が原因で「負け組」に加わることになろうものなら、「もっとわがままになっていい」という彼の発言は、自らの苦しい現状を慰撫し、体制を補完するものにしかならないというわけだ。

 ようするにきはむ氏のようにあらゆる責任を新自由主義の自己責任倫理に還元してしまうことは、新自由主義のルールに背くすべての人間の多様性……反体制的言説の無効化に導くのみである。現体制下でのあらゆる多様性(逸脱)は現状肯定を意味するとすれば、変革の観点からは多様であることは許されないことになる。この社会では多様であることは叶わぬ夢であり、変革後の社会においてはじめてそれは可能だというのだ。その結果、変革はあらゆる人間の質を捨象し脱色した数の政治でもって実現されなければならない……多様な逸脱者たちはフォーマルな近代政治の枠組みの中に再帰、統合されなければならないという結論に誘導されるというわけだ。………が、当然ながらきはむ氏本人も特異な質を備えた生身の人間であり、透明人間や神のように人間社会を超越した存在でもないだろうから、その(特異な)反体制的主張も断罪されざるを得ないことになってしまう。
 だからまあ、こういった言い方にたいした意味はないと考えるべきだろう。やはり僕らは基本的に自分が選択したことに対する責任を引き受けざるを得ないのだ。現在の社会が単一の支配的価値を僕らに押しつけて来ていて、その価値を積極的に受け入れないものの生存については関知しないという方針を打ち出している以上、反体制的な主張をする者は厳しいしっぺ返しを覚悟しなければならない。が、そのような厳しい生き方を選択することで負う責任と、自由競争のフィールドを生き抜くにあたって求められる自己マネジメントにおける責任とは意味が違うのである。つまり、システムに反抗する個人の負うリスクや責任は、システムに従属した(自由競争のルールに則った)……いわゆる「強い自己」とか「強い個人」がひきうけるリスクや責任とは別物である。前者の責任ある生き方においては後者と違って、例えば弱くあること、怠惰であること、(きはむ氏の言ってる意味で)わがままであること……といった多様なあり方を選択することに向かって開かれているだろうから。
 きはむ氏がやっていることは、このような現実的な多様な価値を選びとる可能性を、すべて自由競争における自己責任倫理に引きつけて解釈することで、つぶしてしまうことである。つまりきはむ氏の多様性を否定する言説はこの2つの文脈の混同から導き出されているのであって、多様な価値を新自由主義の下で称揚することが、逆に新自由主義を資している、という主張は背理である。

 しかし僕は、きはむ氏のこの奇怪な多様性や逸脱に無効を宣言する言説が、新自由主義を分析することによって結論されたものだとは思っていない。それは別の起源をもっていると想像する。……つまり、きはむ氏には強い統合への意志があり、それが多様性や逸脱に負の属性を纏わせていて、混乱した論理の力をかりてでもとにかく無効にしなければならないものとして視界の中に浮かび上がらせているのだ。おそらくそのようなならず者どもにクギをさしておきたい、という願望がきはむ氏の論を背後で支える動機だと思う。
 きはむ氏の逸脱への冷ややかさ(というより敵視だろう)はびっくりするくらい内田樹氏のそれと似ている。さんざん書いてきたように内田氏は学びから逃走する者(=現行社会のゲームのルールを降りるもの)を露骨な表現で誹謗し、まるで彼らの存在が新自由主義的な資本主義(競争)のヒートアップとそれによる階層化や社会不安の原因であるように事態を捏造している。実際には社会が競争を煽るシステムを採用しているのが原因であるのにもかかわらず、まさにそれを個人の責任に帰すというまやかしを行っている………逸脱するやつが過剰に搾取されることで資本主義が暴走するのだ、お前らが困った事態の原因なのだ、というのだ。
 きはむ氏の主張は逆に、逸脱するやつがいるから新自由主義が確固たるものになり変革が遠のくのだ、ということになるだろう。多様性(逸脱)を称揚する者やその言説が事態を悪化させている原因であるかのようにことさら吊るし上げられる。ごまかされてはいけない。勝ち組になろうが負け組になろうが、ゲームのルールを積極的に受け入れているかぎり僕らはみな現行社会を支えている。むしろ問題にされなければならないのは新自由主義の自由競争のルールに囲い込まれ、没入してしまっている人々の「意識」のほうであろう。
 もちろんひとひねりフェイクを入れながら現行の追認を行っている内田氏と、明確に体制を批判しているきはむ氏とでは向いている方向は正反対である。しかし事態を捏造することで多様や逸脱を否定し、一つの価値観、一つの権力への統合を志向している点では同じだと言える。だから僕とは違いその点できはむ氏は内田氏を評価し得たということだろう。

