泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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コミュニケーション・スキル4

 年末にterracaoさんからコミュニケーション・スキルに対抗する能力はないものか……というお題をいただいていたのですが、時間がなくて返事ができませんでした。遅ればせながら考えてみたところ、ポッと浮かんできた答えは「コミュニケーション・スキル」に対抗するものはそれ自体「能力」ではないだろうってことでした。一言でいえばやはり「コミュニケーション・スキル」に対抗するものは「賭け」るという態度だということになると思います。

 コミュニケーション・スキルという言い方は、ある目的なり結果なりを冷徹に追求すること、すなわち計算された行動を前提に考えられています。現行の社会においてこの言葉が使われる文脈は、サバイバル=生き延び、生存競争を勝ち抜くために、適切に人間関係をやり繰りしてゆける「手段」として考えられていることは間違いないでしょう。食いっぱぐれがないように、そしてできることならより高い社会的地位へと上昇できるようにこの「能力」を駆使するという、計算に基づいた処世術としてこの「コミュニケーション・スキル」は理解できると思います。

 逆にこれをひっくり返して考えれば、コミュニケーション・スキルを相殺するものがなんであるか見えてくると思います。それはきっと無目的で、結果や達成を求めることよりもプロセスそのものに意味を見いだそうとするような人間同士のやり取りそのもの……ということになるんじゃないでしょうか。何かへ向けての「能力=手段」なのではなくて……。それを僕はバタイユに倣って「交流」と呼んできました。
 (そもそも「交流」という言葉自体、フランス語のコミュニカシオンの訳語なので、これも結局コミュニケーションのことです。ただどうにも僕が腹立たしいのは、コミュニケーションを能力ととらえることによって、コミュニケーションそのものを処世術や計算にまで切り縮めててしまうこと……当然僕らは計算なしで生きてくことなどできないでしょうし、日々この能力を行使しているはずで、それも確かにコミュニケーションには違いないのでしょうが、生き延びてゆくという目的に沿っていないところでの無目的な人間関係についてはバッサリと切り落として問題にされていないところです。)

 何度も書いてきましたが、「能力」という発想はそもそも他人との比較という単一で外的な基準で優劣を測るものであるわけですから、「能力」への対抗は他人との比較によらない価値によるべきだと思います。とすればそれは各人個々の主観的な感動をもとにした多様な価値とでも言ったものになるはずです。
 他人や社会がどのような評価を下そうとも、自分で自分の生き方に手応えを感じる……生きていることが面白くって仕方がない……そんなことを感じることはよくあることだと思います。そのような形で主観的な感動により自己を肯定することを、「コミュニケーション・スキル」だとか、「人間力」だとか、「対人能力」みたいな怪しい概念の対抗馬にすべきだと僕は思います。

 とはいうものの、これほど困難な課題はありません。なにしろ多様な価値を肯定することは、現行の社会が暗に押し付けてきている単一の価値観(この社会に従属せよ!)に真っ向から対立するものであるだろうからです。僕たちは生き延びるためにはとにかく社会と歩調を合わせなければならないわけですから、自分の特異な価値感を正面から打ち出そうとすることは自ら社会の中で生きづらくすることであり、生存にとっては危険な選択ですらあります。始めに僕は「賭け」るという言い方をしましたが、それはつまり僕たちはあえてこの困難に挑戦すべきだと考えているからです。

 もちろん、そんなことを言う前に多様性を認めない社会をまずなんとかすべきだ、という意見は理解できます。が、いつの日かより良い社会が実現することになったとしても、それと実際に自分自身の生に手応えを感じ、毎日をおもしろく彩ることができるかということは別問題だと思うのです。僕たちがどの時代のどんな社会にどんな条件で生まれてくるのか……「神のみぞ知る」なわけですが、どんな社会に生きていようとも、とにかく僕たちは現在のこの瞬間を可能な限り特異な彩りで満たすべきでしょう。
 単純に僕は、このように結果を目的としない「賭け」ることの意義(多様な価値)を社会に押し広げることによって、「コミュニケーション・スキル」のような支配の言葉を萎えさせることが可能になる……というか萎えさせなければならないと考えています。

 今この瞬間を「賭け」に投じ、生命を燃焼させることによって、僕らを惑わす支配の言葉を焼き捨ててしまえ! 


前置き・言い訳 「非モテ」というキーワードが作られて色々議論されているのは知っていたのですが、自分がブログ上の議論にクビを突っ込んでコメントするような器ではないのは思い知らされていたし、議論を追いかけて読み漁る情熱もなく、放置していました。 ところがいつ
自己欺瞞能力とも呼ぶべき、うまく騙される能力、そして騙されている事を自覚しない能力。かもしれない。先日のブッシュ大統領による一般教書演説http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0055.htmlを見てるとそう思う。

Comments

osakaecoさん
osakaecoさん、ごぶさたです。
osakaecoさんのおっしゃる通り、私の現実はエントリーに書かれてるような威勢のよいものではなく、無様でウジウジした、パッとしない毎日です(笑)。エントリーをアップしようとするときどのような表現を選ぶのかは、ほとんど詩(芸術)の領域のことなんですが(たしかヴィトゲンシュタインは哲学とは文学である…みたいなことを言ってましたが)、改めてそのへん自分で分析してみると、このような表現になってしまうのにはいくつか理由らしきものがあります。
つまり私は、確信的かつ明確に、また決然と、やや大仰な表現を使うことで、誰かのツッコミを待っているわけです。ウジウジと逡巡を続けている文章なんて誰も突っ込んでくれないでしょ、きっと……。ネット上の文章なんて(あるいは芸術作品なんかも)結局フィクションですから(真理を語るとか、ましてや言説で世の中を動かそうとかいうことではなく)、誰かに手ひどく突っ込まれて、必死に応戦せざるを得ないように自分を追い込むための道具と考えてしまっています。そうやって自分の思考に刺激を与えるわけです。まあ、ウジウジした面は日常生活において周囲の人たちに見せまくってますから、それで十分でしょう(笑)。
宮台さんについては私は何も知らないのですが、ラジオのコメンテーターとして彼が語っているのをよく聞いていました。頭のいい人なんでしょうが、正直どうも人を上から見下ろしてるんじゃないかという印象がありました。以前osakaecoさんが、宮台氏に「言説で世の中を動かそうとする欲望」を感じるとおっしゃっていましたが、それは一種の隠然たる権力志向なのではないでしょうか。仮にosakaecoさんのおっしゃってるとおりだとすれば、宮台氏がコミュニケーション・スキル教の教祖であるというのも納得できます。(若者のコミュニケーションの失調について語ってる内田樹さんとよく似てますね。)その辺は自分で本を読んで判断すべきでしょうが、なんだか読む気になれないんですよね〜宮台本………けっこう嫌いなのかも。
そのとおり!
たとえば、子供達に「コミュニケーション・スキル」を身に付けさせるために良い塾に通わせたいか?
違うよな!
子供達が、よく発達過程を経ることが出来るように「豊かな」環境で多くの時間を過ごせるように計らいたいよな!!
だろ?
そのためには、俺たち、親たちも豊かな環境に身を置きたいもんだよな!
「豊か」ってのは欲しいものが揃ってる環境ってのとは違ってて、遊べる道具がいっぱいあって、仲間がたくさんいて、欲しいものを得る為にいろんな試みをしなきゃなんなくて…、……そういう環境のことだよな!
そうだろっ!!
そうだ!
いいことなのか、悪いことなのかわからない……のですが、芸風は全く違うのに私と宮本さんの立ち位置って思いのほか近いんですよね。だから私は結構わかるんですよ、宮本さんの言葉……。
このコミュニケーション・スキルって言葉はあちこちで批判されていて、良心的な社会学者もそれぞれの立場で攻撃していると思うんですが、やはり私たちがこの言葉を料理するなら……こういうやり方になるってことですね!
おひさしぶりです。
コミュニケーションスキル教の教祖の宮台氏の言っているのを聞くと感じるのは社会学によって一般庶民のとれない戦略をとれるという思いこみというか、そういう思いへの卒直さです。私は経済学などというもんをしてて、社会科学をやる人間はやっぱり一般庶民より自分がえらいと思いたいところがあって、私じしん、その本音と、その本音の馬鹿馬鹿しさの間でぐずぐずしてるんですが、宮台氏はよくも悪くもその辺はひじょうにすっきりして、「あんたより私がよく知っている」なんてことを平気でいえます。私にとって宮台氏はそういった点で非常に画期的な人物でした。また、カッコよくも感じました。
しかし、社会科学なんて、社会学にしろ、経済学にしろ、社会科学者自身がそのなかにふくまれるシステムを対象にするのですから、その中でシステムをコントロールできる主体を想定する時点で破綻です。100パーセントあたる占いの結果にあがなえないように、優れた社会理論ほど、戦略的に利用することはできないのだと思います。冷静に考えれば宮台氏はアホです。もちろん、社会学的な処方箋を書くその他もろもろの人々もふくめて。
昔よんだ宇野弘蔵の本に経済学の理論と実践(ようするに革命)の関係が議論してあって、ようするにレーニンのようなすぐれた実践家というのは、理論にもとづいて行動しているのでなくで、直観がすぐれているのだというようなことが書いてました。(かなり不正確かもしれません。)いまおもえばこれはシステムを変える実践はシステムについての理論からうまれるのではないということを宇野はいいたかったように思います。
宇野弘蔵の議論はとてもすっきりしたものだった印象があります。しかし、宇野のいった直観というのは、理論で割り切れない領域で、システムの外で行動するということですので(と記憶がうすいことをいいことに強弁)、とってもうじうじしたとこからでてくるように思います。レーニンはどうか知りませんが、私の場合、世の中についてのなんかの確信めいたものを持っているときにかぎって、世の中に足元をすくわれるように思います。たとえば、コミュニケーションスキルなんてものもある人々にとってはそうした確信なのかなとも思います。
荒井さんのいう「「能力」への対抗は他人との比較によらない価値」というのは一見かっこいいのですが、それにいたる道筋はとってもうじうじしてるんじゃないかなと思います。それは世間の価値に同一化できないし、かといって、ほかによるべきものもないような中途半端な状態のまま、失望をかさねた結果いたりつくようにもののように感じます。
いいたかったことは、荒井さんには共感しますが、それって、もっとカッコ悪くてイジイジしてんじゃないのということです。カッコいいもんと勘違いされると、どうも、「価値観をしっかりもとう」なんていうスローガンにされそうでちょっとこわいです。ともにイジイジしたカッコわるい明い未来に向ってガンバロー(とスローガン)。
亀レス(死語?)すいません。
たぶん、荒井さんと共通の関心事である自由とか解放とか考えるこの意味をぼんやりと最近考えています。
自由とか解放とか考える動機は現状が自由でないからです。そこで、自由の可能性とか考えるわけですが、思考の結果として解放の可能性なり自由の可能性なり発見できたとしても、すくなくともそれ自体では現状の不自由は解消されません。
おそらく、私たちが自由について考えた結果えられる勇気とは、「現状は不自由だが、この不自由な道の先には自由がある」というようなもののような気がします。これは場合によってはわれわれの勇気をくじくものでもあります。
また、現状とはちがう明い未来を見いだしたい誘惑の結果は悲惨なもののように思います。
こんなことを考えてるので、荒井さんへのあのようなコメントになったわけです。
つまり、現状と未来の理想の社会とを比較して、そのあまりの落差に絶望する……みたいな意味でおっしゃってるんだとしたら、osakaecoさんの言葉はわかるような気がします。
私自身はというと、現状と違う社会のあり方(外部)は可能性としては当然ある(あった)と思いますが、自由で開放された理想の社会というものは未来にも過去にも存在しないだろうと思います。どんな社会にも必ず問題があるはずですから。………そこまでつきつめて考えてみれば、現状に絶望することもないし、ウジウジした冷や汗モノの自分の日常をも、余裕を持って認められるってことでしょうね。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

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