泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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亡霊退治4 『アシッド・キャピタリズム』を読む(前編)

 10年ぐらい前、僕は図書館で借りた『搾取される身体性』とか『ネットワーク支配解体の戦略』という小倉利丸の本を読んで、左翼の思想ってこんなにユニークな現状の捉え方をできるのか……と驚嘆した。それだけに彼の文化・芸術論である『アシッド・キャピタリズム』にも僕は大きな期待をもってかじりついた。しかし、「ありゃ?」っと何か肩すかしを食らわされたような感覚で、どこか僕の求めていたものとズレているな、と本に目を通し終わるまで感じ続けた。
 もっとも、読もうとする本に自分の期待通りの言葉を発見しようとすること自体邪道である。なるほどいまこのエントリーのために小倉の本を読み返してみると、当時は目にも入らなかった繊細な分析などが展開されていて、なるほどなあと思うし、それなりに面白い。……にしても僕が小倉の芸術論にいまだ何ともいえないもどかしさを感じ続けているのもまた事実である。

 前回のヨゼフ・ボイスへのレクイエムを書いたときに参考にさせてもらった小倉の『社会に介入するアート』(『アシッド・キャピタリズム』収録)という文章の前半部、つまりボイスについて書かれた部分は以下のように締めくくられている。

ボイスは、結局、解釈の権力に対抗しきれなかった。彼が、芸術の概念から逃れようとすればするほど、彼の行為は芸術の領域に囲い込まれてしまった。「社会彫刻」という彼のモチーフは、彼個人の行為を離れてはなかなか成立しなかった。実は、ここに、彼の限界があった。ベンヤミンが述べたように、芸術の一回性がもつカリスマ的なアウラをやはりボイスもまとわざるを得なかった。「社会彫刻」やオルタナティブな社会の構想は、たとえボイスの発想であったとしても、社会の人々が共有しなければ社会的な意味を紡ぎ出せない。自由国際大学などの試みはあるにしてもボイスのメディア戦略が明確ではなかった。それが、一回性という彼の基本的行為と裏腹であることはたしかである。ただし、このことは、ボイスにのみ責任があるということではないかもしれない。むしろ、ボイスを希有の芸術家として区別し、ギャラリーの中に囲い込む制度を問題にすべきであるといえるのである。


 小倉のこの文章……はじめの方のボイスの限界を述べたあたりは理解できるのだが、最後のところだけはどうも寝言になってしまっている。芸術の枠組みに囲い込まれてしまったボイスの不幸の責任は彼のみにあるのではなく、囲い込む制度の側の問題でもあるというのである。
 ちょっと待ってくれ……。繰り返しになるが、ボイスはこう言っていたはずだ。

ところがわたしたちの社会においては、あたかもそれが『アート』として表現されなければならないかのようにとりちがえている。美術館をはじめとする文化的機関の大きなまちがいが、まさにそこにある。文化や教育、そしてメディアまでもが、『アート』という巨大な『象牙の塔』を築きあげている。そしてそれはあらゆるもののアーティスティックな質を低下させ、美術館などを日常生活から浮きあがった感動のないものにしている。


 小倉は左翼の思想家・経済学者なのだから、ボイスが語っている「美術館をはじめとする文化的機関」が資本の文化装置として機能していることをイヤというほどよく知っているはずである。そしてこのボイスの言葉は、まさに彼自身を囲い込もうとしている「美術館をはじめとする文化的機関」などの芸術の枠組みを問題にすべきだ、という発言に他ならない。これは、ボイス自身が「アーティスト」の枠を越えて「前衛」たらんとする……という宣言として理解すべきだろう。ということはボイスのこの課題は、このような文化装置を解体、脱構築してゆくという左翼の運動の方向と事実上ピッタリと重なっているのだ。
 残念ながらボイスはこの自らに課していた課題に応えることはできなかった。その結果彼の制作し続けた作品は、文化装置に花を添えるコンテンツとして反動・現状維持的な役割のみを担うことに(つまりボイスは亡霊に)なってしまった。だからといってアーティストが責任を取らされるわけではないが、当然それは批判を受けるに値する。
 であるのになぜ小倉利丸はボイスを擁護するようなことを言うのか? これが僕には不思議でならない。仮に同じ左翼の思想家がその戦略の誤り故に資本を補完する反動的な言説をまきちらしているとしたら、小倉はきっと徹底的に批判するはずだ。まさか、反動的な役回りに絡めとられてしまった思想家だけに責任があるのではなく、絡めとる資本のほうを問題にすべきだ、なんて寝言は口が裂けても言わないだろう。なのに小倉のボイスに対するこの甘さは何なんだろう? アーティストは思想家だったら受けるはずの批判を逃れうる、まったく別の人種だとでもいうのだろうか?
 こういった小倉の言葉に僕が感じるのは、アーティスト(ボイス)と評論家(小倉)の微妙な立場の違いである。芸術のカテゴリーとはまずもって、表現者であるアーティストと受動的なオーディエンスとの二項への分離を特徴とするが、この奇妙なボイス擁護の中に僕は、小倉がこの二項への分離の上に立って思考している気配を感じる。
 僕の見るところ、小倉がボイスの限界を指摘するとき、「前衛」たらんとするボイスをその対象としているし、小倉自身も「芸術」のカテゴリーを越えた地点からものを言っている。一方ボイスの作品を解釈したりその活動を擁護するとき対象としているのは「アーティスト」としてのボイスであり、小倉もまた「芸術」のカテゴリーに則って発言しているのだ。
 ……同居不可能な二つの立場が小倉の中で混在している。いいかえれば小倉利丸は亡霊退治をする戦士の立場でありながら、亡霊を擁護し亡霊たちと密通しているのだ………ああ、小倉先生、師匠のあなたまでもが亡霊の手にかかってしまっているのですか? 血の気のない青白い顔をした亡霊たちのダンスに巻き込まれてしまっているのですか? 目を覚まして下さい、そしてその剣を抜いて我らに襲いかかる亡霊を叩き斬って下さい!



Comments

いや、スキンがかっこよくなりましたね
戦う相手と戦う主体がよく似てくるってのは良くある話で、捜査一課の連中はやくざと見分けがつかないし、二課(経済事犯専門)の刑事はいかにも銀行員風だし、
戦って滅ぼしたその相手の、
なんていうか「魂」が、その滅ぼされた相手に乗り移る…
みたいなことも、あるんじゃないか?
と。
「悪の帝国」である宿敵ソ連を打ち倒したアメリカが今度は「悪の帝国」そのものになってしまう皮肉だとか
「ミイラとりがミイラに…」
ならないように、気ぃ付けないとな、うん。
スキンは挿入の直前に装着を……
おっしゃる通り、リアクション的に敵を立てるよって自分を成り立たせようとすると、結局その敵と同じ穴の狢になってしまうわけです。あくまでも私たちが求めるのはリアクションではなくアクションでなければなりません。私の場合、とりあえず敵を措定して攻撃するわけですが、どこかマジじゃないんですね。ま、月並みですが、自分の本当の敵は自分だということでしょう。
最近テンションが上がってきたので、自分の本能を信じて祭りの戦士はスーパーサイヤ人のごとく燃え上がりながら行けるところまで突っ走りますよー!

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

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