泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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タコ部屋の青春1

第1節   資本の紡ぐ夢


 何で読んだのだろうか。あるメキシコ人がこんなことを言っているというのだ。「メキシコ人は生きるために働くが、日本人は働くために生きる。」と。生を楽しみ尽くすラテンの血を持つメキシコ人が、過労で死ぬやつすらいると言うハポネスの働きアリぶりをみて言った言葉だろう。
 だが、資本主義経済のシステムが世界中をあまねく覆い尽くした今となっては、働きアリとして生きる運命にあるのは日本人だけではない。無為徒食の南国であろうと、チベットの山奥であろうと、ヨーロッパのプロテスタンティズムに起原をもつ資本主義の精神(マックス・ウェーバー)から逃れることはできない。私たちの地球は、生産と蓄積を無制限に続ける勤勉な働きアリの星となった。そうだ、私たちはみな働くために生きているのだ。

 大規模な建設現場の近くに飯場ができているのを見たことがあるだろうか? 日本ではもはや目にすることもなくなったが、経済構造の変化が著しい第三世界の都市部では今でもありふれた光景である。飯場は建設現場での労働に依存した居住空間だ。生きるためではなく、まさに働くためにそこに住むのだ。労働力の再生産……、賃金を得るため、明日も最大限のパフォーマンスを発揮して働くための身体を準備するための居住空間、それが飯場なのだ。そこで働く労働者のの生活のリズムのイニシアティブを持っているのは建設会社、すなわち資本である。現場で働く労働者は資本によって定められた場所に住み、労働時間にあわせて寝起きし、休日をとる。労働者にとっては一時的な事態であるにせよ、まさしくここには生産労働へ向けて組織された生が実現している。
 飯場の中でも、劣悪な環境のものはタコ部屋と呼ばれたりした。豊かになったといわれる現在の日本で、そのような劣悪な生活環境は探すのが困難である。労働時間は短縮したし、賃金も上昇した。そのおかげでできた余暇をレジャーや消費活動に当てることができるようになった。街には消費財があふれ、通りはテーマパークのようにこぎれいになってリアルな社会関係を浮き彫りにする飯場の生活ような光景は、私たちの身の回りから姿を消してしまった。
 しかしながら、資本によって提供されたそのような豊かさを一皮剥がしてみれば、そこにあらわれるのはタコ部屋に暮らす労働者の群れに過ぎないのではないだろうか。資本は世界を覆い尽くした。地球は資本の意志を体現した際限なく生産を続ける工場と化したのだ。私たちはみな巨大な生産システムの中に生まれて、そこに死んでゆく。つまるところ、私たちの一生の生活のイニシアティヴを握っているのは資本なのである。

 子供の頃から私たちは学校教育などを通じて、資本の意志に適合した身体に仕立て上げられてきた。規律正しく、勤勉で役に立つ、生産のための道具としての労働に適した身体に……。あなたは、働いていないと居場所がなくなってしまったような不安を感じたことがないだろうか? 遊んでいると働いている人に申し訳ないと感じたことはないだろうか? 使えない、役に立たないと言われて、自分のプライドが根底から崩れ去ってしまうような気がしたことはないだろうか? それほどまでに私たちの中には子供の頃から教え込まれてきた規範が…、勤勉でなければならない、有用な存在でなければならないという規範が染み込んでいるのである。私たちはカルト宗教教団のマインドコントロールよろしく、資本主義社会を維持するための存在であるべく洗脳を施されてきたのだ、と言ったら大げさだろうか。
 学校を卒業して労働市場に出てからも、職場ではもちろん労働の規範が繰り返しアナウンスされるであろうし、自由な時間、私たちの生活そのものであるはずの余暇ですら、街にあふれるモノ、消費財や、マスメディアを通じて催眠術の呪文のように資本のメッセージを浴びせられ続けるのである。とりわけ映像メディア、テレビや映画は、資本のイニシアティヴの維持のために重大な働きをしている。