 統合を要請するのは操作する権力である。何らかの目的や秩序にむけて社会や人間を動かそうとするとき(あるいは動かそうと考えるとき)、その人は権力の視点に立つ。と同時に社会や人間は権力によって操作される対象と化す。そのとき権力の遂行への意志を持った人にとって、その遂行を妨げる存在はつねに苛立たしい負の存在として社会の周縁に陽炎のように浮かび上がってくるのだ。つまり一つの目的一つの秩序へ向けた社会や人間の統合と、そこから逸脱する存在の排除は同時的に発生する。何やら不穏で珍奇で享楽的なならず者たちの存在が、権力の視線にとってはうざくて仕方ないのである。すべての不吉さ、よからぬ事態の元凶は彼ら逸脱者たちに帰せられる。新自由主義の権力の下で、よく社会の問題を個人の問題にすり替える議論(お説教)がなされるが(例えば『希望格差社会』)、ようするにそこにはつねに統合を求める権力への意志(社会や人間を上から対象的・操作的に眺める視線)が働いているのだ。きはむ氏の混乱した論を背後から正当化しているのは、おそらくこのような社会を操作し動かしたい欲望……つまり権力への志向なのではないだろうか。

 まず操作ありき、という権力の視点からは多様性の称揚みたいなことが単純に政治の欠如に見えるはずだ。だからきはむ氏も多様な価値を称揚することが、現行社会という建築物(制度)への具体的な批判に向かうのを防ぐと言ってるのだろうが、僕はこれには疑問をもっている。こないだも書いたことだが、権力的に行われる操作の政治によってなされるのは、別種の、権力によって統治される社会を再生産することだけだろう。このへんはこれから詳細に考える課題にしたいのだが、まず権力的な上下の関係ではなく、横の関係(交流)を社会の中に広げつつ、その中から新しい社会制度を構想するという手続きが必要だと思うのだ。
 社会という建築物は「意識」によってその屋台骨を支えられ強固なものになっている。制度と意識はお互いに支え合う関係にあり、意識の問題を捨象した数による権力的な操作の政治によって作られる制度から自由や多様性があふれてくるとはどうしても思えない(社会主義の失敗の根本的な原因は意識の問題の欠如にある)。むしろ僕は多様性や逸脱を消し込まなければならないほどの統合によって行われる政治には、何か全体主義のにおいすら感じてしまうのだ。

 だが、それ以前に僕がどうしてもきはむ氏の考えに不服なのは、今この瞬間に人間の多様なあり方が許されない、というその発想なのだ。僕らはそもそもが多様な個人であり、現実的にも多様でありうるはずだ。しかし現行の社会は僕らに単一な価値に従属せよと迫って来ている。従わない者はどうなっても知らないよ、と公然と脅しをかけながらそうしている。(だからこそそんな社会は変えちまえ、と思うわけだ。)しかも一見生き方の多様性や選択の自由を認めるような巧妙さをもって、である。けれども、もちろん現行が自らを維持・再生産するためには、何もかもを許すはずがないのであって、そのような外部の価値をもつ者を厳しく排除しようとするだろう。
 残念なことに、現在の社会において多様な価値を認め、特異な存在であろうとすれば、そのようなかたちで社会と対立を余儀なくされる。反体制的であるということは、その対立の結果の不利益を被る覚悟なしにはできない。(繰り返すが、この覚悟と、現行が認める自由競争の枠の中で問われている覚悟=自己責任は混同すべきではない。)
 で、僕の見るところ、きはむ氏自身もこの覚悟を引き受けて発言している。だが、それは「無駄な」潔さなどではけっしてなくて、意味のあることなはずだ。きはむ氏はこの覚悟と引き換えに自らの特異性を受け取っている。そしてそれを面白くも感じているのではないだろうか。何も得ていない、とは思えない。でなければ自分の不利益にもなりかねない反体制的発言などするはずがないと思うからだ。少なくとも僕にとって自らの特異性は、不利益を被っても獲得すべき第一のものである。
 にもかかわらず、きはむ氏が多様性や特異性を現在のこの瞬間において否定すべきものと考えているのは、権力的な統合への志向があるからだ。そのような権力による操作の政治は、あらゆる人間の今現在の多様性や瞬間の特異な価値を踏みにじり、実現するかどうかもわからない未来のために現在を手段として隷属させざるを得ない。単一な価値への従属を迫る社会など変えてしまえばいい………そう思う。しかしそれが別種の単一(モノトーン)の権力によって追求されるのでは意味がない。まず、今この瞬間の特異な価値を、それぞれの人がそれぞれのかたちで、パッチワークのようなアナーキーな彩りとともに追求し、意識とともに制度を変えるという道を模索すべきだと僕は思う。


araikenさんが久々に私の言説を料理して下さった。内容としては過去の議論以上のものは無いと思ったし、後半は私への批判としては全く的外れに思えたが、いい機会なので、以前なされた私と

