泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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コミュニケーション・スキル3

 以前、僕の「コミュニケーション・スキル2」というエントリーが難しいとチャマさんの頭を悩ませてしまったようですので、トラックバックをいただいたのをいい機会としてもう一度スッキリこの問題を整理してみたいと思います。基本的には新しい要素は何も加わっていません。同じようなことを感じてる人はいっぱいいるわけですし、今回はただ自分自身の頭の中を整理するためだけにちょっと書いてみます。

 つまりこういうことでどうでしょうか?
一言でいって、僕は生きることそのものがコミュニケーションだと思っているわけです。したがってチャマさんがおっしゃってるような、何気なく生き延びるために行ってることも当然立派なコミュニケーションだし、死の匂いのするような激情もコミュニケーションなのであって、その意味でやはりチャマさんのおっしゃってることと、僕の考えてることはそれほど違うとは思えません。
 むしろ僕が問題にしたいのは、そのような自然に行ってるコミュニケーションを「スキル(技術・能力)」として考えること……だと言っていいでしょう。いつのころからか「コミュニケーション・スキル」なんて言い方が世の中に広まってきましたが、それはなぜなのかということです。

 コミュニケーションを「技術」と捉えることが何を意味するのかと言うと、生きてる以上誰もが瞬間瞬間当然行っているはずのことの中に一つの尺度を持ち込み、「コミュニケーション技術」が卓越した人、ほどほどの人、欠落した人、といった具合に他人との比較によって能力的な格差をつけることができるようになるということです。つまり、社会生活上の人間関係で起こってきたイレギュラー(例えば不登校)をコミュニケーション技術および能力の欠如や欠陥として、つまり何らかの個人的でネガティブな「病気」と見なすことを可能にします。(チャマさんもよくわかってらっしゃるとおり)不登校の例でいうと、布団にもぐり込んで石地蔵状態になっている子供は、明らかにコミュニケーションを試みています。自分で自分の気持ちをうまく説明できない子供が体全体でメッセージを発してるわけですね。
 ところがコミュニケーション・スキルを云々する社会学者や心理学者なんかは、これを子供の性格上の欠陥、正常な集団生活を送る(コミュニケーション)能力の欠如として捉えてしまいます。そうすることで、僕らが聞き耳を立てなければならぬ小さな叫びを……この社会には何か問題があるのだというミクロな告発を叩き潰しつつ、君は病気なのだと断罪するわけです。おまけに、そのような子供に育ててしまった親の子育て能力にも問題がある……といった具合に両親にまでプレッシャーをかけることも可能になってくるわけです。

 さらにコミュニケーションを「スキル」として格差、序列をつけることで、僕たちはより有利に生きるための競争状態に投げ込まれ、煽り立てられるという可能性が出てきます。つまりそのような価値の尺度=物差しを僕らは積極的に受け入れ、内面化し、その物差しに則った競争に自発的に従属するわけです。おそらくここで社会学者の果たしている役割は、学者という権威をもってして、そのような価値の尺度を高みから僕たちに押しつけてくること……現在の社会がよって立つ物差しに箔を付けることだと言っていいでしょう。

 このような社会学者などがある種の人間関係の問題を、個人の欠陥(コミュニケーション能力の欠如)や病気に由来すると見なすとき、そこには何らかの正常/病気の境界線を引く、人間についての判断が含まれています。つまりある正常な人間像があって、そこから外れる人間を欠陥や病気と見なす視点が含まれています。
 要するにこれらの社会学者が前提にしているのは、人間はとにかく社会に適応すべきであり、それができない者は欠陥品なのだ……という現在の社会体制の太鼓持ち的な発想です。彼らは「システムの価値観に従属しない存在」=「社会に適応できず、周囲との適切なコミュニケーションをとれない、あるいは、とらない人間」を「病気」として扱い、人間失格の烙印を押し、あなたもシステムに従わないと欠陥品として扱われますよとやんわりと脅し、システムのよって立つ物差しへの積極的なコミットメントを煽るわけです。しっかりと社会について来ないとつらい人生が待ってるぜ……ってわけです。この「スキル(技術・能力)」という発想は、最近よくいわれる「自己責任」とか「自己決定」などの言葉が僕らに押しつけてくるプレッシャーと共通のものだと思います。一言でいってコミュニケーション・スキルという発想は、自発的な社会への服従を促すものであるとともに、「社会には逆らうなよ」という脅迫をオブラートに包んでいる概念装置だと言っていいかもしれません。