 余暇、すなわち労働力の再生産過程を取り巻く、資本によって作り出され提供されるモノや、マスメディアから流されるメッセージは、労働者自らの社会的な立場から目をそらさせ、資本主義社会そのものを肯定するためのイデオロギー装置なのである。繰り返すが、私たちの生活のリズムのイニシアティヴを握っているのは資本である。生きるために働くのではなく、働くために生きているという事実、疎外されたプロレタリアートとしてのわれわれの社会関係を隠蔽するために、資本は私たちの日常生活を、資本自身が作り出した偽りの欲望で埋め尽くそうとしているのだ。
 先進資本主義諸国において、かつてのような過酷な搾取、劣悪な労働者の生活環境は、容易に労働者を反体制的なスタンスに導いた。その結果、ストライキなどの労働運動が頻発し、資本主義システムは大きく揺らぐことになった。その歴史に学んだ資本は新しい戦略を打ち出し、体制の延命をはかった。利潤の増殖は資本の生産する商品が売れなければ達成できないのはもちろんだが、その商品の売り込み先を労働者の生活環境の改善の方向に向けてシフトさせることで、商品の需要、労働力の供給の両面から安定をはかったのだった。それは労働者の余暇を資本の作り出す欲望でもって囲い込むことを意味する。
 資本は欲望をデザインすることで労働者の余暇を囲い込む。マスメディアの送り出す広告やコマーシャルフィルムによって資本は労働者にむかって自らデザインした夢を提示する。資本の生産した商品を買い、消費することによってその夢が労働者の手に入るのだというメッセージをメディアは流し続けるのだ。
 勘違いしないでほしいのだが、ここで言うデザインとは商品の外観を彩る狭義のデザインのことではない。商品そのものの機能、パフォーマンス、またその商品を使用することによって消費者に与えられるカタルシスまでを含めた資本の構想を、欲望のデザインと呼んでいるのである。
 おそらくは大部分、本当の意味では必要なものではない商品たち。例えば自動車を本当に必要な人がいるのだろうか? 私たちが自動車を購入する動機は、必要だから、便利だから、なのではないはずだ。メディアによって流される広告やCFによって私たちに植え付けられた、自動車を買うことで得ることのできる夢を(資本が構想した夢を)実現するためにそうするのである。例えば、助手席にガールフレンドをのせて、カーステレオでお気に入りの曲を聴きながら、ハイウェイをドライブするという夢、欲望を、私たちはどこかのメディアから得てきたに違いない。そして労働して得た金をその夢を買うために支払ったのだ。自動車があると便利だなんて理由はあとづけに過ぎないはずだ……、間違いない。
 あるいは食料品のような買わなくては生きていけない必需品にしても、今日では資本によって意味付けられ、組織編成し直されてマーケットに並んでいるのだ。歴史上、純粋に栄養として食品を食べた人などいなかっただろうし、食生活は文化的な意味合いを抜きにして語ることはできないのは確かであるにしても、資本主義社会の中では、私たちは広告によって作り出され、コントロールされた食欲において食品を摂っているのだ。すなわち私たちは資本の作り出した夢を食べているのである。
 要するにメディアは、マーケットにあふれる商品、ファッショナブルな衣服、家具、家電製品、自動車、住宅、様々な娯楽、パック旅行などの商品を購入することが夢の実現となるという欲望を労働者に植えつけ、労働者は資本によって次から次へと投入される欲望を満たすために働き、商品を購入するのだ。
 この資本による偽りの欲望の中に捕らえられたままでいる限り私たちはどこまでも満たされることはない。テクノロジーの進歩は潜在的な需要を掘り起こす。つまりたえざる技術革新が新しい欲望を労働者に授け続けることを可能にするからである。こうして労働者は麻薬中毒者のように資本主義の一貫したシステムの中に囲い込まれるのである。

 このように資本によって作り出された豊かさのおかげで、ほとんどの人が、かつてないほど改善された生活環境を享受しているかに見える。だがそれは資本が私たち労働者に目隠しをするために作り出した偽りの豊かさ、偽りの夢、偽りの欲望によるものなのである。それらマーヤーのヴェールの後ろにすけて見えるのは、資本に囲い込まれ、働くために生きているという、飯場で暮らす労働者と全く同じ立場にある私たち自身の社会的な状況なのだ。偽りの欲望の満足の中でこの事態に気付くのは難しくなっているが、資本のイニシアティブのもとにある限り、私たちの生活は本質的にはタコ部屋の労働者の生活となにひとつかわらないのだ。
 タコ部屋に生まれて、タコ部屋に死んでゆく……。資本の価値増殖のために働き、資本の作り出した夢を見ながら毎日を過ごしてゆく、それが私たちの姿なのだ。



Comments
たいく〜んさん 
コメントありがとうございます。実際にはニート、フリーターと呼ばれる人たちは将来、野宿者化するなんていわれていて、不安や焦りの中で日々暮らしているのでしょう。世の中がこれらの人々をこれからどう扱ってゆくのかわかりませんが、厳しい状況におかれた人ほどシステムの残酷さを身をもって感じているといえるかもしれません。願わくばこれらの人々が自分の陥っている苦境をバネに、新しいジェネレーションとして激しく燃え上がることができますように!
 
こんにちは。
初めてコメントする者です。
32歳の男です。
非常に読み応えのある文章ですね。
思わず唸ってしまう箇所が随所にありました。
現在もこの国に吹き荒れるハリケーン「カイシャ」。
いったい、いつ吹き止むのでしょうかね。
働きアリとして生きる人生は、たまりません。
村上春樹の小説「ダンス・ダンス・ダンス」の中では「巨大な蟻塚のような高度資本主義」という表現が出てきました。
経済がグローバル化した現代は「巨大なハチの巣」を作っているのかもしれません。
まさに、新世紀の「飯場」です。
でもどうでしょうか、昨今、この国でもようやく「自由」を渇望する若者が増えてきたように思われます。
それは、ニート・フリーターなどと揶揄されている人たちです。
これはジェネレーションだと僕は考えていて、「アンチ労働の世代」と勝手に名付けました。
大人たちが争っている間、祭りに向けて着々と準備をしているのかもしれません。
少々、夢想的になってしまってすみません。
これからもホームページを楽しく読ませて頂きたいと思っています。
では、頑張ってください。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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