泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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イラク日本人人質事件を語る!

 5月某日、まだ肌寒い風が吹いているというのに、テレンス・アライ氏はランニングシャツ一枚で約束の場所に現れた。彼はソファーに深く腰を下ろし、タバコに火をつけた。大きく息を吸い込みタバコの煙を吐き出すとテレンス氏は、少し話が長くなりそうだ、と断りを入れたうえで、熱く語り始めた。


 『イラクで人質になった人たちを迷惑者呼ばわりする日本の世論が気になり続けています。これはひじょ〜に由々しき問題です。私は、この問題は人質になった5人だけ問題ではなくて、日本人全体の経験として考えるべきだ、ということをあらためて強調したいと思います。
 
 欧米系のメディアは、人質帰国後の日本人、日本政府の反応に首をかしげています。無思慮な行動によって国民に「迷惑」をかけた、はね上がり者だとして彼らは迎えられたと。
 彼らのせいで日本中が大騒ぎになり、救出のために多くの人が不眠不休で奔走し、そのために多額の税金が使われた、ということが「迷惑」の内容ということでした。前にも言ったので繰り返しませんが、私個人の考えでは、政府関係者が人質の救出に奔走するのは当然の対応だと思うし、何億だかの出費が無駄なものだったと思っていません。だがとにかく日本人の多くが、今回の騒動において人質になってしまった5人の行動は、無思慮なものだったために国民に迷惑を与えるものだった、というマイナスのイメージで理解した、ということは確かなようです。私はこのような事態の受容の仕方に憤りすら感じてきましたが、海外のメディアの反応が示しているのは、このような私たち日本人の事件の受容の仕方が、日本人独特のものらしいということです。

 私たち日本人は,何らかの行動をするときに、それが他人の迷惑になるかどうか、ということを過剰に気にしていないでしょうか? もちろんある人の行動が他者を困惑させ、精神的に追いつめ、しまいには生命の危険にさらすようなことは許されない。あたりまえのことです。しかし迷惑ということを突き詰めてゆくと、私たちは何もできないことになってしまう。だって私たちはまわりの人間を巻き込まずに生き、行動することは不可能なのですから。
 考えてもみていただきたい。もし他人に迷惑をかけないということを最優先に考えるなら、お互いに遠慮し合って、行き着く先はといえば、誰もが一人一人自分の部屋、自分の世界へ引きこもって生きていく、という状態ではないでしょうか。他人に出会わなければ誰にも迷惑をかけることも、迷惑をかけられることもないからです。しかしそれではあまりにも寂しい非人間的な世界になってしまいます。そんな世界が耐えがたいと感じるのは、生きるということはコミュニケーションである、という理由からです。
 私たちは誰もが生きる権利を持っています。これは近代市民社会の自明の原則です。しかし、厳密にいうと、「生きること(コミュニケーション)」と、「生き延びること(生存)」とは分けて考えないといけない。
 というのも、本当に生きようとすれば、自らの生命(生存)を危険にさらさなければならないといったような状況にしばしば出会うからです。人間的な筋を通そうとすれば、自分の生命(生物学的な、あるいは社会的なそれ)を危険に陥れることになることがある。死んでしまってはおしまいだ。それはわかっています。だから生き延びることだけを考えれば、私たちはあらゆる危険を避けて生きるべきなのかもしれません。しかし逆に考えれば、そのような安全に生き延びるだけの生はずいぶん貧しいものだとも言えます。私たちは生まれた以上、人間として他者に対して何らかの存在感を示したいと思っているはずなのです。そのためには状況に対してチャレンジすることが必要でしょう。そしてチャレンジには当然ながらリスクが伴うのです。失敗は悲劇です。命を失うことがなかったとしても、何らかの痛手や負担が自分や周囲のものに降りかかってくることになります。それでも私たちはチャレンジすることをやめないでしょう。それがコミュニケーションであるからであり、そのような生き方こそが人間的だからです。

 これも前に言ったことだけど、私たち日本人は、国際紛争や災害などに対して、日本人はカネは出すけど人は出さないとか、難民を受け入れないなどと、外国から批判を受けてきたという経緯もあって、国際社会の中で何らかの役割を果たし、経済的のみならず、人道的、政治的にも存在感を示したいと思っていました。自衛隊の派遣にしろ、非政府組織の活動にしろ、そのような私たち自身の内的な要請に基づいたものだといえるでしょう。それは政府によるものか、民間によるものかはともかくとして、日本人のチャレンジ、国際社会とコミュニケートしようという意志の現れと考えていいと思います。そして、そのチャレンジには当然ながら失敗する可能性、というリスクが伴っているのです。したがって、私たち日本人はそのリスクを引き受ける覚悟を、失敗したときに被る負担を受け入れる覚悟を持っていなければならない。私たちが本当に世界の中で日本人の存在感を示したいと思っているのならそう考えなければならないと思うのです。

 ですが、5人の人質の行動に対して批判が起こったということは、彼らのチャレンジは日本国民の望んだものではなかった、という意見が数多くあったことを意味するということでしょう。私たちが選んだ政府が決断した自衛隊の派遣に関して私たち自身が負担を強いられるのは理解だできる。しかし、政府の勧告を無視して危険地帯に乗り込んでいった人たちの救出の費用を負担しなければならないのはなぜだろう。私たちは彼らにそんな無謀な行動を頼んだわけじゃない…… と、こんなふうに考える人が多かったのだと思います。
 しかし、忘れてはならないのは、今回の人質事件は自衛隊の派遣とセットで起こった事件だということです。5人が危険地帯に足を踏み入れなければ、事件は起こらなかったのは確かです。しかし犯行グループの要求は自衛隊の撤退なわけですから、そもそも自衛隊の派遣がなければ、(5人が戦闘に巻き込まれ命を落とすという可能性はあっても)人質事件にはならなかったのも確かでしょう。
 したがって政府の政策が民意の反映であるのなら、私たち日本人すべてにとって人質事件は他人事ではなく、まさに私たち自身が引き起こした事件であるわけで、彼らの救出にかかった費用はわれわれすべてで負担してしかるべきなのではないでしょうか。

 考えてみれば、自衛隊の派遣という日本政府のとった政策、チャレンジはそもそもこのような事件を引き起こす可能性のあるリスキーなものだったのです。復興支援が自衛隊の派遣の目的だということになってはいますが、少なくともいわゆるテロリストたちはそう理解していない。確か自衛隊の派遣に先立って、日本国内でのテロをほのめかす脅迫があったように記憶しているが(そのようなことが現実に起こるとは思いたくはないが……)、もしそのような事態が起こる可能性があるとするなら、私たち日本人すべてが人質となっているということと同じなのではないでしょうか。自衛隊の派遣はそれだけリスクのあるチャレンジなのです。今回は5人の民間人をスケープゴートに仕立て上げることで、政府は、あるいは日本人全体が、自衛隊の派遣という政策の持つ危険性を隠蔽してしまった。そしてその結果、人質になった人たちの自己責任という面がクローズアップされ、政府や政府の政策を承認した私たち日本国民の自己責任は、はぐらかされてしまったような感は否めません。

 リスキーなチャレンジをするべきではないと言っているのではありません。アメリカのパウエル国務長官も言っていたように、リスクを進んで引き受けるものがいなければ、世界は前に進まない……。国際化、国際貢献といった日本人の課題の実現したいと思うのなら、私たちも当然リスクを負わなければならないのです。そうです、小泉首相が、人質になった人たちに「もっと自覚を持って欲しい。」と憮然とした表情で語っていたことや、彼らの帰国に際して「税金泥棒」呼ばわりをしたり、あげくの果てには「反日的分子」なんてこと言い出す人たちを見ていて私が腹立たしく思うのは、そのような自分自身の責任を不問にしている態度の中に、日本人自身のチャレンジに対するリスクを引き受けるだけの覚悟、というものを感じられないからなのです。
 
 一体、日本人は国際社会において何らかの貢献を果たそうという意志が本当にあるのでしょうか? 国際社会へ身を乗り出してゆくことで背負うリスクをはっきり見据える覚悟がないのなら、自衛隊の派遣などやめた方がいい。国民が安全に、平穏に暮らしてゆくことが優先されるなら、みんな日本列島の中でじっとしていた方がいいのです。人質になった人たちを迷惑者呼ばわりしているのを見ていると、私はそんなふうにさえ思ってしまいます。

 日本と、欧米の社会との相違はこのあたりにあるのです。そもそも、民主主義、人権、といった観念は欧米人によって封建社会から闘いとられたものです。そのために彼らは危険を顧みず自らの命を投げ出したのです。数えきれぬほどの人たちのチャレンジと犠牲の上に市民社会は成り立っていることを彼らは忘れていません。したがって彼らの社会にはチャレンジの価値と、チャレンジによって引き受けなければならないリスクに対する覚悟の面において、私たち日本の社会よりも遥かにしっかりした合意があるのです。だからあるチャレンジが失敗に終わったとしても、そのチャレンジを尊重し、その結果、社会が何らかの負担を担うことになってもそれはそれとして肯定的に受け入れることができるのです。
 それに対して、人に迷惑をかけない、ということが強調されている日本の社会は、世の中に波風が立つことを嫌い、安全、平穏であることに価値をおいている。つまり、生き延び(生存)が、リスクを伴うチャレンジの生(コミュニケーション)よりも優先されているのです。そんなわけで、この社会の中ではチャレンジというものは常にお騒がせな、忌避されるものとしてマイナスのイメージをまといやすいのではないでしょうか。
 また、欧米のそれと違って日本の民主主義や人権は、輸入されたものでしっかり日本に根を下ろしたものではありません。それは闘いとられたものではないからです。私たちの中からは未だ明治以前の封建体制が抜けきっていない。だからこそ、国民は政府のいうことをおとなしく聞くべきだという発想が政府の中からも抜けきれず、個人で政府の勧告を無視してイラクに出かけた人たちを迷惑者と見なしたり、あげくの果てには「反日的分子」なんてものに仕立て上げたりできるわけなのです。おそらく欧米人の目には、このような日本社会が理解しがたいものに映っているに違いないのです。

 私は誰もが危険に飛び込むべきだ、などと言いたいのではありません。人を無理矢理危険の中に引きずり込む権利など誰も持っていません。私自身子供の頃から人に迷惑をかけるようなことは絶対するな、と言われて育ってきた記憶があります。しかし、迷惑、迷惑と過剰に言い過ぎると本当に私たちは自分自身の行動の自由さえ自粛せざるを得なくなってしまうでしょう。
 例えば、以前、韓国人の書いた日本人論を読んだことがあるのですが、韓国人は自己主張が激しい人たちで、彼らから見ると私たち日本人は互いに遠慮しあって、まるで生きてることが申しわけないみたいに見える、と書いていました。「生まれてすいません。」なんて書き出しの小説がありましたが、迷惑をかけないことのみが行動の原理になるとすると、行き着くのはこのように人間存在の価値が消失したニヒルな世界でしかなくなってしまうでしょう。
 私たちはもっとお互いに迷惑を掛け合っていいのじゃないでしょうか。そしてもっと社会の中に波風を立てるべきなんじゃないでしょうか。凪のように真っ平らな生などより、嵐のように次々とトラブルが襲いかかってくるほうが、逆にそんなトラブルを栄養にして逞しくなってゆけるような生き方のほうがよっぽど魅力的だと私には思えます。それがチャレンジに積極的な意義を与えている社会の姿というものでしょう。そのような社会では、あえてリスクを背負い、国民の意思である国際貢献を身をもって実行しようとした人を迷惑者扱いすることは論理的に言ってあり得ないことだと思います。

 日本人は国際社会に首を突っ込んでゆくべきなのか……? はっきり言って、国際化はさけることのできない課題です。だってもう鎖国して私たちが生きてゆくことなど不可能じゃないですか。
 だからこそ、私たちは覚悟し、また理解しておく必要があるのです。国際社会の中で日本の存在感をアピールしたいと思うのなら、それ相応のリスクも背負わなければならないことを。さらに、日本人全体の生き方が人間的に貧しいものになってしまわないためにも、世界とコミュニケートして生きてゆくことが必要だし、そのためには、チャレンジというものにもっと意義を見いだしてゆくべきだということを。

 私個人としては、自衛隊に派遣にも、危険地帯でのボランティア活動にも、いろいろと疑問を抱いています。もっとほかの日本人にしかできないような国際貢献のアプローチがあってもいい。アメリカ追従の復興支援や、欧米人流のボランティア活動だけが唯一の方法ではないでしょう。
 したがって、日本の国際貢献の方法については、いろいろと議論されてもいいし、議論されるべきだと思います。しかしそのような議論を引き出すためにも、今回の人質になった人たちのチャレンジは必要だったと見るべきです。失敗を含めて、すべては日本人全体の経験なんです。みんな無事解放されたというこの幸運を活かすためにも、私たち日本人は、人質になった人たちの経験を、またへっぴり腰な自衛隊の活動をもふくめて、自分自身の経験として捉え直す必要があると思うのです。』


 こう語り終えるとテレンス氏は、次のアポイントメントの時間が迫っていると言って席を立った。それにしても、と彼は私を振り返り、「人質事件の被害者の方達には、これからも堂々と新しいチャレンジへ向かっていってもらいたい。確かに慎重になる必要はあるだろう。だが、私が言うのもなんだけど100%の危機管理なんてそもそも不可能なんだ。生きるってことは瞬間瞬間新しい状況と対面することだろう。そこで出会う危険の可能性なんかスーパーコンピューターにだって予測不可能だよ。ようするに人生そのものが冒険みたいなもんじゃないか。私としては何か事件が起きて私たちの税金が無駄に使われたなんてことよりも、日本人がコミュニケーションやチャレンジを忘れ、自分たちだけの安逸の中に生きることだけで満足してしまうことの方がよっぽど恐ろしいね。」とつけくわえ、片手をヒョイッと上げてまだ肌寒い風の吹く5月の街の中へと消えていった。

Comments
 
こんばんは、heteです♪
テレンス・アライ氏の非常〜にするどいながらもハートを感じる
メッセージを拝見して、沁みました。
「日本の国際貢献の方法については、いろいろと議論されてもいいし、議論されるべきだと思います」非常に同感です!!
勉強不足な点が多い私ですが、勉強不足なりに考えていきたいと思います。
 
普段、政治や時事のニュースなんか聞き流していたのですが、人質事件のことはなぜだか気になって仕方がありませんでした。どこがどうしてそんなに気になったのか、スッキリ説明しようと思って考えを整理していたら、こんな長い文章になってしまいました。
おつきあいくださいましてありがとうございます。私の方も heteheeteさんのところをたまに訪ねています。これからもヨロシクです。
 
はじめまして。kawakitaと申します。数学屋さんのところから参りました。
論旨明快な文章おみごとです。
ちょっとだけ似たようなことを書きましたのでトラックバックさせていただきました。
それでは。

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