泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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亡霊退治1 フランシス・ベーコン

 夜仕事をするときは寂しいので深夜放送を聞きながらやってることが多い。だいぶ前のことだが爆笑問題の番組を聞いていると、インテリ肌の太田君がエコール・ド・パリの日本人画家、藤田嗣治のことを熱く語っていた。エコール・ド・パリのようなおしゃれで趣味的な絵画にはまるで興味のない私は、話を聞きながら……フジタ? 所詮お笑い芸人の趣味はその程度なんだな……とひとり鼻で笑った。ところがその何ヶ月だか何年あとだか忘れたが、同じ番組で太田君が今度はフランシス・ベーコンの名前を挙げて絶賛していた。まあフジタはともかくフランシス・ベーコンあたりを持ち出してくれば、オヤッ、なかなかできるな……と思う人も多いに違いない。


フランシス・ベーコン 『ベラスケスの「教皇イノケンティウス10世の肖像」に基づく習作』(1953)

 最近のことだが、書店でベーコンの画集が何冊か売られていて、自分が画学生の頃にはベーコンの画集なんてなかったよなあ……なんて思いながら手にとってよく見てみると、画集の帯に浅田彰氏による推薦文が印刷されていた。また違う画集だったと思うがフィリップ・ソレルスという文学者の長文のベーコン論が載っている画集もあった。有名なところではジル・ドゥルーズの分厚いベーコン論がある。……文化人に人気のある画家なんだなあ、とつくづく思う。
 確か画学生の頃、池袋の西武美術館でフランシス・ベーコン展をやっていたことがあり、私も見に行ったように記憶しているが、私には当時からベーコンの絵が面白いとは思えなかった。荒々しいタッチ、無造作に飛び散った絵の具、不安定な構図……ベーコンにはこういう無秩序を演出する確かな画力があることは素人でもわかると思う。なんというか…画学生好みの器用で「うまい」絵を描く人なのだ。しかし…いや、それだけに私には面白くないのだ。初めてベーコンの絵を見たときから、そして今でも感じているのは、こいつはよくできた「偽物」だということだった。偽物だなんていうと、じゃあ本物って何だよって話になってしまいそうだが、絵描きになろうと考えていた若い頃からベーコンの世間での評判にもかかわらず、何か「違う」んじゃないかと感じていたのだ。
 私はベーコンという人については何も知らないし、彼についての評論にも正直あまり関心がないので、どのようにベーコンの絵画が評価されているのかほとんどわからない。いずれ時間ができたらじっくり調べてみたいと思うが、彼の絵に登場する残酷で暴力的なイメージ……ひしゃげて歯をむき出しにし、生傷を露出させたかのような人物たちの戦慄的なイメージがいろんな意味合いで受けているわけだろう。……しかしそれはけっきょく画面上のイメージだけの問題じゃないのか?……この疑問はベーコンだけじゃなく主に第二次大戦後の美術のムーブメント全般にわたって感じるところだ。「作品」という芸術という制度の枠組みをはみ出ることのない表現活動のなんとももどかしいつまらなさ……ベーコンの作品もその激しく戦慄的なイメージにも関わらず、スッポリと行儀よく制度の枠組みに収まっているのだ。

