泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

亡霊退治4 『アシッド・キャピタリズム』を読む(中編)

 小倉利丸の『アシッド・キャピタリズム』にはアート(美術)と社会(権力)の関わりについてめぐらされた論考が、『社会に介入するアート』の他にも二つ、『支配的文化と逸脱する表現行為』、『不快という快楽』というタイトルで収録されている。前者は80年代アメリカの、後者では日本の美術館での逸脱的表現行為とそれに対する権力側からの検閲や弾圧について詳しく分析されている。僕は小倉が紹介しているアーティストたちについて名前すら知らないので、図版と彼の記述に頼って最近(でもないが)のアートシーンを眺めることになった。
 とにかくこれらの文章を読んでまず感じたことは、小倉が話題にしているのは基本的に「芸術(亡霊)」に終始しているということだ。何だってこんな退屈な亡霊たちの作品の象徴や意味するところを詳細に分析・解釈してるんだろう? そんなことしたら亡霊たちの罠にはまるだけじゃないか……というのが第一印象だった。

 逸脱的な芸術表現に対する検閲の問題は、もちろん昨日今日に始まったことではない。古くは19世紀末(たとえば印象派のマネの『草上の昼食』のサロン落選)の頃から出現している。前衛芸術の歴史がコード破り……すなわち逸脱の連続であったとすれば、”芸術イコール前衛(アヴァンギャルド)芸術”というかたちが成立し始めた時代に検閲問題が登場してきたのは当然なのかもしれない。
 つまり当時から美術館は芸術の価値を評価し、その価値から外れるものを検閲する文化装置として機能する権力に貫かれた空間だったわけで、だからこそその空間は(アメリカなり日本なりの)現行社会がその上に成り立っている支配的価値や排除の構造を表現する場でありうる。
 したがって小倉がここで検閲の例にあげている、アメリカにおける反キリスト教的な表現や性的マイノリティの逸脱的表現、また日本における天皇をめぐる「不快な」反権威的表現が美術館などで検閲の対象として浮上してくるのは驚くべきことではない。
 またアメリカにはNEAという無名の新人アーティストを資金援助する公的な制度があるらしく、援助するアーティストを選択する時点における検閲強化の動きを小倉は問題にしている。しかし、このような制度や基金が文化の振興を意図して企画されていると考えるのはあまりにもナイーブだろう(僕は資本主義社会における文化を「反抗すること」だと考えているので、体制が文化のために資金を拠出することを想像することができない)。仮に建前上はそうだとしても実際には資金を提供する団体なり組織なりの文化観に大きく影響を受けるだろうし、現行を再生産すること以外の目的で気前よく資金を提供するとは思えない。つまりこのような資金援助の制度も美術館などとセットで文化装置として機能しているのだ。だから、このような資金援助をめぐって検閲が生じるのもまた当然のことだといえる。
 とはいえ、芸術表現が自由であるべきものであり、自由であるゆえに価値をもつのだとすれば、美術館が芸術のためのものである限りこのような検閲は美術館そのものの自殺行為だといえる。逸脱こそが芸術の歴史を作ってきたのであればなおさらである。したがって美術館は自由な空間であるべきだという、小倉が行っているようなある意味リベラルな「解釈の権力」の批判を理解はできる。が、前衛(戦士)はこのような批判や抵抗にはさして興味がない………前衛が求めるのは、美術館が自由な空間であることなどではないのだ。それを求めることは「芸術」というカテゴリーをまず認め、肯定することをも意味する。そうではなく、前衛はヨゼフ・ボイスもいっていたように「芸術」のカテゴリーを拒否し、乗り越えることを求めるのだ。
 というのも、かつて(第二次大戦以前のアヴァンギャルド芸術の時代まで)「芸術」は前衛たちの活動の場として機能しえていたが、ダダ・シュルレアリストたちは資本による囲い込みから逃れるため「芸術」というカテゴリー自体を廃棄せざるをえなかった。おそらくその時点でアバンギャルド芸術は終わったのであって、僕らが生きているのは「芸術」の死滅以降のエポックである。現在、「芸術」はむしろドゥボールが言っていたように、システムの規範から逸脱する体制転覆的な分子を、個人としてアーティストという枠に囲い込み、いわゆる文化(スペクタクル)として消費させるための装置となってしまっている。「芸術」をめぐる様々な文化的機関……美術館や若手アーティストの援助基金など……も、基本的にそういった資本のイデオロギーを補完するものとして機能していると考えるべきだ。

 繰り返すが、僕が言いたいのは、小倉が「ボイスは解釈の権力から逃れることができなかった」と彼の限界を指摘するとき、あきらかに「芸術」のカテゴリーは拒否され乗り越えられるべきものとしているはずなのに、その一方で上のように「芸術」のカテゴリーを追認するリベラルな発言をしていることが理解できないということなのだ。このようなことはあってはならないのではないかと思う。「芸術」のカテゴリーを乗り越えようとするものは、「芸術」のオーディエンスにはなれないはずだ。評論家も「芸術」の鑑賞者ではなく、前衛(戦士)として発言しなければならない。
 前衛の立場に立つ僕にとって「芸術」は退屈なものでしかない。だからそれらは「亡霊」として断罪すべきだと思っている。たとえそれが高度な技術と労力をこらし、どんな表現上の変革をともなっていようとも……、またそれがマイノリティへの差別を告発し、警察による弾圧を受けるほどに反権力的な抵抗を内包する表現であったとしてもだ………。