 繰り返し言いたいのですが、生きることは即コミュニケーションです。ギクリとするような異様な行動や反応をする存在を目の当たりにして困惑するにしろ、僕らはそれを積極的なメッセージとして理解しようとするべきです。少なくとも社会学者や心理学者であればそうしなければならない。なのにそれを理解しようともせずに、コミュニケーション・スキルなんていう概念を現実と学問の間に差し挟んで、社会問題を個人の能力の欠陥や病気に還元してしまうとすれば、それは学者の仕事というよりそもそものはじめから現行体制をヨイショするものでしかありません。いつだったかチャマさんのブログに出てきた箱庭療法のカウンセラーの話と全く同じですよね。コミュニケーション・スキルだなんて言いながら、コミュニケーションのセンスが全く感じられないのは、笑いたくても笑えない話です。今まで僕は内田樹さんの書いたものに散々ケチをつけてきましたが、なぜかと言えばこの人の中に典型的なシステムの太鼓持ちを見るからなんです。ちょっと前にもこの人は「コミュニケーション失調症候群」なんて言葉を発明して最近の学生には欠陥があるみたいなことを書いてたんですよね。これは「コミュニケーション・スキル」という言葉でなされているのと全く同様な事態の捏造です。コミュニケーション能力に欠陥がある人ってのは、むしろこういう人たちだと思うのですがね(笑)。

Comments
 
ken師匠、トラバありがとうございました。
生きることはそのままコミュニケーションなんだ・・・という一節には、なんかズッシリというか、ウルウルというか、体内が暖かくなったというか、、、
ken師匠、ありがとうv-10
そこに「スキル」を差し込むなんて、太ぇやろーだ、とは、その通りですよね。
社会とはなんぞやを探求し過ぎて社会が何のためにあるのかを忘れてしまったら、学問の意味が無い。学問って人を幸せにするためにあるんでしょ?
何が正しいか、じゃなくて、個人個人の幸せに向かってどうやってソレを活用するかが大切な訳ですよね。
「こうあるべき社会」を現実するために「こうあるべき人間」を押し付けられること=スキルを強要されることは、
>ギクリとするような異様な行動や反応をする存在を目の当たりにして困惑する
ことを、スキルをもってして回避しろ、ということですよね?
それは同時に、「ギクリ」とすること、思うことすらも回避するべきで、それを可能にするのがスキルなのだと・・・
それが「正しい社会の有り方なのだ」って???
やってらんねぇ〜v-292
と思いつつ、ズンズンズンズン歩けぇ〜e-289と歌いながら今日も生きて行く私、です。
あ…… 
「家なき子」だ。もうオープニングの方は思い出しましたか? さびの部分だけ書きましょう。
「さようならいつだって 生きることは戦いさ だからまた今日も さあ歩き始めよう」………ですね。
ウウ……いい歌やないか〜v-409
 