Comments

お久し振りです。興味深く拝読しました。
まず、全体として私の論が混乱しているとのご指摘は甘受しますが、mojimojiさんの方へのコメントにおいて、私は新自由主義的「自己責任」とその他一般の責任との分離を一応認めたはずで、その点は確認しておきます。
ただ、その両者の何らかの結びつきを想定しているのも確かなので、与える印象としては大差無いですかね。
何故私が全てを社会の問題に還元してしまうように見えてしまうのかと言うと、多分私が個人の責任は論じるまでも無いと思っているからでしょうね。
善悪はともかく、自らの行為の結果が何らかの形で自らに降り注ぐのは当然であって、それはそれとして完結している問題だと私は考えています。つまり、わざわざ「責任」という名を与えて考察したり追及したりする必要を感じないわけです。「個人の責任を認めない」というのは、その延長線上ですね、詳しく書きませんが。
したがって、私の関心は専ら社会の問題と、誤ってあるいは謀られて個人の問題とされているものになります。それで、どうしてもaraikenさんの論敵は「多様性を認めない」属性をまとわされることになるようですが、言うまでもなく私は多様性を尊んでいます。尊んでいるからこそ、何でたかが多様性を追求するくらいのことで大仰な「覚悟」や「責任」が求められなくちゃいかんのか、ということを終始申し上げているわけです。つまり、何で「反体制的言説を公言」したぐらいで「勝ち組」への道を放棄しなくてはならなくなるのか、そういう社会構造は問題じゃないか、ということです。
そして、そうした社会の問題をスルーして言わずもがなの人生の賭博性を強調しても、不毛であるばかりか有害だ、というのが私の変わらぬ結論です。
蛇足ですが、中盤「しかし僕は、…」以下は見えない敵を撃っていますね。
きはむさん、こんにちは。
mojimojiさんの尻馬に乗るようでカッコワルかったのですが、お二人のやり取りを見て、パッと視界が開けたと言うか、言葉が溢れてきてしまいました。いつものことではありますが、私の書くものはかなり深読みしたものでもあり、挑発的なところを多分に含んでおるため、的外れに思えたら笑っていただくとして………。
お二人のやり取りは、mojimojiさんの責任についての分析についてはもちろん、きはむさんの「もっとわがままでいい」という言葉のもつラジカルな意味合いも理解できたという意味で、非常に興味深いものでした。私自身もきはむさんと逆に、責任を個人のほうに引き寄せすぎている面は多々あるな、と思い当たりました。やはり問題は何が個人に、そして何が社会に帰せられるか、ということなわけでしょう。
もちろん「反体制的言説を公言」したぐらいで「勝ち組」への道を放棄しなくてはならなくなるのか、そういう社会構造は問題じゃないか………というきはむさんの言葉はよく理解できます。その通りでしょう。で、私たちの違いはどこかと言うと、多様性を尊んでいるのなら、今この瞬間に多様性を肯定すべきだし、それはなんら社会の問題をスルーすることではない、と私は考える、ということです。
まあ、これでは全然進展がないので、一つ今感じたことを書きますと、リスクとか責任とか覚悟というものは、必ずしも世界から押しつけられる「重荷」なのではなく、生を充実させるためのスパイスみたいなものとして私たちに必要なものですらあるのではないかと思うのです。自由競争においては、そんな性向を社会が逆にうまく利用していると言っていいかもしれません。私が考えているのは、資本主義に利用されないかたちで、そのようなリスクを楽しみたい、ということかもしれません。私の見たところ、不毛だと言いながらきはむさんも案外リスクを楽しんでるのではないか、そしてそのことを自分で過小評価してるのではないか、と思えるのです。もっともこんなことは衣食が足りてるからこそ言えるのかもしれませんが。
ま、今のは思いつきです。これからゆっくり考え直してみます。いずれにせよ、私にとってとてもいい刺激になりますので、今後のきはむさんの論の新しい展開に期待しています。

Leave a Comment


Body

目次

 前衛芸術研究室
 

 セザンヌ講義1@電子書籍

 セザンヌ講義@ニコニコ静画
 おすすめコラム集
 ギャラリー
 シチュアシオニスト文庫
 garage sale
 オンライン読書会
 After the last sky


カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 63
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 115
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 1
最新のコメント
Twitter
タグcloud
 
アクセスカウンター
   




 
 
プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

link rel=