泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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タコ部屋の青春2

第2節   祭りの精神の奪回


 人間的でありたい……。人間としてこの世に生まれた以上、誰もがそう願っているに違いない……何をもって人間的とするかはともかくとして……。そしてその願いは実現されなければ単なる夢に終わってしまう。生きるということは、そのような夢の実現のための闘いである。私たちは自らの人間性を、人間的でありたいという基本的な欲求を、闘うことで証さなければならない。
 本能にのみ導かれる動物の生を、人間は労働することで乗り越えた。労働することができるということは、将来に獲得するであろうある結果のために、現在の瞬間の様々な欲望を(動物であれば、本能に従って何のてらいもなく満足させてしまうであろう欲望を)断念することができる、ということである。将来のある目的のために現在の瞬間を手段としてとらえ、その目的に従属させることができるという能力、それが労働を可能にするのだ。労働し、蓄積することにより人間は、偶然によって翻弄される運命をコントロールし、危険、死といった生存を脅かす要素から距離を置くことができた。このように計算し、配慮するという理性的な態度を持つことで、人間は自らの生存を確保し、動物にはない新しい世界を切り開くことができたのだ。
 このように、労働し獲得した富およびエネルギーは、まず生存のため、生き延びのために消費される。だが人間は生存のために必要なエネルギー以上のものを労働によって獲得し、それを単なる生存以上の目的で消費してきた。生存という目的をこえた、ときには生存をすら脅かすにいたる消費をおこなってきたのだ。
 確かに人間は労働によって動物の生から抜け出すことができた。しかしもし生きることの目的が少しでも永く生き延びることであるというのなら、人間の生は労働と蓄積にのみ行き着かざるを得ないだろう。死の危険を避けるためには偶然な要素に対する万全の対策を講じておかなければならないからだ。しかしながら、どれだけ富を貯え、万が一に備えておいたところで完璧に安全な生などあり得ないだろう。あらゆる予測や期待を平然と裏切ってくれるのが自然という暴君の本性なのだから。
 だから、私たちにとって危険を避けようとする試みはそもそも無意味であるし、そのような労働と蓄積のみの、すなわち欲望の断念のみの灰色の生を人間的であると考えるわけにはいかないのだ。人間性について考えるとき、労働というファクターに加えて、富やエネルギーを生存という目的をこえた仕方で消費し享受するという側面についても考えなければならないのである。

 問題なのは、生存という目的をこえた富の消費ということだ。(バタイユはこれを「呪われた部分」と呼んでいる。)
 私たちは生に彩りを求める。血湧き肉踊るドラマを求めるのだ。灰色の労働のみの生、生き延びているだけの退屈な生など御免なのだ。人間的でありたいと願うとき、私たちが欲しているのは生と世界の彩りなのだ。このあざやかな彩り、この強烈な陰影を持ったドラマこそ、単なる生き延びをこえた人間性を形作るのだ。
 人間的でありたいという基本的な欲求を満たしたいと望むのであれば、私たちは生き延びるための配慮を、労働によって蓄えられた富を消費するというかたちで、裏切らなければならないだろう。とにかく、美しくかつ激しく、また華麗に生と世界を彩ろうとすれば、莫大なエネルギーを消費することなくそれを実行するのは不可能なのである。
 したがって、生き延びへの配慮という点から見れば、生を彩ろうという人間的な欲求は、あってはならない危険な願望なのである。それは蓄えられた富の浪費であり、極端な話、生存を危険にさらす暴挙だということになるであろう。
 それにもかかわらず、私たちは人間的であることを、私たち自身の生が彩りのあることを望むであろう。生き延びるためにアリのようにコツコツと働き、冬に備えて蓄えるだけの生を、私たちは小心者の生き方だとしてあざ笑い、何事もなくすべてを、丸くおさめてしまおうという大人の分別を、心の底から軽蔑するのだ。
 人間らしくありたいと願うなら、危険を顧みず生きる勇気が必要である。ひょっとすると自らの人間性を証しするために、死を選択しなければならないこともあるかもしれない。ニーチェがいったように、生きるということは、試みであり、賭けなのだ。そして、そのように生きることこそ人間の情熱であり、プライドなのだ。彩りのある生を求める願いこそ、人間の真の欲望であると結論しておきたい。