 私は、資本主義社会における文化はシステムへの反抗という形態をとるらざるを得ないと考えている。反抗は文化であり、文化は反抗である。そしてあらゆる反抗的・対抗的な文化が時間の経過とともにシステムに咀嚼され回収されてゆくこともまた事実である。したがって私たちが自らの生活を彩り(=文化を育み)たいのであれば、資本主義システムの牙にかかる前にそこを脱出し、逃走/闘争し続けなければならない。波の巨大な力に呑み込まれないために、その波頭にバランスをとってとどまり続けるサーファーのように前線に立ち続けることがアヴァンギャルド(祭りの戦士)の使命である。……したがって資本主義社会において文化を作り出すのは(もうすっかり古い言葉になってしまったけど)アヴァンギャルド以外にはあり得ない……私はこう考えてきた。
 長いこと芸術という制度はアヴァンギャルドたちの反抗のアリーナであったが、ダダ・シュルレアリスムによって事実上その制度自体が解体されてしまった。もはや芸術という制度の作り出してきた場はすべてが許された空間へと変貌してしまったのだ。反抗とは許されないことをあえて行うこと……規範への侵犯であることを考えれば、芸術という名を冠した反抗はもはやあり得ない。つまりそれは「芸術」そのものが資本の論理に呑み込まれてしまったということであって、芸術という制度は文化の土壌であることをやめたのだと考えることができる。
 シュルレアリスム以降のアヴァンギャルドは芸術の枠を大きく踏み越えた場で勝負しなければならない。ヨゼフ・ボイスは芸術の概念の拡張を唱えていたそうだ。(ボイスについてはいずれ批判的に検討したいと思うが)人間の活動を「生と労働のあらゆる場で、社会のあらゆる力の場で造形しうる活動にしてゆく」という彼の主張はもっともだと思う。新しいアヴァンギャルドのアリーナは生そのものであり生活全体に他ならない。私たちの生と生活の中に忍び込み、私たちにシステムへの隷属をせまる資本の規範への抵抗こそがアヴァンギャルドの新しい課題なのだ。
 シチュアシオニストがアンフォルメルやアメリカの抽象表現主義、ポップアートなどの戦後の芸術のムーブメントを批判するのは、もはやそれら戦後の芸術が反抗の名に値しない……ということはすなわち文化の名に値しない芸術の亡霊にすぎないと感じているからだろう。シチュアシオニストたちを支える情熱は、芸術家でありたいということではない。彼らをして芸術家としての個人の作品に別れを告げさせたものは、アヴァンギャルドであり続けたいという欲求のはずだ。
 したがって私が文化の何たるかを見いだすのは芸術から遠くはなれた抵抗の空間においてだ。シチュアシオニストも影響を及ぼしたという68年5月のパリやイタリアのアウトノミアの<運動>などのどこか祝祭的な抵抗の時空にこそ私は文化を感じる。以前にも引用したことがあるのだが、酒井隆史という人がイタリアの<運動>について以下のように記述している。

……まずもって<運動>は「自足」的であった。閉鎖的という意味ではなく、それは<運動>自体が目的、すなわち「生の形式」(の実験)となるという意味である。つまり手段と目的が分たれないスピノザ的な「構成的実践」である。われわれの生がどのようなものでありうるのか、われわれの身体が何をなしうるのか、その可能性の自由な展開の試みが<運動>である。


 これを読んだとき、私はこれが新しい芸術のあり方についての記述じゃないのかとすら思えたのだが、文化を担うアヴァンギャルドはこのように実験的な反抗の生を生きるものだと思う。

 ところでフランシス・ベーコンなのだが………このような熱い<運動>の空間と比べると、彼の描き出す巧みで戦慄的なイメージが、いかに個我に縛られた趣味的な狭さに終始しているかを感じて、私は心底がっかりしてしまうのだ。そういう意味ではベーコンの絵はフジタやユトリロあたりと大して違いのない「おしゃれ」な、せいぜい「カッコイイ」美術商品でしかないと言っていいのではないだろうか。第二次大戦後の美術のムーブメント同様、芸術の亡霊だとしか私には思えない。もっとも私たちの身の回りにはスペクタクルと化した芸術の亡霊ばかりが徘徊しているというのが現実なのだが……。
 ソレルスやドゥルーズがベーコンに何を感じたのか私は知らないが、正直なところベーコンの絵なんて大真面目に論じる価値があるのかね……と思ってしまう。あんな分厚い本まで書いちゃって……亡霊どもをつけあがらせるだけじゃないの? まあ、散文を紡ぎだすためのおかずとしてベーコンの絵を利用した、というのならわかる……。例えばアダルトビデオの映像としての価値はともかく、おかずとしては非常に重宝するようにだ。実際、私自身もよくAVのお世話になってるし………。それにしたって……ベーコンなんかおかずにしてるってのは………趣味だといわれればそれまでですが……。


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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