こんにちは。私は社会学徒ではありませんが、さすがに違和感を拭い切れなかったので、少し言わせてください。
文中で描かれているような像に当てはまる人が、真面目に社会学や心理学を研究している人の中にたくさんいるとは思えません。
聞きかじりですが、社会学には「ラベリング理論」から始まって、逸脱を単純に逸脱とは捉えない理論が色々あるはずですし。社会構築主義という考え方もあることですし。
社会学をきちんと学んでいない私には、例えばこんなことを言っている人もいますよ、と文献などを例示できないことは申し訳なく思います。
ただ、araikenさんも、ここまで断定的に学者を「断罪」するならば、誰を念頭に置いているかなどを明示するべきではあるでしょう。まさか内田さんをもってそれらの学者一般を代表させるおつもりはないでしょう。
もしも社会学者一般、心理学者一般を弾劾する気は無かったとすれば、誤解を招かぬように、せめて「一部かもしれないが」などと明記した方が良かったと思います。
どこかで「経済学をむやみに批判してはいけない」と言っている方がいますが、それは学問全般に言えることだと私は心得ています。きちんと批判したいならば、きちんと敵を知らなければ。知った結果、敵ではないと思うかもしれませんし。
もちろん、全体像をつかむまで学んでいない奴は批判するな、ということではないですよ。マナーがあるということで。
そういえば、本田由紀さんという社会学者は、コミュニケーション・スキルや「人間力」みたいな話を批判しているはずだったと思います。全体的にあやふやな知識でコメントしてすいません。
余計な横槍ですが・・・ 
きはむさん、はじめましてv-290
ken師匠との過去からのやりとりには、私などのような不勉強者が割り込めるような次元には無いと思っておりますが、今回のきはむさんのコメントに関してはチョット違うんじゃないかな・・・なんて思いました。
kenさまは、
>コミュニケーション・スキルを云々する社会学者や心理学者なんかは、・・・
と書いていらっしゃる。
これはそのまま、きはむさんがおっしゃる
>「一部かもしれないが」
ということではないでしょうか?
私はそう捕らえているのですが・・・v-12
と、本人でない者がでしゃばることじゃない、と言われれば、何も言えませんがv-40
チャマさん、はじめまして 
ご指摘を受けまして、再検討してみました。
「コミュニケーション・スキルを云々する社会学者や心理学者なんか」という記述からは、やはり学者一般を指すとも一部を指すとも考えられます。ですから、この曖昧な記述と「一部かもしれないが」という明確な留保とは、同じ意味にはならないでしょう。
ただ、その後の「これらの社会学者」とか「少なくとも社会学者や心理学者であれば」といった記述を含む全体から考えて、一部の学者を指しているのだろうな、と解釈する方が確かに自然だとは思います。
もちろん、そういう解釈可能性の高さを先のコメントで排除していたつもりはなく、ゆえに「明記」した方が良いと書いたわけですが。でも、これは言い訳の部類ですね。
結論として、学者の中でも一部を指す意図であることを「明記」した方がベターであったことは変わりません。
ただ、明記かどうかに執拗にこだわる指摘は、少し細かすぎてウザイですね。少々反省しております。
araikenさんはじめ、心外な思いを抱かれた方々にはお詫び申し上げます。
きはむさん、チャマさん 
そうですね、確かにきはむさんのおっしゃることは正論だと思います。私も「一部の」という言葉を入れるべきだったと思います。
ただ、ひとつ申し開きをさせてもらいますと、もちろん一口に社会学者、心理学者といってもいろんな流派があることも心得ていますし、私が例に出したような太鼓持ちが実際どれだけ存在するのか正直私もわかりません。それに「コミュニケーション・スキル」や「自己責任」などといういかがわしい言葉が世の中に広まった原因を学者に押し付けることはできないと私も思います。
きはむさんのように大学で勉強している人や、インテリの人であればこの「コミュニケ−ション・スキル」や「自己責任」のような支配の言説を批判的に突き放して見ることは容易いでしょうが、そうでない一般の人にとってこのような言葉は、学問という権威をバックボーンにした説得力あるものとして受け取られる可能性があるわけです。例えばチャマさんが自分で常日頃感じていることを、「コミュニケ−ション・スキル」という言葉を使って説明しだすと逆に支配の言説の罠にはまって、不毛で混乱したものになってしまうのではないかと心配して(笑)おせっかいながら口を差し挟んでみたわけです。つまり現実の学者がどんな意図で「コミュニケーション・スキル」なる言葉を使ったかに関わらず、支配の言説として社会に流通するときは、システムを補完するものとしてこのように学問から出てきた言葉や概念が支配のために権威として利用されてしまうということがあると思うのです。
したがって私が上で分析し、攻撃した社会学者、心理学者というのは、実のところこれこれの学者や学者一般というよりも、そういう支配の言語の中で権威と化している学問や学者のイメージとでも言った方が正確だったかもしれません。つまり私が言いたかったことは……「コミュニケ−ション・スキル」なんていうと学者の口から出てきたもっともらしい言葉に聞こえるけど、よくよく考えるとかなりあやしい出自の言葉だから疑ってかかった方がいいぞ!……ぐらいに考えてもらえればいいと思います。
すでに混乱してるかも(泣) 
きはむさん、こんばんわ。
>結論として、学者の中でも一部を指す意図であることを「明記」した方がベターであったことは変わりません。
より明確にすべし、とは、おっしゃる通りですね。
私こそ、余計なせっかいでした。
きはむさん、ken師匠、ごめんなさいv-406
学者云々について 
mixiから漂流してきた者です。
個人的な見解では、社会学者・心理学者といった、「学者」云々については、今の(これほどネットが普及した)情況に照らし合わせて言うならば、べつにそれこそ大学勤務という字義通りの学者だけに該当することではなく、いわゆる学者予備軍や学者気取りや評論家やブログやる人にも、広くは該当するわけで。自称「学者」が腐敗を撒き散らしたりする一方、それよりもよっぽど生産的な作業をしている人は腐るほどいるわけで。つまり、そもそも、「学者」という言葉自体がこの状況下において、どれほどの意味合いを持つのかということは、死語までいかなくとも、それはそれでどれほどの意味合いを持つのかというのはそれはそれであると思うんですよ。
マコチンさん 
はじめまして。
そうですね。私が学者と言ったとき考えていたのはマコチンさんがおっしゃているようなアノニムな権威の全体だと言っていいと思います。
いずれにせよ学問的な装いでいろんな支配の言葉が私たちの上に降り注いできています。それらの言説に対抗的で不協和な生き方をシンプルな形で示したいと私は考えております。

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たしか天才テレビ君のエンディングテーマかなんかだったっけか、「勉強できたって逆上がりできなきゃ意味ないよ(かなりおぼろげ引用)」的な歌があった。《学校の成績》と《逆上がりの出来不出来》を同列に並べてしまうところに子どもらしい強引さがあるとも言えるけど、子
araiken師匠が何度となくそのエントリ内で書き記されている、ウッチー先生。 私としては、ウッチー先生には今のところあまり興味も無く、以前の労働者が不当に搾取されている云々というエントリーを読んでも、「え~、そうかなぁ~。そればっかじゃないですぜ、世の中は」なん
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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