 生と世界を彩るもの、それを私は「祭り」という概念で表現したいと思う。
 「祭り」とはエネルギーの非生産的な消費、労働し蓄積する生産活動とは反対の原理である。いわゆる祝祭の他にも、王権や貴族の豪華な消費、宗教、全てを破壊し尽くす戦争、身を滅ぼすまでに激しい恋愛、巨大な建築や装飾などの芸術表現……、これらは基本的には生産という目的のない純粋な消尽であり、その意味で祝祭的な要素を含んでいる。
 近代以前の社会において、すなわち、古代、中世の社会、あるいは未開の社会などにおいては、このような「祭り」の原理は、中心的な価値であった。つまり、生産労働によって獲得した富の、生存の維持以外の用途にもちいられる余剰部分の費やされかたが、近代以前の社会と、私たちの近代資本主義社会とでは、大きく異なるのである。
 かつての社会において人々は「祭り」のために労働していた、といっていいだろう。今でも年に一度巡ってくる祭りのために、それまで一年間働き、貯えてきた富を一気に消尽してしまう、といった話を聞くことができる。労働に捧げられた息苦しい日常……、祭りの時間は人々を灰色の日常性から解放するのだ。非日常的な祭りの日々があってこそ、人々は自らの存在に意味を見いだすことができたのである。祭りはまさに世界を彩るためのアクセントとなっていたのだ。
 かつての社会は身分制度に基づいた不平等な社会であり、民衆は搾取され、生産された富の剰余は一部の特権階級が独占的に享受していたことは間違いない。しかしながら人々は王や貴族の豪奢な生活の中に祝祭的な消費を見ていた。また王権にまつわる要素、宗教、モニュメンタルな建築や芸術、そして戦争などのドラマチックな要素の中に人々は世界を彩る「祭り」を見ていたのだ。人間個人の主体性から全てを考える近代的思考にとって、このような不公平な社会は理解しがたい誤りであったということになるだろう。が、とにもかくにも近代以前の社会においては、「祭り」の至高な原理が、非生産的な消費が、中心的な価値として組織されていたのだ。
 それに対して私たちの社会では、富の余剰は基本的に投資にまわされる。生産によって得た富の余剰は、より生産の規模を拡大するために用いられる。たえざる利潤の追求……それが資本の本性である。したがって資本主義社会においては、利潤の追求に反する行い、「祭り」的な行いは単なる無駄な浪費として価値をはく奪されるであろう。またそこで生きる私たちにとっても、生産労働が中心的な価値となり、勤勉、倹約という労働倫理が支配的になって、怠惰、無為、浪費的な遊びなどは、厳しく断罪されるのである。
 要するに私たちの近代資本主義社会では「祭り」の原理が、生と世界を彩る非生産的な消費の原理が衰退してしまったのである。歴史上、生産の原理が、生き延びの原理がこれほどまでに突出した社会はなかった。

 かつての社会においては、民衆の作り出した余剰の富は特権階級によって、大部分吸い上げられていた。したがって人間性の表現に不可欠であるところの非生産的消費は特権階級のみによって行われ、民衆は余剰の富の享受にあずかる機会はあまりなかった。つまり、労働によって動物性を乗り越えたものの、ほとんどの民衆は人間的というより、ある意味、奴隷的な立場におかれていたといえるだろう。そのような身分社会は、ヨーロッパの市民革命によって、決定的に乗り越えられることになった。人間の平等が高らかに謳われ、近代社会が誕生したのだ。
 
 近代資本主義社会は、資本家階級(ブルジョワジー)と労働者階級(プロレタリアート)の二つに階級分化しているとマルクスは語った。だがそれは、それ以前の身分社会とは趣のことなる階級分化であったのではないだろうか。というのも、ブルジョワジーはかつての特権階級のように富の非生産的消費=享受をするわけではないからだ。ブルジョワジーは富の余剰を将来における利潤の拡大のため投資にまわすのみである。またそれゆえに労働者階級の方も富の享受にはあずかれないだろう。なぜなら、より大きな利潤を生むために何らかの事業に投資された富は、その利潤が回収されてさらに大きな富となったとしても、またさらにそれ以上の利潤を求めて、新たな事業に投資されるだけであり、このサイクルが永遠に続く限り、労働者はもとよりブルジョワ自身も余剰の富を享受することはできないのだ。
 こうしてみると資本主義社会は、確かにある意味で平等な社会なのである。ブルジョワにしろ、労働者にしろ、余剰の富の享受にはあずかれないと言う意味では。要するに資本主義社会においては富の余剰はひたすら「生産」へと方向づけられていて、「祭り」的な非生産的な消費には向かわないのである。その意味では私たちも、近代以前の社会における民衆同様、余剰の富の享受にあずかることのできない奴隷的な立場にあるという事実にはなんら変化がないままなのである。

 私はここまで人間性と言うものを「労働」と、消費=享受すなわち「祭り」という二つの面において語ってきた。単なる動物的生命をこえて、私たちが人間的であることを証明するには、その二つの面、「労働」と「祭り」が私たちの生の中で実現されていなければならない。であるのに私たちは、近代社会においても、人間性を意味する「祭り」の原理から疎外されたままなのである。そう、私たちはひたすら労働するために生きているだけの家畜的状況にあるのであり、前節の結論を繰り返すことになるが、私たちはこの資本主義社会と言うタコ部屋の中で生まれ、死んでゆくのだ。

 「祭り」の精神の奪回……。
 これこそが、タコ部屋に生きる私たちが人間的であるために取り組まねばならない課題なのである。私たちが人間的であろうとするなら、「祭り」を私たちの生の中に取り戻さなければならない。だがしかし、それを実践しようとすれば、生産の社会、私たちの生きるこの近代資本主義社会とは、絶望的に対立せざるを得ないだろう。なぜなら「祭り」は生産労働とは正反対の原理だからである。

   


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
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