 アーティストや芸術作品を僕は「亡霊」と呼び、批判をしているわけだが、実際にはその亡霊たちに共感を抱いてさえいる。とりわけ『支配的文化と逸脱する表現行為』という文章のなかで小倉が紹介しているような、権力による弾圧への抵抗やマイノリティ差別の告発をするアーティストたちなどは応援したくなってもくる。キリスト像に尿をひっかけた作品、自分の肛門に鞭の柄を突っ込んだセルフ・ポートレイトを展示するゲイのアーティスト、ビルボードの商業広告のゲリラ的な改竄、ステージ上で裸になり排泄行為やマスターベーションを行う女性パフォーマンス・アーティスト………などなど、こういった激しい背徳的な表現行為を企画する情熱や勇気には恐れ入ってしまう。しかしその情熱は、「芸術」として「表現」されるしかなかったのだろうか……。「表現行為」だなんていうキザで重苦しい言葉が逆に生々しいコミュニケーションのかたちをスポイルしてしまっているのじゃないか?
 小倉の紹介しているアーティストの中にもアートの商品化への抵抗をモチーフとして活動している人がいる。とくにモノとしての作品の制作を目的としないパフォーマンス・アーティストにその傾向が強いようだ。たしかに彼らが提示するのは無形のアクションであり、ときには美術館やギャラリーなどの閉鎖的な空間を飛び出し、ストリートや広場などのパブリックな空間でそのアクションを繰り広げる。しかしそれが「表現」としてアーティストの生の全体から切り離され、アーティストが「表現者」としてオーディエンスと切り離されたとたんにそのアクションは作品化し、事実上、商品として資本の獰猛な胃袋の前に捧げられてしまっている。
 すべては商品化しうるものだ……資本への回収を逃れることのできるものなどなにもない……とは言える。またそのように分離された「表現」が見るものに激しい情動を巻き起こす可能性も否定はしない。しかしもっと自然でストレートなコミュニケーションのかたちがあるはずだ………パフォーマンス・アーティストが美術館の閉鎖された空間を脱したとしても、「芸術」や「表現」といった宇宙服を着てストリートに降り立つのならば、その「表現」は美術館に陳列された額縁つきの絵画とどうちがうというのだろう。アーティストの「表現」が挑発的で過激であればあるほど、「芸術」の枠が目に見えぬバリアとなって痛々しく浮かび上がってくる。(小倉が行っているような)その「表現」がどんな意味を持ち、どんな批判精神を示すものであるか……といったような謎解き的な解釈以前に、前衛の目の前に許し難いものとして現れるのはこの「芸術」という名のバリアなのである。文化なるものがあるとすれば、いまや僕らはこのバリアを越えたところにそれを見いだすべきであって、「亡霊」の分析や解釈はすべて資本に奉仕する目くらましだと言い切ってしまうべきなのだ。「芸術」とそれを取り巻く評論家や文化機関は、御用文化(スペクタクル)装置である、と言わなければならない。

 小倉利丸は、ドイツの女性パフォーマンス・アーティスト、ジークリンデ・カルンバッハという人を紹介している。小倉は彼女のパフォーマンスに触れて、その激しさ、社会的な問題意識、記号的と言ってよいわかりやすさを評価する。

 ………彼女のパフォーマンスは、その意味で、非常にわかりやすい。誰にでもわかるものだともいえる。逆にわからないことや意味への依存を嫌う芸術のコンテクストの中では、評価は低くなる。しかし、アートを政治や社会の文脈から切断して評価したり、解釈すべきであるという前提を彼女のパフォーマンスは最初から否定しているから、批評する側は最初から彼女の突きつける問いに回答することをせまられる。美的な様式に還元できない彼女の方法………そして最近の多くのパフォーマンス・アーティストにもいえることだが………は、むしろ見るもの、批評するものにアートの既成概念の突破を要求している。もし、日本におけるアートシーンの保守化があるとすれば、それは、アーティスト本人に責任を負わせられるものではなく、同時に見るものにもその責任があるといえる。


 ……奇妙な文章である。カルンバッハについての評価は置いとくとしても、「見るもの、批評するものにアートの既成概念の突破を要求」するのであれば、結局のところ美的な「表現」に還元されてしまうアートの既成概念を突破した地点で活動すべきだと思うし、まずもってその活動は観客的な「見るもの」「批評するもの」を前提とするべきではない。したがって責任を云々するというのであれば、アーティストと見るものの分離を前提として活動するカルンバッハと、「日本におけるアートシーン(文化)の保守化があるとすれば、それは、アーティスト本人に責任を負わせられるものではなく、同時に見るものにもその責任があるといえる」などと、前衛から一歩退いた地点から「芸術」について語る小倉にまず責任を感じてもらいたいものだと、僕は思う。

   


Comments

05 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
目次

 前衛芸術研究室
 

 セザンヌ講義1@電子書籍

 セザンヌ講義@ニコニコ静画
 おすすめコラム集
 ギャラリー
 シチュアシオニスト文庫
 garage sale
 オンライン読書会
 After the last sky


カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 64
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 115
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 5
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS